21話 兎角虎狼な王者の生贄

 遠くに雷鳴を聞く夜空の下、娼館の戸口には女がひとり立っていた。黒いコートの女は、縁の分厚い眼鏡の奥からおずおずと目をあげ、その割にまっすぐと手を上げて通書を差し出した。

「『狩り』の通達をいたしに参りました」

 いぶかしげに眉を寄せる朱色の目の女は通書を受け取って手早く蝋の封を開け、中身の紙面に目を走らせる。目に踊る文字の波に、朱色のその目元ははますます困惑に歪められた。


「それと……検校様からご伝言です」

 その言葉に弾かれたように目をあげると、そこには、かの検校のごとく迷いのない目がずけずけと居座っていた。

「『致し方ないとはいえ、ごめんなさい』と」


***


「この世の全ての不幸は、人間が部屋でじっとしていられないから起こるんだよ」

 僕の言葉に、彼女はティーカップを手にしてちょっと首を傾げた。書架の合間のテーブルについた彼女の空色の瞳に、ランタンのあかい焔が映り込む。彼女の瞳って地球みたいだな。見つめる先の彼女は、少女らしい顔で相変わらず唇をつんと尖らせている。

「それは、あなたの言葉ですか?」

 僕はびっくりして背を震わせ、なんだかいたたまれなくなって肩をすくめる。


「いいや……でも、そうだね。これはもう僕の言葉かもしれない。ひとが発した言葉というのは、厳密に言えば、発した瞬間にそのひとの言葉ではなくなるからね。そうだ、僕の言葉は、もとの誰かの意志をどこか受け継ぎながらも、もう元の言葉とは違っている」


「……そうですね」

 聡明な彼女は、僕の長ったらしいナルシズムめいた台詞を一遍で理解したようだった。

「ともかく、だ。これから、王様の暇つぶしがはじまるんだよ。お二方」

 僕のその言葉に、机の向こう側で黙々仕事をしていた彼も顔をあげる。

「これから楽しいことが起きるっていう話?」

 彼の問いかけに僕は苦笑した。

「不幸は不幸を生むだけさ」

 僕は書架の上で足を組み直す。

「掃き溜めは、自らに幸福をもたらす装置じゃない」


 あなたには、彼らから全部説明してくれるに違いない。さあ、求められる以上の饒舌は悪徳! 愚か者の言葉の終わりはただの狂気に過ぎないのだ! だから僕は、ここではもう黙して背景になろうと思うんだな。では、あなたに求められるところを、どうか果たしてくれたまえ。あってもなくても同じような背景なんかじゃなくて、その手前で動き回る役者たちを見守ること、それこそが、君に求められるところの全てではないだろうか。


***


 それはとても突然だったから、私はびっくりしてお茶碗を放り出してしまった。市井とみなみちゃんと私がちゃぶ台を囲んでいるところに、あまりにも乱暴にドアを叩く音が打ち付けて、私はいっそむかむかしながら立ち上がって玄関のドアをらんぼうに開けた、けれど、私が予想していたのを裏切って、何かがどっと私の方に倒れかかって来た。


 グレーの髪が私の首元にべたりと貼り付いて、剥がれる。私の胸にどっと倒れ込んだ吉見の妹は、真っ赤な傷口の走った首元を私に見せつけるみたいに頭を上げ、今にも意識の消えそうなその目を私の鼻のあたりに向けた。私が動けないでいるままなのに、彼女の口元はぽかりと開いて、そこからかすれた声が漏れてくる。あ、の形に開いた彼女の口に私の目は釘付けになって、私の息は喉の奥で止まっていた。

「兄貴を、たすけて」


***


 揺り動かされて目を覚ました時、ちょうど、どこか遠くで雷の低い唸り声がした。目を開ける。俺をまっすぐ睨みつける朱色の瞳が一対、俺の視界の中央に頑なに居座っている。それから、いつものように涼しい声が鳴った。

「緊急事態」



 俺はすぐさま洋間に降りるが、そこには身支度もそこそこに役者連中が皆集合していた。

「さて、どうするか」

 枇杷は口元に手を当て、上着を羽織らないまま、ズボンを吊り上げるサスペンダーを露わにして自分の席についている。慌ただしく洋間に入ってきた俺をふいと一瞥するがそれだけだ。奴の顔を見るに、昨日の俺との一件など、なかったことにされているらしい。

