28話 正邪の巡礼

 言葉を吐いた後の胸の中は人知れず熱くて、路地裏の冷気の中で心細さに自分の両手を触れ合わせ、私は八手に向き合ったままでいた。八手は何かを言おうとするみたいに、微かに開いた口をわなわな言わせていたけれど、その血走った目線はやがて私の顔の上から外れ、くるりと空へ返って、それからぐらっと姿勢を崩すと、踵を返してよろよろと歩み去ってしまった。私にお礼も何にも言わないまま、何かをぶつぶつと呟く声ばかりを私の耳に残して。

 あまりにもあっさりとした幕切れに、私は壁に寄りかかったまましばらく呆然としていた。けれど、厨房の中から忙しそうな怒鳴り声が聞こえたのですぐさま身体をしゃんとさせ、ごみを片付けて、何事もなかったかのようにカフェの中に戻った。お客の注文を受けて、オーダーを通して、飲み物を運んで、お会計をして、テーブルを片付けて、また新しいお客を迎えて──そうしてまたぐるぐると仕事を繰り返しながら、私はこれからどうなってしまうのか心配で仕方なかった。

 秘密を喋ってしまった。喋るなと言われていたのに。八手があんな調子だったら、私の「言わないで」なんて聞こえてやしないだろうし、喋ったってあの人に知れてしまったらどうしよう。テーブルの上を片付ける手を休めないままそういうことを考えて、お腹の奥がぎゅっと痛くなる。そんな心地になっているときに、後ろから

「ちょっと」

 と、尖ったあの声が聞こえて、私の肩は勝手にびくんと跳ねる。

「……そんなに驚かなくてもいいでしょ」

 私が振り返ると、私が今ちょうど頭の中に思い浮かべていたその人、茜がすまなそうに肩をすくめているところだった。

「だって、後ろから急に声をかけるんだもん……」

 と私が誤魔化すと、茜は目を伏せ、謝る代わりにうんざりとした顔で手を上げる。私がそのまま茜の顔色を伺っていると、茜は訝しそうに眉を上げるので、私は緊張して固まっていた背中をぴんと伸ばした。そうすると茜は

「変わりない?」

 と聞きながら、私と一緒にテーブルの上の食器を片付けはじめる。私がその言葉に

「えっ」

 とちいさく声を漏らしたのを聞いて、茜は私の目を覗き込み、

「何かあったの?」

 と聞いてくるので、私はすぐさま

「何も」

 と答えた。けれど、答えをすぐに返しすぎたかも。もうちょっと間を置いたほうが自然だった、間違えた……と思っていると、茜は私の顔をますますじろじろと品定めするみたいに見つめてくるので、私は困ってしまい、挙げ句の果てににこっと営業スマイルを作った。これも間違いな気がする。茜はそんな私を胡散臭そうに見た後、

「何かあったら言ってよね。あんたはうちの大事な従業員なんだから」

 と言い残し、台拭きだけを置いてお皿を持って行ってしまった。私は茜の後ろ姿に「ありがとう〜!」なんて気の抜けた声をかけて、彼女の揺れる黒髪が厨房の奥に消えていくのを見送る。私はそこでやっと気を抜けたのだった。


 とりもののすぐ後、茜の下でウェイトレスとして働くようになった。働き始めて少ししてから呼び出され、茜は、私が茜と八手の間に見たもののことを話せと言ってきたのだった。二人の間にある蔦の話を聞いた茜は、しばらく俯いたまま表情を変えないで黙っていたけれど、それからぽつりと声を出して、

「このことは私たちだけの秘密」

 と言って、私の目を真っ直ぐに見た。朱色の目はその一番奥から私のことを突き刺すみたいで、薄暗い人気のないカフェの厨房で彼女がにこりとも笑わなかったあの夜のことを、私は今でもはっきり覚えている。

 茜はそれからずっと、私と八手がふたりきりにならないように手を回していたらしい。それも、後からわかったことだけど。茜は一日の終わりに必ず人が少なくなったこのカフェに来て、私の仕事終わりを見届けるのだ。それも、ひとりきりになった私を八手と引き合わせないようにするためだったんだと思う。そうじゃないのかな。どうしても私が八手と顔を合わせなきゃいけないって時には、いつも他のひとでなしが一緒にいたし。


