26話 エクリチュールの向こう、親愛なるあなたへ

「悲しい話だったわ」

 彼が語って聞かせた『狩』の一部始終に、彼女は俯いてそうこぼした。僕らはランタンを持った彼を先頭にして、本の森の中へと分け入っていた。もちろん僕は、彼らの人影を見下ろしながら書架の上を歩いてるわけなんだけど。

「そうかい?」

 と僕が聞き返すと、僕の靴の裏が書架の天井を叩く音の合間に、彼女はこちらを見上げた。

「悲しい話だった、でしょう?」

「どうしてそう思うの?」

 今度彼女にそう問いかけたのは彼だった。彼女は僕と彼から挟み撃ちを食らって、きょとんとした顔をしてから、だって、と声を漏らして下を向く。


「彼は、彼女の心臓を止めて、そのときになってやっと……彼女のことがわかったのでしょう? ……気づいた時にはもう、間に合わなかった。彼は、自分の手の中から彼女の命がこぼれ落ちていくのを、ありありと覚えてしまったんだもの……。悲しいわ。私が彼の立場だったなら、他のことが手につかなくなるくらいのことだと思うし……」


 心の底からありのまま出でた彼女の言葉を聞いて、彼は彼女を振り返らなかったけれど、慈しむような微笑みをその口元に浮かべた。

「ひとがすれ違って、触れ合えそうになるのに離れていくのは、いつだって、ものすごく悲しいことでしょ。自分がそうなるのも、ひとがそうなるのを見るのも……」


 僕は鼻から大きく息を吐いて、それから自分の目線より少し高いところにぶら下がったランタンを避けて、じゃあ、と口を開いてみる。

「君は、彼らがすれ違ってしまったと思っているんだね?」

 彼女はすぐさま顔を上げて僕の目を見た。

「……何が、言いたいの?」

「もうちょっと考える必要があるんじゃないかな、ってこと」

 と言ってしまって、それから僕はまずいなと思って顔をしかめる。こういう言い方ってさ、大抵相手にとっては嫌なふうに響くし、彼女みたいなまだ少女と呼ばれるような年齢の女性は、こんな風に理不尽な攻撃を受けると泣いてしまうことだってあるんだもの。僕は、他人に怒られるのと同じくらい、泣かれるのにも弱くってね……。だけど、彼女はそういう部類のかよわい少女じゃなかったらしい。僕のことを切実なまなざしで見つめている。僕は心中胸をなでおろして、今度はできるだけ優しい口調でもって彼女に話しかけることに決めた。乾いた口の中で舌の置き所を決める。


「彼らは『触れ合えそうになった』んじゃない。触れ合えたんだ。それも、心の一番深いところ……彼が彼女を彼女とわかった瞬間、彼女はある意味、『救われた』」

 彼は僕の方を見上げたりしない。だってこの話、彼はもう聞き慣れているからね。そのくらい、僕は決まったことしか喋れないってことだ。

「もっとも、これは後出しじゃんけんだ。君は、僕らみたいにこの世界の中の全てが見えてるわけじゃないんだもの。ううん、なんだかどうも僕の性格が悪い感じがするなあ。でも、それはこの世界のつくりに文句を言うしかないし……」


 そうして言葉の後ろ側にまた余計な一文をくっつけた僕は、その失態を帳消しにするように、だけど、と無理に言葉を割り込ませる。僕がそこで、ぱたりと歩みを止めると、彼女も足を止めてこちらを見上げた。彼女は、僕の言葉の中に答えを探している。

「彼女、ほんとうに『救われた』と思ったんだよ」

 彼女は、どうも確信が得られないと言った様子で、僕の瞳の中に、僕の持つであろう真意というものを懸命に探し続けているように思われた。僕は、思ったことをそのまま言っているだけなんだけど、彼女はどうやら、僕が美辞麗句を並べ立てているのではないかと疑っているらしい。こういう不理解を引き起こすのは、多くの場合、言葉足らずという怠惰だ。だから、僕は語り手らしく、もう少し言葉を尽くそう。


「自分がごく普通に生きていたことを知っている人がひとり、目の前にいるってこと……それってね、結構な救いになるもんなんだ。こと、彼女にとってはね。だって、彼女は大方の人間にとって、ただの怪物としか映らなかったから。だからさ、ほんのそれだけのこと、知ってもらえることが、彼女にとっては大きな救いだった。ひとではないものとして何の感慨もなく殺されて死ぬんだったら、彼女は救われなかった。ひとりだけ、わかってくれるひとがいれば良かったんだよ。たったひとりいれば、彼女はひとりで死ぬんじゃないからね。案外ね、人間って簡単なところもあるんだよ。そういった点に関しちゃあさ」


