5話 名にし負い立つ道化の園

 まとまらない無数の思考。つまり、物語化されないただの「記憶」は、無秩序な断片の集まりにすぎない。そのスナップをかき集めたところで、並べ方を知らなければ、もしくは並べる気力もなければ、それは人間の「思い出」には成りえないだろう。



「よう、」

 ホテルの部屋。男の声。爪先の尖った靴。

「伸びちまって、かわいそうに」

「『かわいそう』は禁句って、」

 暴力的な甘い声。

「そうだった」

 男。彼女の苛立った息。

「早く運んじまおう、こわいこわい」

 ぐるり。背中。床。赤髪。いろおとこ。



 俺はいつの間にか、ぼう、と行燈の揺れる畳敷きの部屋に正座をしていた。少し肌寒い。上着を着ていないんだな、俺。ぽつぽつと壁際に灯る橙の明かりが、焦点の合っていなかった視界の中できり、と輪郭を持ち出す。心地よい花の香り。次いで、ふ、と誰かの吐息が聞こえて、その音の主に動物的な本能でもって惹かれて首を伸ばすと、そこには白い煙が揺蕩っている。その煙を元へと辿れば、藤の花のような女が煙管を手に微かな笑みをその頬に匂わせて、ゆるりと俺の十歩先で肘置きにもたれ足を崩していた。俺の視線を受けて、穏やかに伏していた眼がゆゆ、と動いて俺に慈愛のまなざしを与え始める。


「ようく目は覚めたかい? お坊ちゃん」

 通るのに威圧のない女の声。それが俺に向けられた問いだと気づくのに、五秒はかかったろう。

「ここ、あんたは、」

 やっと俺の発した言葉は、次の言葉とうまく繋がっていかなくて、俺は自分の口の回らなさに驚いたまま堪らず口を閉じた。

「アテられてるねえ、あの娘はそんなによかった?」

「はい」

 という返事が頭で考えるより先に口から出て、俺自身が己に驚いたまま唇を震わせていると、藤の女もまた目を見開いてから小さく声を上げた。可笑しそうに首を傾げている。

「ああ、相当、相当だねえ、素晴らしいこと、素晴らしいこと」


 甲高い笑い声はしかしその割に品があって、崩した足がはだけた着物の間に覗いているのに、いやらしさというものがない。その女には妙な貫禄があった。そして、俺はこの人に初めて会ったというのに、どこかに見覚えがあるような気さえする。この人は何かに似ている……。いや、重要なのは俺が今どうしてここにいるかってことだ。つまり、つまり……。


「あの娘、っていうのは、」

 と、徐々に回り出す思考を一度押しとどめて、俺は口を開いた。すると女はこちらに身を傾けて、子供の話を聞こうとするようにかすかに目を見張る。

「黒い髪の、朱色の目の……」

「そう、そうよ」

 優しい声が俺の言葉の全てを肯定する。

「あたくしの、自慢の娘の一人ですのよ」


 女の声は娘への愛おしさに勝って濁り消えた。その顔はまるで母親のそれであった。そうだ、俺がこの女に見ているのは母親の幻影だ。そんで実際、この人は母親なんだろう。俗に言う「ママ」ってやつ。どうやらあの娘は自暴自棄な身売りの一匹狼ではなくて、まあ、自暴自棄に変わりはなくとも、この「母親」の抱える群れの一匹なわけだ。そして、俺はいつものよれたワイシャツと細身のパンツを穿かされて、その母親の元に運ばれてきた。彼女と、赤髪のさっきのあの男に……。


 記憶の断片を片手に辻褄を合わせていきながら、俺は相当まずいことになっていると気づいていた。美人局という言葉が脳裏に浮かび、内臓の一式が一回り小さくなるまで縮み上がる気分だ。ああ、どうりで綺麗な女なわけ……、くそう、まんまと罠にかかっちまった。あれやこれやと悔恨が脳を巡り巡るが、今馬鹿正直に「俺をどうする気だ」と問うのは良い手じゃないだろう。正直に口をきいて話の通じる相手じゃない。だって、こんな街にいる時点でまともな人間じゃないんだから。


