閑話 夢やぶれて

 あの子の話をしよう。これは必要のない与太話で、大きな流れの横に添えられたほんのおまけに過ぎない。だから、きっと読む必要はないものだ。けれど、あなたがもし「知りたい」と思うなら、その限りにおいて、多少はある筈がない「必要性」っていうのが生まれるのかもしれないな。


 これから語るのは、あなたにとっては急に現れて、薄い金色をあなたの瞼の裏にたなびかせ、その名残を残して夢のように消えてしまった、月みたいなあの女の子の話だ。


***


 床板の硬さを足の裏で踏みしめて廊下を進むたび、目の前を行く女の髪が一歩ごと艶やかに揺るぐのを見ながら、娘は期待を胸に抱きつつも、不安で仕方なかった。

「あの」

「何」

 おずおずと発した自分の声をつっけんどんな調子の女の声に串刺しにされて、娘はびくりと肩を揺らす。そのままうまく二の句が告げないでいると、振り返った女は見事な睫毛の下の山吹色の瞳で娘を睨み、隠す気の無い苛立ちをぶつけるのだった。女が前に向き直ってからやっと娘の喉の準備が整って、


「私、これから誰に会うんですか」

 となんとか人間の言葉になる。それでも女は何の反応も示さぬまま前を歩いていたが、娘にとってはあまりに唐突な風情でもって

「母さん」

 と、娘が思ってもみなかったほど簡潔に返すのだった。そして女はそれ以上何も答えるまい、というような雰囲気をその背に背負い込んでしまうので、その雰囲気に圧倒され、娘は押し黙り、視界の左に華やいだ月下の庭園を眺めながら、娼館の奥へと導かれていく。


***


 彼女は田舎から帝都へと上京してきた、夢見る少女だった。ありふれた話だ。何度もどこかの劇場やシネマやテレビ画面の中で流れた演目の主人公のように、都会の有力者に見初められて華やかな舞台へとかけあがることを彼女もまた夢見、その輝かしい幻影に自らを重ねていた。物語の中の数々の主人公たちと同様、彼女の夢もまた、女優になることだった。


 けれど彼女は、家族から仕送りの停止を宣告されていた四年目を目前にした神無月の頃、舞台の上ではなくて、ぼうっと橙の明かりが浮かぶ海鮮料理屋にいたのだった。彼女は居心地悪そうにして、自分の向かいに腰掛ける女、かつて同じ劇団に所属していた年上のその女を見つめていた。肩にかかった巻き髪の先を指にくるりとからめて弄ぶ女を、娘は戸惑いの表情で見つめていた。上京したばかりの彼女を大いに面倒見てくれた女は、徐々に劇団から身を遠ざけ、いつしか誰もかれもに忘れられていた。その女から不意に来た手紙に、娘は心を躍らせた。ずっと会いたかった。けれど、会ってみれば。


「先輩、変わりましたね」

 娘が小さく声を出すと、女は煙草を吸いながら伏せていた目を上げて、

「どうして」

 と微笑んだ。娘はまた当惑した。そんなふうに相手のことをはぐらかすような趣味は、娘にとっての「先輩」という人物にはないように思われたのだ。戸惑ったまま声が潰れてしまった娘は、言葉が出ないまま、目の前の妖しい輝きをまとった女に、かつての「快活で素朴な先輩」という枯れ果てた虚像を重ねていた。


「最近はどう?」

 先輩の声に娘はやっと息を吸い始め、それから

「もう、帰ろうかなと思っています」

「田舎に?」

「はい」

 淡々とした会話が続く。

「お金がなくって……」


 娘は茶化すように笑いながらそう口に出して、自分で悲しくなった。けれど、それはどうしようもなく事実だった。先輩からは見えないテーブルの下で、娘は両手を握りしめる。


「それなら、助けてあげられる」

 俯いていた娘が目を上げると、先輩はルージュで赤く浮き上がった唇の両端をにこやかに釣り上げているのだった。



「先輩、あの」

 という娘の言葉が聞こえないのか、聞こえないふりをしているのか、先輩は振り返らず、無邪気そうな声で

「こっちよ」

 と囁くと、娘の手を優しく引いて、薄明かりのキャバレーの中を、ソファーの合間を縫うようにして歩いていく。着飾った艶やかな女たちと、彼女らに寄り添われた男たちが低めた声で言葉を交わし合い、通り過ぎる娘を彼らが時折じろりと見上げる。そのたび彼女は、泣きたくなるような気持ちを押さえつけるようにして、ハイヒールでベルベッドの絨毯を踏みしめ前へ進むのだった。


 西十番街に彼女が足を踏み入れたのは、これが初めてだった。確かに、「掃き溜めには『女の働き口』が幾らでもある」というのは彼女も知っていたし、「先輩はどうやら掃き溜めで働いているらしい」という噂を耳にしてもいた。けれど、自分にはいつになっても用のない場所だと思っていたし、来るつもりもなかった。帝都に上京し夢破れて「掃き溜め」に身を落とすという話はあまりにもありふれて、帝都人にとってひとつの紋切り型だったのだ。もはや一種のおとぎ話だったと言ってもいい。けれど、それが現実として今、彼女自身の身に降りかかっている。


「椿さんよ」

 よたよたと足を止めた娘に向かって先輩は誰かの名を教え、

「挨拶して」

 と娘に急かした。

「はじめまして」

 と、とにかく挨拶をしながら彼女が顔を上げた時、目の前のテーブルには数人の女が座っているのが見えたが、すぐにその中のひとりに目がいった。


 重たそうな長い睫毛の下から山吹色の宝石のような目を覗かせた美しい女は、気だるそうに娘に目を遣り、表情など作らずさりげなくそこにいるだけなのに、確固たる女としての情調というものを全身に纏っているように思われた。生唾を飲み込む娘から横に立つ先輩に目を移し、「椿」と呼ばれた女は、


