20話 いざ、深層へ

 幻想的な書物の街の風景にしばらく見とれていた俺は、自分の足がしっかりと地を踏みしめているのを確かめるように、恐る恐る歩き出した。革靴が硬い音を立てて滑らかな木製の床を叩き、その足音が反響して俺の耳へとまた返ってくる。実際に硬い地面が俺を下から支え、天窓から吹き込んだ風が度々ランタンを揺らし、俺の首元にも等しく吹き付ける。整然として等間隔に並んだ本棚の数々を歩いて通り過ぎながら、その途切れごとに隣の通りを覗き込むが、どの通りも変わり映えなく、ただ、同様の本棚が延々と林立しているだけである。どこだ、ここは。どうにも夢にしては確かすぎるが、現実にしては夢見がちすぎる。いや、ここ数ヶ月で夢のような光景に出会いすぎた。きっとこれも、この街のからくりのひとつだ、違いない……。


 俺は辛抱強く前へ前へと足を踏み出し続けながら、口に出さないまま、ぶつぶつ、ぶつぶつ、とそういった暇つぶしの足しにもならないようなことを考えていた。風に吹かれたランタンが、俺の遥か頭上できいきいと無機質に、しかしどこか鳥の鳴き声のようにも鳴って響くだけ──そのとき、そう遠くないところから、ひとり分の足音がはっきりと俺の耳に届いた。この図書館の中を駆け回る乾いた足音。走っている人間の音だ。どこだ? この音はどこから聞こえてくる? 俺はすぐさま音の方角を探り、それと思しき方へ向かって歩きだす。


「なあ、おい、誰かいるのか?」

 足音がどこかへと遠のいて俺の頭の中であいまいになったとき、今度はどこからか別種の音が俺の耳に届いた。人の声だ。俺の心はにわかに踊り立って、俺の足は今度こそ思うままに速まって進み出した。

「なあ、いるんだろ、そこに」


 声は本棚の二枚裏くらいから聞こえてきたような気がして、俺は通りをひとつひとつ覗き込んで進むが、どうにも人の姿は得られない。微笑みのこぼれ落ちるような、幸福そうな幾人かの談話、ぼやけて聞き取ることのできない言葉たちが俺の聴覚をかすめ、けれどどう探し回ってもその姿を得ることはできなかった。


「どこなんだ。応えてくれよ!」 


 そのとき、女の弾むような笑い声がひときわ高く響き、隣の本棚の隙間から俺の耳にこぼれ入る。俺ははっとさせられ、急いで隣の通りへと足を向けた。心地よくてでたまらないといった、その幸福そうな少女の声に、頭が宙に浮び上がったような、とらえようのない抱擁の感覚に包まれる。ふらりと隣の通りを見渡した時、やはり誰もいないのを見つけて、俺は虚しくなった。その声の主を一目でいいから拝みたかった。そういった性質の声だったのだ。音だったのだ。そうだった、なにか、そういった美しくて愛おしい何かを探し出すために、俺はここへきたのではなかったか? いや、それもまた違う。きっと違う。思考がぼんやりと心地よく溶けていくに身を任せながら、俺は先ほど女の声がしたあたりまで歩を進めていた。


「何を知りたくてやって来た……?」


 そう口に出しながら、俺がふと本棚に目をやると、ひらひらと揺れる何かが目の端に入った。それに目を向けると、少し背伸びすれば届きそうな高さの棚に、本と本の間に挟まった小さな紙切れがはためいている。俺はそれをしばらくじっと見ていたが、ついに気がついた。それは、風を受けてはためいているのではないのだ。それは、まるで自律的に、その紙切れが筋肉を持った身体であるかのように、二冊の厚い皮表紙に挟まれて命からがらもがいているのである。その身を自ら裂きそうなほどにあがき続けるその紙切れに俺は気味の悪さを覚えて後ずさったが、その気味の悪さをはるかに上回るほどに、その紙切れは、紙切れ風情にしてひどく哀れだった。俺は別に同情屋なんかじゃない。むしろ、それとは真反対の人間なんだ。けれどなぜか今は、どうにもその哀れな紙片を救ってやりたくて堪らなかった。俺は恐る恐るもがき続ける紙片へ近づき、ぐっと背伸びをすると、その紙片を痛めないように、できるだけ真っ直ぐに片側の本を引き抜いてやった。すると、紙片はあっけなくはらりと俺の肩の方へと自由落下して……と思った時、ひらりと自律的に舞い上がった。俺がぱっと身を引いて目に捉えたのは、文字の書きつけられた羽根を背負った、蝶だった。


