6話 夜に落ち、月を呑み

 絶望したようなイチイの顔。その顔が向いているのは、西十番街の外れ、私が父さん母さんと一緒にやってきた街の入り口。でもそこに「外」はなかった。街の外には別の街並みが広がっているはずなのに、私に見えるのは真っ暗闇だけ。そして、私の身体には「夜」が「いかないで、いかないで」って言うみたいに纏わり付いているのだ。その「夜」っていうのは、それがどういうものなのか私にはそれ以上なんとも説明できないんだけれど、それが「夜」だってことはわかるの。むしろ、それしかわからないんだ。私、何にも考えられなくて。どういうこと、と問うようにイチイの顔を見るけれど、イチイといえば口を開けっ放しで何も言わない。それから顔を覆って膝から崩れ落ちてしまった。


「だめだ、お前も……」

 そのときどこかからひとの声が聞こえて来て、イチイは反射的にそちらのほうにばっと顔を向けた。

「あいつらが」

 イチイは唇を噛み締め、それからすぐに立ち上がって私の手首を掴む。

「殺されたくなければ走れ」

 さっきまで震えていた金色の目が、今度は私をきっと睨んでいた。



 それから私とイチイは、狭い路地のもっと狭い建物の隙間に身を押し込んで、ひとの気配が消えるのを待っていた。きゅうきゅうになった壁と壁の間で、私は息を落ち着けようとしてどうしようもできないでいた。だって、これからどうやって生きて行けばいいんだろう。父さんと母さんがいなくなっちゃった。なんだか街の外にも出られないみたいだし、きっと家にも帰れない。それに、街の外に出ても、私きっと誰かに捕まえられて死んじゃうんだ。私はさっき広場で自分に向けられていた、たくさんのひとたちの目を、あの美男子の切り裂くような言葉を、愛おしい父さんと母さんのまなざしを、制服の女の白い刃を思い出した。怖くて心細くて仕方ない私が、また泣きそうになっていたことに気づいたのか、イチイは、なあ、とできるだけ優しく、というか優しく言おうとしたんだろうなっていう声で私に話しかけた。


「俺はこれから自分の部屋に帰らなくちゃならない。実はあんまり、調子が良くない」

 そう言ってイチイは自分の腹をさすってみせる。あの優男に触れられて、血が出たところだ。なんだか血は止まってるみたいだけれど、その横顔は疲れ切っていた。

「それに、妹が待ってる」

 イチイの言葉に、私はぽつり、と言葉を吐く。

「『みなみ』ちゃん……?」

 その言葉に、虚ろな目をしていたイチイがばっと顔を上げた。

「なんで知ってる?」

 思った以上に大きなその反応に、私はびっくりしてまた泣きそうになった。そのまま、喚くみたいに、

「あんたが言ってたんじゃない! 『みなみ』が言うから、私を追ってきたんだ、って……」

 なんて、きちがいみたいな声が出る。だめ、こういうときって、ちょっとしたことにも泣いてしまうからだめね。息を落ち着かせようとしたのに、目に涙がにじんでいたのがばれたみたいで、イチイはばつが悪そうに口を歪めた。それから今度はまたばかみたいに小さい声で私に話しかける。


「……これはひとつの提案だ。お前が望む方を選択しろ。……それで、まず状況を整理するぞ。お前の居場所というのは、今はこの街のどこにもない。そんで、これからこの街をうろつくのもあまりおすすめできない。制服連中がしばらくはお前を探して街中を嗅ぎ回るだろうからな。それで、大事なのはこの先だ。とりあえずお前が自分の居場所を見つけるまで、さしあたりは街の外に陽が昇ってまた沈むまでの間、俺はお前を匿ってやることができる」


 そこまで言ってからイチイは小さく息をついた。それからきょとんとしたままの私の反応を伺うようにちら、とこちらに目線を送った。

「どうする?」

 私の息は短く切れ切れだったけれど、喋ることはできたんだ。

「おねがい」


 イチイの部屋はあの広場からは随分離れた、街の端っこのほうにあった。この街は、表通りももちろん汚いけれど、イチイの後ろを追って来た街のはずれはもっと……言ってしまえば廃墟みたいで、華やかなネオンもほとんどない。掃き溜めの中の掃き溜め……っていうことなのかな。ここには人通りが全然ないんだ。よそのひとがわざわざ見に来るものもないからかな。