「あんたが紹介したいって言ってた子?」

 と、掠れた艶やかな声を発す。

「ええ、お金がないみたいで」

「ふうん」


 持っていたグラスをテーブルの上に置くと、椿は組んでいた足を解いて立ち上がり、ゆっくりと娘に向かって歩いてきた。思わず後ずさりそうになる娘の腰を先輩が押し支え、それから椿が近づくのに合わせて先輩は身を引いた。椿を前にして息がつまるような心地になった娘は、直立したまま、椿に上から下までじろじろと眺め回されるのに耐えていた。椿の指先が娘の肩に触れ、鎖骨へと回されて、それから娘の顎をすくい、彼女の目の奥までじろりと探り入る。凍りついた背筋のまま、まっすぐに自分を見つめる椿の瞳の中に己の姿を見つけ、娘は未知への不安と恐れで気が遠くなりそうだった。



「ごめんなさい」

 キャバレーの戸口で先輩に向かって頭を下げながら、娘は動悸で胸がおかしくなりそうだった。使ってやってもいいよ、という椿の言葉を押しのけるようにして、彼女はキャバレーで働くことを拒んだのだった。椿は声を荒げたりはしなかったが、もちろんいい顔もしなかった。出口に向かって半ば走るように歩み去った娘の背中に、椿の声が「なめてんね」と聞こえたのを思い出して、彼女は震えが止まらなかった。ようやっと下げていた頭を上げて先輩の顔色を伺う彼女に、先輩は安物の作り笑いを浮かべ、


「気が変わったらまたおいで」

 とだけ言い残すと、彼女の鼻先でぴしゃりと扉を閉めてしまった。夜道に取り残された彼女には開放感と孤独感が同時に押し寄せ、彼女は頭がぼうっと揺れるのを覚えながら、真夜中の帰路に着いたのだった。



 地下鉄の最終列車に飛び乗り、疲れ果ててアパートの前に帰ってくると、階段のところに誰かが座っていた。

「よお」

 と娘に気づいた人影が立ち上がるのを見て、彼女は涙が出そうになった。帝都に上京して2年になるのに垢抜けないままの幼馴染の顔は、彼女の心をいつだって故郷に連れ戻して、その胸に安堵を与えてくれるのだった。

「ごめん、待ったりして」

「ううん」

 と微笑む娘に男はだらりと人懐っこく笑うと、

「田舎からの仕送りなんだ。これ、渡したかっただけなんだけど、帰ってこないからびっくりした」

 と彼女に紙袋を手渡した。

「どこに行ってたの? 仕事?」

「違う、けど」

 紙袋の口から梨の匂いがするのに思わず微笑みながら、娘は一度閉じた口を開く。

「もう行かない場所」

 娘の突き放すような語調に男はかすかに怯んだが、

「そうか」

 とだけ物分かり良く返すと、

「女優、頑張れよ」

 とだけ言い残し、自らを急かすようにしてさっさとバイクに乗り、彼女の前から立ち去った。


 紙袋を抱えたまま湿った自室に入り、閉めたカーテンの隙間から差し込む街灯の明かりを忌々しく思いながら、娘はベッドに倒れこみ、その日あった全ての顔という顔が脳裏に流れ込んでくるのに頭を悩ましながら、いつのまにか寝入っていた。



 ドアを激しく叩かれる音で目が覚めた。自分がどこにいるのかもまだ定かではない彼女は、ベッドから起き上がるとすぐさま音に吸い寄せられるようにして玄関に向かい、ドアスコープから廊下を覗いた。郵便局の制服。

「電報です」

 戸口に現れた娘を見て安堵したらしい配達員は、彼女に電報を手渡すと、そのまま慌ただしくいなくなってしまった。


 自分の宛名が書かれた表を返すと、裏に書かれていたのは実家の住所だった。途端に曇っていた頭の中は冴え渡り、ベッドの方に戻りながら、娘は冷たい部屋の中で早まっていく鼓動の数を数えていた。震える指先で開けた紙面には、


チチ、キトク


 とだけ書かれていた。

 混乱した頭を冷やすためにシャワーを浴びた彼女は、長らく閉ざしたままだった郵便受けを開けた。彼女の部屋には電話がない。だから、母は彼女に電話をかけられなかった。


 いくつも溜まったオーディションの通知書やセールスの広告の間に隠れこむように、こっそりと卵色の封筒が挟まっていて、その面に母の字が娘の宛名を小さく記している。消印は三週間前。それを見た彼女は大きくため息をつき、手紙の内容に大方の予想をつけて鞄に放り込むと、化粧もそこそこに、泣きそうになりながら駅へと向かった。


 財布の中身を確認し、特急列車に乗るほどの手持ちが自分にはないことを知った娘は、そこにも小さな絶望を覚えながら、鈍行を乗り継いで故郷に帰ることに決めた。重たい上着を羽織り、小さな鞄ひとつでなんとか直近の列車に飛び乗った彼女は、意を決して母からの手紙を開けた。


 元気にしている? などというありふれた書き出しの後に、父親が仕事中に倒れた。病気かもしれないから、なんとか近いうちに帰ってきてはくれないか、と母親が文字でもって必死に訴えかけているのだった。読み終わる頃、娘の目には涙がにじんでいて、その雫が紙面に落ちないように娘は俯いたまま冷えた指先で懸命にその目を拭う。ブーツの中の足が椅子の下の暖房に当てられて焼けるように熱くなる。列車内の他の乗客の誰もが気づかないまま、彼女は口の中で何度も「ごめんなさい」とつぶやき、あまりに悠長に田園風景を走る鈍行に運ばれて行った。じりじりと長い長い旅の中で、疲労が重なった彼女は、頰の上に涙を流れさせたまま、硬い座席の背もたれで少しだけ眠った。