 僕は数歩先にあった本棚の途切れを飛び越えて、靴の底がぱたりと音を立てるのを聞いている。彼女もまた歩き出し、僕の背後に

「……そうかもしれません」

 という彼女のどこか不満げな声が届く。

「でもやっぱり、そういうのを僕らだけが知っているのでは、だめなんだよな……だめなんだ。だめなんだよ」

 遠く星の色が天井の彼方で幾千も輝いている。

「だから、君にも見せてあげなくちゃね……彼女の物語……人生ってやつをさ」

「……ええ」


 彼女の承諾を受けて、それから僕らはしばらく黙って歩いた。彼が持つランタンの持ち手がきいきいと軋む音ばかりが耳につく森の中を、僕らは奥へ奥へと進んで行った。僕は、これから起こることを恐れていた。



「この辺のはずだ」

 と、僕が口にすると、彼はランタンを高く掲げて書架の合間の道を照らし、彼女は彼の背中から道の先を覗き込む。

「そういえば、何を探しているの……?」

 と、彼女がおずおずと訪ねた時には、僕は彼らの行く先を指差して、

「ほらいた、そこだよ」

 と声を上げていた。相変わらずきいきいと耳障りな音を立てながら彼らが歩いて行くと、そのランタンの赤い光に照らされて、少女が横たわっているのが見えた。すると、躊躇なく進み続ける彼の後ろで、彼女はぎょっとしたまま立ち止まってしまう。

「それ、そのひと……」

 土気色の肌の中で目元はすっかり落ち窪んではいたが、やはり彼女の相貌には、可憐な少女の顔立ちがまだ十分に残っていた。

「……死んでるの……?」


 彼女はまだ、目の前の少女がどこの誰であるのかぴんと来ていないらしく、そんなふうにとんちんかんなことを口にして、彼の隣、つまりは横たわった少女のそばへと、恐る恐る寄り添った。少女の纏うドレスの黒いサテンは相変わらずびりびりに破け、そこから突き出た両足は傷だらけで血に塗れ、ランタンの光を受けて赤黒く輝いている。その血は、本来薄い金色をした、長く美しい彼女の髪までも穢していた。こういう風な僕の言葉通りに彼女の視線が動いた後、彼が床に跪いて少女の頰に触れ、その瞼を押し上げて、その瞳の中に濁ったあの深い橙色が見えた時、彼女はようやっと事の次第に気がついて息を呑んだのだった。


「この、ひとって」

 彼女が呆然と立ち尽くす間に、彼は少女を抱き上げてしまっていた。

「俺が君に語って聞かせた、『彼女』だよ」

 親切そうな微笑みさえ浮かべながらそう言ってのける彼に向かって、彼女はしばらく口を開けたり閉じたりしていた。けれど、彼が彼女にランタンを持つように促し、元来た道を引き返し始めてしまうので、彼女もそれに従わざるを得なかった。

「ここに、どうして、ここに……?」


 と声を震わせる彼女が当惑している様子は可哀想だ。なにせ、彼女が聞かされた話は、少女が胸をひと突きされて息絶えた、というところで終わっていたんだから。びっくりしてもしょうがなかった。僕は、彼女がそう反応するだろうと見当をつけていたんだ。


「死んだひとでなしはここに運ばれるんだ。黒衣の女たちがここまで死骸を運んできてくれる。それを俺たちが連れて帰る」


 彼はランタンを持った彼女が先を歩くように促し、彼女は戸惑いながらも僕らの先頭を歩き始める。それでも彼女は突然のことを飲み込めず、時折彼の方を振り向き、首を上げて僕の様子を伺う。しかし、彼が彼女の背後で

「弔ってあげなくちゃならないから」

 といつもの優しい声音で言うのを聞いて、彼女の中に湧き上がった恐怖心は、ゆっくりと鎮まり消えていく。ランタンを手に提げて歩調と呼吸を整えるまで歩き続け、それから彼女は今の状況を飲み込もうと努めることに決めたのだった。


「……今までずっと、こうしてきたの……?」

 おずおずと話しかける彼女の声を聞いて、僕はしばらく黙って背景になることに決めた。僕の言葉はむやみに彼女を怖がらせてばっかりだし。そうすると、彼は僕なんかよりもずっと優しい声音で口を開く。

「そうだよ。ずっと……ずっとそうしてきた。これが俺の仕事だから」


 彼のその言葉を飲み込むように彼女は口を閉ざす。そうして彼女は、冷たい死骸にばかり触れてきた彼の過去を思って、ひとりで悲しくなった。彼女、ほんとうに優しいひとなんだな。それからしばらく、彼女は自分に託されたランタンを両手で提げて持ちながら、自分の足を見つめて歩いていた。そうしてじいっと黙ったままでいた後で、彼女は頭の中にふと浮かび上がった疑問を吐き出すために、彼の方を振り返った。