 私はカフェの床を掃除しながら、誰にもバレないように小さくため息を吐く。そりゃあ、私だって、口止めされたことを誰かに言ったりしたくなかったけど、あんな風に脅されたら仕方ない。それに、あのひとたちが私の言ったことでこじれるだとかどうだとか、私の知ったことじゃないじゃない。勝手にしてよね、もう。そんな風に頭の中だけは強気になれるけれど、いざ喋っちゃったことが茜にばれたとき、どんなことになるか恐ろしくて私は泣きそうになる。もう、やだなあ。

 朝の六時までそんな調子で仕事をして、伝票を整理する茜の横で心臓がどぎまぎするのを必死で隠しながら、いっそもう「喋った」って茜に言っちゃおうかな……なんて迷っている間に、カフェの入り口のベルが乱暴に鳴らされる。私が背中を伸ばしてそっちを見ると、吉見の兄妹がふたりして戸口からこっちを見ているのだった。お迎えだ。茜はそれをうんざりした様子で見やると、私にちらっと目をやってから帳簿に目を落として、

「おつかれさま」

 とぶっきらぼうに言うので、私もおつかれさま! とぎこちなく笑いながら上着を羽織ってカバンを持ち、カフェを後にしたのだった。


「なんか残りもんある?」

 なんて開口一番に催促する吉見の兄のことを、野良犬みたいだな、と思ったのは口に出さないまま、

「あげる」

 とカバンの中から湿気ったチーズのパンが入った袋を出すと、兄は

「サイッコーだな」

 なんて大げさに言いながら私の頭をわしゃわしゃ撫でるので、私は兄の腕を容赦無くべしべし叩く。そうすると兄はまた嬉しそうに笑う。妹も兄からパンを受け取って、歩きながらもしゃもしゃ食べ始めている。そんなふたりのことを眺めながら石畳の上にこつこつ靴の音を鳴らし、私はぽつり

「あんたたち、ほんと仲良しよね」

 と口に出してみた。パンを頬張った妹がこちらを振り返るので、

「だって、いつもなんだかんだ一緒にいるじゃない」

 と言うと、兄はつり目を見開いて、ああ、といつもの道化みたいな笑い顔をした。

「こいつが寂しがるからな」

 と兄が言ったそばから、

「しね」

 と、兄の言葉にほとんど被さるようにして妹の尖った悪態が飛んでくる。

「亜はこんな言葉遣いするようになんなよー」

 なんて、慣れっこな様子で妹の言葉を受け流した後、兄はちょっと立ち止まって、

「お前、これからちょっとだけ時間あるか?」

 と私に声をかける。私は急な誘いにきょとんとして、それから部屋で待っている春待ちゃんのことを考えつつ、

「ちょっとだけなら」

 とおずおず答える。すると、兄はにやっと笑う。

「俺たちな、探しもんがあるんだわ」


***


 路地裏を抜けて、うるさい大通りに出たとこまでは覚えてる。でも、それからどんな道を通ってここまで戻ってきたかは不確かだ。茜不在のいつもの部屋でベッドに倒れ込んだ俺は、止まらない指先の震えと肺が凍ったような閉塞感に苛まれ、口の端を噛み締めていた。


 あのひと、いつかきっと、あんたのことを殺してしまう。


 亜の口調に嘘を吐いているようなところはなかった。それに、あいつの言ったことがほんとうであると仮定すれば、合点のいくことがいくつもあるのだ。

 俺が亜に接触しようとするたび邪魔をしていた茜、枇杷や真木の発したヒントのような言葉たち。それら全てが、「茜が俺を殺すと知っていて、奴らがみんなわざとそれを黙っていた」というロジックひとつで、規律と調和をもって整列するのだ。全くもって美しいほどに。