 イチイは通路なのかもわからないようなビルの隙間をずんずん進んで行く。ひとがいないのに建て込んだビルのうちのひとつに入って、階段を右に折れたり左に折れたりしながらふたりで上っていった。ここ、何階なんだろう。階段の長さもばらばらだからわからないんだよね。それから壁の色がつぎはぎな暗い廊下を歩いて行くと、つきあたりでひとつの小さな影が、ひょこ、と立ち上がった。彼女はびっくりした様子で私の姿をみとめる。


「みなみ」


 イチイの表情が少し緩んだように見えた。そして、今までしっかりと歩みを続けていたイチイの足が一瞬もつれて、背中が揺れる。そして、まるでそれを支えようとでもするかのように、イチイよりもずっと背丈の小さいみなみちゃんが彼に駆け寄った。それからイチイはみなみちゃんの前で両手をあれやこれやと動かしてみせる。私がきょとんとしたままそれを見ていると、イチイは私のほうを指差してまた両手を動かした。みなみちゃんはそれを見て、はっと息をのんでから私に目を向けた。それからもう一度イチイの目を見て、彼と同じような調子で手を動かしてみせる。みなみちゃんの手が動きを止めると、イチイは私のほうに顔を向けた。


「入れ」

 彼が顎で指した先には、お世辞にも立派とは言えないような、古びたドアがあった。



 部屋は殺風景だった。でも、ひとの家のことをとやかく言うのがものすごく失礼なことは私にもわかっていたから、みなみちゃんが微笑んで私に勧めてくれた座布団に、私はありがとうを言って座った。そうやって私に優しくしてくれるひとがいるっていうことが、それだけですごく嬉しかったんだ。壁紙は、白かったのが少し煤けてその上黄ばんだって感じの色。天井にはいまいち明るくない照明が下がっていて、部屋は広い割にものが少ない。右手の壁には襖がふたつ。もう一部屋と、なんだろう。お風呂かな。ここにふたりで住んでいるんだよね? 私を部屋に通してすぐ、イチイはそのふたつある襖のうちのひとつのほうに歩いて行く。


「悪い、少し、眠る……」

 そう言ったイチイのほうに心配そうな顔で近づいて、みなみちゃんは手を動かすけれど、イチイはかぶりを振った。それから、ぽつりと小さな声が

「医者にかかるほどじゃない」


 と言うのが私にも聞こえてくる。すぐにイチイは後ろ手に襖を締め、隣の部屋に消えて行った。すると、部屋にはなんの音もなくなった。イチイの背中を見送っていたみなみちゃんがこちらを向いて、可愛らしいつり目が私に向かって微笑む。そうすると、私の口から、留まっていた言葉がするりと出てきて。


「あなた、耳が聞こえないのね」


 私の口の動きに目をぱちくりさせて首を傾げてみせるみなみちゃんに、私ははっとした。そっか、わからないんだ。私は堪らず口をつぐんで手を握りしめるけれど、私、手話はできないんだよね。さっきふたりがやっていたのって手話なんだよ。ふたりは手で会話してたの。私がどうしようもなく居心地悪いままにみなみちゃんの目を見ていたら、彼女は思い当たったような顔で箪笥を探って、メモ用紙と万年筆を私に差し出した。それから、書いて、と言う代わりに微笑んでみせる。私がそれを受け取ると、みなみちゃんはもう一枚座布団を引っ張って来て私の横に座った。それからにこにこして、私が万年筆のキャップをとるのを見ている。文字にするっていうと、なんだか緊張してしまうな。耳が聞こえないの、なんて今更聞くのも変な話だし……と色々考えてペンを動かせないでいると、みなみちゃんは私の顔を覗き込んで、自分自身を指してから私の持つ万年筆に触れた。私がそのまま万年筆を渡すと、彼女はメモ帳に「名前」と綺麗な文字で書き綴った。それから、教えて、と言うようにまた愛らしく微笑んでみせる。それから私は自分の名前をメモ帳の上に書いた。


