15話 我々の言葉のむなしさについて


 僕は書架の上から彼らのやりとりをずっと見ていた。ずっと、それはもう、ずっと。長い長い間。退屈になって一人でチェッカーのトーナメントを始めてしまったっておかしくないような──もちろん、そんなことやってないけどね──そのくらい、長い間。


「どう思う、って?」

 僕がオウムのようにそう返すから、彼は不満げに口をちょっと曲げた。

「俺の聞きたいこと、君にはわかっているんだろう」

「それがさ、よくわからないんだ。君が、僕に率直な意見を述べて欲しいと思っているのか、はたまた背中を押して欲しいのか」


 彼は迷子の幼児みたいな顔をする。自分の中でも整理がついていないんだ。彼は、その整理がつかない感情を抱え、大いに持て余すあまり、とうとうその感情をほっぽって、ないことにして、僕に命令を求めているってわけだ。だけど、そうは問屋が卸さない。


 僕はそこで、わざとらしく大きなため息を吐いた。

「君さ、僕の見立てによればそのふたつで半々だろ。何を言ってやればいいかなんてわからないよ。これは……難題に過ぎる」


 意地悪くそう言った僕の顔を見上げる彼の顔があんまりに情けなくて、見ていられやしないから、僕はそのまま書架の上で仰向けになった。今日も天井に張り巡らされた窓枠の向こう、僕らの群青の宇宙には星の色が散らばっている。それから僕の目がくるりと回ると、顔の真横にランタンがぶら下がって、その壁の中でめらめらと火の先が揺らめくのが見えた。


 ところで、あなたは多分前の話を読んで、それからわけがわからないままこの続きを読んでるんじゃないかと、僕は思っているわけだ。次の話を読めば自分の中のわだかまりが解けるんじゃないかっていうような、ちょっとした期待とか希望みたいなものが、あなたの背中を押したんじゃないかと、少なくとも僕は思っているんです。……そういえば、「あなた」ってわかるかな。あなたのことなんだけど。


 僕は寝返りを打って、それからまた身体を起こし、下の方にいる彼に目をやった。かわいそうに、彼はまだこっちを見ていた。お利口なことに、忠犬よろしく僕の言葉を待っているらしい。


「うーん、君との話をすぐにでも再開したい気分なんだけど」

 僕は手持ち無沙汰な気がして、ちょっと頭を掻いた。

「少し昔のことなんかを話すべきなのかもしれないや。前の話の、そのまた前のこと」


 あなただって、今までいくつかの小説や映画や演劇の中で出会ったことがあると思うんだけど、僕って「その手」のキャラクターなんだよ。あなたをあなたと認識できる、特権階級と言えば伝わるはずだ。


 それから僕が彼の反応を待って腕を組んでいると、彼はやっぱりよくわからないらしい。さっきまでのウェルテルみたいに情熱的な悲哀とか苦悩を、そっくり前の話に置いてきてしまったんだろうね。


「……俺は別に、昔のことなんて覚えていないし、思い出さなくたっていいし」

「ああ、まってまって! そういうまだ説明してないことをさ、勝手に色々話されると困るんだ! 段取りってものがあるんだよ。こっちには」

「また君、わけのわからないことばかり言って……」

「君にはわからなくていいんだ」

 あなたにうまく説明するためには、ちょっと僕の頭の中を整理しなくちゃならない。紙とペンがいるな。

「……もしかして君、また『見えない友達』の話をしてる?」

「『君には』、見えない友達ね」


 僕は彼の問いかけにそう答えてから、ペンケースの中にあった鉛筆の先が嫌がらせみたいに丸くなっているのに気がついた。ああ、あなたにも経験があると思うけど、こういうのってさ、ものすごくやる気を削ぐんだよね。もちろん、鉛筆を削っておかなかったのは僕の失態なんだけどさ。でも、もう本題に入ろう。あなただって、退屈してきているだろうし。ああ、それと、言い忘れていたけど、あなたにまたお会いできて光栄だって、ほんとうに思っているんですよ。僕は。



 掃き溜めは、エゴイズムに汚濁を突っ込んで、悪徳のスープで七日間煮込んだような醜悪な空間だ。今まであなたがお話を読んできた中で想像してきた風景は、僕の認識とそんなにずれていないと思って欲しい。