「そういえば、今まで貴方が弔ったひとたちは、どうしたの?」

 彼女の視線を受け止めて、彼は黙ったまま立ち止まってしまう。口元にはいつもの柔らかいはにかみを残したままで、けれど歩みを止めて動かなくなってしまった彼に違和感を覚えた彼女は、数歩進んでから歩みを止め、首を傾げる。

「今までに死んでここに運ばれてきた、ひとでなしの死体があるんでしょう……? 貴方たちの話をそのまま聞いていたら、そういうことになると思うのだけど……」


 そのとき彼女には、そこにいる彼の姿というものが、とうとうはっきり見え出したように思われた。自分の持つランタンの赤い炎に照らされて、均整のとれた天秤のような風情で少女を両腕に抱き上げ直立する彼の人影が、ますます背景から際立って彼女の目の中に浮かび上がって来る。彼女の背中に正体不明の寒気が走り、彼女はその出どころのしれない悪寒に困惑した。自分が何を恐れているのか、彼女にも判別できないのだった。


 彼女の言葉を受けて、彼は黙したまま俯き、自分の腕の中に凍りついて眠る少女の顔の青白さを見、それからその顔の横を流れる白んだ金色の髪へと視線を滑らせた。

「この金色の髪は君の髪と同じくらい綺麗な色をしている」

 彼の突拍子も無い言葉の羅列に、彼女は戸惑い眉をしかめる。彼女の反応を伺いながら、彼は口の中で発すべき言葉を選び、ゆっくりと言葉の続きを始める。

「それに……長くて滑らかだ。洗って紡いで織り上げてやれば、秀逸な綴じ紐になるだろうね……」

 彼女は、自分の心臓が冷たい手に撫でられたみたいに、ざわりと震えるのがわかった。僕はいたたまれなくなって、背景から抜け出し、気づけば口を開いていた。

「人間の肉体っていうのは……記憶媒体としてとても優秀なんだ」

 そこで僕は彼女を前にして二の句を継げないでいる彼に目線を送ってやる。彼は未だ、彼女に嫌われることが怖かったんだ。それでも彼は、僕の言葉の続きを引き受けることに決めた。

「そうだ……思考を持った人間の体には、記憶というものがよく馴染む」

 彼女がランタンを握るその手は震えている。

「ふたりして、何の話をしているの」

 彼はまた口をつぐんでしまい、僕は仕方なくなって口を開く。

「大事な話なんだ……大事な、僕らの仕事の話なんだ。だから、彼の話を聞いてやってよ」


 彼女は困惑の表情でもって僕を見つめる。それから彼は彼女と視線を合わせないまま、少女をますますしっかりと抱きしめて歩き出してしまうから、彼女は当惑しながらもそれを追いかける。ううん、彼、こういうときは口下手になるんだったな。彼が早足でひとつ先の書架の端を左に折れ、彼女が続いてその曲がり角の先に飛び込んだ時には、彼女はそこが書架の森の合間に開けた作業場であることに気が付いていた。


「これは何……?」

 天井にぶら下がったランタンの灯りに照らされるのは、木の作業台と、インク瓶の詰まった棚、積み上がった紙束、ひとひとりが寝転んでも差し支えなさそうな、風呂桶のような大きさの水槽、裁断機。

「俺の、仕事場」

 彼は腕に抱えていた彼女を作業台の上に寝かし、それから作業台の下を漁って、おもむろに布を一巻き取り出した。彼の指が微かに震えているのが僕にはわかる。その布が作業台の上に置かれると、それに包まれている何らかが、布の下で重々しい金属音を立てて擦れ合うのが彼女の耳にも聞こえて来る。

「その子を、どうするつもり」


 彼女はそうして一連の質問を僕らにぶつけながら、自分の頭の中に浮かび上がった推測というものを、僕らに全て否定してもらうことを乞うていた。けれど、僕らは彼女に吐くための嘘というものを用意していなかった。僕らは今日、彼女に真実のみを語ろうとしていたからだ。彼女は早鐘を打つ心臓を抱えて、作業台の向こう側にいる彼を見つめ、それから書架の上から全てを見ている僕に恐怖の面持ちを向ける。質問に答えてもらえないままの彼女は、彼が作業台の上で裁断機を手元に引き寄せ、刃を持ち上げてその下に少女を寝かすのに両目を釘付けにされていた。彼女の足は床板に張り付いてしまったかのように動かなかったが、彼が手をかけた裁断機の刃が軋むような音を立てて滑るのを聞き、彼女は彼に向かって必死に手を伸ばす。