 ぐるぐると思考を回して一言も発さない俺を、藤の女が、じと、と見つめているのが視界の端に映った。これ以上黙っているのはいけない。俺は用心深く口を開くことにした。

「あんたがあの娘の親代わりって、わけ、ですね」

 俺のぎこちない舌の動きが、がたついた軌跡になってぬるい空気に刻みつけられていくみたいだ。背中にじっとりと汗が噴き出している。そのまま背筋を固くして膝の上で拳を握ったままの俺に、意外にも藤の女は悲しそうに目を細めてみせた。


「その『代わり』って言葉ねえ、あたくしは好きじゃないんです。だって、あの子が誰の腹から生まれたかっていうの、そりゃあ、大した問題かねえ? だって、あたくしがこんなに愛して、あの子だってそれを知っているんですもの。肝心なのはそこなのよ、お坊ちゃん」

「なるほど……」


 女の言葉をもっともなように聞きながら、何も考えずに定型どおりの返事をする俺に、女は、は、と息を吐いて、堅くしていた表情を緩める。それから頬杖をついて、じゃあ、と喉をならした。

「あの子、あんたに名乗らなかったのねえ」

 それからとん、とんと煙管にたまった灰を火鉢に落としてみせる。

「ほんとうに、可愛い子」


 煙管の先を見つめたまま女はぽつりとそう呟いた。うつむく女は次いで、くつ、とひとつ身体を揺らしてから、目をにじ、と歪めて俺に顔を向ける。女が肘置きにしなだれていた身を起こすと、ほっそりと伸びる首がしな、と傾いて、上げられた後ろ髪の残りが、藤の花、というよりは化け柳のようにふらりふらりと揺れてみせた。その柳の後ろで行燈の火が薄い橙の部屋の中をゆら、ゆらと揺蕩っている。それから女の薄い唇が一度ふっと笑みを含んでから解けるように開いた。


「あの子の名を、知りたいんだろう」

 背中を寒い風が撫ぜた。まざまざと両目に突きつけられる女のシルエットに、目の前のこれは「母親」ではないのだ、という確信が電流のように俺の身体に走った。これは、違う、もっと、生々しい……。嫌だ、駄目だ、そんなことを考えている場合ではない。問われたことに、否と言わなくてはならない。俺は。

「あの娘の、名前……」

 俺の返事を遮るかのように、喉に何かがひっかかるような、ひく、と気道のつまる不快感が俺を身震いさせた。じっとりと汗ばんだ胸元を、気づけば俺は耐えられずに自分の手で握りしめていた。女はそんな俺をよそに、とつ、と自分の後ろに手をついて振り返った。

「入っておいで」


 女の声を合図に、部屋の外から微かな足音がにじりよってくる。確かに近づいてくるその小さい床板の軋みに、俺は恐ろしくて心臓の上で固く拳を握り背を丸めるしかなかった。いけない、あの娘だ。あの娘の、あの目は、いけないんだ。あれを見ると、俺は、俺は。決して顔を上げてはいけないと自分に何度も念じながらかがみ込むと、俺に見える畳の上に、ばた、ばたと大粒の汗が落ちていく。殺される。俺は、あの目に。足音が、き、という小さな音を残して止まり、俺は意思に反して本能的にぱっと顔を横に向けていた。障子に一つ分の女の影が仄かな色を纏って落ちている。自分のもはや器械的な動作にぞっとして首を真正面にひねって戻そうとするが、動物のような両の目が、障子の影をじっと見つめて動かない。駄目だ、いけないったら。


「失礼します」

 ああ、あの、あの声だ。俺の鼓膜をびりびりと揺らす、あの。


 俺が生唾を飲み込むのと、障子が開くのが同じだった。釘付けになった俺の目が見ていたのは、まぎれもなく彼女だった。俺の顔を見もしない朱色の双眸を持つ美しい顔が、高く結った黒髪を優雅に揺らして現れた。透けるような白いうなじ。そのまま彼女は先ほど見たのとは違う、扇情的な赤いドレスを着けて、藤の女のところまで歩いていく。それから真白の足をゆる、と崩して女の横に座った。そこで初めてあの朱色がこちらをしかと見つめた。愛おしむように母に寄り添った華奢な胴の上で、母の肩に預けられたその顔が、俺の方に向けられている。藤の女の骨ばった手が、彼女の艶やかな黒髪を慈しむように撫でてみせた。


