第二期 森羅穿つ界線の努

14話 もっとも完全な形をしたソシエテについて


 彼女はいつも、同じ時間にやってくる。いつも変わらず、同じ入り口から入ってくるのだ。


***


 彼の姿を認めた時、彼女は震える両手に握り込んだ拳銃を彼に向けた。

「あなたは誰?」


 震えるその手の持ち主である彼女の声もまた、当然として震えていた。そんな凶悪の具現を持つには、彼女は遥かに優しいひとだった。優しすぎるひとだった。その上、彼はそれをよく理解できたので、こわばった彼女の顔を見詰めて、はにかみを浮かべた青年は書きかけの記憶を閉じる。


「そうだ……全てを一から説明しなくてはならないね」

 彼は、この図書館の主人である。



 薄青い夜の中に現れて、にじみ広がる夢の中のような世界。彼女はそこに降り立ち、振り落ちる星屑の色の下に灯った赤く黄色いランタンが風に吹かれて、遠くからからと音を立てる天井から目を下ろし、無数の林立する黒い影たちの間に目の前の彼の背中を見る。


 この図書館にあるもの。林立する数えきれない書架。そして、そこに収まるのは、同様に無数である本の集積。その秩序立って整然と林立する紙でできた森には、ふたつ分の、あるいはひとつ分の音しか響きようがない。ふたつ分の音があるというとき、そのふたつとは、彼と彼女の発する足音や声のことを言う。


 懐にしまった拳銃を注意深く何度も確かめながら、彼女は──そうだ、彼女はその身分を男と偽っているようなのだけれど、彼女のことを「彼」なんて呼んでしまうと、彼女の横を歩いているもう一人の「彼」と見分けがつきませんし、読者のあなたにそんなことで迷惑をかけるのはあまりに馬鹿らしいので、「彼女」として表記することにしますが──彼の後ろに従っていた。見知らぬ彼の後ろ姿をじろじろと確かめる彼女は、宵の口の色をしたリボンで髪をぎゅっとひっつめていて、少年のような装いをしている。それに加えて、彼女は二十世紀以降に生まれた人間ならばどこかで見覚えのあるような黒い衣服に身を包んでいる。肩にかかった短いマントの裏地が絶対悪の色合いにたゆたって赤く翻るのは、彼女の華奢な身体にはあまりにも不似合いというものだ。


「あなたは一体誰なんですか」

 彼女はせっつくように、彼の背中に向かって再びその問いを投げかける。

「きみが聞いているのは」

 すらりと薄い髪色の頭をもたげる彼の声は透明で、その空気の震えは広大な図書館の静まり返った夜の中をすり抜けて行く。


「俺の名前のこと? それとも、肩書き? もしくは、家族構成? なんの仕事をしているか? どんな家に住んでいて、どんな車に乗っていて、どれだけひとから尊敬されていて、今までどんな学校に通っていたか……とか、そういうこと?」