「待って!」

 彼女の手から滑り落ちたランタンが、放り出されて床板を打ち、そのガラスの壁面がひどい破壊音を立てて割れ、砕けて散らばるのを僕は聞いていた。明かりがひとつ消える。


 彼女が気が付いた時には、裁断機の刃は作業台の盤面と同じ高さまで降りていて、少女の腰元でその身体を分断していた。彼女の喉に、ひゅう、と息が通る音がする。裁断機の上に手を添えた彼は喋らない。喋れないでいる。ああ、そうか、やっぱり僕が喋らなきゃいけないらしい。僕は、彼女がこれから僕の言葉にどんな顔をするのか、それだけを恐れながら、小さく息を吸った。


「君は、本というものが元来人間の血と肉で出来ているというのを、知っている?」

 僕のその声を聞いて、彼女は慄きにそれ以上ないほど両目を見開いてこちらを見上げる。ああ、やっぱり、そういう顔をさせてしまうんだな。僕は穏便にことを済ませようという甘い心を諦め捨て去って、心の中に冷酷な自分を呼び戻した。そうだ、客観的な語り手というのは、誰にも入れ込まない。ぼくがどれだけ優しくしたって、もっと優しい彼女はどうせ傷つくことになるんだから。僕は、自分の口の中が乾いているのに気づいた。僕が悪者にならなきゃならない。それでいい。

「本はね、幾多の先人の血肉を、その魂を啜ってはじめて出来上がるんだよ。だからもし君が本を開いた時、そこに立ち現れた人間像や、途方も無い叡智の集積を前にして、『もしこの紙面を引き裂いたら、そのページの面から血が滲み出てくるんじゃないか』っていうような感覚を抱くことがあるのなら、それがその名残さ。そう……本というものは、元来、人の血と肉でできている」


 僕は立ち上がって、書架の上を歩きながら喋ることにした。このほうが、きっとうまく言葉が出てくる。


「それをまるで工業製品と一緒にする輩がいるんだから、参っちまう。本にはさ、嫌でも人間の魂が宿る。宿るどころか、それは切り離されて保存されるための一己の肉体として成立している。魂を持った肉体だよ。これは当然のことさ。その当然のことを、知らない人が多いってだけ……自然に考えれば誰だってその結論に至るさ」


 そう言って僕が彼女の空色の目を覗き込むと、彼女は息の詰まった喉から

「貴方の……貴方の言い方じゃ、まるで──まるで、」

 と、途切れ途切れに声を震わせる。彼女は自分の背後の書架に並ぶ幾多の本が、全て自分に視線を向けているかのように思われ出した。

「ここの本が、人間の身体から作られてるみたい──」


 僕は表情を変えないようにした。そのまま黙っていると、彼女は泣きそうなくらいにその表情を崩した。それを見ると、いやでも心が揺さぶられる。でも、話しておかなければならない。もう、誤魔化すのはなしだ。僕は彼女の心臓に自分の言葉を染み込ませるように、ひとつひとつをゆっくりと喋ることに決めた。

「考えてごらん。死した肉体は土に還って、草木の養分になる。育った木から剥いだ皮で紙を作る。その草木を食べた牛から皮を剥ぐ。それらを合わせて立派な装丁の本が一冊出来上がる。それってね、ほんとうは、当然のことだろう?」


 彼女は眉を顰めたまま僕の顔を見つめている。彼女は僕を、僕の言葉を、怖がっている、拒絶しようとしている。でも、もう止めるわけにはいかない。


「いくつか過程を省いているだけさ。ここで僕らがやっているのはね。循環する熱量は一緒。使う理屈は同じ。ここではその循環の輪がずうっと短くて、シンプルに書き換えられてるってだけ……ここで君が今まで触れた事のある本だって、『人の皮のようだ』とは思わなかったろう? もっとも、彼の手にかかれば、人の皮だって牛の皮と同じになってしまうんだ……」


 彼が背後で音を立てたので、彼女は作業台を振り返る。そうして目線を惹きつけられるまま、彼女が少女の死骸に目を下ろすと、裁断機で分かたれた腰元の切り口は、その表層から順にぺろりとめくり上がり、「まるで」そのあたりに積み上げられている紙束と同じものが、少女の体内から一枚、一枚と剥がれ出しているかのように思われた。しかし、それを見ている彼女の心は強く頑丈で、そんな奇怪な光景を前にしながらも、正気を保ったままなお口を開く。


「……貴方、自分がどんなおぞましい話をしているか、知っているの?」

「おぞましい、と思うのかい?」


 と、ほとんどおうむ返しにされた僕の言葉を飲み込み損ね、彼女はとうとう怒りの混じった不信の目を僕に向けた。僕は、存在しない敵意を汲み取られないように、じっくりと彼女の顔を見つめて言葉を並べる。