「『アカネ』。白い花の根に色づけられる、夕涼みのあかい色。この子の名はね、『茜』っていうのよ」

 はっと息を吸ったのは俺の口だった。

「茜……」


 茜は先ほどと変わらず暴力的なほどに美しかった。目に痛いような美っていうものが、刻一刻と俺の瞳を犯していくのがわかる。これが本物の美なんだと、俺は確信を覚えた。美というのは、元来加害の性質を持っているのだ。こんなもん、降伏するしかないじゃないか。どうか殺してくれと、頼むしかないじゃないか。そのまま折角ずっと合っていた目を、茜はふい、と俺から外してしまう。ああ、殺生な。


「ねえ、あんた、この子に全部を捧げるんだってねえ、ええ?」

 茜からそらすことのできない俺の目線の隣で、藤の女が言葉を発している。茜の睫毛の先が瞬きとともに揺れるのを見つめて、俺の口は夢の中のようにはい、と嘯いていた。


「茜っていうのはね、この子があたくしの子になったときに、付け直した名なんです。親ってのは、一つ目に子どもに命をやって、二つ目に名をやって、三つ目にやっと愛をやれるもんですから、愛してやるっていうんならね、順番通りその前に名を与えてやらないといけねえのよ。産めないっていうならね、そのひとつ手前までは戻って、親の義務を果たすべきってことさ。ねえ、わかるね?」


 女の声はどこか遠くかすんで響く。分厚い硝子の向こうから聞こえて来るようなくぐもった音は、俺にはあまり大事には思えなかった。

「あたくしはあんたに茜を預けるために、婿のあんたをあたくしの子にするんです。だから、あんたの前の名は、もう要らないね? 名どころか、全部、要らないね?」

 潤む柔らかな茜の唇が、何の表情も香らせないで艶やいでいる。それをじっと見つめている俺の口は勝手に動く。

「なんにしたって、俺は彼女が欲しいんです。それしかないから、惜しくたって、なんだって捨てます。頼むから、捨てさせてください……」

 お願いしますから、と俺の喉がなる。俺の懇願をいなして、藤の女はまた口を開く。

「名ってのはね、」

 ふ、という軽いため息。藤の女の指が、茜の緩やかな肩を撫でている。


「あんたが思っているよりもずうっと大事なもんなんですよ。だから、大事にしなきゃいけねえのよ。それを、よおくわかっているかい? 契ったものは解けないよ。それでもいいね?」

 美しさというものに、この目が飽和しそうだった。

「全くもって構いません。俺は、そうするしか、ない」

 浮つく俺の口に、藤の女は愉快そうに笑った。

「そうかい、そんじゃあ、もう仕方ないねえ、ぜんぶ、それでいいってことね。なんにも、厄介ごとはないわけねえ」

 茜、と藤の女に名を呼ばれ、茜はしなやかな所作で立ち上がって、またあのじらすような歩みで俺の前までやってきた。それから俺の前に立ち膝になると、あの柔らかな白い手で俺の両の頬を包み込む。

「じっとしておいて」


 耳に毒な甘ったるい声が俺に降伏を命じる。柔い唇が、こんなに近くに。茜はそれからふいと一歩身を離すが、剣のようなその目は俺を捉えたままだった。気づくと茜の後ろにはもうひとつ人影が増えていた。赤髪の色男。ああ、さっきのやつか、とぼんやりとその立ち姿を見ていると、男は俺の後ろに回り込み、俺の脇の下から腕を差し込んで、いつのまにやら俺を羽交い締めにしていた。


 何すんだ、という言葉を発する必要もない気がした。だって、茜が俺の目の前にいて、彼女が美しくあるってことだけで、俺はもう充分なんだから。だから、藤の女の手に何か青白いものが握られているのにも、そのときやっと気づいた。それは、ぬめる、何か白い、塊。茜は藤の女から慎重にそれを受け取った。彼女のしなやかな手に握られたそれが、俺の目の前に捧げられる。それは動いていた。一定の動きを繰り返していた。もっと適当な言葉を探すならば、それは、脈打っていた。