 亜


 つぐ、と読むその字を書き終わって、私のペン先は止まってしまった。その先は、なんだっけ? 使い慣れた自分の名前の次の音を探すけれど、頭の中に浮かぶのはぽっかりと空いた空白だった。どうして、思い出せないんだろう。それで、これは下の名前だから、私の苗字……父さんと、母さんと、おんなじ苗字。それを思い出そうとしても、頭の中にあるのはやっぱり同じ空白だった。私、なんでこんなに大切なこと忘れているんだろう。ド忘れって奴? そういうの、自分の名前にもするもんなのかな。そうやって考えていたら、自分の手が震えているのに気づいた。違う、こんなこと、忘れるわけない。じゃあ、どうして。それから私は必死になって頭の中の思い出をひっくり返した。お習字で何度も書いた私の名前、何度も練習して上手くなったの。どうやってそういう名前にしたのか、十五になったとき、ふたりに話されたの。母さんが好きな音だからって、それに父さんが漢字をつけたって。溢れてくる記憶をかき回して最後に私がつかんだもの、それは、母さんの着物の袖だった。私に向かって差し出された、あったかい手のひらだった。「つぐ」と呼んだ、優しいあの声だった。


 気づくと、メモ帳の上にはペン先からインクの真っ黒なしみがぼうっとおばけみたいに広がっていた。万年筆が私の手のひらから滑り落ちて、畳の上を転がって行く。ああ、私、また泣いてるんだ。うそみたいに涙が溢れて止まらない。私が泣きたいよりもずっと、涙がたくさん流れてくるの。私さ、もういない父さんと母さんに会いたくて仕方ないんだよ。そうして目を覆うのに、私の頭の中に浮かぶのは、私に向けられた、顔と、顔と、顔と、顔と……。叫び出しそうだったとき、いっとう優しく小さなふたつの手が私の手に触れた。その手は覆われていた私の顔を、傷つけないように、怖がらせないように開いてみせる。そうやってあらわになった涙でぐちゃぐちゃの私の顔を、みなみちゃんはあの印象的な目でしっかりと見つめた。晴れた日の海の波打ち際みたいな、明るい、透けるような水色の瞳。ああ、綺麗だなって、泣いてることも忘れたみたいに私はその水色に見入った。この色を、ほかにどうやって例えたらいいんだろう。


 浅い水の底にいると思った。全部の音がくぐもって、やわらかい、温かい、水の中。ああ、触れていた気持ちが落ち着いていく、安心する、って思った時、目の前にはみなみちゃんがいて、彼女の目からは私と同じように涙がこぼれていた。


「なんで」

 と漏れた私の言葉さえまとめて包み込むように、彼女の細い体が、精一杯優しく私のことを抱きしめた。彼女は相変わらずなんにも言わなかったけれど、彼女がものすごく優しいひとだってことは、私にはもうわかってしまったんだ。私からそうっと離れて、みなみちゃんは転がった万年筆を拾い、メモ帳に、さっきと同じように綺麗な字で書いてみせる。


 私、気持ちを、もらってあげられるの。


 それから私がみなみちゃんから「聞いた」こと。優しい文字が私に一生懸命「話した」ことは、次の通りだった。


 そもそも、この「掃き溜め」とも呼ばれる「西十番街」には、「ひとでなし」と呼ばれる、「ひとではないものたち」がいるということ。そのひとでなしたちは、ひととして何かを失くして、その上でひとの力を超えたものをもっているということ。そして、彼女自身も「ひとでなし」であるということ。


 さらに彼女が「言う」には、「ひとでなし」になる前は彼女も耳が聞こえたのだそうだ。つまり、彼女の失くしたものは聴覚。そして、失くしてからは、目を合わせた相手から「気持ちをもらうこと」ができるようになったという。さらに、彼女もまた、私と一緒で、「ひとでなし」になる前の名前を覚えていないらしい。「ひとでなし」は皆、昔の名前を覚えていないのが普通なんだって。


 たぶん、みなみという名前ではなかったと思う。


 と、綺麗な文字は言った。でも、好きなひとたちがそう呼んでくれるから、この名前もすき、と、愛らしい笑顔は書き綴った。ああこの子、ひとを幸せにするひとなんだ。私のほっぺも、自然とほころんでしまうもの。そんな風にふたりで楽しくしているところに、襖が擦れながら開く不躾な音がして、私がそちらを見やると、イチイが立っていた。本当にしばらく寝ていたらしくて、元々悪い目つきがもっと悪くなっている。