「君は、豚が養豚場で捌かれてトラックで運搬されてそれが肉屋に並ぶころには、豚の臨終の苦しみや、解体屋が顔をしかめながら豚を絞め殺した時の苦悶の表情ってのが、フィルターを通した後の水みたいに、全部綺麗さっぱりその食肉から洗い流されてると、そういうふうに思う?」


 僕の話を聞きながら、彼女の背後で彼は道具一式をくるんだ布を広げ、中から彼の手に馴染んだ鉈を取り出して、その切っ先で作業台の盤面を引っ掻き、切れ味を確かめている。彼は、うつむいたまま、僕に彼女への説明を託している。ずるいな、僕ばっかり嫌われるじゃないか。でも、君が彼女に嫌われるよりはましだな。僕はそこで、彼女が僕を食い入るように見つめているのに気づく。


「もし君が、僕が今言ったように物事を考えるのだとしたら、君の生き方、世界の見方には、手直しが必要になる」

 師走の張り詰めた空気の中で、からからと、遠くランタンが揺れる音がする。


「君の目には入らない血みどろの命のやり取りってのが、この世界には確かに存在している。それは、なくてはならないものなんだ。僕らの世界からそういった汚れを一切消し去ることなんてできやしない。絶対に、できない。僕らの世界は、その、目も当てたくないものを前提として回っている」


 僕はそこで一息ついて、こちらから目線を逸らさない彼女の瞳の前に平伏した。

「君もきっと、わかってくれる。いや、そうではなくて、諦めがつくんだ。仕方のないことだと。……受け入れるしかない。君はもう、そういったことを目に入れないように生きることはできなくなってしまった。ここにいる限り、君は、世界の最も汚れた部分に目を向けなきゃいけない」


 彼女は何かを言おうとして、しかしそれは言葉になる前に、彼女の思考の海の合間に揺られ、飲まれて、消える。

「彼らの肉体は、それ自体が僕らにとっての恩恵なんだ。僕らは、彼らの肉体から形ある別のものを作り上げる──彼らの持つ水分、たんぱく質、鉄分、糖分なんかを、僕らは解体して──」

 僕はどこかにやっていたティーポットを引き寄せ、もう片方の手に持ったティーカップの中に「赤く」輝く紅茶を注いで見せた。

「僕らの糧にする」

 彼女はその赤い輝きに目元を露骨に歪めると、口元を覆って足を震わせたけれど、踏みとどまった。彼女は今、自分がここにきて口にしたものの幾つかを思い出している。

「君は、彼が形を変えた後のものばかりを目にしてきたのだろうけど……」

 僕はひとつ大きく息を吐いて、吸った。

「ここに新しくやって来るものは、『彼ら』だけさ」

 彼女は肩で息をしながら、俯いて両腕を胸の前で組み、震えてたまらない自分の身体を押さえつけようとしているみたいだった。

「貴方はどうしてそんなことを、顔色ひとつ変えずに言えてしまうの? おかしい、今の貴方、おかしいわ……」

 どうやらポーカーフェイスを保てていたらしい。僕だって立派な役者になれるかもしれないな。


「君はきっとそう言うだろうと思って、ずっと黙っていたんだ……でも、いつまでもこのことを隠してはいられない……だから、今話して、全部見せてしまおうとしているんだよ」

 知らなきゃならないことだ、という僕の小さな声を、しかし彼女の耳はしっかりと受け取っていた。

「……僕が君みたいに思ったのは、昔の話だよ」


 この書架の森の中に佇む、全ての本という本が息をする音が一斉に聞こえ始めたみたいだった。もっとも、彼らは皆もう死んでいるわけだから、息なんてしようがないんだけど。


「僕はもう、この世界の醜さを拒絶しないことにしたんだ」

 そのとき、作業場の奥にひっそりと佇んでいた柱時計がごおんごおんと低く唸り始め、まもなく夜が始まることを僕らに知らせる。少女の身体が腐る前に、僕らは彼女の身体を解体してしまわなきゃならない。

 彼は口を噤んだまま少女の上半身を持ち上げると、今度は裁断機の刃が彼女の首元に落ちるようにと身体の位置を調整する。

「やめて、やめて! おねがい」


 と彼にすがり付こうとする彼女の肩を僕が不意に掴むと、彼女は驚いた様子で僕を振り返る。彼女、僕が自分よりもひとつ上の次元にいることを忘れていたんだな。僕は冷酷にも彼女を無理やり彼から引き剥がし、ぐっとその肩を掴んで押さえつける。彼女は僕の手を振りほどこうともがきながら、作業台の上の少女に向かって、また同時にそれを見下ろす彼に向かって言葉を投げ続ける。