 びくり、びくりと茜の手のひらの中でうごめくそれは、まぎれもなく人の心臓の形をしている。本来なら血が流れているであろう、その複雑な血管の集合体には、赤味というものが一切ない。血抜きされたような不気味なほど白いその臓器のおもてには青い血管が蔦のように、気の遠くなる程細やかに絡みついていて、精巧なその器官を後生大事に抱え込んでいるかのようだった。行燈の火を受けて、濡れたその生々しい袋に光が照っては消える。


「これ、は、」


 戸惑ったままそれを見つめていた俺の口に茜の親指が差し込まれ、次の瞬間にはその凶悪な青白い臓器が俺の舌の上になだれ込んでいた。なんだ、これは。舌の上の圧倒的な違和感に俺は身をよじるが、俺を締め上げる男の腕は動かず、口いっぱいに押し込まれたその奇怪な塊は、その温度に逆らって激しく鼓動を打ち、俺の口の中でどうしようもなく気味悪く蠢き続ける。恐ろしい嫌悪感に吐き気を催すが、声を上げようにも口いっぱいのその臓器に遮られて、鼻で呼吸をするのがやっとだ。絶えず必死に吐き戻そうとしても、茜が両手で俺の顎を掴み、そして開かないようにと口を押さえつける。嫌だ、いやだいやだいやだ、やめてくれ。ずっとかかっていたまじないが解けでもしたかのように頭がすっと覚めてきて、がたつく俺の視線は助けを求めるように部屋中を泳ぎ回った。その視線のたどり着いた先では、藤の女がまごうことなく悪徳の笑みを浮かべている。


「ようよう、お二人とも頑張って、はよう吞み込ませてちょうだいな」

 藤の女は煙管をまた取り上げて口に咥える。煙が揺蕩うのを、見開かれた俺の目が追っていると、その目線の先に茜の顔が割り込んだ。例の恐ろしい朱色の双眸が俺をしっかりと捕らえる。

「じっとしていて、じっと」


 吐き戻そうとする生理的な身体の動きさえ、その瞳の前では命令通りだ。首から上が鬱血したように脳が鈍化していくのがわかる。恐ろしくてたまらないのに、こうすることが正義だと、目の前の美しさに弾圧されるのだ。美に飽和した頭でとうとう俺が身体をよじるのをやめると、口の中の臓器は、まるで重力に従うようにしてするり、と俺の喉の奥に入り込んでいく。喉を押し広げるようにして重い一個の臓器が、元いた場所に戻ろうとでもするかのように俺の腹へ収まろうとしていた。俺の嘔吐の本能が、単純にプログラミングされたままの状態で全身を波打たせてその侵入を阻もうとしているが、茜の瞳はそれをも許さない。ああ、なんて儚く壊れそうな色なんだ。呼吸ができない。泣きたくもないのに涙が止まらない。けれど、この恐ろしい目からも逃れられない。喉の奥の壁にめり込むように、ゆっくりゆっくりと一個のグロテスクな機構が腹の中へと落ちていく。ついにそれは喉元を抜けて、俺がぞっとするほど深く息を吸うと、途端に俺を締めていた男の腕の力が緩み、男が俺の背中から離れるのがわかった。しまいに例の心臓が俺の胃に落ちたのを感じる。まだあれは脈打っている。俺の腹の中で、絶えることなく収縮と膨張の運動を続けているのが、腹の底の震えでわかるのだ。


 そのとき身体中を揺さぶるような嫌悪感が俺の腹の中から突きあがって、いつのまにか俺は両手をついて、四足歩行の動物のように畳の上に這いつくばっていた。開いた口から唾液と乾いた声が俺の意思とは関係なく溢れてくる。胃がきりきりと締め上げられるように縮み上がる。


「いつ見ても気分のいいもんじゃないな」


 男の声。俺は病気の犬みたいに、堪えられない気分の悪さに吠え散らした。そうしていると先ほどとは逆に、今度は胃が何かを押し出そうとしているのを感じる。喉の奥に胃酸があがってきているのだ。脳が酸素を求めている。目がかすみ出し、視界がやけに狭い。そして、何かが、冷たい何かが、食道から喉へと、波となってぐいぐいとせり上がってきて。