 食事をする気力もないまま、彼女は人気のない駅に降り立って、次の列車をの時間を確認した。そうすると、まだ五十分も後である。乗り換えまでの時間を見つけた娘は改札を飛び出し、人気のない駅前のロータリーで運良く見つけた公衆電話にかけこんで、鞄から小銭入れを掴みだし、慌ただしく実家にダイヤルする。はやく母の声が聞きたかった。電灯で温められて微かに生暖かい受話器を耳に押し当て、奥からコールの音が何度も遠く響いているのを聞いている。出て、早く、出て……と祈る彼女は、自分の顔にかかった髪の毛の向こうにあるガラスの壁を爪先で何度も叩き、苦しそうに乾いた秋の終わりの空気を吸って、なんとか酸素を肺に流し込む。恐ろしく長い二分間だった。泣きそうになりながら一度受話器を置こうとしたとき、ちょうど、向こうの受話器が取られた。娘があっと声を出す前に、あちらが彼女の名前を呼ぶ。


「うん、そう、今ね、私……」

 彼女がもう少し話す前に、彼女の耳には母親が耐えきれずに泣き出す声が届いていた。



 母親の話を最後まで聞いていることはできなかった。正直なところ、娘は、感情が高ぶるまま動物のように泣き声をあげる母の言葉のほとんどを聞き取ることができなかったのだ。けれど、彼女にも、間違いなくわかったことがある。彼女は、母親のやかましい泣き声を押し切って「ごめん、ごめん」と繰り返して無理に電話を切ると、それから電話ボックスの中に座り込んだ。娘の頭の上で、乱暴に切られて掛け金にかかった受話器が揺れている。


「ばか……」

 彼女は無人駅ロータリーで小さく自分を罵ると、顔を塞いだ自分の手に湿り気を含んだ呼気がかかるまましばらくじっとしていた。

 間に合わなかった。父が死んだ。


 母親の喚き声の中に聞き取れた間違えようのないその情報に、彼女はしばらく自分の足が立とうとしないのをわかっていた。誰も電話ボックスの外で彼女のことを待っていたりしなかった。だから、彼女がしゃがみ込んだままとうとう抑えきれずに漏らした嗚咽を聞いたものはこの世に誰もいなかったのかもしれないし、もしかすると、通りすがりの誰かは、哀れなきちがい女の泣き声がガラス戸の奥から漏れ出すのを忌々しいと思っていたのかもしれない。



 息が継げなくなった彼女はよたよたと駅のホームに戻り、誰もいない神無月、昼下がりのベンチに座って、乾いた涙の跡を指でぬぐいながら、これからのことを考えていた。


 どうする? あっちに着いてからだって、帰りの運賃だってない。やっとこんなときになって顔を出しておいて、間に合わないでいておいて、私は家族に運賃の無心までしなきゃいけないのか。私は母からまだ金を毟り取るのか。そう考えると彼女は恥ずかしくて、その上情けなくて胸がつまる心地がするのだった。こんな顔をしないで両親の元へ帰りたかった。有名な女優になって、もっと清々しい顔で……。そういう理想を自分が今だに持ち続けていることを思い出すたびに、彼女は現実の自分のありようにうんざりするのだった。私は、夢を見るだけ、夢を見ていただけ、ほかに何にもしなかった。


 悲しみに胸のうち全てを支配されそうになりながら、しかし彼女はまだ不幸なことに、合理的な判断のできる理性というものを失っていなかった。彼女は金のことを考えていた。今の手持ちで帝都まで帰れるだろうか。帰れることは帰れるだろう……などと、そういうことを。でも、列車に乗って帰れば、持ち金はそれきりだった。来月までどうする? 給料を前借りする? 友達にお世話になる? もう、そんなのばっかり。私、そんなのばっかりだ。いつも、いつも。


 また愚かな悲しみに塗りつぶされそうになる彼女は、頭を振ってそのメランコリーを振り切ろうとし、帝都の部屋を引き払うことを考えた。明日からすぐに新しいアルバイトをして、帝都にいる間の生活費と、実家までの運賃を稼いで、劇団にさよならの挨拶をして……。なにもかも捨て去って、それから田舎に帰ればいい。それで、こんなくだらない夢なんて捨てて、全部なくしちゃって、やっぱり私の居場所は、私が死ぬのはここだったんだって、華やかな舞台の上なんかじゃなかったんだって、なんにもない田舎に帰ってそう思えば、そう思っちゃえば。


 彼女は、自分の目が腫れているのに気が付いた。彼女は今、なにより、父の死んだ家に帰って行きたくなかった。家族に顔を見られたくなかった。こんな、ひどく苦しみにまみれた醜い顔を、情けなくまともな言葉も喋れない自分自身を。彼女は自己を嫌悪してやまなかった。父が亡くなったというのに、自分は己の体面のことばかり。私ってなんなんだろう。何になりたかったんだろう。何がしたかったんだろう。何にも、わからない。

「死にた……」

 彼女の声がかすれて、遠くから近づいてくる列車の音に重なり、誰にも届かない間に消えた。



 彼女は結局実家に帰らなかった。行動するなら早いほうがいいと思って、部屋を引き払い、劇団に挨拶を済ませて、帝都を後にした、はずだった。


***


 廊下をなおも歩き続けると、前を歩いていた女、椿は足を止め、娘を振り返って目配せしながら横の障子を開けた。


「入って」

 椿に促されるまま廊下から畳敷きの部屋に入った娘は、灯篭の灯る部屋の奥にひとりの女が座り、ぼうっと天井を見上げているのに気がついた。知らない顔であるはずなのに、知っている人に似ている気がした。彼女は不思議な感覚に包まれるまま、口を開いていた。