 その掃き溜めの中──もしくは、僕の認識としては、上、または横、いや、三次元で説明すること自体がナンセンスな位置──には、異質な空間がある。それが、この本の森だ。整然として、無限の彼方まで林立するこの書架たちがあんなにごみごみした街の、一体どこに収まっているかって? あなた、もうサイエンスと名前のつくような教養番組を見るのをよしたほうがいいよ。だって文学の中では、なんだって──文字通り「なんだって」──起こるんだから。僕が言いたいのは、ここが、「あって、ない場所」であって、「地図にのりっこない場所」だってことなんだ。


 そして、「彼」もまた、(前のお話から、あなたにとっては突然登場した「彼」のことね)あなたのよく知っているであろう「二人」と一緒で、外からやってきた。必要とされたからだ。僕は、彼が来る前のこの森の事情についても知っていて、だから、彼がやってきた時には、いろんなことを教えてやった。


 彼がもうひとではなくなってしまったこと。この広大な図書館の中で、彼はこれからたったひとりで、彼に与えられた仕事を果てなくやり続けなければならないこと。彼にとっての「世界」とはすなわち、もはやこの本の森だけであること。そして、人を人たらしめる条件である三つの欲というものが、彼にはもうなくなってしまったことなどなど……。そのほかにも、いろいろだ。


 箇条書きのようで申し訳ないけれど、彼についての紹介はざっとこんなところ。忘れたらまた読み返してくれると嬉しい。あとは、そうだ。彼の言動について、僕の印象によく残っている部分があるから、そこのところを紹介しておこうか。それも、僕の思い出話じゃなんだから、実際にその場にあなたをお連れしよう。僕にとっては、時間軸を飛び越えることなんてのは、週の初めにベッドから抜け出すのよりもずうっと、簡単なことなんだから。


***


 自分のこれからの運命について、話を聞き終わった彼の顔は先ほどよりも幾分晴れやかに見えた。彼は乾いた笑いを漏らしてから、そうか、とひとつ口にする。

「よく分からないけど、俺、救われたんだなあ」

 彼の瞳は恐らく天啓のようなものを得ていた。少なくとも彼はそう思っていた。

「ここで、俺は新しい人生を始めるってわけだ?」


 彼の声は震えていた。その震えは、不安や恐れであって、同時に喜びでもあった。彼は、これから自分の身がどうなるか、いまいち見当がつかないまま、まるでいきなり大海原に放り出されたような気持ちになって、「可能性」に身を震わせていたんだ。僕は、瞳の奥にわずかな光を灯したままの彼の目を見て、辛い気持ちに喉を詰まらせながら口を開く。


「悪いけど、君の『人生』っていうものは、もう放棄されたと思ってもらっていい。君はもう、ひととして生きることはできない。『存在している』だけ。『生きて』はいないんだ」

 僕のその言葉を受け、彼はうなだれる。すると、床板を睨んだままの顔の下から、そうか、と諦めたような声が聞こえてきた。

「でも、」

 ふっと投げかけられた僕の声に、彼はまたこうべをもたげる。

「君は、新しい別の存在になることができる。君は、『誰かのために』存在することができる。そして、きっと君は、誰かを『救う』ことになる……」

「俺が……?」

 彼のその問いかけには、僕の言葉をにわかには信じられないという懐疑と、けれど同時に何かに縋るような気迫があった。

「そうだ、君が、君が誰かを救うんだ」


 もっとも、彼は誰かを「救う側」であって、ただそれだけで、彼はもう誰かに救われることはないのだった。けれど、僕はそのことについては言わないことにしたんだ。だって、そんなの悲しすぎるじゃないか。


「そうか、俺が、『この』俺が、」

 彼は興奮した面持ちで、救う、と口にした。それからまたあの乾いた笑いを漏らし、頰のほころんだまま、温かい息をひとつ吐いた。

「……よかった」

 彼は血まみれの顔で涙を流し、心から幸福そうに微笑んだ。


***


 そう、あの日の彼は血まみれだったんだ。頭や顔には血が跳ね返っていて、黒いフロックコートからは滴って血だまりができるほどだった。しかもそれは彼の血ではなかったんだな。僕は、いくらでも彼の過去を遡ることができたのだけど、それをしなかった。彼がそれを望まなかったからだ。なんでそんなことがわかるかって? 彼はあの日、それまでの自分の記憶を自ら望んで全部消してしまったからなんだ。だから僕も、彼がここに来る前のことについては語るつもりもない。それに、今ここで仲良くおしゃべりをする分には、彼はつまらない相手ではないし、彼と一緒に時間を過ごすのは、僕にとっても悪くない暇つぶしの方法だからだ。彼がそれだけの人間なら、僕にとってはもう十分だし、たとえ彼が昔、大悪党の大量殺人犯だったって、そんなの大事なことじゃないんだもの。