「あのおてんばは、今うちにいないの?」

 枇杷のその言葉に、ガウンを着て肘掛けに寄りかかる椿はかぶりを振った。

「そうか……あれがいれば随分楽になるんだけど……」


 おてんばというのは亜のことだろう。ふた月前にやってきたあの娘を、俺たちはうまく内側にとりこんでとりものに遣わすようになった。高峯と子供の絆が見えるあの娘は大活躍し、結果は二連勝。高峯は上機嫌で、かつて自分が殺しかけたのを忘れちまったかのようにあの娘をねこっ可愛がりするようになった。普段は茜の下で働かせ、とりもののときは使えるよう手の見えるところに置いていたが、「緊急事態」の今日まではあれを囲っておけなかったらしい。あの娘を探してるってことは、また人探しが今日の仕事ってわけか。俺が徐々に状況を飲み込んでいく中で、ネクタイをつける暇もなかったと見える真木は、いつもよりずいぶんとラフな格好のまま自分の席から枇杷に向かって口を開く。


「呼びに行くか?」

 枇杷は自分の目の前から視線を動かさないまま、

「あの子がおとなしく部屋にいるかね」

 と口に出すので、真木はため息をついて

「考えにくい」

 と短く返す。

「もう街に出ているかもしない」

 枇杷の言葉に椿は苛立ったため息をつく。

「僕らで直接街の中を探した方が早そうだ」

 それから枇杷が深く息を吐く音がした。

「手分けしたほうがいいな。……が、北崎たちも黙っちゃいない」

 真木の静かな声と対照的に、枇杷の声音はあからさまに苛立っている。

「あいつも今回ばかりは出し惜しみしまいね。こないだは出てこなかったやつらも必ず出してくる」

 枇杷は神経質そうに自分の下唇をいじる。

「『あれ』に出てこられると厄介だ……僕とどうも相性が悪い……」

 枇杷がそう口に出すと、真木が深刻そうに口を引き結ぶ。そこで椿がふと口を開いた。

「あたしが枇杷と一緒に行く。あたしが、『あのひと』を『絞め殺す』」


 目の前を飛び交う二、三歩先の会話に、俺は素直に自分の負けを認めることにした。つまり、さっぱりわからないと表明することにしたわけだ。尚も会話を続ける三人の間に割って入るように、俺は強く声を上げる。

「俺は何をすりゃあいい?」

 俺の声に枇杷と椿が冷たくこちらを見遣るが、真木は温度のない視線を俺の顔の上に据えて、

「俺と来い」


 と短く答える。俺はそのまま頷いた。何も考えずに従やいいわけだ。それが俺の役目。いつも通りってことだな。起きたばかりで身体を伸ばす俺の視線の先で、枇杷が目を伏し、組んだ自分の両手に口元を寄せている。その手に齧り付かんばかりにむき出した歯をがちがちと言わせる枇杷は、さりながらその顔に仕事のようなあの愛想笑いを取り戻そうとしてそうし損ね、挙げ句の果てに「あの」野犬のような気味の悪い笑みを浮かべるに至っていた。奴のわななく口から半笑いのように震えた声が漏れる。


「全く、腹が立つよ」


 そのとき廊下から女の大声と騒がしい足音がして、洋間にいた全員が弾かれたように戸口のほうに顔を振り向けた。なおもしばらくどたばたと音を立て、やっと戸口に現れたのは、茜に支えられてよろめきながら寝床から這い出してきた高峯である。その顔を見るのは随分久しいように思うが、青白く、見るからにやつれた相貌の中には薄く頬骨が浮き、しかしその中で両のまなこは不釣り合いにぎらぎらと光っている。茜の腕の支えから逃れようとでもするかのように身をよじる高峯に、茜は必死ですがりつき、高峯を支え続けている。高峯は頭を揺らし、立っているだけでも息を切らしながらその病身の骨の髄から声を張り上げる。