「かあ、さん」


 彼女の口からその言葉が漏れた時、彼女の後ろで障子がそっと閉められて、和室は彼女と母親に似た女のふたりきりになった。「母さん」と呼ばれるに似つかわしい雰囲気をまとったその女は、自分の名を呼ばれたと見え、はっとして彼女のほうを見つめた。


「あら、あんた」

「私、」

 彼女の口は、彼女の姿を見るなり開いて言葉を吐いていた。

「ここで、働きたいんです」

 彼女の言葉を受け入れた女は慈愛の笑みを浮かべ、ふ、と柔らかな声を漏らして、背負いこむ雰囲気の全てでもって、母のように彼女の心を包み込んだ。



 娘は帝都で得たしがらみのほとんど全てを事務的に断ち切り、実家に帰ることにした、のだが、無一文で実家の敷居をまたぐことを彼女はまだ躊躇っていた。もっとも、彼女の母やきょうだいには金なぞなくとも彼女を暖かく迎え入れてやる用意があった。彼らは、娘を心配に思うばかり、娘が都で破滅するのを待ってすらいたのだ。しかし、彼女がそれを知ることは、不幸にしてなかった。


 そして娘は、半ば自暴自棄に、身の回り品だけをもってふらりと西十番街を訪れた。あそこで働けば、小金を持って田舎に帰ることができるだろう。そのくらいなら、私だって。けれど、そのとき彼女の頭の中にあったのは、合理的な計算だけではなかった。彼女の目の裏には、椿の妖しく輝く印象が張り付いて離れないままだったのだ。



 廊下に出た娘は、椿がそこで待っているのに気づき、椿もまた娘に気がついた。娘は自分の頰が火照っているのを覚えながら、ついてこい、というように歩き出した椿の背中を追った。「母さん」と呼ばれた女、高峯と言葉を交わすうち、彼女の中にあったいくつかの不安は不思議なことに和らいでいた。


「住むところは、あるんですよね……」

 引き払ってきた部屋のことを思いながら娘がはきはきと口をきくと、椿は振り返らず、

「前のが出て行ったばかりの寝床だから、自分で掃除してよ」

「はい」

 寝るところがあれば十分です、と娘が小さく呟くのを見て、椿はようやく振り返り、

「変わったね、あんた」

 と彼女をじろじろと見つめるから、彼女は自然と微笑んだ。

「いろんなもの、捨てちゃったんです」

 さわやかさを含んだ娘の悲しい笑顔を見つめ、椿はふうん、と声を漏らしてまた前を歩き出す。そんな椿の耳にかかる髪がつやつやと月の光の下で輝くのを見、娘はとうとう

「あなた、すごく」

 と口に出し、一度そこで息を止めて、椿が振り返るのを待った。

「綺麗だわ」

 次に溢れたその言葉に椿は眉を上げ、それからその日初めてにたりと笑顔を見せた。

「そりゃそうよ」

 と首を傾げた椿の動きに合わせて、素晴らしいロングヘアが波打って揺れ、笑った口元からは美しく並び揃った白い歯が覗く。椿は灯篭の明かりにぼうっと浮き上がる秋の終わりの花々を背負っている。

「あたし、悪魔に魂を売ったんだもの」


 目元がきつく見えるほどに厚く化粧を施したその下の素顔までもぎらぎらと微笑むように見え、娘は息を飲むと同時に椿の言葉の初めから終わりまでを信じた。信じざるを得なかった。このひとの美しさは、悪魔から手に入れたもの。椿は自分に見入る娘に手を差し伸べ、娘の肩に手を滑らせてもう一歩近づくと、彼女の頭を自分の首元に押し当てる。彼女はされるがまま、椿の髪の匂いの中にどろりと甘い果実酒を嗅ぎ分けていた。椿の喉の奥が可笑しそうになるのが、彼女には聞こえる。低くかすれた椿の声が、娘の耳に届く。

「あんたも、売ればいい」


***


 仕事を始めてから、彼女はますます変わった。その儚げな容姿に「かすみ」という名を与えられ、元の名と共に見栄やしがらみの一切を捨てたかのように、彼女は伸び伸びと夜の女として花咲いた。仕事をする時、彼女はそれまでどんな舞台でも着たことのなかったような衣装を与えられた。その衣装にも引き立てられ、彼女の華奢で汚れを知らぬように見える清廉な容貌は、ぎらぎらと輝くキャバレーの様相には不釣り合いで、それゆえよりいっそう男たちの気を引くのだ。舞台の上の彼女に何の興味も示さなかったであろう男たちも、いざ自分の手で触れられる距離にいるとなれば彼女に釘付けになった。彼らの視線を受けるほど、役者を目指す内に砕かれていった彼女の中の自信というものは刻一刻と取り戻されていくのだった。いつしか彼女は自分が可憐な娘の形をしていることを思い出した。


 彼らは可憐な悲劇の娘の素性について知りたがり、彼女もまた彼らの好奇心に応え、彼らが喜ぶように話してやった。彼女は彼らの同情心を買うのにぴったりの声音と表情、言葉遣いでもって、田舎からたったひとりで帝都にやってきたこと、女優業はうまくいかなかったこと、そして、まだ夢を見ているの、と、思ってもいないはずのことまで語るのだ。少々の嘘を盛り込みながら実在しない一少女の半生を話すことで、男たちはますます彼女に対して前のめりになった。彼らは、美しい女の悲劇に飢えていた。かわいそうな女の手を握り、その悲惨を愛でることを最大の趣味としている男さえいた。そのうち彼女は、自分が思っても見なかったほどこの仕事に向いていることに気がついた。自分から出でた「夢見る少女」という、すでに架空となった他人になり切ることで、彼女は徐々に、どれが本当の自分であるのかという境界が曖昧になるほどその非実在と溶け合った。彼女はついにここで、女優として開花したのだ。役者というのは他人になることだと彼女は教わったが、その意味において、彼女はその時、紛れもなく役者であった。