「お前の名を決めてやったよ」

 どうしようもなく這いつくばったままの俺に、藤の女が声を投げる。

「『ヤツデ』。『八』の『手』と書いて八手。ねえ、天狗が持っているような、綺麗な木と同じ名なのよ。お前、誇らしいでしょう」

 何を言ってるんだ、という声を発すこともできない。息ができない。涙が、汗が。

「今が、お前のほんとうの生まれた日だよ。母に貰った名を大事におしよ。この名は、前の名とは違って、お前がもう一生捨てられない名なんだからね」

 女の言葉が狭まっていく俺の世界の中で、それでも妙にはっきりと俺の耳に届いていた。

「ねえ」


 念を押すような、女の威圧的な声。その声に合図でも受けたかのように、俺の身体がひときわ大きく震えて、喉の奥から一気に反吐が口内へ、そして畳へと飛び散った。それでも落ちずに、何か冷たいものが俺の舌の上に鎮座していた。その何かが俺の舌から剥がれて、畳の床に硬質な音を立てて落ちる。白銀の、輝く、何がし。くらくらと狭まった俺の視界が捉える限り、それはまるで鍵のような形をしていたのだった。



 指先が何かの布に触れていた。いや、背がべったりとどこかに触れている。そうではなくて、額の上を、髪を、何かが撫でている。その何かに鬱陶しささえ感じながら、深い眠りから覚めて俺が目を開けると、そこには黒髪がゆるりと垂れ下がっていた。俺の髪を撫でていた手が動きを止める。


「茜」

 俺の声は驚くほどにか細かった。

「二時間くらいね」


 寝ていたよ、と言う茜の声は淡々としていながら、どこか優しく聞こえる。俺は反射的に身を起こそうとして、足に力が入らず、よろけて床に転がった。身体が妙に軋み、口には不快な酸味が残っている。それから身を引きずって壁に這い寄り、そこにもたれかかるようにしてぜいぜい息を切らしながらようやく立ち上がった。


「俺、俺は」

 そこは落ち着いた雰囲気の寝室だった。紺色のシックなベッドの上に、赤いドレスを纏った茜が腰かけている。彼女は俺に膝枕をしていたらしい。俺のことを驚いた表情で見つめていた茜は、それからぱっと目を逸らして、

「二、三日はまともに動き回れもしないから、寝ていないと」

 などともっともそうに言う。しかし、俺の呼吸は落ち着かないままだ。

「俺は、俺はさっきあんたたちに何をされたんだ? さっき、俺が飲み込んだものは……」

 そこまで言ってから、俺の舌に、あの気味の悪いぬるりとした感触がフラッシュバックする。激しい嘔吐欲に駆られて身体を折るが、喉からは何も出てこなかった。

「さっき、あんたは腹の中にあったものを全部吐き出してしまったの。ほら、いいから、寝ておいてよ」

 俺がきっと顔を上げると、困ったような表情で茜は俺のことを見つめている。

「お願い。母さんに言われてるのよ」


 それから茜はさらに、お願い、と畳み掛けて、俺をあの魅惑的な朱色の瞳でまた捕らえようとする。俺はすんでのところで彼女から目を逸らし、壁に頰を擦りつけるようにして横を向いた。

「やめて、よしてくれ、俺、俺は、あんたのその目を見ていると駄目なんだ。あんたの目は、俺から人らしさってものを全部奪っちまう。だから、お願いだ、たのむから……」

 俺は堪らずよろけるままに走り出し、派手に音を立てながら部屋の出口へと走って行って、無茶苦茶にドアノブを回す。

「逃げたってしょうがないのに」

 という例の甘ったるい声が俺の後ろ髪を引くが、俺は今すぐにここを去らなければならないのだ。

「『八手』」


 茜の声の恐ろしい引力に逆らって俺はなんとかドアを開け、薄暗い廊下に飛び出した。人気のない娼館の中を走り、見つけた階段を降りて、夢中になってやっとのことで真夜中の路上に出る。靴も上着もない俺はまるで浮浪者のようだったが、それだって構わなかった。少しでも早く、この狂った街から出なければならない。今は一体何時だ。腕時計も外しちまって。でも、歩いて帰れないことはない。体力には自信があるんだ。俺は警官で、まともな人間なんだから頼る先だっていくらでもある。