「お前に話しておくべきことがある」

 そう言ってイチイは私の横にどっかりと腰を下ろした。イチイが口を開く前に、私は先手を打ってやる。

「『ひとでなし』が普通のひととどう違うかとか、そういうことはみなみちゃんから話してもらったわ。私が自分の名前を覚えていないことも……もう、わかってる」

 私の言葉を聞くや否やイチイはぱっとみなみちゃんの顔を見て、それからすぐに私のほうに視線を戻す。

「そうか、なら話は早い。つまり、お前はもう自分が立派な『ひとでなし』になったことを、わかっているわけだな?」


 自分が「ひとでなし」だと言われて、私ののどはきゅっと詰まった。

「一度言ったかもしれないが、『ひとでなし』はこの街に……そう、この、街に……囚われているから、外に出ることができない。そして、その囚われの証明というのが、お前が街の外れで見た、あの、『夜』だ」


 私は、身体中に纏わり付いて来た「夜」を思い出して、ぞっとした。

「あの『夜』に囚われるのは『ひとでなし』だけなんだよ」

 イチイの苦い顔は、私に心臓をぎゅっと握られたみたいな思いをさせるのに、十分だった。

「でも、私、まだ名前を忘れただけだわ。耳だって聞こえるし、みなみちゃんみたいな力もない……」

 困り果てながら私がそう言うと、イチイははっきりとこちらを見つめる。

「何かを失うのにも、奇異の力を手に入れるのにも、少し時間がかかる。あれは徐々に馴染んでいくんだ、お前の身体に」

 それからイチイは、前とおんなじように、まっすぐ私のことを指差してみせる。

「じゃあ、じゃあどうして私は『ひとでなし』になっちゃったの? 私、どうして……」

 言われたことをやっぱり受け止めきれなくて、私がそう問いかけると、イチイは悲しそうな目で私を見た。

「はっきりとはわからないが、お前が対峙した『あの男』……『あの男』には、ひとを『ひとでなし』にする力があるんじゃねえのかと、俺は睨んでいる……」

「『あの男』……」

 それからイチイは、苦しそうに目を細めた。

「俺は、お前の両親だけじゃない、お前のことも救えなかったんだ」


 私はその悲しい目を見つめ返すことしかできなかった。なに、なによその目。だって、見ていられないような、あんまりにも、あんまりにも、辛そうな……。私は頭を軽く振ってから口を開く。

「あんたは、やるべきことをやってくれたわ」

 私の声は自分で思っていたよりもずっと淡々としていた。私がいちばん驚いちゃうくらい。そうだ、さっきみなみちゃんが「気持ちをもらって」くれた後から、心ががたがた震えなくなったんだ。