「あの子を必ず……かならず、生きて連れ戻して頂戴!」


***


 胸元を血で真っ赤に染めた吉見の妹からなんとか話を聞き出した私たちは、ほんの少し前から、この掃き溜めの中で「狩り」が始まったのだ、ということを知った。吉見のことをみなみちゃんに任せた私たちはすぐさま部屋を出て、吉見兄妹を結ぶ絆を辿りながら兄の元へと人気のない街の中を走って行く。煌めくアセビの花が絡んだ黄緑の蔦は頼りなくて、でも私たちを遠くまで確かに導いていってくれる。屋台が片付けられ、真人間もいなくなった午前十時の表通りは、私には、人でごった返す夜の間より随分寒々しく思えるのだった。


「『狩り』っていうのもここの恒例行事なの?」

 私の横を走る市井に向かって少し声を張ると、市井はなんとも言えない顔をして、

「いや……だが、こういうきまぐれが『あの女』の十八番でな」

 と、言葉の終わりを濁す。私は市井と同じようになんだか煮え切らない思いで、口元をぎゅっと歪めるしかない。


 私たちが吉見から聞いた話はこうだ。吉見たちは中央広場で裁判所のひとたちが「勅令」を出すのを聞いていた。その勅令は、ある「ひとでなし」の首を裁判所まで持ち込んだ者に賞金を出す、というものだった。吉見たちが見ている前で十夜は華に命令して、傍にあった麻袋を開かせた。そうすると、中からは女がひとり転がり出てきた。そのひとでなしの名前は、


「『かすみ』、だったっけ」

 吉見から聞いたその名前を思い出す私に、

「ああ、華屋の娼婦だ。裁判所の地下に拘留されていた」


 と市井ははっきりと答える。吉見たちの目の前で縄を解かれ、そのひとでなしは広場に放された。先ほど始まったらしい「狩り」という催し物で賞金がかかっているのは、その「かすみ」の首なのである。けれど吉見たちは、狩らなければいけないその賞金首に、その場で逆に襲われてしまった、ということらしい。彼らは広場から離れて街の中を逃げ回った。そして、兄は妹を逃した。兄はきっと今も、かすみに襲われている。というような話を、妹は喉の奥から絞り出した。


「あれは『怪物』だ」

 吐き捨てるようにそう言った市井の横顔を見て、私はますます不安に胸がざわついた。

「本物の怪物……あれは出会った者を片端から切り刻む」

 市井の言葉に私は息を飲んだ。絆をたどって、私たちは次の角を横道に入る。

「あれはひとでなしの中でも、かなり厄介でな」

「裁判所は、なんでそんなひとを放してしまったの……」

 私は息を切らしながらなんとか声を出すけれど、片手に自分の獲物の斧まで抱えたまま走っているのに市井は平気そうな顔だ。市井はすぐさま口を開いた。

「怪物だから牢にぶち込まれていた。元締めの華屋もあれには手を焼いてな。持て余した怪物をあの牢獄に預からせていたんだよ。華屋と裁判所はそういう契約だった」

 建物の影がかかって市井の表情が見えなくなる。

「あの女、その契約を破りやがったんだ。高峯はカンカンだろうな」

 見える絆はまた先の曲がり角に消えている。

「私たち、間に合うの……? もし吉見が死んじゃってたら……」

「あいつは死なん」

 きっぱりとそう言い切る市井に戸惑いながら、私は肺がつらくなってきたのを感じていた。足もだるくて重くなってきている。市井に声をかけて次の角を左に折れる。だいぶ狭い路地に入ってしまった。