 茜が俺の魂を食らってんだかなんだか知らないが、奴らが思っていることには、彼女がいつか俺のことを喰らい尽くすらしい。それは「四ヶ月後」かもしれないし、もっと早いのかもしれない。だが、遅かれ早かれ、俺は茜に「殺される」。どう転んでもその結末が待っている。

 頭の中でそう文を組み上げて、俺は腹の底から本物の冷えが上がってくるのを覚えていた。喉の奥まで這い上がったそれを飲みくだし、俺は考える。俺はどうやってあの女に殺される? どういう風に、どんな方法で……? 俺はそれから、茜が俺に銃口を突きつける姿を思い描き、彼女が俺に馬乗りになってナイフを振り上げるのを想像し、彼女が俺の首を絞めながら、冷徹な朱色の目でこちらを睨みつけるのを脳裏に浮かべた。全てが空想の産物であるくせに、全てが生々しい映像として俺の心臓を侵した。冗談じゃない。冗談じゃない……。

 だが、それ以上考えたところで「茜が俺をいつどこでどんな風に殺すのか」なんて疑問に、答えが出るわけもない。俺が今わかっているのは、奴らが俺に隠し立てをするほど切実に「俺が近いうちに茜に殺される」と確信してるってことだ。だが、それ以上のことはわからない。何もわかったもんじゃない。けれど、俺はそこで黙っちゃいけないのだ。俺はこのまま死にたくない。こっちも、やつらの見通しと同じくらい、いや、それよりもずっと確かなことだ。俺の心臓が俺の身体全てに訴えかけて来るこの震えは、間違えようもなく本物だ。俺は、死にたくなんかないんだ。それに、もし俺がこのまま死ぬなら、俺に鍵を残して死んでいった彼女ごと、俺はこの狂った舞台の上から跡形もなく降板するってことになる。いざそのときになれば、俺の存在自体を突き殺そうとし続けるあの執念深い朱色の目さえ、もう俺のことを振り向きやしないんだ。それは、そんなのは、俺にとって。

 胸の奥がぐうっと詰まって苦しくなり、俺は右手に握りこんでいた鍵を顔の前まで持ってきて、両手で捧げるように持ち直し、額に押し当てた。全部、忘れちまったらいいんだろうか。君がいなくなったことまで、全部。そんで今胸にかかっている君の命の重みまですっきりと手放しちゃっって。そしたら俺も、また何にも考えずに楽しく愉快にこの掃き溜めん中で生きられるんだろうか。またあの狂った馬鹿らしい日々が戻ってくるんだろうか。

 あのとき流した涙がまだ底を尽きていなかったのか、ベッドの上に跪くようにしていた俺は、自分の伏した面の上を一筋滑り落ちてく生暖かさを覚えていた。額に押し当たった鍵の冷たさを頼りにした俺は、書架の狭間で見た彼女の姿をまた思い出していた。世の苦しみから解放されたような、穏やかなあの少女然とした表情。薔薇色の頰が、今もまた俺の目の前でほころんで解ける。俺の記憶の中の姿のままの彼女が、俺に向かって首を傾げ、それからぽつりと呟いた。

「みつけて」


***


 こっちか? あっちか? なんて言いながら人気のない掃き溜めをふらふらする吉見たちにしばらくの間付き合わされて、足が痛くなってしまった私はもううんざりだった。「かえろうかなー」なんて、わざとらしいため息ばっかり吐き始めた私に気が付いて、妹の方が

「ちょっとあっちのほう見てくるから、待ってて」

 と言い残していなくなったので、私と兄は石壁に寄り掛かり、妹の帰りを待つことになった。

「ふたりとも楽しそうね」

 と私が不機嫌を隠さない声のまま言うと、兄は

「楽しさってのは自分で見つけるもんだぜ?」

 と笑う。私が、そうかもしれないけど……と口の中でもごもご言うと、兄はにやっと笑って

「まあ、こんな街に住んでなきゃ、お前だって毎日もっと楽しいのかもしれないけどな」

 と言いながら私のすぐ横にしゃがみ込んだ。そんなこと言ったってね、と私が口の中だけでつぶやきながら鞄を自分のお腹の前まで持ってくると、兄の声が、なあ、と下の方から聞こえてくる。