「私が、ひどく、ひどく子供だったのよ」

 自分でそう言ってしまっても、もう涙は出なかった。私はほんとうのことを言っただけだもの。

「お前……」

 イチイが何か言おうとしたのをとどめて、私は彼に向かってぐい、とメモ帳と万年筆を押し付けた。

「あんたの名前、きっと字もあるんでしょう。みなみちゃんは平仮名だって教えてくれたけど、あんたも、教えてよ」

 私の物言いにイチイは少し目を見開いてから、案外素直に万年筆とメモ張を受け取って、角ばった文字でそこにふた文字書いた。

「『市井』……」

「何のひねりもない。そのままだ」

 それから市井は万年筆を横に放ってしまう。

「そんで、今日はもう遅くなっちまったからいけないが」

 市井の視線を追うと、壁の時計は午前二時を指していた。

「お前は明日、というか今日、『花屋』という娼館に行って、そこにいるこの街の元締めから、自分の過ごす『部屋』の『鍵』を取ってこなくちゃならない」

「『鍵』……?」

「ああ、俺だってこれを持っているからここに入れるんだ」

 そう言って市井は自分の首にかけていたらしい細い鎖を引っ張った。彼の服の襟から最後に顔を出したのは、銀色の、なんだか古びた形の鍵だった。

「さっき、そんなの使ってた……?」

 この部屋に入るドアの鍵穴の形を思い出そうとする。

「『鍵で扉を開ける』ってことじゃなくて、『これを持っているべき者がこの部屋に入れる』ってことが大事なんだよ」

 もっともそうな顔でそう言う市井の言葉を飲み込もうとして飲みこみ損ねて、でも面倒くさいから、私はそれ以上つっつかないことに決めた。

「そんで、『ひとでなし』になった、っていうんならな、お前にも『部屋』があるはずなんだ。お前にふさわしい、『部屋』が」

 そう言って市井は私の前で例の鍵を振ってみせる。それから鎖をもう一度首にかけながら、

「お前には、あれを呑み込むのは少々酷かもしれないが、まあ、先に名を失ったやつはまだましだって噂も……」

 とか、ひとりでぶつぶつ言っている。私が口出ししようとしたら、市井は、まあいいから、なんて言って、私を押しとどめる。私は良くない。だから、むっとしながら、

「じゃあ、夜が明けたら、その『花屋』に行けばいいのね?」

 と聞いたのだけれど、

「ここでは夜は明けない」

 と即座に返される。それに私は、はぁ? の形に口を開けた。


「言った通り、そのまんまだ。まあ、一度見て見りゃあわかる。とりあえずはだな、お前に今言っておくべきことはそれくらいだな。俺はまだ寝足りないから寝る。お前もそのへんで適当に」

 そう言い捨てて立ち上がろうとする市井の肩を、私は上から押さえつける。市井はもろに苛ついた顔をしたけれど、私は問答無用、とさっさと質問をしてしまうことにした。

「あの『制服の連中』、あれは一体なんなの」

 私の目をぶすっとした顔のまま見据えてから、市井は

「ここの警察機構だ。とりあえずはそう覚えておけばいい」

 と、びっくりしちゃうくらいめんどくさそうな顔をして答えた。そこから市井がため息を吐いて、また立ち上がろうとするのを私はもう一度同じように押さえ込む。

「もうひとつだけ、聞きたいことがあるの。マントを羽織った『あの男』の名前」

 市井の眉がぴくりと動く。けれど、その口は黙ったままだ。

「もう、聞かせてくれるんでしょう? だって私、もう『よそ者』じゃ、ない……立派な『ひとでなし』だもの」

 私がきっと睨んだから、市井は少しも私から目線を外さなかった。それから、メモ帳に万年筆のペン先を走らせて、ゆっくりと紙面を私に示し、その名を口にする。

「あの男の名を、『北崎』という」



 その夜、私はどうにも寝付けなかった。みなみちゃんの不思議な力のおかげで心はずいぶんと落ち着いたはずだったのだけれど、なぜだか上手く目を閉じていられなかったんだ。眠れない夜はなんだか酷く長い。くすんだ壁紙の中にはめ込まれた格子窓から夜空を覗いて、私は知らず知らず、朝を待っていた。けれど、とうとう朝は来なかった。太陽は昇らなかった。「朝の」八時を指している時計を横に窓辺でしばらく過ごしていたのだけれど、晴れ渡った夜空には満ちるのを待つ白い月がぽっかりと輝いている。それだけなんだ。その白い美しさが、私には絶望的だった。けれど、なぜだかもう声をあげて騒ぎ立てる気にもならない。みなみちゃんは何事もない顔で、布団の中でまだぐっすりと眠っている。だってここは、「掃き溜め」なんだもの。これが、普通なのよ。



 夜の七時になっていた。

「店の前まで案内してやる」

 と、市井は私に目も合わせずに言う。わかってきたけれど、このひと、ひとに親切にするのに神経を使うんだわ。私と市井は、みなみちゃんを残して部屋を出る。しばらく何も言わずに歩いた後で、市井は私に話しかけた。