 男を手玉にとるということを知らなかったはずの彼女が日に日に開花していくのに、周りの女たちさえ目を見張った。彼女自身、そこではじめて、自分が生まれてから最も輝いているということを意識したのだった。

 ところで、大抵の男にとって彼女との逢瀬とはすなわち、夜の間だけの架空の恋愛を意味していたが、その空想を現実にまで持ち込もうとする者が現れるのは時間の問題だった。いつだって、そういう手合いは存在する。


 上司に連れられて嫌々かすみのいるキャバレーにやって来た役所勤めの男がそうだった。彼は、一目見た瞬間にかすみの容貌に魅せられた。そのとき彼女は仕事に随分と慣れて、清廉な美しさに夜の女の妖しさを忍ばせ、より美しく磨かれていたころだった。男は「どうしてこんなところにいるのだ」、「君はここには不釣り合いだ」、「自分がなんとかしてあげられたら」と、別の男たちの口から数えきれぬほど繰り返された見舞いの言葉を容赦なく彼女に贈りつけ、なんて悲劇だと彼女の悲惨に酔いしれた。そうして自分の悲劇を切り売りしている間、かすみは儚げに微笑み、彼が発する優しい言葉にはらりと涙を零してやるのだった。はじめのうちはそれでよかった。けれど、それも続いて度を越さなければの話。初めは誰かの付き添いだったその男も、次第にひとりで彼女のもとに通うようになり、その頻度も増していった。彼女の悲劇は決して安い値段ではなく、そのために彼女はある時男に言ってやった。


「私のところにばっかり来ていたら、ほんとうの生活を失ってしまいますよ」

 そう男のことを案じてやるときの彼女には、確かに本物の良心というものが胸のうちから込み上げていて、そのとき彼女は男を惑わす一流役者ではなく、頼りないひとりの娘としての一面を披露していた。けれど、男は彼女の本心からの顔に熱っぽい視線を向け、

「いいや、違う、君だけが俺の本当なんだ」


 と、尋常さを失った狂える瞳で答えるのだった。かすみは、これはまずいということに気づいていた。けれど彼女は、自分にまとわりつく厄介な男を振り払うということに関して恐ろしく拙かった。そのとき彼女の元にすり寄っていた男は役所勤めのその男だけではなかったが、彼女は自分に哀れみを浴びせるいくらかの執拗な男に対して、いずれにも曖昧な微笑みを向けることでやり過ごそうとしていた。事件が起こったのはその頃だった。



 キャバレーのソファーの中で酒を手に微笑みを振りまいていたかすみは、入り口のほうから大きな怒号と女の悲鳴が混ざり合って聞こえるのに震え上がった。誰かが恐ろしい客人を連れて来てしまった。彼女が隣の男の腕に寄り添いそっと入り口のほうを覗き込むと、正気を失ったと覚える男が一人、髪を振り乱して暴れているのだ。男が上げる怒鳴り声は常軌を逸しており、しばらくの間は何を喚いているかもわからなかったが、次第に彼女は男の叫びの中に彼女の本名を聞き分けた。彼女が別のことに気づいたのはそれと同時だった。


 不安そうに男のほうを覗き込む女たちの中にかすみの顔を見つけた男は、今度こそはっきりと聞き分けられる声で彼女の名を呼んだ。彼女は、その男が自分の兄だということを否定する手立てを持たなかった。怯える彼女の目を捉え、兄の威勢はそこで一度勢いを失ったが、怒りだけに震えていた兄の声はそこで悲しみの色を纏い、


「どうして、どうしてだ!」

 と彼女に返答を求めるのだ。

「お前は、どうして……!」

 兄が途切れた言葉の先に言おうとしたことの全てを、彼女はわかってしまう。ありとあらゆる「どうして」に続く枝分かれした言葉たちを、彼ら兄妹は視線の交わし合いだけで互いに分かち合っていたのだ。

「仕事が、忙しかったの」

 ふらりと立ち上がった彼女は、彼女の素性をまざまざと晒すほどに震えた声でそう零した。周りの人間たちは驚きの表情でかすみを見遣る。やってきた男どもに押さえつけられながら、兄は

「仕事? 『こんな』仕事がか?」

 と叫んで涙をこぼす。

「『こんな』もののために、お前は帰ってこなかったってのか? なあ!」


 かすみは胸がぎゅっと苦しくなるのに耐えながら、兄の悲痛な顔から目を逸らすことができないでいた。そして彼女は、兄が目一杯の軽蔑を込めて吐き出す「こんな」という侮辱に対しても、何ら反論できなかった。一流の女優の仮面は、彼女の顔の上からずるりと剥がれ落ち、そこに立っているのはもはや、頼りない一匹の娘でしかない。


「こんな……!」

 うなだれた兄は、そんな侮蔑だけを残し、用心棒に連れられてキャバレーから姿を消した。取り残されたのは、生々しい涙の跡を残して立ち尽くすみすぼらしい娘と、それを見上げる方々からの冷たい視線だった。