 言葉少なだった彼の堰を切ったような饒舌ぶりに面食らった彼女は、彼の言葉を一度受け取り、少し考える。彼女の念頭からはもう、懐の銃のことは失せてしまっていた。


「……それらの全部です……」

「それじゃあ」

 彼の声はどこか歌うようだった。浮世の人間の、切羽詰まった話し方とは随分とかけ離れた、まさしく隠者のそれである。

「もし俺の名前が仰々しかったら、きみは俺のことを偉い人だと思ったり、逆にありふれたそれだったら、俺のことを侮ったり……いや、親しみを感じたりするんだろうか」

 彼女の呼吸に合わせて最後を言い換えた彼の言葉を、彼女はまたしてもゆっくりと吟味していた。

「……そうかもしれません」

「そう肯定しておいて、きみは俺にこれ以上何か聞きたいことがあるの? きみが俺に聞きたいことっていうのはさ……」

 彼女がそこで一度足を止めたので、彼も一緒に立ち止まった。

「いえ……いえ、やっぱり違うんです。知りたいのはそういうことじゃありません……撤回します。そんなのは全部、きっとくだらないことです」

 くだらない、と言い切った彼女のことに、彼はふ、と眉を上げる。

「きみは」

 彼は、思いがけず──これは、言葉を発する主体であるところの彼自身にとっても思いがけず、という意味なのだけど──といった様子で言葉を零した。

「人間に愛は必要だと思う?」


 その問いを受けた彼女は、呆気にとられた後、また口を噤む。彼女は常からひとの問いかけをまともに捉えて、必ず彼女のその時持っているものすべてで返すのだった。

「……必要かどうかは、わかりません。でも、愛がなければぼくは今まで生きてこられなかった。それは、確かだと思います」

 彼女のその答えを聞いて、彼は微笑みながらそっと目を伏せる。

「……そうだね」

 そうして彼は、通りすがりに彼の横を過ぎ去って行く書棚に手を伸ばして、背表紙のひとつをなぞる。

「愛が必要だったきみの人生がたしかに今まで続いて来たように」

 ふたりぶんの足音が途切れることはない。

「愛がなければ成り立たなかった人生が、きみのほかにも無数に存在する」

 彼女は夢見るような表情で、知らず知らずのうちにうっとりとして彼の言葉を聞いていた。

「だから、この図書館には果てがない」

 それから彼は立ち止まって、くるりと彼女のほうに向き直る。

「きみは、どうしてここにやって来たの?」

 振り返った彼は、彼女がそこでそうやって息を飲むのを、知っていた。

「『どうして』……」

「そう。『どうして』?」

 柔らかい物腰の彼は同じ問いをまた繰り返し、急かすこともなく彼女の返答を待っている。彼女は困ったように彼の柔和な瞳を見返した。

「多分ぼく、確かめたいことがあるんです……確かめたい……知りたい、こと」

「それはなんだろう」

 神聖な彼の瞳は、彼女の次の言葉を自然と溢れさせた。

「……たぶん、たいせつな人のことです」

 彼女のその言葉を聞き届けてから、彼は諦めたようにふわりと笑った。

「そうか。それじゃあ今日はもう、十分だね」


 彼がそう言ってゆっくりとたぐり寄せた夜空の色を写した帳が二人の間を隔てて、その夜はお開きになった。彼女には、そのおとぎ話のような夜を引き止める術もなかった。



 彼女は別の夜にもやって来た。それが二つ目の夜だった。もちろん、同じ入り口からだ。彼女はこの前の話の続きをしにきたのだ。

「やあ、また来たね」

 彼が机の上に広げた本から目を上げると、彼女はほっとしたように息をついた。

「もう会えないかと」

「会えてしまった」


 それから彼はまた屈託無く笑うので、彼女はその前のこっぴどい彼の手切りを許してしまった。彼女は前の会話の続きを仔細に思い出そうとして、しかしそれはどうもすんなりとはいかなくて、目に止まるままに見たものに向かって口を開く。


「何をしているんですか?」

 彼女は机に近寄って、彼の手元を覗き込んだ。

「今しがた書き上げてしまったんだ」

 つやつやとした麻の匂いのする紙を束ねて、彼は大きな針と糸を取り出した。

「何を」

「人生さ」

 魔法のようにあっという間に糸がその紙束の端を通って縫い止め、革のカバーが丁重にかけられると、そこには人生の一片が形を持ってできあがった。

「きみ、もうひとではないでしょう」

 彼の瞳は淡々としている。そして、彼の言う通り、彼女はひとではなかった。

「俺はここで、消えて行く記憶を書き留めている」

 彼は穏やかに息を吐きながら、出来上がったばかりの本を撫でた。

「そのままでは消えてしまう記憶……誰にも覚えていてもらえない哀れな記憶たち……弔われない、『ひとでなし』の記憶……」


 それら全ては、そう、『尊い』ものだ。そう彼が顔を伏したまま言うから、彼女は驚いた様子で口を開こうとする。けれど、彼女がそうするよりも彼が微笑む方がずっと早かった。

