4話 獲物いっぴき狂者のえじき


 高校時代同じクラスに居たお調子者のことなんて、どのくらいの人間が覚えているだろうか。煙草の白煙が燻るぱっとしない居酒屋の個室で、高校時代からのツレが赤ら顔で喚く。

「あいつぁ、一文無しで全国を行脚しているらしいぜ。春から秋の間は、ずうっとな」

 そう語るツレの顔は居酒屋のオレンジ色の照明に照らされていて、そいつは死ぬほど水で薄められた酒を、グラスの中でからんからんと回してみせる。

「馬鹿だ、馬鹿だよな、あいつは」

 恋人のことでも語るようなその妙に熱っぽい微笑みに、俺は酷く吐き気がした。何か話せば言葉と一緒に反吐まで出そうで、俺は何とも言わずに箸であんまりに小さいサバの煮付けを突く。

「あいつ、昔っから馬鹿だったよな、覚えてるか? 確か、自転車をこいでさ、夜の海に花火をやりに行ったんだ……」


 ツレはどうだっていいありきたりな青春に酔い始める。この世界の中で五億回は語られたような使い古された台本に、勝手に酔ってろと言うのさえ面倒だ。その話の中でも繰り返されるこの男の「馬鹿」という言葉には、呆れや愛情なんていう、聞いてて胸焼けするようなこってりした味が纏わり付いているわけで。俺は相槌の代わりにぐっとグラスを傾ける。


「お、いくなお前」

「こんなもん水だって」


 苛々している。こんな話を聞かされるなら来なきゃ良かったんだ。ほら、飲み干したって後味の悪いただの水。そうやってろくに熱くもならない胃を抱えて、馬鹿らしくて仕方ない。俺は馬鹿じゃないのに。でも行く当てもなくてきっと今日も、非番の明日を押しつぶすように三時頃まで呑むんだろう。尽きることのない胃もたれするような思い出を、四六時中、絶えることなく配膳されながら。



「馬鹿野郎、馬鹿野郎だ、ほんとうに、馬鹿野郎ってやつだ……」

 案の定、時計は午前三時過ぎだった。安い酒に悪酔いで最悪だ。月が二つに見える。いや、やっぱり一つなんだが。


 車を呼ぶかと言われて、じゃあ誰の金でだ、って聞けば俺が自分で出すしかないんだから、つまり俺は歩くことになる。かわいい女に産まれりゃ笑うだけで金が貰えたかもしれない。でも、生憎俺は六フィート近い男なんだな。だから仕方なしに、ふらふらする自分の足で石畳のブロックを数えながら歩く。なんだって、こんな思いをしなきゃならない。


 それなりの大学に入って、それなりに友人も作って、そのまま踏み間違えることなく勉強をして、そのまんま警官なんていう「ちゃんとした」職についた。田舎から帝都に出ることになって、親は立派な仕事だと泣いて喜んだ。そんでこの仕事を、せめて親が死ぬまでは続けるんだ。それが親に育てられた子供ってもんだろ。


 春から秋の間は全国の行脚だ? ろくな職にも就かずに親の胸を痛めさせて好き勝手に、あんまりにも好き勝手に生きるなんてやくざなこと、そんなことするやつは馬鹿だ馬鹿なんだ、大馬鹿者なんだ。親を泣かすだけじゃない。そんなやつは最後はそいつ自身だってろくなことにならないんだ。俺はそれをよく知っている。そうでなくちゃならない。そうやってろくでもない人間はみんなみんな、ざまあみろって言われるような、屠殺される家畜みたいな死に方をすることに決まってるんだ。それが馬鹿の末路ってもんなんだ。俺は賢い人間だから、そんな生き方はしないんだ。決して、決して……。


 どうしてちゃらんぽらんな馬鹿野郎が愛されて、俺みたいに真面目に、真面目に、毎朝知りもしない人間のためにドアを押さえてやって、「どうぞ」なんて下僕みたいに生きてる人間が、起きてから寝るまで息苦しくしてならなきゃいけない。間違ってんだ。この世はうまくできていない。くそだ。全部、この世はくそなんだ。俺の胸の中をぐるぐると発散されることのない悪態が渦巻く。いつものことだ。