 蝶はふらりふらりと左右に飛び揺れると、哀れっぽく俺の方へとまた降りて来て、俺の肩を避難所にするかのように止まった。俺はその蝶を自分の手に移してまじまじと見つめた。紙でできた触覚が、今にも生き絶えんばかりにしなって揺れている。傷ついた羽の端に紙の繊維が毛のように突き出ている。震えるようにか弱く開閉を続ける羽の上に、ランタンの灯りと落ちて、影もまた羽ばたきとともに形を変える。影を刻んだ羽の上に刷り込まれた文字の中に句読点が見え、俺の視線は羽に踊る文面に吸い寄せられる。俺はその羽根に書かれた文字を読もうとし──と、俺の視界の端に、別のはためきがちらついた。顔を上げると、俺の手に止まっているのと同じような紙片の蝶が、頭上にゆらゆらと何頭も飛び回り、時折風に吹かれて本の街の中を流されているのだ。それらのどれもがゆるりゆるりと俺の方へと近づいて、それから俺の肩や、腕や、頭にふらりと止まる。


 一体どこから湧いて出たのかと見回すと、本を持ったままの右手の甲に、蝶が一頭足をかけて止まり、くるりとその体を翻すのだ。俺は眉根を寄せながら右腕を上げ、手に止まるそれを鼻先に近づけてみる、と、蝶を紙が擦れる乾いた音が、本の内側から漏れ出ている。目を細めて手の中の本を凝視すると、革の表紙に束ねられた髪の隙間から、何か細いものがび、と突き出る。俺の喉がひく、と息を吸う。俺が目を疑っている間に突き出した線のように細い何かがびくりと折れ、かさかさと音を立てながら、他の手足と羽を引き連れて、紙の隙間から宙に躍り出た。そうして驚く俺の眼前に飛翔を始めたのは、そこらを飛び回るのと同じ蝶だった。俺が身体を強張らせているうちに、同じようにして紙の蝶が本の隙間からするりするりと次々逃げ出していくのが見える。思わず口を開けていた俺は、かさりかさりと乾いた音の重なりが己のすぐ傍から聞こえているのに気づき、音の出所を探しながら恐る恐る右腕を上げる──と、腕の裏にはすでに数えきれぬほどの蝶がびっしりと止まって羽ばたいているのだった。俺は思わず反射的に本を放り出し、右腕を揺するが、蝶は頼りない紙切れ風情にも関わらず、びたりと俺の腕にしがみついて離れない。そうしているうちにも、転がった先ほどの本が床の上で開き、かさかさと音を立てながら、ページというページが全て俺の眼前で何百という蝶に組み上がっていくのである。俺はよろめくまま、本から一歩二歩と後ずさった。そのとき、俺の耳が、右腕でも、転がった本でもない別の場所から、紙の擦れる音を拾う。顔を振り向けると、先ほど俺が本を引き抜いた場所の周りに、気づかぬうちに無数の蝶が止まり、また、さらには薄暗い本棚の洞穴の奥から限りなく擦るような音を立て這い出てくるところであった。それらの蝶の全てが、物言わず、しかし確かにとっくりと俺のことを見つめているのだ。


 喉の奥から情けなく乾いた声が漏れたのを合図にして、俺は身体が急かすままに手足を動かし、気味の悪いその紙片の群れから逃げ出そうとしたが、もう遅かった。字を背負った美しい紙片の虫たちは、ぶわりと集まって一つの塊になり、俺にその巨大な身体をぶつける。顔に降りかかるがさがさとした紙の感触に、俺は必死で腕を振り、なんとか身を守ろうとする。塊がばらけ、散って、不快な音の雨を俺に降らせながら、俺の顔中身体中頭のてっぺんからつま先までを全て、びっしりと覆い尽くす。耳の穴、目の淵、袖の中、唇の隙間にまでも、昆虫の手足が刺さるようにしながら滑り込み、俺のことを侵略し、飲み込んでいく。俺は恐怖と共に激しい吐き気を覚えたが、どうすることもできなかった。喉の奥から絞り出された濁った喉の震えは嗚咽のようになり、俺は身体をひねり腕を振り回し、叫び声を上げ続ける。