「だめ、そんなの!」

「彼女の肉体は、僕らにとっては必要なものなんだ」

 僕は、努めて彼女の肩を力強く押さえつける。

「彼女は彼女自身を、そして彼女以外のひとでなしのことを書き記しておくための記憶媒体になる。必要だ、必要なんだよ。彼女はの肉体は、僕らにとって必要なんだ」

 僕が言葉を費やすほどに、彼女は身を震わした。

「必要ないわ!」

 彼女のきっとした声は確信づいて高く鳴る。

「そんなことしなくても、私が、私が覚えておくわ! ぜんぶ、ぜんぶ、私が、覚えておく!」

 彼女の声は悲惨な響きを持って書架の合間を通って遠くまで響く。

「だから、ちゃんと、」

 彼女は乾いた口の中がかすれるように痛むのを覚え、息継ぎするようにまたその口を開く。

「死なせてあげて!」

 彼女の声を、この森の全てが聞いている。けれど、彼は彼女のほうを見ないし、僕も決して彼女の肩から手を離さない。

「だめだ」

 僕は、彼女の肩を掴む自分の手にますます力を込める。

「僕らは、僕らの言葉を、形にして残しておかなきゃならない。頭の中にあるだけじゃ、だめなんだ」

 彼女は僕の言葉を聞きながらも、身をよじって少女のほうへと手を伸ばす。僕はなおさら辛抱強くなって、もっと話して聞かせなきゃならなかった。


「君だってさっき、僕のせいで嫌という程わかったろ? だめなんだ。だめなんだよ。誰かの頭の中にあるだけじゃ。他の誰にも伝わらない形じゃ……。それじゃあ、ただ消えていくだけなんだ。彼女は、彼女や、彼女の後に死んでいくひとでなしの記憶の、媒体にならなくちゃならない」


 彼女の喉が、ひくり、とひとつ痙攣するのがわかる。

「君だって考えたことない、なんてこと、ないはずだ。僕らが、一体幾つの死骸を食らい啜った大地の上に生きているのか。どれだけの人間が僕ら一己の人間の生き血の中に、その魂の断片を残しているのか」

 彼女の身体は、相変わらず怒りや不安や悲しみに震えている。


「何億年の重みを背負って、僕らは、望まざるともそれを『背負わされて』、この世界に産み落とされる。ひどいもんさ。世界が僕らを勝手に産み落とし、そして僕らは自分を産み落としたその世界そのものにまた責任を負うんだから……でもね、そうと決まっている。認めなければ先に進めない」


 それから、僕は暴れることをやめた彼女の肩をぐい、と押しやって僕の方を向かせた。彼女は、呆然としたまま僕のことを見上げた。


「君は、君の人生を君のものだと思っているのかい? おそらく君は、この世の悲惨にその命を捧げた、という風に思っているのだろうけど……。でもね、そうじゃない。最初から、君の命はこの世界のものだった。君が彼という悲惨のためにその身を捧げたと思っているとしたって、もっと視界を広げればきっとそうではなくて……ただ、この世界という大きな怪物の体内で、君の命がぐるりと循環しただけともいえるだろう」


 彼女が浅く息をする音が、書棚の隙間に吸い込まれていく。


「僕らの人生は、最初から僕らのものでないばかりか、最後まですっかり僕らの手に入ることなんてありはしない。君の命は、君自身が自分勝手に処理できるもんじゃない。君だって、君が自分一人では今まで生きて来られなかったと彼に向かって認めたろう? 君のために身を削った人間がいる。君を愛するために苦しんで来た人間がいる。もし具体的な人間を挙げられなかったとしても、この世界からなんの恩恵も受けずに今まで生きて来たなんて、はっきりと言えるかい? そういう恩恵をものの数に入れないほど、君は愚かじゃあるまい。こと、君みたいな優しい人間にとってはさ、そういうのは、無視できないことじゃないのかい? できないね、君には、そんなことできない。なぜなら、君は愛に溢れたひとだから」


 僕はたぶん、目の前にいて今震えている彼女のことを、世界で二番目くらいに愛しているんだと思う。


「でもね、僕らは自分の一部を捧げる代わりに、他の命を手に入れる。誰かの命の一部が、代わりに君のものになるんだ。そして、その誰かに向かって君は『生きてくれ』と強いる権利を手に入れる。『死なないでくれ』と、懇願し、そのひとを自分の思うままに抱きしめる権利を手に入れるんだ。いつもそうだった。そうやって、やってきたんだ。僕らは」