「『たかね』に会いたいと言えばいい。高い峯の女、『高峯』」

「『高峯さん』ね」

 その名前に、私は「高嶺の花」なんて言葉を思い出す。それとかけているのかしら、なんて。

「ねえ、あんた、いいやつよね」

 と、私がぽつりと言うと、市井は何を、という目で私のことを見た。なんだか失礼だけど、それでもいいや。

「北崎と向かい合った時、私、あんたのこと頼りにならない、ひどいやつだって、思ったの。でも、あんたは私の味方だったじゃない。それを、謝りたくて」

 そう言いながら私はなぜか泣きそうになっていた。

「私、あんたが一緒にいてくれたらさ、なんでも、どんなことでも、なんとかなるような感じがするの……」

 と、私が話しているのを見ていた市井は、淡々とした顔で、

「俺は店の前までしか行かないぞ」

 と言う。固まって足を止めた私に、市井は眉をひそめた。

「言っただろう、さっき」

「でも」

「俺は店の中には行かない。絶対に、行かない」

 それから市井はうんざりと頭を振ってみせる。私は気がついたら自分の頭にも響くような、きんきんとした声を上げていた。

「なんでよ? 付いてきてよ! どうせ予定もないんでしょ? 私が可哀想だと思わないの? 困ってるひとには親切にしてよ!」

「もう十分親切にしてやっただろうが」

 市井は見るからに苛々していた。次いで、ぽつりと呟く。

「俺はあそこ、出禁なんだよ……」

 私は頭に浮かんだのをそのまま、なにそれ! と叫ぶ。

「やっぱり肝心なところで役に立たないわね! あんた!」

「おうおう、元気でいいことだな。あと十日はその声を聞きたくねえくらいだ。というか、もうここまで来ればわかるだろう」


 喚く私をいなして、市井はじゃあな、と手を上げてとっとと道を引き返していってしまう。ばか! とその背中をののしってから、私は仕方なく、むかむかしつつもひとりで表通りを進んでいく。そうしているうちに、市井がひととして何を失くして、どんな不思議な力を持っているのかを聞き忘れていたことに気づいた。ああもう、何から何までむかむかする。あとで絶対部屋まで押しかけて問い詰めてやろう。ずんずん足を踏みしめて歩き続けて、気づいた時には、私はもうあんまりにも派手な建物の前に居た。


 「花屋」のきらきらした建物は表通りにあまりにも堂々とあった。そうだ、そこに着いて証明に照らされた看板の文字を見てわかったのだけれど、お店の名前は、ほんとうは「華屋」だった。どちらでもいいと思うけど、一応ね。それで、その華屋の、日本家屋をいくつもでたらめに積み上げたみたいな変な建物には、ごちゃごちゃと装飾が揺れていて、趣味が悪いのに街並みに馴染んでいるんだ。


 でも、私、ほんとうにここに入らなきゃいけないのかしら。「華屋」の前にはくすんだひとだかりがあった。近づいて背伸びしてみると、そのひとだかりの前には木の格子がある。もっと背伸びをしてみたら、その格子の内側には、ぎらぎらした衣装をまとった女のひとたちがくつろいで座っているのだ。なんだか気恥ずかしくて背伸びしていた足を戻してちょっと後ずさる。知っていたけど、ほんとうにそういうお店なんだ。やっぱり市井に頼んで明日一緒に来てもらおうかな。「絶対に行かない」なんて行っていたけど、あいつ、あれで面倒見がいいもの。泣き落とせばきっと一発だわ。こんなところ、私みたいなのがひとりで来るものじゃないし……。なんて私が尻込みしていた、そのとき、


「おう、なあ、そこの、」

 と元気のいい男の声がして、誰だろうと顔を上げると、目の前のくすんだひと混みがふたつに割れて、黒いロングコートを纏った若い男がこちらにずんずんと歩いて来るところだった。

「なあ、君だよなあ?」


 と、男はにこにことひと懐こそうな顔で笑ってみせる。どうやら私のことを見ているらしい。耳元にはピアスがぎらぎらとしていて、結んだネクタイはゆるめられていて、腰には日本刀かな? そういう風なものが下がっている。一言で言えば、ちゃらちゃらとしていて、「まともそうじゃないひと」って感じ。そして、そのとき私が直感でわかったのは、このひともきっと「ひとでなし」なんだろうな、ってことだった。私が気になったのは、愛想よく笑いつつも、そのひとの目が猟犬みたいに爛々としていることだった。背中がなんだかぞわっとして、恐ろしくて逃げ出したかった。けれど、私がそうと決めて足を動かす前に、その若い男は私の目の前まで歩いてきてしまっていた。