「お前は、この街から出たいか?」

 私が目をぱちくりとさせて兄を見下ろすと、兄はこっちを案外まっすぐな目で見上げていた。おふざけの質問じゃなかったみたい。私はすぐに返事をしようとして、それから、ちょっと困ってしまう。そりゃあ、こんな危ない街に居たいわけない。でも、私は外に頼れる人がいないんだ。だって私、父さんと母さん以外に血の繋がった人を知りもしなかった。普通のひとは、両親以外の親戚とも仲良くするものだ、っていうのさえ知らなかったし。だから私は、掃き溜めを飛び出して帝都のどこかで暮らしていく自分っていうのを、うまく想像できなかった。いや、茜のところに飛び込んだ時みたいに「ここで働かせてください!」って、思い切っちゃえばいいのかもしれない。でも、私、そんなこともう一回できるかな。そうして私が答えを返せないでいるうちに、吉見が口を開く。

「俺は……俺たちはな、ここから抜け出したいと思ってる」

 それから吉見は下を向いて、しゃがんだ自分の足の間の石畳をじいっと見つめているみたいになった。

「母さんがな、田舎で一人なんだ。俺とあいつがここに来る少し前、足を悪くして、結構ヤバいんだ。帰ってやらなきゃなんねえ」

 それから吉見は頭を抱え込むみたいにして髪を触る。

「あいつだって、心配してる。毎日、毎日……毎日だ。あんなぶっきらぼうな顔して、ずっと……」

 それから吉見は大きくため息をついて顔を覆い、あまり間を空けずに弾みをつけて立ち上がって、私に向かっていつものひょうきんな顔を見せた。

「悪い、湿っぽくなったな。お前だって大変なのに、変なこと聞かせてごめんな」

「ううん」

 と、私の喉が思わず心配そうに声を漏らしたのを聞いて、吉見はちょっとだけ悲しそうに顔を崩してから、今度は頼りなく笑った。私が何を言ったらいいのかわかんないまま俯いていると、

「おい」

 と、曲がり角の先から妹が顔を出した。

「いた」

 妹の言葉に兄が嬉しそうな声を上げるのを聞き、私は首をかしげた。


 妹にくっついて夜の街の中を歩きながら、

「『いた』って何? 探し物ってひとなの?」

 と、私が声を出した時、妹のほうがさっと私の口を覆った。なによ、と思って彼女の顔を見てから、きっとしたその視線の先を追うと、曲がり角からふらりと背中が現れたところだった。私は、声を出しそうになるのをなんとかこらえて、二人と一緒に物陰に引っ込む。それからまた、通りを覗き込んだ。間違いない、あの後ろ姿は、まもるだ。

「俺たちが探してたのはあれだ」

 と、兄が私達の方に屈みこんで囁く。

「今日はあいつのねぐらを暴くぞ」

「それってなんだか、趣味の悪い遊びじゃない……?」

 と私が心配そうに兄の顔を覗き込むと、

「別に、来たくなきゃ来なくたっていいんだぜ?」

 と、兄は意地悪な顔で言う。

「けどな、あいつのねぐらってのは、まだ誰も行ったことがないんだ。こいつは絶対に楽しい遊びだぜ。俺が保証する」

 ひそひそと低められた兄の声を頭の後ろで聞きながら、私は一歩一歩遠ざかって行くまもるの背中を見つめていた。

「ねえ、見失っちゃうよ。来るの? 来ないの」

 と、妹の方に迫られて、私は、うっと喉を詰まらせる。そのとき、兄からさっき言われたばっかりの言葉が、頭の中でぐるりと繰り返された。楽しさは、自分で見つけるもの──。