 薄汚れた石畳から見上げる空には星はない。俺の田舎からはよく見えるんだ。何にもないから。そんで、何にもないのがつまんなくてやって来た帝都は、でもやっぱり何にもないのと同じくらい俺にはつまらなかった。つまんない上に、酷くひどく、息苦しいのだ。いや、もちろん刺激的なことも「多少は」ある。その中で一番なのは──そうは言ってもしみったれてるんだぜ?──でも強いて言うなら、同僚が容疑者を撃つのを見たときのことだ。俺の隣で、同僚の震える指先が引き金を引き、狙いが外れて容疑者の男はまともに頭に弾丸を食らった。見えない拳に殴られたみたいに頭を揺らして褐色の肌をした小男が倒れるのを、俺はその同僚からそう離れていない場所から見ていた。不法入国のヒンドゥー教徒は、それから二十四分後には死んだ。午後二時、太陽の照りつける真昼間の出来事だった。以来その同僚は病んじまって、故郷に帰って行った。だが、俺なら同じことをやっても病んだりしない。むしろ、すっとしただろうな。あいつじゃなくて俺が頭に一発お見舞いしてやりたかったところだ。俺にはヒンドゥー文化の素養というのはほとんどないんだが、男の胸の中にあったあれは確か、ガネーシャだ。恐らく、そう。


 実際には俺は、手錠を掛けられる側の人間なんだ。でも、誰だってそうに決まってる。こんなリヴァイアサンの世の中で人を殺したくない人間なんていない。誰もが毎日殺意にまみれて、一触即発で、人間的な、あまりにも人間的な世界だ。警官がこんなことを思うなんて終わってるな。ああそうだ、終わった世界に俺は住んでるんだ。

 駅前にはまだ人通りがあった。通りすがりの女の鋭い肩にぶつかられて、張り詰めた神経が細かに震えだす。この雑踏の全員を、殺せちまったらいいのに。ああ、ぶっ殺してえんだ、なんもかんもを。ずっと、ずっと腸が煮えくり返って。


 くそったれ。



 目が覚めると自分のベッドの上だった。帰巣本能ってやつだな。昨日の夜は最悪の気分で、今も最悪だから、今の俺は昨日の俺と同じ人間だってことで間違いない。そして、時計が夕方の四時を差していることも間違いなかった。

 起き上がると自分の体臭にさえ吐き気がする。風呂に入らなきゃならない。一日が最悪のままに終わる予感しかせず、しかし何をするにも億劫だ。なにか面白い映画はやっていただろうか。誰か誘って呑むか? いや、そうしたらまた昨日の繰り返しだ。秋になってからはずっと、馬鹿みたいな思い出話を聞かされるばっかりだからよくない。しばらく呑みはよくない。


 そんな風に考えながらタオルをひっかけていつもの狭い風呂場に入り、シャワーをひねって水が温まるのを待っている。ざあざあと落ちる水が足元のタイルに流れていくのを見ながら、俺はいいことを思いついた。



 俺のワンルームは帝都の南三番街にあって、狭いが立地はそこそこのおかげで地元で同じ部屋を借りる家賃の三倍は下らない。中央市街にある勤務先までメトロでたった七分って言えばわかりやすいだろう。


 帝都は五つの市街に分かれていて、さっき言ったように、俺の勤め先のある中央市街、で、それを取り囲むように東西南北四つの街がある。ナンバリングはそれぞれ一から十まで。先の戦争で更地になって再編成されてから、区画はかなり厳密だ。まあ、帝都の歴史なんざ語ってもしょうがない。重要なのは、この帝都の警官である俺が、立ち入れない場所があるっていうこと。