 僕は、最後まで丁寧に、彼女に聞かせてやらなくちゃならない。


「ここに積み重なった人間の記憶たち、彼らがここに残した最上の置き土産……これは一般に『叡智』と呼ばれるものたちだ。死んだ人間の魂の痕跡がここに残されて、僕らはそれを貪るように摂取する。彼らの残した魂を、それとは知らずにそれを食らって生きている。そういうものだ。そして、たとえ自分が食らっているのだと知らなくたって、食らったからには、君も何かを残していかなきゃならない。レストランから出ていくときにはお金を置いていくだろう。それとおんなじで、対価を貰ったのと同じだけは払えないとしても、少なくとも、何かを残そうとはしなきゃならない。それで僕らは、世界に対してフェアになる」


 僕がそう言って首を傾げ、彼女に応答を要求するのを、彼女は動かないまま聞いていた。


「形にして、本にして残しておけば──誰でも見られるように形にしておけば、いつか君みたいなひとがここにやってきたときに、そのひとが紙の上に書かれたこの子を見つけられるかもしれないだろう? ……そのひとに、死んだ彼女の言葉が、届くかもしれないだろう?」


 そうして僕が裁断機の下に横たわる少女に目を遣ると、彼女もまた僕の視線につられてそちらを振り返る。横たわって青白い肌を夜の空気に晒した少女が、何かを待つようにしてそこに横たわっている。


「そうだ。僕らは、その、一縷の、ほんの少しの、誰がもたらしてくれるかも定かじゃない、『かもしれない』に全てをかけて、この命を投げ出せる。最後に、それならいいやって、諦めることができる。頭に閃いたその可能性が、命果てる僕らを優しく包み込んでくれる。そういうふうに出来ている。僕らの命は、僕という一つの『終わり』の先に続いていくかもしれないと、そう思えるだけで、僕らがどれだけ救われることか……君はまだ死んだことがないから、わからないかもしれない……けど」


 彼女は立ちすくんで、少女のまぶたの隙間から覗くあの深い瞳の色をその目に捉えようとしていた。

「百年かかっても、二百年かかっても、きっと誰かが、自分のことを見つけてくれるかもしれないと、僕らにはそれを夢見る権利がある。形にさえすれば、僕らはそれを夢見たっていいんだ──」

 僕が深く息を吸う前で、彼女は切実に少女の相貌を見つめ続けている。


「僕らはいつだって、ここで待っている。君みたいに、この深い森の中へとわざわざ分け入って、傷つきもがきながらも境界線を越えて誰かを探しにくる、苦労と報酬の釣り合いを計算できないおひとよしを。万に一つやって来るかもしれない、その哀れな来訪者を。森の中に隠れ混じったひとの心の中へと踏み入って断絶を埋めようとする、おおよそ超人のような理解者というものを」


 しんと音のない本の森に、無数の星の色が降り注ぐ。

「僕らはずっと、待っている。彼らの眠りに自分の命を分け与える誰かを──僕らには、彼らのために、そんな夢物語を待ち続ける権利がある」


 僕の長い長い演説の果てに、彼女は観念したように肩を落とし、それから口を閉ざしてしまった。僕は彼女をいくらかでも元気付けてやりたくて、なお口を開く。僕は喋る以外に能がないんだから。こうするしかないんだ。


「大丈夫、『彼』はきっと来るよ。彼女を探しに来てくれる」

 僕が肩に置いた手を、今度、彼女は一切拒まなかった。

「そのために、君が彼をここに結びつけたんだろ?」

 彼女はそう言う僕を振り返って見上げ、

「……そう、だけど」

 と泣きそうに言葉の終わりを濁した。僕は説得されてしまった彼女を慰めるようとして、語り手らしくそれからまた言葉を続ける。

「彼は君と同じように、『言葉にできない何か』を辿って、真実を探しにやって来る。境界を越えて、この深い断絶を乗り越えて──」

 彼が作業台の上に広げた鈍い色の道具たちに、赤らんだ照明が映り込み、それと同時に星々の白い光を反射して仄かに煌めいて見えた。

「そうなることを、僕らは願っていいんだ」


 彼女に向かって言い聞かせたその言葉は、僕が僕自身を説得するような響きまで含んでいて、僕は自分が弱い人間だと言うことを思い出してしまう。何もかも知っていようが、僕は不完全で仕方がない。けれど、僕の手で与えられるものは、なるべく与えたいと思うのも事実だ。僕はそれから彼女を放して、その背中を押してやる。彼女はそのままふらふらと足の進むままに歩いて行って、裁断機のそばに立ち、どこか聖像じみて凍りついた少女の顔を見つめる。