 がさがさと不快な音の豪雨に俺の身体は押しつぶされ、折り曲げた身体を確かめるように腕を身体に巻きつけるようにして抱きしめた俺は、襲い来る嫌悪の土砂の中で、視界が黒く塗りつぶされていくのを覚えていた。


***


 アスファルトの地面を蹴って走る。後ろから兄の声が追ってくる。俺の心は弾けそうに踊って、勢いそのまま堤防の先に見えた青緑色の海へと身を投げた。ぐっと目をつぶって水の中の音を聞いていた時、もう一つの音が俺のすぐそばに飛び込んで来て、兄も俺の後を追って飛び込んだのだとすぐにわかった。ぬるい夏の海が、俺とシャツの間を満たしていく。俺は明日も明後日もこうして海に飛び込むんだろう。きっと、夏が終わっても、その次の夏が来れば、俺はそうするのだ。胸がぐうっと重くなるのに合わせて、水面に思い切り顔を上げた時、くぐもっていた音の全てが俺の耳に鮮明に流れ込んで、堤防の上で弟が笑っているのが見えた。左ひざの絆創膏がまだ痛々しい。来週になったら、もう治っているかもしれない。そしたら、浅瀬に連れていってやろう。俺のすぐ後に浮かんで来た兄の顔が夕日に眩しく歪められて、その苦しそうな顔が馬鹿みたいにおかしくて、俺はけらけら笑った。それから俺も夕日を振り返る。


 その夕日は、俺のいる部屋の灰色のクロスを照らしていた。俺は木椅子に座ってしばらくそこにいた。尻が痛い。窓枠にもたれた女は煙草を吸っている。一本いる? と箱ごとこちらに差し出す女の手に夕の色が落ちて、彼女の滑らかな骨の形を、くっきりとその肌に刻んでいる。俺は煙草を吸って欲しくなかった。あんたに、そんな風に落ちぶれて欲しくなかった。あんなに美しかったあんただけが、俺の道しるべだった。あんたは、吸いたくて煙草を吸ってるんじゃない。そんなふうに言ってしまったらすぐにでも壊れてしまうような笑顔が、あいまいな色に滲んだ夕方の空を背負ってこちらに傾いていた。彼女は、彼女自身のことを何もかも知っている。知っていて、重々承知で、破滅の道を行くのだ。俺には、彼女の共犯になるか、もしくは彼女から一切手を引くかのどちらかしか選択肢はないだろう。もう、そんなところまで来てしまった。


「ほら」

 促すような彼女の疲れ切った優しい声音に、俺は、手を伸ばしかける。


 そのとき乱暴なノックの音がして、俺は思わず手を下ろし、そちらを振り返った。空いたドアの前には、刃物を持った男が立っている。俺が上げた金切り声は娼館中に響き渡ったが、男の切り開かれたまなこが、この目にその形をまざまざと焼き付けつけるように俺を向いている。男はベッドの上に佇んでいた俺を乱暴に捕まえると、次の瞬間には俺の腕の根元を押さえつけて、小さな折りたたみ式のナイフを持った腕を振り上げた。俺は夢中で片腕をあげて体を庇おうとする。俺と男の間にある唯一の防壁たるその細腕は、あまりに頼りなかった。男は俺を押さえる腕の力を弱めないままだったが、唇を引き結び、それからその口が戦慄くように開くと、そこから漏れ出したのは泣いているような声だった。


「……愛していたのに!」

 痛みを覚悟して、俺はぐっと目を瞑った。曖昧な視界の中で、ナイフの銀色が小さく閃いた。俺の目からは、人知れず、涙がひと筋こぼれ落ちていった。


 彼女の手が、俺のほおをさすってその涙を拭う。彼女の肩に寄りかかっていた俺は、俺が泣いているのを彼女に知られたくなかった。けれど、彼女はそんなのお見通しだった。いつだってそうだ。俺が面をあげると、彼女は例の慈愛に満ちた紅色の微笑みを俺に浴びせかけた。しろい髪が、きらきらと照明の下で輝いて、俺の目には彼女が光そのものであるかのように見えるのだ。彼女は指の先で軽く俺を押しのけた。倒れないままの俺の中で、彼女は自分の指先の力でもって、くら、とめまいに襲われたように寝台の上に仰向けに倒れる。まるで体重がないかのように実感のない転倒の映像が、どうしようもなく彼女を彼女たらしめているような気がした。