「そうだよ。俺も、ひとではない」

 ぶわりと天窓から風が入って来て、書架の上にぶら下がるランタンの群がにわかに揺れはじめる。

「今答えたのは、くだらないことだったね」

 それから秋の嵐が、彼女の夜を吹き飛ばしてしまった。



 三つめの夜。いつもの入り口から入ってきた彼女は、前のことを少し根に持っていた。

「話の途中でしたよね」

 きびきびと彼を追及せんとする彼女の言葉に、彼のほうは、駄々っ子に困り果てた親のような顔をする。

「だって、全部一緒に話したって、覚えられないでしょう」

「そうですか?」

「そうとも」

 彼は黒の縁が厚い眼鏡をかけた顔をそらして、今度はいたずらっ子のようにはにかんだ。

「大事なことはね、ゆっくり時間をかけて話さなきゃならないんだ」

 彼の言葉を胸に抱いてから、彼女は口元に手を当てて思案する。

「……でもそれじゃ、話し終わる前に時間が来てしまうかもしれません」

 彼女の不安そうな顔に向かって、彼はたしなめるように目を細める。

「話さなきゃならない大事なことにはね、話すべき時というのがあるんだよ」

 彼は立ち上がって、ゆっくりと散歩をするように書棚の下を歩き始めた。

「その時は、待っていれば勝手にやってくる。いそいじゃいけない。捕まえようとしちゃいけない。だってそれは、待っていれば、必ずやって来るんだから」

 彼女が思わず足を踏み出そうとしたとき、その耳には彼の言葉だけが届いていた。

「きみがすべきなのは、待ち構えていることだけ。やって来た時を、抱きとめてあげることだけだよ」


 彼女の足元からは、時間の色をした水がゆっくりとせり上がってきていた。その透き通った色は、あっという間に彼女を頭の先まで飲み込んで、彼女の薄い金の髪は、透明な書架の森でゆらゆらと揺れ上がる。口の端から溢れた白い泡の向こうから、遠のく彼の声がまだ彼女の耳に届いている。

「次は、きみのはなしをしてよ」



 四つめの夜。彼女は来るなり、首にかけていた自分の鍵を外して、彼に見せた。

「これがぼくの証明です」


 彼はその鍵を一度受け取って、橙の明かりに照らしてみる。白銀の鍵はきらきらと光を跳ね返して、彼の手のひらの中でいっそう輝いたように見えた。彼はしばらく眺めたのち、それを彼女に返してしまう。受け取った彼女は、ひとつため息をつく。


「あなたに……話して差し上げられるような物語はないんです。ぼくは、近頃……近頃? そう、近頃……なんでも忘れるようになってしまって」

 彼に勧められるまま、彼女は椅子に腰掛けた。


「覚えているのは、紙芝居のようにひとつひとつ引き離された記憶だけ。それは、誰かの言葉だったり、眩しい日差しだったり、風の音だったり、懐かしい匂いだったり……それら全てを、ぼくは完璧なくらい鮮明に覚えているのですが、でも、だめなんです」


「『だめ』?」

「はい。ひとつひとつは覚えていても、それらが繋がらない。その言葉、光景、音、匂いのひとつひとつを愛おしいと思っても、その理由がわからない……そのひとつひとつが、どんな風にぼくの人生の中で意味を持っていたのか、わからないんです」

 こんなに、愛おしいのに。彼女はそれからぎゅっと首にかけ直した鍵を握りしめる。

「でも」

 彼女が上げた目を、彼は優しいまなざしで見つめ返していた。

「あなたは違うんです」

 彼女はそれからはっとした気持ちのまま立ち上がった。


「他の全てが全て、切り抜きの写真でしかぼくの中には残らないのに、あなたとのやりとりを、あなたの言葉を、それに向かってぼくが返した言葉も、それらがどんな意味を持っていたか、そのひとつの連なりの全部が全部、それだけはしっかりとひとつに繋がっているんです。ぼくは、ここに来るとそれを思い出せる……!」


 彼女の言葉は、それまで抑えていたぶんだけ高鳴る胸の響きとともに次々と雪崩れ出た。

「だから、あなたは、そう、あなたは……!」

 さらに喋ろうとする彼女を彼は手で制して、次動いた時には、同じその手で自分の顔を覆ってしまった。

「それは、それ以上は」

 言わないでくれ、と付け加えた彼は、そこになって初めて彼女に苦しみの表情を見せた。そのとき彼女は、誰かに自分の肩を強かに突き飛ばされたような気がした。

「言ったら、おしまいだ」

 それから無重力の星屑の合間、遠く遠くに小さく消えて行く苦悩に満ちた彼の顔を、彼女は何の手出しもできないまま、ずっと見つめていたのだった。



 五つ目の夜もいつも通りだった。彼女は前のような失敗はしまいと考えた。だから、彼女はいっとう慎重に、優しい声音で彼に話しかけた。

「あなたはここにひとりなんですか」

 彼女はそこで、彼以外の声を聞いたことがなかった。

「俺以外は本ばかりだよ」

 彼は、前のときの別れぎわのことを忘れてしまったかのように、朗らかに返した。

「そんなことは、きみにとって重要なことなんだろうか」

 夢見るように、宙に投げ出すように言葉を放つ彼には卑屈めいた様子もないから、彼女はなおさら悲しくなった。

「とっても大切なことです」

 彼女が確固とした意志を持ってそういうのを、彼は眩しそうに見つめていた。

「あなたが、ここにたったひとりでいるっていうこと……」


 彼女はその夜慎重を期して、だから彼女は自分からは彼のほうにそれ以上一歩も近づかないことに決めていた。彼女は今にも進み出そうとする自分の足をじりじりと床の上に縫い止めて、仕方なく立ちすくんだまま彼に話しかける。ああ、そのとき彼女が彼の手を握ることができたら、どんなによかったことか!