 「西十番街」と聞けば、帝都の人間に「何も」連想できない人間なんてのはいない。帝都の西端にある、この帝都一の合法の風俗街。カジノや「それ以上の見世物」もあるって噂だ。しかし、「帝都の警官」である俺はこの街への侵入が禁止されている。どう考えたって犯罪の巣窟であるその街に警察が入れないなんてのは、正直言って頭がおかしい。では、どうしてそんなことが起こっているかといえば、西十番街が完全な自治区であるからだ。いや、別に外国でもなけりゃ「西十番街」なんて名前が付いている通り帝都の一部であることには違い無いんだが、あそこには帝都とは別の警察機構、行政機関、司法機関があるらしい。つまり俺たち帝都の警察はお呼びで無いってことだ。それで「らしい」なんて曖昧にしか語れないのは、あそこのことをあんまりに掘り返すのがこの都市のタブーになっているからだ。そもそもあそこは昼間は全ての入り口を閉めていて、外部の人間は全て、日が沈んでからまた日が昇るまでの間しか立ち入りを許可されていない。これは俺の言葉通り本当に「全ての人間」がそうであって、首相だって真昼間はあそこに入れないってことなんだ。俺が自分の目で確かめたことは無いから、あくまで「噂」にすぎないが、そういうこと。


 午後八時を回った。俺は上着を肩に引っ掛ける。あんまり目立たない黒のピーコート。秋口でも夜は冷えるから丁度いい。それで、俺は今から件の西十番街に行くんだ。そう、警官の行っちゃいけない場所に。警察手帳も制服も無いから、今日は俺はただの男で、だから何も問題はない。そう、完璧だ。「何にも」反社会的なことをする予定はないのに、腹の底がぞわぞわと波打つ。ああ、不思議で仕方ない。


 それから家を出て、いつも使うメトロの窓ガラスに映る自分の姿と目が合う。俺の立ち振る舞いは何か怪しくはないだろうか、誰かに呼び止められないだろうか、誰かが俺を追及しやしないだろうかとひやひやした。冷静に考えれば警官が休日にメトロに揺られているだけだ。でも。子供の鞄についたゾウのワッペンが、俺のことをじっと見ている。いいや、俺は何にも悪いことはしていないんだぜ、神様。



 メトロは西十番街に隣接する八番街までしか通じていない。地上に出て薄暗い街並みを歩くといよいよ街が独特の空気を孕み出す。子供の影はもうない。このあたりには教会もモスクもない。もちろん、寺院も。小汚い掃き溜めには神聖はひとつもない。ただの、汚れた人間たちの巣。そして、いつともわからないままに俺はその掃き溜めの只中にいた。


 チープなネオンの電光が、知らない無数の男たちの肩が、高揚してふらつく足どりの視界の端でゆらゆらと揺らめく。どこか熱を帯びた夜気に乗って、遠くから外国の女の歌声が聴こえてくる。たぶん、蓄音機だろうな。


「Side by side......」


 英語はあんまり得意じゃないんだけど、嫌いってわけでもなくて、聞き取れた分だけ自分の口からも自然と漏れ出た。無意識に口が浮つく自分を嫌でも突きつけられて、いつもなら眉をしかめなきゃならないところを、ふ、と笑みをまとった息がこぼれる。真面目な同僚に囲まれて真面目な仕事をして、自分の人生を毎日苛立ちに食いつぶされて、そんで死ぬしかないんだぜ。冒険のない人生なんてぞっとする。まあでも、俺は冒険で身を滅ぼしたりはしないんだ。元の巣に戻れる範囲で、ちょこっと危険の匂いを嗅いで、それで戻ってくるんだ。後先考えなしの馬鹿じゃないから。でも、少々は、馬鹿になったって構わないんじゃないか。


 ネオンの色が俺の肩に落ちている。ここの空気を吸うだけで俺は悪人になれる。ああ、真面目な人間でよかった。そうして高揚感に浸りながら、俺は目を細めて通りの先を眺めた。