「きて」


 彼女の声が好きだった。会った時からそうだった。彼女が胸をはだけさせた。俺もシャツを脱いで、彼女のそばへとすり寄った。彼女の手は柔くて小さい。俺の手は彼女の手よりも少し大きくて骨張っていて、だから彼女がすきだった。彼女が俺のことを定義づけてくれるような気がした。俺はその手をとって、彼女の胸の中へとゆっくりと己の身を沈める。拒むことのない彼女の胸部が俺の胸部と重なり、それを超えて、合一する。水が溶け合うように、まるで最初からひとつだったものが元に戻るかのように、俺たちの肉は互いを拒まぬまま繋がり、溶けて広がり、そこにはもう、彼女と俺との間に肉の隔たりなどあり得ない。胸部と胸部が溶け、混ざり、彼女の太ももの肉の内部に、俺の足が重なって溶ける。彼女のあばらと俺のあばらが鎖のように絡み合い、彼女の笑い声が俺の耳に届いて、それと同時に彼女の腹が震えるのを俺はそのまま自分の身の震えとして受け取った。彼女の心臓のすぐ隣で、彼女と一つの肉の塊になった俺の心臓も、絶えず鼓動を打っている。


「ずっと、こうしたかった」


 俺はひどく安心して、そのまま眠った。冷たい部屋の中で、自分の体温があるのかさえも確かでないようなあの日々は、もう終わったのだ。もう二度と、離れないでいたかった。


 それなのに、彼女は俺のことを置いていった。居心地の悪い、狭いごみだめのような部屋の中で、俺はその男とずっと一緒に暮らしていた。男は俺のことを嫌っていながら、それでも一向手放そうとしなかった。男が俺に抱いている感情が、愛情という類のものなのか、つまらない父親のプライドなのか、世間体に縛られた故の見栄なのか、はたまた目的をとうに失って、形骸化してこびりついたただの固執であったのか、俺にはわからない。俺はできるだけこの部屋の外で空気を吸っていたかった。だから帰らなかった。そうしたら、お前をそんな娘にしたかったんじゃないとあれは怒った。怒って、ぶって、蹴って、罵って、この顔に饐えた臭いの唾を吐きかけた。父親らしいことなんて、ひとつもしないくせに。それなのに、湿気た布団の中で、男がまた俺の腹をまさぐっている。もうどうだってよかった。


「ほら、またそうやって、さ」


 俺が諦めたようにそう呟いた時、俺の背を舐めるような手つきで執拗にさすっていたその手が離れ、握り締められて俺の頭をきつく殴りつけた。男は、俺にかかっていた布団を力のままにはぎとった。これは、いつもすぐに怒る。俺を殺したい? 殺したいのはこっちだよ。そうだ、これがずっと、死ぬまで繰り返しだ。そうやって目を閉じる、暗がりの中じゃ、俺には手出しもできないんだから、諦めもつくってもんだ。だから。痛みの渦巻く暗闇の中に、自分の身体を抱きしめたまま沈み込む。


 俺が目を開けると、船が橋の下をちょうど通り抜けるところだった。顔に降りかかる陽光に目を細めた俺は、自分の顔が自然とほころぶのを感じた。めいっぱいの青さをたたえた空に浮かぶ入道雲から後ろへと目を移して、俺はありったけの笑顔を浮かべた。


「ほら、見てよ。かもめ! かもめが飛んでる! もうほんとうに、海が近いんだわ!」

 俺がそう叫んだ時、後ろに座っていた男は、俺の指差したかもめを見上げずに、俺のことを見ていた。熱のこもったまなざしが、俺のことだけをじっと見つめている。俺はその熱量に胸の奥がじわりと満たされていくのを覚えながら、風にはためくサマードレスの裾を押さえて、男だけに向かって微笑んでやる。俺は、男が俺のことを心の底から愛しているのを知っていた。俺は逃れようのないほど彼の心を縛っていた。彼は縛られるままだった。それが、彼にとっては幸せなことなのだと知っていた。だから、この男のことを好きになったのだ。差し伸べた手で壊れ物のように、危うそうに俺のことを抱き上げる男の名前を、俺はもう、覚えていない。もちろん、俺自身の名前も……。


 しかしそのとき、自分が後ろから名前を呼ばれ続けているのに気がついた。俺は夢中で走った。ネオンの輝く暗い街の中を、必死に。足に絡みついた下駄の鼻緒が、跡が残るほどきつく指の間を締め上げる。痛くて、重くて、辛くて、息が苦しくて。けれど、あのひとから逃げられるわけがなかった。あのひとの愛は、無限。