「大丈夫だよ、君が優しい人だってことは、俺がなによりわかっているから」

 彼のその言葉に、彼女は彼の顔を見つめた。僕の言葉なんかよりずっと、彼の言葉は彼女にとって重みを持っていた。

「目を閉じないで、最後まで見ていてごらん」

 彼女は押し黙った幾千もの本に囲まれた作業台の前で息を吸い込み、覚悟を決める。風が弱まって、音のない夜の空気が僕らの世界を満たしている。


 あなたもまた、はじめの彼女と同じようにこの仕組みを嫌悪し、拒絶するのだろうか。しょうがない、だって気持ち悪いもの。ここには、世に言う人間の醜悪が詰まっているんだろう。きっとそうだ。それは間違いないことだ。でもこれが、これこそが、僕らの愛の形なんだ。君の生は何かに繋がっていくと、誰かが君の死の続きに立っていると、死んだ彼らに語りかけられるように、僕らが施す彼らへの愛情。そうしたら、あなただって何にも言えないだろ? 僕らは愛という言葉で、何もかも正当化するんだから。僕らは元々そういう醜悪な人種なんだ。だから、もしこれが、胸を張って「正しい」と言えないことだとしても。


 彼は裁断機の刃にようやっとその両手をかけ、どこか微笑むように緩やかなカーブを描いて見える少女の口元の下、その細い首めがけて鈍い鉄の色を、一思いに。



 以上が、僕があなたに聞かせるために用意していた話の全てだ。これで、当分僕もお役御免かもしれない。けれど、そうだな……。もう少しだけ水先案内人に扮してみるのも悪くない。きっと前途多難であろうあなたの未来に、幸多からんことを願って。


***


 きんと冷えた冬の雨のせいで気持ち悪く雨水の染み込んだつま先を、ハイヒールの中でぎゅっと握り、女は凍えるように震えながら戸口に立ち尽くしていた。彼女の声音というのは、恐怖を覚えていようがそうたやすくは震えない。おどおどとした見た目に逆らって、彼女の心臓はじっとその胸の中に座していて、痛みなどそれほど覚えないのかもしれなかった。けれど彼女は、恐らくは自分の失態から来るであろうこの事態を冷静に判断し、身を固くしていた。彼女の目線の先、部屋の中で百合の花に触れながらこちらの物音にじっと耳をすましている女が、自分の発した言葉に一体何を投げ返して来るかを恐れていたのだ。


「兼業様、」

 彼女の呼びかけの声はやはり震えることなく硬質に通った。それから彼女は、彼女の癖がそうさせるまま、ずれてもいない眼鏡に触れてから部屋の中にとうとう踏み込み、女が瞼を下ろしたまま彼女のことを振り返るのを見つめていた。

「『鍵』が、見つかりませんでした」


 言うべき言葉を一息に言ってしまった彼女は、目の前の女が百合の造花の細い茎に触れることをやめないままで、しかしその盲目の目をはめ込んだ顔をまっすぐ自分に向けるその気味の悪さに、背筋が震えそうになる、が、彼女はそれをこらえた。

「それは」

 黒衣の女の顔の中で、まぶたがゆっくりと押し上がり、その内側にあった濁った陶器のごときあの眼球が彼女の前に露わになった。正確な声音が、その機械的な人体からまっすぐ発される。

「良くないことね」


***


 この掃き溜めの街にあって明かりの点く一番高い場所に、彼女の部屋がある。その煌々と暖かな明かりの灯る部屋の中、キッチンに立つ彼女は、フライパンの前に陣取って卵の焼き加減をじいっと監視している。それから、よし、と独りごちてガラスの蓋を開けると、ふつふつと音を立てる卵焼きをフライパンのなかで箸を使って器用に切り分け、ガス台の横に用意していた皿の上、先ほど炒め終わったばかりでまだ湯気を上げているチキンライスの上へと乗せていく。それから彼女はにっこり微笑んで、ケチャップでその卵の上に鮮やかな色を足した。


「ご飯できたよ!」

 彼女のその声は部屋の向こう側まで響いて、誰かが立ち上がるような小さな音がする。彼女は出来上がったばかりのふた皿を両手に持ち、スプーンはもうそっちにあったっけ? と相手に向かって問いかけながら、二人がけの小さなテーブルにできたてのオムライスをことりと置いた。

「じゃじゃーん、今日はオムライスでーす」

 わあっと声を上げる少女の反応を堪能し、彼女はふふんと腕組をした。テーブルの上にはちゃんと二人分のスプーンが置いてある。

「すきでしょ?」

 椅子に腰を下ろした彼女にそう問いかけられ、向かいの席についた少女は、

「うん!」

 と元気よく返して、スプーンを手に取る。少女の鼻腔に、炒められたケチャップの匂いがふうわりと入り込んで来る。優しい匂いだ。少女は顔を上げ、自分が最初の一口を食べるまで待っている彼女に向かって口元をほころばせた。

「ありがとう、亜ちゃん」

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