 くすんだ雑踏の中で、ふらりと立ちはだかる一つの影がこちらを向いていた。いや、違う、その影がこちらを向いていたのではない気がする。こちらが、見つけたような、でも、あちらから待っていたような。ここのネオンは麻薬らしく、俺は高揚感に伴ってぼやりとかすみ始めた視界の中央にその影を据える。


 影は女だった。長くて黒いコートを羽織っていて、ボタンがいくつも外れた胸元からは挑発的な下着が覗いていた。その足は真白で細身の黒いハイヒールを履いているだけである。女が下着の上に直接コートを着ているのは明らかであって、俺がそんな風に想像したのを男の勝手な妄想と言って貰っては困る。この光景に、ナンセンスな誰かは彼女を指して「だらしない」とでも譏るのだろうか。しかし俺はそれを、「しどけない」と綺麗な音で言い換えるのだ。だって、女のその様は酷く魅力的だったから。そして、俺の視界の中で、彼女だけがはっきりと人の形を保っていたのだ。


 知らないうちに俺はその女に釘付けになっていた。そしてその女もまた俺を見ているような気がする、いや、気のせいではない。足がどうも上手く動かない、動いてはいけない、動けない。

「ねえ」

 女が小さく口を開いた。伏していた整った顔立ちが無粋なネオンの光の下にまざまざと晒されて、人を裂きそうなその鋭い眼が、真っ直ぐに間違いなく俺を刺し殺そうと企んでいる。窒息しそうなほど綿密な、朱色の瞳。溺れるような儚いいろ。その凶悪の光景の一瞬一瞬が、まるでコマ送りの映画のように、すべて、すべて俺を刺し殺す。


 かつん、かつん、と石畳を突き刺すハイヒールが、ゆっくりゆっくりと焦らすように近づいて、俺の目の前で止まった。すると、驚くほど自然に女の手が俺の心臓の上に触れる。恐ろしいその双眸が、映り込んだ彼女自身の姿を俺の瞳の中に探すかのように、俺の中に忍び込み、爪をとぐ。これはまずいことになっていると俺の直感が警鐘を鳴らす、が、その恐怖を飲み込むどろりとした艶やか。


「一晩だけ、あんたのものになってあげようか」

 人殺しの目とは裏腹に、声は確かに一匹の若い女だった。どこかまだ少女の残る、でも、鼓膜をくすぐる女の。艶やかな黒髪が、俺の鼻先一寸で、揺るぐ。

「一晩で済むと思う?」


 その女の纏う色に飲まれていたと思っていた俺の喉の奥から、案外すんなりと落ち着いた声が零れる。これは一体俺の言葉なんだろうか。俺はこんなことを言う人間だったろうか。でも、そんなことはどうでもいいのだ。目の前にいるこの女がこの世界の真実に違い無い。正しいのは、俺が今信じるべきはこの目の前にいる「彼女」そのものだけだ。それだけでいいのだ。そうして俺が確かに握った女の白い手は、その甲も柔いように思った。一度俺の手をやんわりと振りほどいた女は、解いたばかりの俺の手を今度は指で絡めてとって、尚更柔くてゆるやかな手のひらを俺の手に添えて見世る。

「それは知らないな。『あなた次第』ってやつじゃないの」

 彼女の背が全ての明かりを俺から押し隠してしまったように、俺には彼女と彼女の落とす影しか見えなかった。暗がりの中で、俺たちふたりはいっとう暗い場所にいた。だからそのとき彼女の目の端が刹那に歪んだように見えたのも、きっと見間違いに違いないし、そうでなかったとして俺にはどうでも良かったのだ。俺が彼女にとって魅力的な男じゃないっていうのは差し当り大事なことではないし、俺はそのとき、これからこの女をどうしてやろうとしか、考えていなかったから。



 サイドテーブルの明かりには無粋な橙が混じっていて、彼女の美しい朱色の瞳を脅かした。それが何より腹立たしかったが、それでも彼女の恐ろしさを覆い隠すには至らなかった。切れた瞳の彼女には笑顔というものがなかったが、むしろそれが彼女の顔立ちを引き立てているように思った。俺がじっとその目に飲まれているのを気にも留めないで彼女は俺の首に手を回す。