「……行くわよ」

 私が何かに負けたような気持ちでそうこぼすと、ふたりは悪戯っ子みたいな顔をにやりと見合わせた。


***


 俺は青緑色の扉の前にいた。金のドアノブが、月の光を受けて鈍く煌めいている。また、ここに来てしまった。三日前にここで彼女の姿を見て以来、あの時の感情の打撃はトラウマじみて俺の心臓に焼き付いていたままだった。それで俺は、ここに足を向けられないでいたのだ。けれど、また戻ってきた。左手にはしっかりと鍵を握り、今日は上着も羽織っている。準備は万端にしてきた。けれど、俺はやはり不安だった。ここからあの場所に入り込んでしまえば、何が起こるかなんてわかったもんじゃない。そういった未知への恐怖が、俺の足をなお、扉の前に引き止めていた。

 俺は青緑の扉の面に触れ、それから深く息を吸い込む。ざらりとしたその表面は、やはりそれが生体であるかのようにほのかに温もりを持っているようだった。俺の身体はそれに逆らうようにしてざわりと総毛立つ。ここから先は、奇怪の体内。怪物の腹の中。だが。

「みつけて」

 自分の頭の中に、彼女の声音を呼び起こす。そうだ、俺は、みつけなければいけない。きっと、俺が求める答えの全てがここにある。この確信は、間違えようがないものだ。疑いのないものなんだ。俺は諦めたように肩の力を抜いて鍵を鍵穴に差し込み、軽やかに錠が外れる音が耳に流れ込んでくるのを確かめ、今度は思い切って扉を押し開けた。


***


 まもるの背中を見失わないようにしながら、私と吉見たちは足音を殺して彼の後を付いていった。まもるは、人気のない石積みの古い町並みを下っていくのだった。足元に苔が生えて湿った石畳を、こっそりこっそりと、にやにや愉快そうな吉見たちにくっついて進んでいるうち、私はやっぱり悪いことをしている気持ちになった。だって、自分から言わないでいることを誰かにばらされちゃうのって、ものすごく悲しいことでしょ。私は小さい頃あんまり友達もいなかったし、こういうの、あんまりわからないほうなんだと思うけど、これってきっと、間違い無いと思うんだよね。だから、こんなことほんとはしたくないんだ。でも、私は。

 私は、初めて会った日にまもるが私の手を握ってくれたことや、制服の女から私のことを守ってくれたこと、一緒に柊を見た日に彼が私に向けた笑顔や、北崎から私を助けてくれたときの、あの背中……。そういうことのひとつひとつを思い出していた。私、私は。


 まもるのことを、もっと知りたい。


 そう思っているうちに、まもるの背中が不意に、ほんとうに不意に、ふらっと石のアーチの向こうを曲がって消えたから、私は並んで歩いていたところから思わずひとりだけ前に飛び出して、

「見失っちゃう」

 と小さく声を出す。そうして後ろにいる吉見の方を振り返る、けれど。

「あれ?」

 きょとんと声を出してしまった私のことを咎める二人はそこにはいない。ほんの一瞬前まで並んで歩いていたはずなのに。薄暗い石積みの坂道はしいんと静まり返っていて、そこに伸びる影は私のものひとつだけだった。辺りを見回すけれど、誰もいない狭い通りに細く差し込んだ月の光が、静かな家の窓ガラスに写り込んで光っている。私は戸惑ったまま、春待ちゃんへのお土産のラザニアが入った鞄を自分の前に引き寄せて、それから吉見の二人を呼び、

「ねえ……」

 と遠慮がちに声を上げてみる、けれど、返事はないし、私以外、周りに人がいるような気配もない。来た道を少し戻ってみるけれど、まもるの背中を追っかけて何にも考えないまま初めて来た場所だから、どうやって帰るかもわからない。吉見のふたりがする意地悪にしては、意地悪過ぎる。ふたりがなんで急にこんなことをするのかもわからなくて、私は寂しくって泣きそうになった。もっと先まで戻ろうかな。戻ったら二人が笑って待ってるかも。でも、こんな意地悪するなんてわけわかんないし、困った私を見てふたりが笑ったりしたら絶対許してあげない。私は二人を探そうと、今さっき降りてきたばかりの坂を一歩二歩と上って、それからやっぱり、まもるが消えていった石のアーチのほうを振り返る。


 楽しさは、自分で見つけるもんだぜ?