「やっぱり君だ」

 それから男は目を細めてまた笑った。言っておくけれど、私、このひとを知らないんだ。そうして私が戸惑っているのに気づいたらしくて、男はああ、と声をもらした。

「昨日、広場で北崎と裁判をしていただろう、君。俺もあれを見ていたんだよな」

 男はそう言ってなんともなしにへら、と笑ってみせる。私が「北崎」の名前にびくりと肩を揺らしたのも御構い無しに、世間話のように男は続けた。

「あれ、かなり面白かったぜ。そんで、君もどうやら『ひとでなし』になっちまったってわけだ。ああ、それと、……そうか、ご両親のことは残念だった」


 きょとんとしたままの私に、男はついでみたいに父さんと母さんの話をした。そうしておいて何にも悪びれない顔をしている。呆気にとられたままの私は、喋られるばっかりで自分が一言も話していないのに気づいた。やっと出たのは、ますます心細くなるくらい小さな声。


「『高峯さん』に、会いたいんだけど……」

 私のその言葉に、男はちょっと驚いた顔をしてから、に、とその目を細め、足のすくんだ私を放っておいて仰々しくお辞儀をしてみせた。それはすごく芝居掛かった動作なんだけれど、彼、なんだかそれっぽいんだ。そのお辞儀が似合ってるの。

「ご案内いたします。お嬢さん」



 男の後ろに従って館の中に入ると、ごちゃごちゃした外見のわりに、中は意外と落ち着いていた。ぽつりぽつりと橙色の電灯がともる廊下を歩いていく。ああ、中庭もあるんだ。広いのね。私の前を歩く男は、鼻歌を歌っている。そのメロディーを聴くのがなんだか気持ち悪い。それに、どこかで聞いた曲、と思っていたら、昨日、広場で制服が吹いていたホルンの曲なんだ。


「その曲……」

 という私の声に、男はちょっと振り向く。

「ああ、『マルセイユの歌』だな。君も知ってるの?」


 思いのほかはっきりとした答えに、私はびっくりした。こんなちゃらちゃらしたひとにも、クラシックの素養があるんだ。いや、私がひとを見かけで判断してるのが悪いのかな。でも。


「ああ……そう、そうだわ、すごく、勇ましい、歌……」

 そう言いながら昨日の裁判のことがまた頭の中に生々しく浮かんできたのにぞっとして、私はそれを押しとどめた。そんな私のことなど知りもしないで、男は苦笑する。

「そう……勇まし、すぎる、歌だな。歌詞は知っている?」

「……? いいえ、メロディーだけ」

 私の言葉に男はまた少し笑ってから、肩をすくめてみせる。その気取った様子になんだか腹がたつけれど、厄介ごとは嫌だし、私は黙っておくことにした。

「じゃあ、今度調べてみるといい。そして、フランス革命史をひとさらいすることもご一緒に、おすすめしておこうか」


 私がなんだか煮え切らないまま、我慢して男の後ろを歩いていると、男は不意に体ごとこちらを向いた。その顔は意地悪そうに、に、と笑っている。直感的に、何か嫌なことを言われると思ったし、それは正解だった。


「俺、君より先に死ぬ気がしないな。いや、ぜったいに、」

 にやけていた男の目が暗い夜の空気の中で見開かれて、嘘みたいにぎらぎらと輝いた。

「君よりも長く、生き残ってみせる」

 男のその態度に面食らった後で、私はとうとう我慢していられなくなった。きっとすごく怒った顔をしていたと思う。気づいたら口を開けていたんだもの。

「あなたの名前を教えておいて」

 怒っているのを隠さない声で私がそう聞くと、男は少し首を傾げてから、もちろん、と嫌味なくらい嫌味もなく、例のひと懐こそうな顔で笑って見せた。

「『ヤツデ』っていう」

 明るい色の髪が揺らぐ。

「そう、覚えとくわ」

 この少しの間にわかったことがある。私、このひとのこと、一から十まで大嫌い。



 障子の前でヤツデは歩みを止めて、

「連れてきました」

 と部屋の中に向かって声をかける。そうすると女の声が

「入んなさい」

 と返ってきた。ヤツデは私を振り返って目配せをする。愛想良く笑ってるのも、もうなんだか鼻についてたまらない。それでも開けられた障子の隙間に素直に一歩踏み込むと、ヤツデが私にそっと囁いた。