 その日はもう仕事にならなかった。あれだけ手なずけていたと思っていた女優としての己は彼女の頰の上から立ち去り、彼女は上等の仮面を剥ぎ取られ、人生の敗者としてソファの上に縮こまっているだけだった。金が入ってくるようになり、喜んだ彼女は実家に仕送りをするようになっていたのだが、その仕送り額が多すぎたのがいけなかった。妹の稼ぎの良さを訝しんだ兄は、心配になって帝都までやって来たのだ。そして、彼女が住んでいるはずのアパートの部屋に入室者募集がかけられ、彼女が当該の劇団から姿を消していることを知り、そして彼女が掃き溜めに出入りしているという噂を兄が聞きつけるまでには、さほど時間はかからなかった。すべては、彼女の落ち度だった。


 落胆し仕事もまともにできぬかすみを見かね、椿は直接彼女の元にやって来て、他の客に呼ばれていると嘘をついた。そうして彼女を控え室連れ込むと、彼女に帰り支度をさせたのだ。

「椿さん、私」

 客の目がなくなったところで安心感を得たかすみは椿を呼ぶが、椿は面倒臭そうに手を振り、彼女の言葉を制した。


 縋り付くように鞄を抱きしめ、夜の通りに出たかすみを冷たく一瞥し、椿は自分の店を荒らされた不快感をそこで今一度露わにした。

「さっきの、あんたの兄貴? イカれてんね」

 目の前で締められた扉の向こうに椿が鳴らすハイヒールの音が遠くへ消えていくのを聞きながら、彼女は自分を哀れと思う涙をこらえ、寝床へと帰っていった。



 彼女の演技力はとうとう回復しなかった。あの清廉さと微かな妖しさをまとった美しくアンバランスな夜の女は姿を消し、彼女の背後に夢幻の優美を見ていた男たちは、波が引くようにあっけなく彼女のもとを立ち去っていった。彼女はそれに自信を喪失しながらも、一種の安堵を覚えていた。演技でもってひとを魅せるということに彼女はもう疲弊していたのだ。打ちひしがれた彼女には、もう野望じみたものがその源から枯れ果てていた。お金も、名声も、人徳も、そういったものを追う心というのを、兄との一件で彼女は永久に失ったのだ。だから、このままでいいと、流れ着くままに自分はここで諦め生きていけばいいのだと、彼女は理解した。けれど、彼女のいる世界はそう甘くはなかった。


 落ちぶれていくかすみを見ていた椿は、とうとう潮時かと、かつてかすみをこのキャバレーに導いた女を呼びつけ、そっと耳打ちした。



 何日か経った後だった。店を出るかすみを捕まえた、かの「先輩」は、彼女をひとりの男と引き合わせた。かすみも話したことのある、知った客のうちのひとりだった。かすみが戸惑っていると、先輩はかすみの肩を両手で柔らかく包み、微笑んで、

「付き合って差し上げて」

 と囁いた。はっとして振り返るかすみの耳元に先輩の息がかかる。それからもう一度開いた先輩の唇が

「朝まで」

 と小さく言い残して自分から離れるのを、かすみはありありと感じていた。おずおずとぎこちない笑みを浮かべて自分のことを見ている男にかすみはとうとうぞっとして、先輩のほうを振り返るが、そこには彼女が定型の笑顔を浮かべて立っているだけだった。かすみが何か言葉発そうと開きかけた口を閉ざしたのは、先輩の肩越しに椿の姿が見えたからだ。黙したまま、ただじっと自分のことを見つめる山吹色のガラス玉に背中が凍り、彼女は自分に抵抗する権利さえないことを知ったのだ。


 かすみは、男の方を振り返った。こびりついた愛想笑いが彼女の口の両端をぎこちなく引き上げ、泣きそうな彼女の瞳の歪さは持ち上がった両頰に埋もれ、ねじれて、消えた。



 彼女の居場所はキャバレーと娼館とで半々になった。彼女はとうとう自暴自棄だった。尚更わりのいい仕事をこなすようになって彼女の手元に積み上がっていく金額だけが、彼女に時間の経過を感じさせていた。


 しかし、彼女の心の救いとなっているものがひとつだけあった。それは、あの役所勤めの男の存在だった。兄との一件以来どっと落ちぶれた彼女のことを、男はより一層哀れんで愛情を注いだ。恋に飲まれた男にはもう、彼女の美しさと醜さを見分けるだけの最低限の分別というものさえ失われていたのだ。けれど、その調子外れの恋慕も、そのときになっては彼女にとってかけがえのない拠り所となっていた。


 彼女が他の客に身売りをし始めたと知ってから、まして彼女のもとに足繁く通うようになった一途な男は、頑なにキャバレーでしか彼女と会わなかった。男は、身を落とした悲惨な女の運命の中に、それでも何か清潔な処女性のようなものを見出し、ある側面では彼女を哀れな娘として愛しながら、別のある側面では彼女を聖女として崇拝しているのだった。


 しかし、金というのは使えばなくなるものだ。控え室で縮こまっていたかすみは、店の外の女の怒鳴り声を聞きつけた。すぐにわかった。椿の声だ。それから控え室の窓を細く開けると、椿の声はますますはっきりとして、とうとう何をいっているのか彼女にもわかるようになった。


「ねえ、そんななっさけない顔、あたしに見せないで」

「お願い、お願いです」


 椿にそう懇願する男の声音に、彼女は聞き覚えがあった。あの役所勤めの男の声だった。彼女が窓をもう少し開けて覗き込むと、いらいらとした雰囲気を露わに店の裏に立つ椿の背中と、彼女に向かって頭を下げ、地面に膝をついている男の姿が見えるのだった。