 私は心細さに鞄をぎゅうっと胸元に抱きしめながら、自分の目が石のアーチを名残惜しそうに見ていることに気づく。アーチの奥の暗がりで、ランプの火が小さくとろとろと燃えている。その橙色の揺らぎが、私の瞳の中にずうっと居座っている。帰っちゃえば簡単だ。でも、帰っちゃえばそれで終わっちゃうんだ。

 もしかして私、あのふたりにテストされてるのかな……。私は二人の顔を思い浮かべて、立ち止まったまま唇をきゅっと結んでいた。きんきん冷える冬の空気の中で、鞄を抱え込んだ手の先がじりじりと冷えてひりひり痛んでくる。ずうっとここであのアーチを睨んでいるわけにはいかない。私は。

 私は重い心に縫いとめられていた片足を石畳の上から引き剥がし、くるりと踵を返して、靴音を殺しながら石のアーチをくぐった。


***


 前来た時と変わらない、無機質で均等な角ばった景色だ。

 書架の狭間から紺碧の夜空を見上げて天地を確かめ、俺は鍵を懐のポケットに押し込む。じっと押し黙っている書物の壁に押しつぶされるような圧迫の隙間に立って目を閉じ耳を澄ますと、しんと冷えた冬の空気の向こうから、冷気を伴って過去という亡霊が大挙する。ここで見た記憶やかすみの表情まで、何もかもが、見たときのまま鮮明に浮かび上がってくるのだ。やはりそうだ。ここにいる間は、どうやらかすみのことを忘れないでいられるらしい。

 俺はそこで安心して目を開き、天井に張り巡らされた木の格子の下、遠く揺れるランタンが、からん、からん、と音を立てるのを聞いている。さあ、俺が探しているものは、どこだ?

 そうだ、俺はただ直感に従ってここへやってきた。「ここには探すべきものがある」という、根拠のない真の意味での直感だ。だが、その直感は俺をここまで誘いはしても、探す当てまで示しはしない。俺はまさに身一つでここにきたわけだ。そしておそらく、俺の目が捉える限り、遠くへ霞むほど書架が続くこの空間には、果てもないように思われた。だがきっと、俺は見つけられるだろう。俺は目当ての何かに行き当たることができるのだと、俺自身が心臓の感覚で知っている。探さなければならない。見つけなければならない。そのためにここに来たんだから。

 俺は一つ息をして、そのまま歩き出した。迫っては過ぎていく左右の書架、そこに並ぶ背表紙のひとつひとつを睨みながら、これも違う、あれも違う、という確信的な直感に背中を突き動かされ、幾百の背表紙をやり過ごし、歩調を緩めることなく進み続ける。足の裏が床板の硬さを確かに捉え、離れてはまた俺を受け止めるのを繰り返す。通り過ぎていく背表紙の全てが俺のことを睨みながら、それでいて、俺が通り過ぎていくのを黙殺している。俺の足取りは間違っていないのだ。さあ、どこだ。俺の探しているものは、どこにある?

 そのときだった。突如、があん、と甲高い音を立ち響かせて、俺から十歩も離れていない視線の先に物体が落下した。そのまま低い音を立てながらランタンのぼやけた灯りの下に転がったのは、鈍い色をした「鉄柱」だった。その柱は落下の衝撃をぐるぐると吐き散らしながら床の上を転がり、歩み寄った俺の靴の先で漸く止まった。俺は、これを見たことがある。その感覚を保ったまま俺が目を上げた書架の中に、一冊の本が押し黙り居直っていた。深い褐色の革で出来た厳しい風貌の背表紙に、金文字のアルファベットが踊っている。どうやら英語じゃない。

「……カラ……ム」

 文字をなんとか音にして読もうとするが、どうやらこれは俺ごときの教養じゃ届かないところの知識を要しているらしい。けれど、今、俺の手元には何の辞書もない。俺は眉をひそめてその背表紙をしばらく睨んでいたが、諦めて息を吐くと、その本だけを書架の中からまっすぐ引き抜いた。ずっしりと百科事典のような重みを持った本だ。それを開いてみると、中の紙は黄味がかっているが、どうやら若い本であるように思われる。古くは、ない。偶々開いたページに書き込まれた文字に目を通していくと、なんと、俺が知っているシーンに行き当たった。ぞっとしながらも目を見張り、ぐっと紙面に食い込むほど強く本を握りしめ、文面をなぞっていく。