「お前が、十三番目」


 届いた声に、泣きそうな想いで俺が頭を振り向けると、おい、と父親が俺を呼び止めるところだった。話をしたい、と父は言う。俺は気が進まなかった。気付いた時には俺の顔に父親の容赦のない哀れみが流れかかっていた。

「役にも立たない」

 俺は居間の畳の上で、頭から、背中から、血の気が尾も引くこともなくすっかりと消え落ちていくのを覚えていた。俺は、何もできないのだった。俺は、元来そういうやつだった。もう手足の先の感覚がない。ぼうっとかすむ視界の中で、俺は平常の思考を取り戻そうとして、父の目線をしのぐようにして浅く息を吸い込もうとし、今は何時だったかと時計に目をやった。四時二十二分。夕霞。息ができない。


 再生された見覚えのあるその情景に、俺はとうとうはっとして息を飲んだ。「これ」は、今俺が見た「これ」は、これこそは、「俺」の記憶だ。


***


 世界が徐々に形を取り始め、俺の顔を覗き込む影が茜だということに俺はじわりと気が付いた。薄暗いいつもの寝室だが、それが俺にはなにやら新鮮な印象を持って俺の目に映るのだった。俺は自分がベッドの上に身を横たえているのに思い至って、それから眠る前の記憶をたぐり始める。いつ──。


「『昏倒してた』、って」


 ぽつりと空に放られた茜の声が俺の耳へと転がり込む。真木がそう言ってた、と付け加えた茜は、ガウンを羽織ってソファの上で膝を立て、細い煙草を吸っていた。赤い唇の隙間に乗せられた巻紙の影が彼女の口元の形を俺の目に刻み、俺はそれに胸がぐっと惹きつけられるのを感じた。けれど、俺はその光景を、なぜかひどく悲しいものであるかのように捉えてしまう。


「……会うのは久しぶりだ」

 俺がそう言ったのに茜は目を丸くした。

「……二日くらいのことでしょ」

 俺はおぼつかない記憶を再びたぐり始める。頭の奥に靄が溜まっているような気がする。

「いや……そうだ……」


 何かが俺の胸の奥に立ち込めて、しかしはっきりした形を取らずに霧散しようとしている。その霧の中に俺はぐっと手を伸ばし、それにつられて現実の俺の手も力なくベッドの上に伸びた。その手の先、指の間に覗くように見えたのは、眩しい橙の光だった。


「そうだ。海だ、海の夢を見た。夕日の」

 水面に映り込んだ夕焼けの色が俺の網膜にはっきりと焼き付いて、今も目を閉じれば見たときのままに輝いた。青緑のくすんだ海が、俺の足の下に広がっていた。

「俺は、俺が住んでいたところは山ん中だったから」

 いつか、自転車を三時間も漕いでツレと行った海の香りを、俺は思い出していた。

「……海は、眩しかったな」


 俺の視界から外れたところで、茜はそのまましばらく黙って煙草を吸っているようだったが、一度大きく煙を吐き出すような息の音がすると、俺はぐったりと横たわったまま彼女のほうを見上げた。


「あんたが今まで、どんな風に生きて来たかなんて、私は知らないけど」

 彼女の声はいつもより一段と幼い風にかすれていた。

「あんたはきっと……ずっと、失敗しない道だけを選んで生きて来たんでしょ」

 俺はその言葉に何か言い返そうとして、けれど彼女がすぐさま

「べつに、責めてるわけじゃない」

 と付け足すので、俺は胸の奥が痛みを伴って濁ったままで、口をつぐんだ。

「失敗しない道だけを歩めるなら、それ以上に良いことってないもの」

 彼女は細い煙草を灰皿に押し付けて消し、それからすくと立ち上がった。ガウンのはしが、彼女の生足の横で揺れている。

「それで私が、あんたを失敗させちゃったんだ……全部、壊しちゃった」


 彼女の言葉の端が、子供じみて泣きそうに濁るのを、俺は確かに聞いてしまった。彼女のそんな声を、俺は聞きたくもなかったし、聞くつもりもなかったし、聞かなかったことにしたかった。俺は彼女をそういう類の女として俺の中に位置付けてはいなかったのだ。冷たく俺の前にそびえる銀の塔。彼女は、俺のことを意にも介さぬまま、涼しい顔をしてそこにそびえ立つだけの、海風に吹かれる灯台であるだけだ。彼女には、痛みも、後悔も、温情も、そういった類の湿り気のある心の動揺を抱く必要など一切ない。彼女は銀のように冷たく硬質なまま、そこにいるだけでいいのだ。それなのに彼女は、俺の目の前で、人間じみた不安を纏ったあの震える声色をちらつかせながら、言葉を続けていく。