 あなたって、相手が悪いことをしたひとだって知ったって、いきなり嫌いになったりできる? たぶんそれって、無理なことだと思うんだよ。特に、相手が君と同じ映画の趣味をしていたり、お母さん思いだったり、マントルピースに家族の写真を置く習慣があったりだとか、そういうふうなひとだって知ってしまった日なんかにはね。



 「彼」について少々の知識を得たところで、では諸君、この話の冒頭へと戻ってこよう。これで下ごしらえはすんだというわけさ。語り手である僕については、まあ、いいじゃないですか。だって、ここであなたに紹介できるような僕っていうものについて、僕自身には持ち合わせがありませんし、僕は三人いる語り手のうちのひとりでしかなくて、その中でもとびっきり無力な、傍観者でしかあり得ないわけですから。僕の語ることについてはぜひ、大いに注意を払っていただきたいけれど、僕自身についてはどうだっていいんです。


 それでも敢えてひとつ、はっきりさせておきたいことがあるとすれば、最初の話が始まる前にあなたにご案内を差し上げたのは僕で、あの「二人」の知り得ないこと──さしあたっては、あの美青年について──語り得たのも、僕だけだってことくらいです。


 僕は、「彼」との会話を再開する。とりあえずは、目下の問題である「彼女」について。

「彼女が最初にここにやって来たのはいつだっけ」

 僕はその答えを知っていながら、あえて彼にそれを訪ねてみる。これは口頭の試験なんだ。

「……四十八日前」


 彼ははっきりと覚えていた。僕は、彼がそう答えられることも知っていた。だって彼、彼女についての記憶を覚えている限り書き留めているからね。それは、ひとでなしの記憶を書き留めることを課された、彼の職務の範疇ではあるのだけど。


「そう、君らは今日まで、七晩を七週繰り返した。彼女はその間、途切れることなく毎晩君の元にやって来た」

 彼女はいつも、同じ時間にやってくる。いつも変わらず、同じ入り口から入ってくるのだ。

 そして、彼といつも同じように出会い、同じように彼と親しくなって、同じように彼のことを好きになる。そして、見慣れたあの悲しい顔をして、彼の前から去っていくのだ。


 その四十九の夜について、僕はそれのどれもがきっと、彼と彼女にとってかけがえのないものだったと思うけれど、それらの全てを語るわけにはいかなかった。だから、そのうちの七晩だけをあなたにお届けしたわけだ。


 しかし、彼女が「四十九」も、つまり「七週」も、ここにやって来たということが僕らにとっては大問題だった。

「君、ほんとうに彼女の記憶を消しているんだよね?」

「もちろん!」

 彼は僕の首にでも食いつかんばかりに身を乗り出し、凄まじい勢いで返答した。

「だって、だって彼女がやって来るたび、なんとか彼女の手を放してやって、俺のことを諦めさせて、彼女の後ろ姿を見送るときに、俺は、俺は……」


 一番悲しいのが彼自身だってことを僕はわかっていたから、それ以上彼を疑うのはやめてやった。そもそも僕は、彼がそんなことをしていないのを知っている。当然だ。僕は全部知っているはずなんだから。彼は、僕に心を偽れない。僕はそういった思考の渦の中からやっと顔を出して、口を開く。


「それでもやっぱり彼女はここにやって来る」

 僕は考え込んだまま深く息を吐き、彼は引き結んでいた口をじわりと開いた。

「……彼女のことって、俺にはよくわからないんだ。俺が誰かの記憶を書きとめようと、誰かのことを思うとき、それは、そのひとの言葉になって俺の頭の中に流れ込んで来る。だから俺は、それをそのまま紙の上に載せていく」