「まあ、精々頑張れよ」

 振り返った時には、私の目の前で丁度障子が閉められてしまうところだった。

「お座りよ、そこいらに」


 柔らかい女の声に私がぱっと顔を向けると、畳の部屋の奥には花のような女が座っていた。それから女は煙管で気だるそうに自分の十歩くらい先あたりを指してみせる。私は慌てて煙管の指し示す先まで行って正座をする。


「可愛らしいお嬢ちゃん。名前はもう失くしちまったのかい」

 高峯の優しそうな目元が、私のことを見つめている。

「はい」

「そお、そのあたりも、もうわかっちまってるわけ」


 それから高峯は立ち上がって私のほうへやって来た。私はなんだか心地よい空気に、その姿をぼうっと目で追っていた。いつのまにか、高峯が私の目の前で微笑んで、私の顔をその両手で包み込んでいる。

「ああ、勿体ない、勿体ないねえ。まだあんたが元の名を失くしていなかったら、あたくしがあんたに名前をつけて、あたくしの子にしてやれたのにねえ」

 そうしていられるのが、よくわからないけど私は嫌じゃなかった。今会ったばかりのひとなのに、なんだか昔会ったことがあるみたいだった。そのまなざしを受けていると、心があったかくなっていくの。ああ、そうか、このひとって。


「そんで、聞きたいことがあるのだけれど」

 私はぼんやりと高峯のやさしい目を見返して居た。柔らかい、優しい、女のひとの目。あたたかい温度。それが、不意に見開かれる。

「あんた、盗人でしょう」

「え」


 戸惑う私を急に突き飛ばした高峯は、ひとを殺しそうな目で私のことをじろじろと見つめている。私が身体をこわばらせてそのまま動けないでいると、彼女は元の座っていた場所によたよたと戻り、そこにあったものをとりあげた。


「ねえ、答えなさいな」

 高峯が持っているのは短い刀だった。私がぎょっとして反射的に立ち上がると、そんな私の様子を見て、高峯は口だけで笑う。

「ああ、やっぱり、やっぱりねえ、そうなのねえ」

 高峯は次に鞘から刀を抜き出して、その刃をぎらぎらと輝かせる。

「あんたも、『あの疎ましい子ども』とおんなじ、おんなじ……」

 私の足はもう駆け出していた。障子を開けて廊下に飛び出すと、

「ひとさらい!」

 という高峯の声が私の背中を追ってきた。

「捕まえて! 早く! その娘を殺して頂戴!」


 最初とは打って変わったヒステリックな女の声が、つんざくように高く響いて、私の背中を追ってくる。もたもたすると殺される、という確信に突き動かされた私は、どうしてこんなことになっているんだろう、なんて悩む暇もなかった。理由なんてどうでも良い。逃げなくちゃ。考えたってどうにもならないんだ。今逃げないと殺されるんだ。そう思って出口へと二、三歩駆け出した私を、乱暴にぐい、と引き戻す力があった。夢中で振り返ると、そこにはヤツデが不敵な笑みを浮かべて立っていた。


「やっぱり先に死ぬのは君だったな」


 そう言ってヤツデは不気味に目を歪ませて、私の着物の袖をしかと掴んでいる。その様は、まちがいなく、ひとでなしの──。無駄のない右手の動きに、すらりと抜かれた刀が輝いた。私の目の前にあったのは、私が今まで見たこともないような、自分に向けられた露骨すぎる「殺意」だった。


 恐ろしくて声も出ない私が、それでも自分に「生きのびなくちゃ」と言い聞かせてもがき続けると、案外簡単に手を離された。振り下ろされると思った刀の下から思いがけず逃れた私は、ヤツデに背を向けて、一目散に廊下を走って行った。なにがどうだってよかったんだ。折角みなみちゃんと一緒に着付け直した着物がくずれたって、ましてや帯が落ちてしまったって、もう気にしない。追ってくる足音がしないことに気づいて、曲がり角で振り返った一瞬、私の視界にはふたつの人影が見えていた。ヤツデと、もうひとりは、高峯じゃない。黒いスーツを着た、ヤツデよりは小さな、女。黒髪。そして、彼女もまた私のほうを見ていた。一瞬だけ交わった視線。朱色の瞳。彼女の後ろには、なぜか、白い花が揺れていた。

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