「お願いです、あの子を、ここから出してやってください」

「あのねえ」

 椿はそこで大きくため息をついた。

「何の勘違いをしてるか知らないけどさ、あれは望んでこの仕事をしてんのよ」

「そんな」

 そんなわけない、と口をわななかせる男は地面にはいつくばったまま、椿の顔を見上げた。

「あの子は苦しんでいます、俺にはわかります。ずっと、ずっとこの目で見て来たんです」

「見て来た?」

 椿の声は喉の上側をこすり、上ずって大きくなる。


「あんたがあたしたちの何を見て来たっていうのよ。あたしたちがあんたらに本当の顔を見せているとでも思ってんの? あんたさあ、お遊びのおままごとにまで本気になっちゃあ、世話ないわ」


 男はそこでぞっとするほど息を吸い、怒りを押し隠すのをやめ、きっと椿をにらんだ。

「いいや、彼女だけは、ほんとうだ」

 そこで男の様子が一変し、椿に殴りかかりそうな雰囲気さえ帯びたので、かすみは慌てて裏口から出、彼らの前に姿を現した。

 裏口から鉄階段の上に躍り出たかすみの姿を見るなり、はっとした顔で立ち上がった男は、ぐっと目を潤ませて彼女に手を差し伸べた。

「俺がここから連れ去って差し上げます。苦しんでいる、あなたは、苦しんでいる……!」


 男の顔を真正面から見た時、彼女の胸に湧き上がったのは、彼女の意に反し、哀れみやそこからくる愛情ではなくて、軽蔑だった。薄汚れた身なりに目を充血させてかびくさい路地裏に立ち、自分に向かって燃える瞳を向ける恐ろしい男に、彼女の身体は反射的に動いた。彼女は思わず男から一歩引いたのだ。すると男は、かすみが自分を嫌悪しているのに気がついた。


 そんなかすみの前に腕を伸ばし、二人の間を遮った椿は、

「金もないのにうちのに手を触れないで」

 と言い放つと、男の背が震えて軋む。それから男は祈るような眼差しをかすみに向けたが、かすみはなにごとも発することができぬまま、鉄階段の上で立ちすくんでいるのだった。

「あんたもう、用無しなのよ」


 椿の刺々しい声音が真夜中の路地に突き立った。男はそれでも、椿の肩越しに身を強張らせているかすみのことを見ていた。かすみは男の顔を見、揺らぐことのない椿の背中を見、それからまた男の情けない表情を見て、それから、自分の足元に目線を落とした。


「早く引導を渡してやりな」

 椿の声に、彼女はもう逆らえなかった。

「……もう、来ないでください」


 彼女はもう、男の顔を見なかった。椿は気が済んだというようにかすみのいる階段の上まで上がって来て、彼女の肩をかばうように抱き、それから男をにらんでいた。男はとうとう視線の寄る辺もなくなって、何をしようもなくそこにしばらく立ち尽くしていたが、椿に寄り添って俯いたまま震えながら目を背けるかすみの顔を見て、ついに身を翻すと、とうとうその路地から姿を消した。



 その日以来、彼女はキャバレーにいる必要もなくなった。華やかな照明の下で豪華なドレスに身を包みあれだけ輝いていた彼女の姿は、そのときにはただの幻想と化した。それでも金は入ってくるから、彼女は生きていくことはできた。けれど、生きていくことしかできなかった。彼女の思考は日に日に鈍化し、その日一日を生きること以外に考えの及ばない暮らしがじりじりと続いていくのだった。それでいいのだと彼女は自分自身に言い聞かせ、狭く汚い自分の寝床で懸命に眠ろうとするのだった。


 そんな彼女にとどめが刺されたのは、その年がもう終わろうとしている、師走の暮れごろのことだった。掃き溜めの表通りの一本裏を、煽った酒に酔いながらよろよろと歩いていた時、タバコを持っていた方の手を、誰かが掴んだ。すぐそばから聞こえた声は、彼女の本名を呼んだ。


「ほんとうに、ここに居たんだ」

 顔を上げた彼女がとらえたのは、彼女の目の奥を心配そうにのぞきこむ、幼馴染のあの男だった。

「君の兄さんに聞いたんだ、君がここにいるって」

 行き当たりばったりで、最初から会えるなんて思ってなかったけど……と語尾を濁す男の顔を、かすみはしばらく呆然と見つめていた。

「兄さん、まだ帝都にいるよ」

 男が続けたその言葉に、かすみは眉をぴくりと動かした。

「君のことをなんとか連れ戻そうとして、役所や弁護士事務所なんかを渡り歩いてる……」

 かわいそうだ、と付け加え、彼女の腕を握ったまま離さない男は苦々しい表情を浮かべ、それから懇願するように彼女の目を見た。

「なあ、そんな仕事なんかやめて、帰ってやってくれよ。皆んな君のことを心配してる。俺だって……」

「あんたは」

 その日とうとう彼女が声を発したので、男は驚いて彼女の腕を離した。するとそこには、男に挑むような目を向ける落ちぶれた娼婦のかすみがいるのだった。

「あんたは、私にただ懐いてすり寄って来ただけで」

 彼女は掃き溜めで暮らす時間が長くなるたび、相手を罵るだけの胆力や語彙というものを、知らず知らずのうちに鍛えられていた。

「ろくなものなんて、何にもくれなかったじゃない!」

 彼女の語調がそれまで男の知らないように跳ね上がり、わななき、くらんで落ちるのに、男は面食らう。

「あんたは、あんたは、その目でずっと」

 彼女は当惑する男の目を指差し、酒に酔ってぐらつく視界の中で、胸の震えるに任せて声を張り上げた。

「私を見てただけ」


 男ははっとして、一瞬だけ泣きそうな顔を浮かべた。彼女は、男が遥か昔から自分に想いを寄せていることを知っていた。彼女はそうして一途に思われることを自分の誇りとしたまま、何も知らないふりをして、ずっと彼の心を自分のもとに置かせるままにしていたし、彼もそれを許していた。だから彼らはずっと心地よいままそこにいられたのだ。それなのに、彼女は言葉にしないことで保ってきた曖昧で幸福な関係というものを、鬱陶しさに負けて全て捨て去ることに決めたのだ。