「それがぼくにとっては、重大な問題なんです」

 彼女は何の言葉も返さない彼の様子に胸を痛めながら、やはり尚も口を開く。

「やっぱりぼく、あなたの名前を教えて欲しい」

 彼は彼女の望みに応えることはない。ただ、その柔らかい表情のまま、口を開くのみ。

「きみは、またここに来るね」

 彼のその言葉に、彼女はゆっくりとひとつ頷いた。



「最初に会ったとき」

 六つめの夜は、彼女の問いかけから始まった。

「愛は必要だと思うかと、あなたはぼくに聞きましたね」

「そうだね」

 彼はそれから、懐かしそうな目で最初の夜に想いを馳せた。その横顔は、泣きそうな色合いを含んでいるように見えた。

「ぼくは答えました。少なくともぼくを今のぼく足らしめるために、愛は必要であったと。……けれど、同じことをあなたに聞き返すのを忘れていた」

 彼は口を開かない。

「あなたは、」

「俺は」

 きつく問いただそうとする彼女の次の言葉を押しとどめるように、彼は俯いたまま、喉の奥に溜まった息を無理に押し出すようにして声を発す。

「ひとではないんだ」

 そう続いた彼の言葉に、彼女の胸は締め付けられるようだった。

「それは……私が聞きたいことの答えになっていません」

「それが全ての答えだとも」

 彼がそのまま薄情に目を逸らし、その視線が遠く書架の間を滑っていくのがもどかしくて、彼女は自分の唇がひとりでに震えるのを覚えていた。

「そんなのが、あなたが私の問いに答えないことの理由になると思っているんですか?」

 彼女は熱が滲み始めた両のまなこを歪め、彼のことを真摯に睨みつける。

「ぼくと、会話をしてください。はぐらかさないで……」

 それに彼は深くため息を吐くので、彼女はひょっとすると泣いてしまいそうだった。けれど彼女は、彼の前では泣かないことに決めていたんだ。

「次を、最後の夜にしようか」

 彼の姿は彼女の視界の中で蜃気楼のように揺れて、まもなくたち消えた。



 七つめの、つまりは最後の夜だった。

「きみは俺に名前を聞いたね」

 先手を打った彼の声は清らかだ。その響きは、ひとの声とは程遠い。

「それを聞いて、どうするつもりなんだろう」

 彼女は慎重に口を開く。

「あなたの名前を呼んでみたいんです」

「それは」

 彼はその夜、彼女の顔を一度も見ていなかった。


「名前を聞くことで、俺のことを支配したいから? その名前で、その口にできる具体でもって、俺のことを定型に当てはめたいんでしょう。そうして、俺のことを支配した気になって、すべて解き明かした気になって、得意な顔をしたいわけだ」

 それまでになく妙に棘を持った彼の言葉に、彼女は一瞬怯んで、それから消え入りそうなくらいに小さな声で、違います、と答える。


「違うものか。きみはね、上辺では好意のままに俺のことを探求しているんでしょう。けれどね、その心をほんの少し──そう、ほんの少しでいいんだ──掘り返してみれば、きみの心っていうのは、きみ自身も知らなかったような、浅ましい感情に満ちているんだ。きみはひとのことを支配しようとするほどには、自分のことを支配できていない……きみのそういうところが、自分自身のことを、全くもって知らないというところが、そうしてすまし顔で自分の醜悪を知らないところが、俺にとってはよほど腹立たしいことだ」


 彼女は彼の言葉に顔を赤くしたり青くしたりしている。彼はその顔をちらりと見て、ぐっと奥歯を噛みしめる。

「俺は、きみと話していて、苦しくて仕方ない」

 彼のその言葉はあまりに彼の心に忠実だったので、聞く者は目眩を起こしそうなくらいだった。彼女は、ぐらりとふらつく頭と足を抱えた体でなんとかその場に踏みとどまり、なおも彼を見つめる。

「違うんです」

 やっとのことでまた口を開いた彼女は、睨むような彼の目線に耐えながら、なんとか口を開く。

「あなたが言ったような心算なんて、ぼくの中にはありませんでした。誓って、誓ってそんなもの……」

 彼女の目に涙が溜まっているのを見て、彼はきつく拳を握る。


「違うんです、あなたは、ひとりぼっちなんです……だから、あなたは、きっと『誰にも名前を呼ばれないひと』で……」


 彼女の言葉はそれ以上は続いて行かなかった。彼女の言葉の終わりを、あまりに広大な図書の森が、穏やかに抱きすくめて消してしまった。そうして訪れた冷たい沈黙を崩さないままに、無機質な彼の声が流れ出す。