「あんたがずっと歩んで来た、間違いのない人生ってさ、そのくらいの、脆いものだったんだよ」

 彼女の声は笑うように震えていた。彼女は俺を傷つける気なのだろうと、その時俺は確かに思っていた。

「その、脆くて儚くていつ誰に壊されたっておかしくないものにさ、あんたはずっと、しがみついてた。その脆さも知らずに」

 彼女の言葉の音のひとつひとつが俺の耳に確かに刺さる。

「でもさ」

 彼女の声音は、そのとき不意にいっそう弱々しく揺れた。

「大切なものってきっと皆んな、脆いものだから」


 息の詰まるような沈黙が部屋の中を支配していた。あかい光を漏らすストーブががたがたと揺れる音だけが、俺と彼女の間に開いた絶望的な距離を頼りなく埋めていた。彼女は言葉の続きを言おうとするように口を開いて、それをやめて、つぐんだ。そうだ、俺は彼女にそんな言葉を求めていやしない。もしも彼女がその言葉の続きを話してしまったら、俺が今この小汚い街で享受する喜びというものの全てが瓦解し、何の価値も持たないものとしてあっけなく崩壊するだろう。いや、喜びだけでなく、きっと俺そのものも、形を保ってはいられまい。彼女も、そんなことはわかっていた。全部、わかっていたんだ。


 彼女は目を伏せて俺の上に屈み込んだ。彼女は俺にキスしようとしていた。それは、俺が今望まぬところのものだった。つまらない彼女の拙い話を、じれったくなりながら、口を噛み締め、その不釣り合いさに耐えられぬ想いでそれでもずっと聞いていたいような、奇妙な気分だった。けれど、俺にはやはり彼女に逆らうすべなどなかったのだ。彼女の唇が、俺の口に近づき、息を吸い、ついには恐る恐る触れるのがわかった。


 俺にはもう、何もない。


***


 彼が彼女の美しい毒に蝕まれているころ、掃き溜めの別の寝台の上では、女二人が身を寄せ合い、囁き合っていた。というよりは、ひとりの女がもうひとりに向かってくすくすと微笑み、相手の手足に自分のそれを触れ合わせ、話しかけているのである。


「何も起きないなんて不健全だわ!」

 むくれた子供のような彼女の声に、もうひとりはなだめるように彼女の肩をさすった。つややぐ髪を流れるままにして、子供じみたその声が気まぐれに大きくなった。

「ね、そう思うでしょう」

「はい」


 相手の声に温度はない。子供のようにじゃれつく彼女は、それ声の硬質さを、好ましいと思っていた。彼女は神経質そうに自分の指を口元にやって、相手に向かって話しかけるように、しかしどこか遠い景色を見つめる旅人が零すような、ああいった類のひとりごとのように言葉を続ける。


「そろそろ山場を用意しなくっちゃ」

「はい」

 彼女は相手の足に自分の足を絡め、恋しがるように自分の方へと引き寄せる。

「役者には役者の仕事をこなしてもらわなくちゃ、ねえ」

「はい」


 相手は彼女に同意するだけだ。そういう作りだから、そういうものなのだ。それから彼女は、はっとしたように相手の両肩を掴んで自分のほうに引き寄せ、そこに相手がいるのを確かめた。それから安心したように両手を相手の背中に回し、鎖骨の形を確かめるように相手の服を捲り上げ、その中へと己が手を滑り込ませる。相手の体温が手のひらを伝い、自分の中へと流れ込んでくるのに満足した彼女は、相手をそのまま強く抱きしめた。


「『わたし』が守ってあげるからね」

 彼女にそう声をかけながら、相手は何も返答しない。その代わりに、自分の腕も彼女の背中へと回し返した。彼女は、相手の胸もとに顔をうずめる。

「ぜんぶあなたのため」


***


 地下牢で何かが音もなく叫び続けている。捻れて鳴らない声帯を引きちぎらんばかりに口を開いて身をよじり、喘ぐように出ない声を搾り出そうとするその怪物は、その身を繋ぐ鎖を黴びた床に叩きつけ、今すぐ暴れ出さんと足の先までのたうちまわる。

 次の幕を始めよう。

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