「死なないのがあいつの、あいつらの異能だ。木っ端微塵になろうが、しばらく放っておけば奴らはもとの身体に戻る」

 そのとき私は、いつか吉見が「いざとなったら俺が盾になってやるから安心しろ」とにやっと笑ったのを思い出して胸がぐっと痛くなった。そういうことだったんだ。

「そんで、死なんからあの怪物に永遠に刻まれ続ける。動くものが動かなくなるまであれは切り続けるんだ。そういうタチの悪い化け物なんだよ。あれは」


 そこで市井は、なあ、と私の顔を見る。

「もうちっと早く走れねえか」

「……これで精一杯っ」

 私の声はその先に続いていかなくて途切れてしまう。走ってるだけで、もういっぱいいっぱいだ。

「そうかよ」

 返事をした市井は私の腕をぐっと掴んで自分の方に引き寄せる。わっと声をあげた私のお腹に乱暴に手を回して、市井は私を小包みたいに脇に抱えた。

「こっちで合ってんだよな?」

 声を張り上げる市井に、私はお腹を押されて夕飯をもどしそうになりながら、目の前に伸びたアセビの花の連なる絆を確かめて、

「うん!」

 と返事をした。


***


 慌ただしく出立の用意をした俺が華屋の表に出ると、そこにはいつもと随分雰囲気が違う椿が立っていた。品のないいつもの着物風のドレスを脱ぎ捨てた椿は、茜の普段着ているようなスーツに身を包んでいる。こいつが枇杷と一緒に行くんだっけ。

「そっか、お前も出るのか」

 と声をかける俺を一瞥して、

「あたしは茜とは違ってね」

 と冷たく言い放つ椿は、上げた髪を丹念にピンで止めている。戦えるんだな、こいつ。そんな風に考えながら俺がじろじろとその顔を見ていると、

「あんまり見ないで。化粧もろくにできなかったんだから」

 と、椿は顔を背けた。そうこうしているうちに、すぐに後ろから別の足音が聞こえてくる。枇杷と真木がいつものコートを羽織って出てきたところだった。枇杷はすぐさま椿の横に歩を進めると、俺と真木に向き直った。


「もし、『あいつ』に出くわしても、決して相手をしないこと。逃げて、できれば僕らのとこまで連れて来い。いいね?」

「わかった」

 と、すぐさま返事をした真木に続いて俺が

「ああ」

 とぎこちなく返すと、枇杷はすぐに椿を従えて走り去った。恐ろしく、早く。それを見ていた俺の背中を強く叩いた真木は、

「行くぞ」

 と短く声をかけ、すぐさま俺たちも華屋を後にした。



「あいつには家長のような自負があるらしくてな」

「かすみは必ず騒ぎを起こす」と言う真木に従い、見晴らしの良いところを求めて屋根の上に上がった俺は、師走の凍った風に吹かれながら瓦の上を歩いていた。革靴の裏が黒い屋根瓦と擦れ、時折甲高い音を立てる。真木は俺の方を振り返らず不意に話し出したから、俺はうんともすんとも言えずに話をただ聞くのみだ。

「奴はかすみのことも気にかけていた」

 ここに来るまでの道すがら、俺は既に、件の狩りの獲物である「かすみ」とかいう女が華屋のひとでなしだということを聞いていた。

「枇杷はかすみのことを妹か何かだと思っている。それを殺せというんだから、あんなに怒っても道理ってわけだ」

 そこまで話した真木が隣の屋根に飛び移るので、俺も後を追った。

「でも、高峯さんは生きて連れもどせ、つってなかったか?」

「あれを生け捕りにするのは無理だ」

 真木ははっきりとそう言い放ち、俺に背を向けたまま奴が吐いた白い息が、奴の肩越しに闇の中へとかき消えて行くのが見えた。真木が深く息を吸う音がする。

「母さんはいつも無理なことばかり言うんだ」

 と言葉を続けた真木はからりと音を立てながら、そのまま瓦の上を踏み進む。

「巷じゃお前も『狂犬』なんて言われていい気になっているようだが、お前なんていいとこ『狂人』だ」


 真木の声はそこで冗談を言うように少し上ずって、笑いそうな雰囲気さえあったが、その次の瞬間にはそういった微笑じみたものも鳴りを潜め、夜気の中に溶け込んでしまった。

「あれは本物の『狂犬』なんだからな」


 真木の言うことにはいろいろと文句をつけるべきところがあったが、口喧嘩なんかしたってしょうがない。だから俺は黙ったままでいることにした。それに、真木がまだ何か話し終えていないような感じがしたんだ。そして俺の目論見通り、真木はそのまま話を続けた。


「枇杷も、よくわかってる……あれは最初から自分で──どうせ殺すなら自分のその手で──妹の首を刈るつもりで華屋を出たんだろ。あいつは理想を抱かないやつだからな。物事の次第というのを頭に入れてから動く」