 通りにはひとの気配が全くもってなかった。ネオンは全部消えていて、ぽつりぽつりと申し訳程度の街灯がまばらにあるだけである。夜の匂いだけがそこを満たしていた。違和感で飽和した俺の全感覚器官に、ここは夜の街じゃなかったのか、どうして日が昇る前から人っ子ひとりいないんだと次々に疑問が湧き上がるが、肺を満たす冷たい空気に脳みそまで冷えて来て、俺は頭を振って、裸足のまま、また歩き出した。道を覚えるのは得意なんだ。すぐ出口にたどり着く。


 そうしてがたりがたりと軋む身体を引きずって歩くのだが、そんな俺の耳に先ほどの茜の声が妙に残っていた。「八手」というその音が、俺の脳みそにこびり付いているのだ。「八手」、「ヤツデ」だ? 俺はそんな名前じゃない。決して、そんなふざけた名前じゃないんだ。俺には二十四年間、生まれてからずっと、嫌になるほど使ってきた名前があるんだ。警察署で受けた試験の氏名欄にだって書いた。何度も、何度も。この手が覚えているんだから。


 情けないくらい、男一人で泣き出してしまいそうなくらい、俺の足はおぼつかなかった。でもいいんだ、そろそろ出口だ。行きしなにこの道を通ったのを覚えている。屋台や露店やなんやらが全て引っ込んでいるが、確かにここだった。あそこの角を曲がれば、そうだ、メトロの駅のある方面だ。


 はあはあと息を荒げる俺が角を曲がり、その先に見えたのは、思いもしなかったほどに気の遠くなるような暗闇だった。街の出口の先には、尋常な町並みというものが全く消失していた。いや、あるのかもしれないが、俺の目には何にも見えないのだ。その景色を前にぞっと立ちすくむ俺の耳に、また茜のあの声が再生される。「八手」という、あの甘美な声が、耐えられずに塞いだ俺の耳を嬲り尽くす。


「違う、俺は、俺はそんな名前じゃないんだ」

 冗談みたいに足が震えて止まらない。

「俺は、俺の、名前は」


 ぜいぜいと鳴るのは、俺の肺だった。そのとき、ふわ、と花の香りが突如として冷たい夜の空気を横切って俺の鼻に匂った。その芳しさに俺の身体は反射でぴり、と指先まで凍りついた。何かが俺の後ろにいる。けれど、動けない。そのとき俺を、俺の身体を縫い止めているのは、恐怖に違いなかった。唯一自由のきく眼球を動かすと、目の前に落ちていた俺の影は、決して人の形を保ってはいなかった。ぞっとしたついでに喉が鳴った俺は、俺の肩に、足に、腹に、顔に、無数の「夜」が纏わり付いているのに気づいた。そのとき、


「悪い子ねえ、母さんの気持ちがわからないっていうの?」

 という柔らかい声が、俺の耳に至近から流し込まれる。次いで、滑るような「夜」が、俺の両の頬を包み込んだ。あまりにも穏やかな、母親の笑み。その「夜」は、柔らかな指先で背後から俺の顎を撫で、次いで愛おしむように首筋をなぞった。

「あたくしの手の届かないところには行っちゃいけないのよ。母さんは、お前のことをずっと見ているんだからね」

 声を発することができない。みじろぎひとつできない。それでもその慈愛の声はとうとうと流れ続ける。


「日陰者はね、お天道様の光を浴びちゃあならないのよ。これはお前のために言ってるのよ。あたくしを心配させないでちょうだいね。もうお前は、ここの子どもなんだからね」

 涙も出ない。目の前にまざまざと映る俺の影は、依然、ゆらゆらと蠢き続けていた。

「いとしい、あたくしの子」

 ただ愛情によってのみ発されるその母の声に、俺は、俺の現状を観念して飲み込むしかなかった。俺は、自分の名前をすっかり忘れてしまっていた。

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