「俺にはね、もう一つ、きみに言っていなかった『くだらない』ことがあるんだ」

 彼女は流れる涙を見られまいと、顔を上げないでいる。


「俺にはね、人の考えていることが分かるんだ。きみがどうやってここに来たか、普段どんなふうに生活をしているか、周りの人間にどう呼ばれているか、それに……きみが女性の身分を偽ろうとしていることだって」


 息を呑む彼女を彼は、不思議なほど穏やかな顔で見つめている。

「そして、きみが俺に向けている感情が、一般に言えばきっと『恋』と呼ばれるものだっていうことも」

 何の気もないふうにそう続けた彼に、びっくりした彼女はさっと顔を赤らめた。けれど彼は、動じることなく残酷に言葉を続けていく。

「でも、……もうきみにだってわかっているだろうけれど、俺にはきみのその思いに応える用意がないんだ」

 赤くなっていた彼女の顔は嘘のように白けていく。見開かれた青い目は、驚きで満たされて、未だ悲しみを得るに至らない。

「ごめんね」

 伏した目ではっきりとそう発す彼の依然として善良な顔を見て、彼女の目にやっと悲哀の色が見え始めた。

「いえ、そんな」

「『謝られたくない』?」

 彼は彼女の言葉を先回りする。驚いた様子の彼女がまた口を開こうとするのを制すように彼はまた残酷にも言葉を継いでいく。

「『あなたは何も、悪くない』」

 彼女はとうとう涙をこらえられなくなった。

「『自分が惨めでしかたない』」

 淡々とした彼の口から反射される彼女の言葉は、ますます彼女自身を追い込んでいく。

「『今までのことを全部忘れてしまいたい』、って?」

 悲しみを隠しきれない彼女の目が、なおも優しく微笑む彼を、滲んだ視界の中央に捉えた。


「俺にはね、きみが嘘をついても分かるんだ。だから、そうだとひとつ頷いてくれればいい。そうしたら、きみの記憶を綺麗さっぱり消してあげられる。俺たちは、最初から会わなかったことになるんだ、だから」

 彼はやさしい人だった。そして彼女も、聞き分けのいい人だった。彼女は涙に震える口元を両手で押さえ、あまりに素直なまなざしで、ゆっくりとひとつ、頷いた。



「危ない、あぶない……危なかった」

 彼は酩酊したかのようにふらふらとよろめきながら、なんとか手近な椅子の背もたれを捕まえる。それから、体をそこに引き寄せて、どっかと腰をおちつけ、彫刻のようにこうべを垂れた。図書館の中には、もう彼の分の息の音しかしない。それ以外は全て死滅しているかどうかといったところだ。


「ああ、ああ」

 彼の喉から溢れる声は悲痛である。

「彼女、なんて、なんて言った? ああ、そうだ、こう言っていた。俺が、『誰にも名前を呼ばれないひと』だって……」

 彼の頭はくらくらと悲しみに満ちていた。


「そうだ、彼女は、俺のことを案じている。こんな意地悪なくらいに静かな場所にたったひとりの俺を……。彼女に浅ましい心づもりなんて、ひとつもありやしない。彼女、俺のことを、ことによると恐ろしいことに、『愛そうと』……! ああ、そうだ『愛そうと』しているんだ!」

 彼の喉の奥の嗚咽は、静まり返った図書館の中で、ふるふると寂しげに響いた。

「それなのに、ひどいことを、恐ろしくひどいことをいった。むやみに彼女を傷つけるようなことを……いや、それがいちばん良いんだって、わかったんじゃないか。優しく突き放したって、彼女、何度も食い下がった。あの、使命感めいた崇高な顔つきで。そう、そうだ、あの顔は、あの顔は俺にとって……」


 彼は尚もぶつぶつと独り言を続ける。


「彼女、彼女のあの顔を見ていると、いつもすんでのところで踏み間違えそうになる。恐ろしいことを考えてしまう。彼女を『愛おしい』と思ってしまう。寄り添っていたいと思ってしまう。でも、それは、それはいけない。だって、彼女には彼女自身の、俺には関わりのない別の幸せがあるんだから」


 彼は舞台役者のように雄弁な声音のままそう喚いて、その次には髪をくしゃくしゃと掻きむしった。

「彼女を不幸にするなんて、そんな、そんなの俺にはできない……してはいけない。だって、彼女を、俺は、『愛して』いるんだから……」

 彼は、今度はぜんそくの患者のように、ぜいぜいと息を漏らした。その姿は、あまりにも気の毒だ。

「君は、どう思う?」

 今にも泣き出しそうな顔で頭を抱えていた彼は、僕の方を向いた。

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