 聡明な人間だ、とそう付け加え、真木が瓦屋根の端で立ち尽くした。朝を迎えて真人間のいなくなった掃き溜めは、俺たちひとでなしだけで埋めるには広すぎる。俺たちの前に広がる寒色の冷たく硬質な景色には、人間の温度というものが有りえなかった。


「かすみは必ず騒ぎを起こす……」

 と、真木はもはや常套句のようなその台詞をまたも吐くが、しんと静まり返った街の中にひとでなし一匹の声など響くこともなく、この醜悪な玩具箱のどこかに吸い込まれるだけだ。俺たちだけじゃ、この街は広すぎる。黙って真木の言うことを聞いていたが、お前の作戦、どうもうまくいってないぜ、と俺は胸の中で独り言ちた。

「上から見てもわかんねえな」

 と、俺がとうとう降参するように声を上げると、真木は屋根の上にだるそうにしゃがみこんでから、勢いをつけてもう一度立ち上がる。

「……降りるか」


***


「まだ着かねえか」

 とじれったそうな市井の声に、私は必死で目の先に見える絆を追う。

「まだ絆が続いてるのよ」

「……くそったれ」


 市井の言葉はどこか悔しそうだ。普段は吉見にあんまりなあしらいをしているけど、市井も吉見のことを案外仲のいい友達だと思っているのかも。なんて、私はこんな状況なのにそんなことを想像している。するとそのとき、絆がまた私の視界の先で突き当たりの右に消えているのに気づく。


「次、右に曲がって!」

 私の合図に従って角を曲がった市井は、すぐさま足を止めた。

「ここは」

 と市井が思わず、という感じで声をこぼし、抱えていた私を下ろす。私が顔を上げると、私たちは中央広場に近い和風庭園の入り口に着いていた。路地裏を抜けているうちに結局たどりついたのがこんなところだったなんて。絆は立ち並ぶ松の木に両側を挟まれた石段の上へと続いている。黒い影を落とす木々がざわざわと揺れ、遠くで雷の音がする。風が湿っていて、今にも雨が降りそうな感じ。耐えられない気味の悪さに、私は市井の袖をそっと掴んだ。


「この奥だな」

 と、市井はすぐさま石段を登り出し、私も金魚の糞みたいに市井にくっついて、一歩一歩、恐る恐る登って行く。灯篭の明かりが消えた庭園には、木々の隙間から頼りない月光が差し込むだけ。気を抜けば足を踏み外しそうなほど暗い。木の葉の擦れる音が、まるで得体の知れない生き物の囁きみたいに私の背中にかかってくる。背中がぞわぞわ勝手に震え上がり、ますます市井にくっ付いておかないではいられない。一段一段登るたびに、白い光に照らされた庭園が私の視界へと降りて来る。そのとき、私のおぼつかない足元が、何かをぐにゃりと踏みつけた。私は気持ちの悪い感触にひっと息を飲み、すぐさま市井の袖を離して横に飛び退いた。足の裏から伝わってきたのは、なにか、やわらかくて、でもごりりと硬いような……。私は落ちている何かに近づいて、自分の踏んだそれにじっと目をこらすと、それが視界の中でだんだんと輪郭を現し始める。木々の黒い影と月の白い光が揺れながらその面に映って揺れる。じっとりとした風が吹いて、私の目にとうとう意味を持って浮かび上がったのは、人間の腕の形だった。


 私は、叫び出しそうになりながらその一方で息が詰まって、胸がぎゅうっと締め付けられるのを覚え、そうしつつも後ずさって尻餅をついた。助けを求めるように先を歩く市井のほうを見上げる。


「いちい、腕、うでが」

 と、まともに喋れない掠れた声の私はすっかり置いていかれて、市井はもう石段の一番上まで登ってしまっている。けれど、市井はそこで立ち尽くしていた。私は泣きそうになって、落ちている腕を避けながら、這うようにして市井のいるところまで石段を上がっていく。そんな私の視界の中に、庭園の全てが映り込んだ。