 それが彼の仕事だった。ひとでなしたちの見たものは、言葉になって彼の中に流れ込んでくる。ぽつりぽつりと語り始めた彼のことを、僕は邪魔せずにいることにした。

「でも、彼女については……どうしてここにやって来るのか、彼女の考えについて頭を巡らせても、なんだかよく分からないんだよ」

 それから彼は少し落ち着いた様子で自分の膝を撫でた。

「君の力は、ひとでなしから『言葉』を『吸い上げて』それを自分のものにしてしまうこと」

 僕は書架の上から彼のつむじを見ている。

「書き留めて守り抜くも、消してしまうも君次第、のはずなんだけど」

「でも、彼女は何度もやって来た」


 彼は僕の言葉の端を食らうようにして、すかさずそう言った。それから、組んだ自分の指を見つめている。僕のことなんか見えていない。彼が今考えているのは、彼女のことだけだ。

「彼女、まるで俺のことを、俺とここで過ごしたことを、覚えているみたいだ。そんなわけないのに」

 そんなわけ、ないのに、と繰り返した彼の独り言は、空気を微かに揺らしただけで、あっというまに消えてなくなった。本の森は広大だ。あまりにも広くて、僕の言葉くらいじゃ彼の寂しさを埋めようがなかった。


「そして彼女はきっと、明日の晩にもやって来るだろうね」

 沈黙を破った僕のその声に、彼の背中がぴくりと動いた。それから少し間を置いて、彼はまた口を開く。

「いや、今まではやって来た。けれど、明日はもう来ないかもしれない」

「今まで来たんだから明日もやって来るさ」

 強められた僕の語気に頭を上げた彼は、なんとかして自分に嘘を吐こうとしているらしかった。僕は、彼のそういうところをもって、悪い友人じゃないなと考えていた。

「僕はさっき、君の腹の中は半々だと言ったけれど、どうやらそうでもなくなってきたね」

 僕の言葉に、彼は驚きの目をあげた。

「だって君、僕に、『どう思う』って聞いて、そして今も彼女について延々と話をしている。彼女の問題は、君にとって『終わったこと』じゃないってことだ」

 僕のはっきりとした目を、彼はしげしげと見つめていた。

「君にだって確信があるんだろ。彼女は、きっと明日の晩もやってくるって」


 彼は頷かなかった。自分の期待が、逃れようのない事実によって裏切られてしまうのが怖くて仕方なかったのだ。でも、彼も、そして僕も、彼女がまたここにやって来ることを確信していた。その理由というのは、今までの四十九の晩、欠かさずやって来たその続きだから、というのでもよかったし、そんな気がするからでも、とにかくなんでもよかった。本当は、科学的で客観的な顔で説明できる理由なんかないんだ。でも、それは間違いないことのように思えた。特に、彼女のあの真摯なまなざしを思い返すとき、その確信は揺るぎないものになっていった。きっと五十番目の夜に、何かが起こると、僕らはもはや「知っている」。



 ところで、だ。ちょっと話が脇道に逸れてしまうんだけど、前にも話した通り、僕は時間の壁を越えることができる。それも、下手なタイムマシンとは違って、僕は過去だけじゃなく、もちろん未来にも行くことができるんだ。つまり、いつでも見たいものを見に行けるわけ。けれど、発売前の本の中身をどこかで盗み見るなんてこと、けしからんわけで。僕は、目の前に知らぬうちに起こったことを、あなたに聞かせるための存在でいたい。


 その理由として、一つ目には、このお話の終わりまで全部が全部僕の知るところとなってしまったら、僕はこれから何を楽しみにこの図書館でうろうろすればいいんだろうっていうこと。僕は僕を楽しむため、間抜けな傍観者でいたいんだ。僕には、楽しみを先に取っておく権利がある。


 そして、二つ目には、これを読んでいるあなたっていうひとのこと。だって、『誰かがすでに全部知っていること』を、その『知っている通りに』話されるなんて思ったら、このお話を読むのが──ずっと退屈になっちゃうんじゃないのかなって、僕は思うわけだ。巻末に答えのついた数字パズルの雑誌にハマっていられるのなら、それだっていいんだけど。


 それで、もっと話を進めればね、僕が今、これを読んでいるあなたに言わなくちゃいけないのは、あなたの暇な時間をこんなものを読むのに使うってことは、きっと割りに合わないんじゃないかなっていう、そういうことなんだ。もっと前に、なんなら、一話が始まる前にこれを言っておけばよかったな。でも、前書きが長い小説って、大抵めちゃくちゃ面白いか、死ぬほどつまんないかのどちらかだと思うんです。ましてや、前書きを書いて満足してしまうなんてことも、よくあることだし。いや、これはやっぱり話さなかったことにしてほしい。


 無駄話をこれだけ並べ立てた後で、結局僕が言いたいのは、少なくとも僕はあなたの味方で、あなたと一緒になって期待と不安に心臓をぐらぐらさせながら彼女の登場を待っているってこと。ああ、また余計なおしゃべりをしてしまった!