 夕暮れの窓際で煙草を吸っている女の話だ。「俺」は、彼女が差し出した煙草に手を伸ばして、それで──。そうして次の行へと目を移そうとしたとき、聞き覚えのある、「紙が擦れる音」が俺の耳に入った。それが何の音か思い出したと思った瞬間、俺の持つ本のページの隙間から、するり、一頭の蝶が逃げ出した。それは紙の羽を閃かせて俺の目の前をくるりと舞い、じきふらりと俺の肩に止まる。嫌悪感に顔が強張るのを覚えつつ、けれど身をよじるのを耐えて、それからぐっと奥歯を噛む。俺はとうとうむきになると、耳の横でかさかさと音を立てる気味の悪い物体を嫌悪感ごと受け入れ、今しがた自分が読んだばかりのページの上に手を乗せ、さらにはその手を本の中央へぐっと押し当てる。

「連れて行け」

 俺が誰に言うとでもなく口にしたその言葉が契機になったのか、本がその中心に動力を持っているかのように、重たい紙の身体がびりびりと震え出した。いや、震えると言うよりは、俺が触れる紙の下で、幾千幾万もの何かがそれぞれに幾千幾万の意志を持って蠢きだしたという感触だ。俺がそれでもページの上に手を押し付け続けると、本の奥から手のひらへと微かに伝わってきていたその「蠢き」が、大きな鼓動となって俺の手まで紙十枚分のところまで迫った。その蠢きが紙一枚を隔てた向こう側までやって来くるまで、コンマ一秒もなかったろう。俺はついにその「蠢き」そのものに触れたのだ。びくびく、びくびくと、思い思いに跳ねる筋肉を持った昆虫の胴体が、今飛び立たんとして俺の手のひらの下で小さく、けれど無数に暴れているのだ。それでも俺は歯を食いしばり、両足を踏みしめて、本を取り落とさないまま耐えていた。本は、手に持っていられないほどの運動量を爆発させて震えだす。もう持っちゃいられない──そう思った時、俺が手を押し付けていた紙束が不意に呆気なくばらりと解け、ついに俺の手のうちから無数の蝶が散乱した。俺の頭からつま先までを包み込む、羽音の嵐と、書架の景色を散らし霞ませる紙の色。だがもう、ここまで来ちまえば、こんな奇怪さや気味の悪さや恐怖心ってのは、どうだっていいものに。俺はそのとき酷く落ち着き払っていて、嵐の中で静かに目を伏せた。

 記憶の海に、ダイブする。


 チェス盤の向こうに座っているあの人の手が、盤の上にかざされて、白黒の市松模様が伸びた黒い影の下に混ざる。

「お前は負けるなよ」

 父親のようなその声が、慈愛に満ちて俺にそう唸った。口の端を穏やかに強張らせたまま俯いていた俺は、いつのまにかぐらりと石畳の上に倒れ込んでいた。霞む夜に灯るぼうっと青い電灯の色。その遠い明かりが、俺の顔のすぐ横に映り込んでいる。真っ黒な地面の上に広がり、辺りの青い景色をてらりと映しこんでいるのが、他ならぬ自分の血だということを、俺はようやっと思い出していた。そうだ、右腹に開いた穴から、とめどなく血が流れ出している。熱い痛みの海の中に俺は溺れかけている。地面に横たえられた俺の頭の下で、髪が俺自身の血を吸い上げ、ねとりと固まっていくのがわかる。傾いた視界の中、俺は虫の息で、俺のことを刺した相手が、まだこちらを見下ろしているのに気づいていた。俺は、頭の中で言葉を組み上げ、俺自身の思考を理論めいたもので支配しようとする。