 おびただしい血と、そこらじゅうに散らばったの肉の塊。もう声も出ない私はその場にへたりこみ、信じられないほど酷いその光景に、息も止まるような心地になった。その酷すぎる景色の真ん中に、一つの影が立ち上がっている。肉の塊のひとつにかぶりつくようにして屈み込み、その手に持った二本の刀を振り下ろし続ける小さな後ろ姿。血の匂いに吐き戻しそうになりながら口元を覆う私を庇うように市井は手を挙げる。それから市井はその人影に向かって、


「おい」

 と怒鳴った。ぐちぐちと嫌な音を立てて、吉見の胴体らしいものを両手の刀で弄っていたその人影は、市井の声にぴくりと反応する。やがて屈んでいたその人影は頭をもたげ、ひたひたと裸足が石畳に擦れる音を立てながら、ゆっくりとこちらを振り向いた。


 白い月光の下でついに私たちの前にその正体をはっきりと示したのは、ぼろぼろの黒いドレスを身に纏った女の子だった。こちらに向き直った彼女は、陶器のように不気味に青白い顔の中の橙色の目で、私たちを気持ちの悪いくらい正確に、揺らぐことなくまっすぐ見つめている。作り物のように表情のないその顔は血に塗れ、薄い金のロングにも赤黒い血がべったりとこびりついて、色素の薄い彼女の頭に、目に刺さるような色をつけていた。彼女の持つ刀が吉見の胴体から引き抜かれて、石畳の上に金属の音を立てて擦れる。月以外に光のないこの街の中で、彼女はその背景から浮き上がって、異質のものみたいに私の視界の中に立ちあがっていた。市井の声が聞こえる。

「言った通りの怪物だろう」


***


 屋根を降り、俺たちは大通りをしらみつぶしに練り歩くことにした。この掃き溜めには整備された道路がその全土くまなく走っているから、メインを外さなければ必ず騒ぎに行き当たる、というのが真木の主張だ。まあ、信じてやろう。俺に代わりの策もないし、いつだってこいつの方が掃き溜めのことには詳しいんだ。通りの先の音を聞きながら、俺たちは掃き溜めの西部の通りを歩いていた。風と雷、そして俺たちの足音以外には、何の音もない。真木が苛立たしげに息を吐く音がする。が、そのとき、明かりも落ちて寂れたねずみ色の通りで、俺は確かに真木のものではない他の息の音を聞いて、歩みを止めた。真木も同じように立ち止まる。ワンブロック先、何かがいる。月光が舞台上のライトのようにちょうど差し込むその壁際では、細身の男が寄りかかっていた壁から身を離すところだった。すらりと背の高い、インテリじみた細い眼鏡をかけた、見慣れぬ男。その男は手に持っていた煙草の箱から一本を取り出して、そのままそれを口元に持っていく。と、その煙草の先がひとりでに紅く色づき、にわかに煙を上げ出した。そして、その男の一歩後ろから、青いコートに身を包んだ少年もまた、俺たちのことをじいっと睨みつけていた。それら二つの影は、まるで「最初からそこで待っていたかのように」俺たちの行く手に佇んでいたようだった。俺はその奇妙な合致の感覚に、不快な汗が背に滲む出すのを感じていた。真木が息を飲む音がする。少年がこちらに一歩踏み出した。


「お前らは人間か?」


 少年のその声は淡々とした口調で発せられながらも、その内側に耐え難い怒りを込めているような気迫があった。彼の声は、ひとでなしだけが息をするこの掃き溜めの中で、無意味であるはずのその問いを、意味たらしめるだけの力や切実さを確かに持っている。少年は懐から何かを取り出し、こちらに向かって突きつけた。目を凝らさずとも、次の瞬間には彼の手に握られたものが拳銃であることが俺にもわかった。こちらに銃口を向けたそいつの一対の青い目が、俺のことをはっきりと見つめている。真木が刀に手をかけながら後ずさって俺の肩に触れる。つまり、「逃げろ」と言っている。俺は驚きながら目の先のふたつの影を、そしてまた掠れて怒りに震える声を絞り出す少年の目に再び目をやった。


「それとも」

 有無を言わさぬ一己の切実さが、彼の喉から鳴っている。

「『ひとではないもの』か?」

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