「明日の夜また彼女がやって来たら、」

 僕はまた彼に向かって話しかける。

「君はもう彼女に嘘を吐いちゃいけないし、君自身にも嘘を吐いちゃいけない」

 僕は彼の目を射抜くように視線を据える。

「彼女には、小手先だけの言葉のあやみたいなのは通じない。そんなことじゃ彼女は決して折れやしない」

「……俺は、どうすれば」

「君と彼女の両方が納得できる答えを見つけなくちゃならない。そうじゃなきゃ、きっとこの繰り返される夜は終わらない」


 僕が敢えて冷たく突き放すように発した言葉をまともに食らって、彼は泣きそうな目をますます細める。その口がわななきながら開いて、彼はゆらゆら揺れる声を震わせ始める。


「だって、俺は知ってるんだ。彼女が、ここじゃない場所に、きちんと幸せを見つけていること……なんなら彼女、どこにいたって幸せになれて、そして、そばにいる誰かまで巻き込んで幸せにするような、そういうひとなんだよ。俺にはわかるんだから……」

 彼は両手で自分の顔を覆う。

「それに彼女、記憶を消してほしいって、ちゃんと頷いた。俺とのことを全部忘れてしまいたいって……。彼女は嘘を吐いていなかった。彼女は望んで、忘れることを選んだんだ」

「でも、ひとってのは自分自身にだって嘘を吐くもんだよ」


 僕はそう言いながら、彼に向かって頷いた彼女の涙の顔を思い出し、あのとき潰れそうだった彼女の胸の内を思った。彼は顔を上げないままだけれど、僕の言葉を聞こうとしているようだった。

「そうして、それが嘘だったかほんとうだったか、自分でもわからなくなるなんてこともしばしばだ。それに、女性って天邪鬼なことが多いし」

 彼はそれでも顔を上げないので、僕はちょっと手応えがなくて、少しからかってやることにした。


「たとえばさ、彼女って君には天使かなんかに見えてるんだろうけど、一皮むけたらわからないよ。彼女、もしかしたらさ、腹の底ではこう思ってるかもしれない。君に組み敷かれて、めちゃくちゃにされたいって……」


 そこまで言ったところで僕の顔面をまっすぐめがけて本が飛んでくる。三次元に生きている彼が怒りに任せて投げたものなんて、僕に当たるわけがないんだけど。

 彼は、顔を真っ赤にして怒りに震え、肩を上下させていた。やりすぎたな、これは。僕はちょっと弱ってしまう。

「彼女を侮辱したら、いくら君だって許さない……!」

「悪かったよ。でも本当に君ってさ、彼女のこと」

 彼は、怒りとは別の意味でまた顔を赤くしていた。


「でも、これはおふざけじゃなく言っておくけど、彼女も、半分くらいは動物で、君と……ここに来る前の君と、大して変わらない存在なんだ。僕らと遺伝子とか、内臓とか、外に出てるあれそれが少々違うだけで、ほとんど同じ作りをしてる。あんまり恐れるのも、崇め奉るのも、ナンセンスだと思うんだけどね」


 彼は僕の言葉を聞き入れて、それからふーっと息を吐いて、椅子に戻った。

「君、ときどきものすごく下品なことを言うだろう? 俺はそれに、ひどくびっくりしてしまうんだよ。君が、そんなことを言うってこと自体に……」

「まあ僕は、人間だからね」

 彼が顔を真っ赤にしたのに満足して、僕はそれからまた退屈になってくる。そうして僕は書架の上に寝転び、つま先でランタンを小突いた。

「でも彼女は、」

 彼は手の甲で火照った頰を冷やしている。

「他の奴らとは違う。あの女たちや、時々迷い込んで来る別のひとでなしとは、全然違っている」

「まあ、彼女は多分、運命の女ってやつだろうね」

 僕のその言葉に彼が目をあげるから、僕はなんとも思ってない風に視線を返してやった。

「彼女はきっと、君を、そして変えられないものさえ変えていく」

 彼女がそういう「うつわ」の役者であることが、僕にはよくわかっていたんだ。何せ、僕はなんだって好きに見ることができるんだから。

 そして次の夜、果たして彼女は、同じ入り口からやって来た。

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