 俺、あなたのことがわからない。でも、

「俺」

 掠れた声が喉の奥で鳴る。鳴る、ってほどじゃなかった。かすれる息がそのまま喉を通って口の端からこぼれ、それはほんのわずかに言葉のような響きをともなっているのみだった。だが、それでも、俺の舌は口の中で動いていた。こんな風になってでも、この口を、喉を、声帯を曲がりなりにも意志的に動かしているのは、俺の中にわずかに残された生気から振り絞られた気力であって、疑問であって、使命感であって、どうしようもない不理解から来る、寂しさを伴った悲しみだった。

 まだあなたのことを信じています。

 声にはならなかった。だが、俺の口はそう言おうとした。口の周りの筋肉が動いた。唇がかすかに戦慄いたように思われた。けれど、霞んでいく視界の中で、何もかもが定かじゃなく、遠い。流れ出し続ける自分の血に浸かって、溺れて、ずっしりと重い身体が石畳の奥深くへと沈み込んでいくみたいだ。耳は、まだ周囲の音を拾っている。まだ、あなたの声を聞くことが出来る。何か、返してください。俺は、それじゃなきゃ。

「どうしようもない馬鹿だなぁ、お前」

 耳慣れたその声が間近に聞こえて、けれど俺はその言葉からあなたの真意を汲み上げることができなかった。落ちてくる瞼をぎりぎりのところ、微かな息の隙間で再び押し上げる。立ち上がり去っていくその背中が遠のいていく、もう目を開けていられない。俺、わかりません、あなたのこと。俺には、俺は、あなたは。耐えきれず、瞼が落ちる。

 どうして、裏切ったんですか。


 はっと目を開けると、俺は青緑の扉の前に座り込んでいた。手の上にずっとあったように思われた本の感触は、そこからさっぱりと消え去り、俺の左手は空を掴む。しんと冷えたした洋館の中に、俺の荒んだ息遣いだけが微かに響いている。俺は、懐から鍵を取り出して握り込み、それからなんとか今見てきたばかりのものを俺自身に繋ぎ止め、頭の中で秩序立てようとした。

「『裏切った』……?」

 自分の口で、今見てきたばかりの記憶から拾い上げた言葉を繰り返す。「裏切った」、「裏切った」。「俺」は確かにそう語っていた。そして、今見た記憶の登場人物二人を、俺はどちらも知っている。倒れた「俺」に踵を返し去っていく、「背の高い」あの「男」。落ち着いた声音が、倒れた「俺」に降りかかる。血の海に倒れ込んだ「俺」の元から立ち去ったあの男は。

「……市井だ」


***


 歩みを進めるほど辺りは暗くなって、私は泣きそうだった。一本道だったから、きっと迷ってはいない。だけど、あの坂でぐずぐずしていたから、まもるはもう随分先に行ってしまったみたいだった。吉見たちだって戻って来ないし、周りは全然人気がない。進むほどに地下へと潜っていくようだったから、自分の靴音がいよいよ、こおんと高く響くようになって、もうまもるに気づかれないようにしよう、なんて考えられない。やっぱり来なきゃよかったかも……と思いながら戻れもしなくて歩いていると、ぴしーんと高い音が聞こえてきた。私がぎょっとして振り返ると、天井から滴った水が落ちてきて、高い音を立てているのだった。よく見ると、天井の割れ目から水がにじみ出ているし、あたりの壁はところどころに苔が生えている。奥に進むほどに天井も低くなっていくし、明かりの数もどんどん少なくなる。湿った空気の中で呼吸も苦しい気がしてきた。もう嫌──。

 そのとき、どこかで、からから、と石が転がる音がして、私は心臓が飛び跳ねたみたいに思わず声を上げてしまう。もうこっそりひっそりしていることなんてできるわけがなかった。私はもうやけになって

「ごめんなさい!」

 と音の主に向かって半べそで声を上げる。すると、かつかつと靴の音が近づいて来るのだけれど、音が反響しているし、自分がどっちから来たかもわからないから、相手がどこから来るのかも見当がつかない。私が必死にぐるぐると辺りを見回していると、足音が止まった。

「君は」

 知らない人の声に私が振り返ると、ひたひたと冷気の漂う石のアーチの向こうから、紫色の瞳がこちらを見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る