「同情しないで。あんたにそんなことする資格はない」

 ぎっと歯をむき出した彼女の顔には、やつれた獣のような風情があったので、男は思わず身を引き、彼女がそのままがくりと背中ごとうなだれるのを見ていた。そのとき、地に向いた彼からは見えない彼女の口から、か細い声が溢れる。

「私の夢は終わったの」


 男は立ち尽くして、どうしようもなかった。彼女の言っていることがどれだけ嘘で、どれだけ酒の勢いに酔った妄言で、どれだけ胸の奥にながらくつかえたままでいて決壊した本音であるのか、男には判別がつかなかった。けれど、自分が今どれだけ彼女に侮辱されているか、それだけははっきりとその心に覚えていた。男はまだ全てを受け止めきれず、狼狽えて冬の路上にその影を伸ばしていたが、彼女が先に歩き出す。よろよろと酒に酔って吐き気を抱え、男に見られないように顔を下げたまま涙を流しながら、かすみはできるだけ冷たい声音を装って、


「あの人にも、もう来るなって伝えて」

 と、吐き捨てた。彼女の靴音がひとつ、ふたつ、とふらつきながら離れていくのを、男はひとりぼっちで聞いていた。


***


 そして、運命の日がやってくる。輝くナイフと、あの凄惨なラブシーンについては、このおまけの話を読んでいるあなたには、説明すべきこともないでしょう。


***


 心臓を刺されて息絶えたと思われた彼女は、その同じベッドで娼婦たちに囲まれて目覚めた。しかし、彼女の見つけた世界は以前に彼女が見ていたものとは変わっていた。


 混濁し、自他の区別もつかないほどの、靄のかかった言語化できない不可解な世界。彼女は息をしていながら、自分が息をしていることさえ定かではなかった。彼女と他人との間に、もはや明確な区切りというものは存在しない。彼女ははっきりした自我というものを失った代わりに、他人の中に入り込む力を手に入れた。それは、彼女が長らく手に入れようとしていたものに違いなかった。


 「我」を求めて髪を振り乱し暴れまわる彼女を押さえつけ、彼女に呼応して脈を打つ心臓を飲みこませた椿は、彼女の怪物のような形相をせせら笑った。笑ってやるしかなかった。彼女は他人を傷つけるということにおいて、鈍感で持って自分の身を守るという術をとうに知っていたのだ。彼女くらい強いものだけが生き残る、掃き溜め。


 鎖に繋がれ暴れ疲れてぐったりと胸で息をする、かつて哀れな娘であったその怪物を見据え、椿は、もはや誰にも届くことのない言葉をぽつりと吐いた。

「立派な『役者』になれたじゃない」


***


 僕が語り得る彼女の「あらまし」はこれで終わりだ。あなたはこの話をいずれ忘れていくのだろうし、それで一向問題ないのだ。だって、彼女がどのように生きていたか……そんなことを知ったって、これからのお話を読むための足しにもなりゃしないんだから。でも、もしこれが二つ目の大きなまとまりの終わりにそっと添えられていることに何らかの意味があるんじゃないかと、君が問いを立てようというのなら、それもきっと間違ったことじゃないのだと思うよ。


***


 男が洋間に入っていくと、例の透明な人物は彼に一瞥をくれた後、何も言わずに目をそらし、暖炉の中の火をぼうっと見つめている。彼のことなどいないも同然といった様子だ。ただ、男の方は相手に話があった。そして、相手は自分の話になど取り合わないだろうということを、男は確かに知っていた。しかし、男は、目の前の人物が少女の名を呼び、自分の胸倉を掴んだときの、あの時の切実な面持ちを忘れられないでいるのだった。男が手の中に少女の鍵を握りこみ、その感触を己の手に覚えさせるたび、書架の谷間で微笑んでいた彼女の薔薇色の頬や、彼女の死骸を抱きしめた透明な人物に落ちる月の光の明るさが、彼の脳裏に鮮やかに蘇るのだった。


「あんたは」

 男の喉がぎこちなく開く。

「死んだやつを覚えているか」

 男の声に、相手は首を動かしもしない。固まったままの背中で

「いいや」

 と答える。その返答に男が唇を噛んでいると、相手は

「ここでは、死者は生者の記憶から消えることになっている」

 と淡々と声を吐いた。

「誰がいなくなったか、僕だって覚えていない。だけど、論理的にはわかってるよ。誰かがいたんじゃなきゃ、辻褄が合わないんだってことにはさ」

 男は壁に寄りかかりながら、相手の少年のような顔立ちが、暖炉の炎に照らされてゆらゆらと揺れ上がり、その肩に影を作るのを見つめている。

「だけど、思い出すことさえ、忘れてしまう。君が言ったりしなきゃ、今も」


 そう言いながら彼は、きっといつの日か、何かを取りこぼしたことのある我が手を見つめる。失われた不定形の、何か。この手の指の隙間から奪い去られた何かを彼はずっと失くしたままで生きて行く。彼自身が奪われることがない間は、ずっと。


「なあ、あんたは」

 男は注意深く口を開いた。相手は顔を上げないまま、床の上に書かれた円形の模様を見つめている。

「もし俺が死んでも、悲しむのか」


 男がその問いを終えた時、少年のような顔はようやっと男のほうを向いた。無表情の中の飴玉のような目が、男の不安げな面持ちに向けられている。少年の唇はあざ笑うように解けて、それからやりなれた愛想笑いをその顔一面に組み上げる。


「さあね」

 彼の笑顔は、あいにく遠いまま。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る