「お兄さん、どんな仕事をしてるの」

「仕事、仕事ね」

 まさか警官だなんて言えなくて口を濁し、その瞳から逃れようと顔を背けると、彼女の指先がつ、と俺の顎を自分のほうへ引き戻す。そうして彼女は悪戯っぽい目元で

「いけない仕事なんだ」

 と囁いた。俺は女におちょくられるっていうのは、正直どんな男より腹がたつクチなんだけど、彼女にこうされるのは何にも嫌じゃないんだな。でも、痛む腹はどうしようもなくて、俺は赦しを乞うように彼女の目を見つめながら、顎に添えられたその指に手を重ねる。


「まさか、俺は、真面目な人間だ。仕事だって真面目だよ」

 その言葉に、女はふ、と笑う。馬鹿にするようなその笑みも、彼女にかかれば至極の一品だった。

「まあ、それじゃ、もっといけないよね。こんなところにいちゃ」

 俺の目線はそうやって艶っぽい声を零す彼女の唇をなぞるしかない。

「そうだね、いけないんだ、いけないんだよ、俺、今日はいつにも増してね。だからさ、叱ってくれない? 俺あんたに叱られたいんだ」

「やだ。大の大人が」

「真面目だからね、叱られたいんだよ、君みたいな女にさ」

 そうして俺が彼女の腰に手を回そうとすると、彼女は体をひねって、する、と俺の手から逃れた。

「『一晩だけ』って確かに言ったよね」

「でも、俺次第だって、」

「そう、そうね。でも、忘れてるかもしれないけど私、高いんだよ、お兄さん」


 そう言って彼女の足先が俺の喉に触れた。さっきも同じようなことを言ったけれど、俺は本当は女にこんなことをされるのには一向堪えられないはずの男なんだ。そのはずなんだ。でも、今は決してそうじゃない。恐らく、彼女がきっとほんとうの「いい女」というやつだからなんだ。いつもは最後に女をベッドから突き落としたくなるのが俺のさがってやつなのに、この女はそういう気を一向起こさせないんだから。


「ねえ、俺、あんた……」

 頭がおかしくなっちまったらしい。

「どうしたらいい」

 舌も頭も回らない。どうしたらいいのかわからない。なんだ、俺は。

「私、本当に高くつくの。あんたが今いくら持っているかわからないけど、それじゃ足りないかもしれない。あんたが今持っているもの、全部を私にくれて、それでちょうどじゃないかな」

 女の声だけがはっきりと俺に届く。ぼうっとした頭で俺は床に膝をついた。立っていられないんだ。

「ぜんぶ……?」


 俺の喉から乾いた声が零れて、部屋のどこかに消えていく。女は俺の前でそっと足を組み替えた。その仕草の美しいことと言ったら、俺はそれ以上のものを今までに見たことがないんだ。彼女はきりとした瞳を剣のように輝かせて、俺のことをまっすぐに捉えている。薄暗い部屋の中で、彼女の姿なんてほんとうはまともに見えるはずが無いんだ。でも、彼女は彼女としてのみ確かにそこに存在しているのであって、間違いなく俺の全神経を捉えて離さない。どうかその瞳で、俺をころしてくれないか。見つめる先の唇が。


「全部、全部よ。あんたの持ってるお金やそれ以外の財産、家や家具や、土地。それだけじゃない。あんたの肩書きや友人関係、家族、あんたが生まれたときにあんたの親に与えられたもの、そしてあんたが今まで生きてきた中で築き上げてきたものの、すべて……正に『すべて』を私に捧げてほしいんだ。欲しい、じゃないね。捧げなきゃいけないの、あんたは、そうじゃなきゃ、『次の夜』は一生来ない」

 一生ね、と繰り返す彼女の唇。白い肩。揺れる黒髪。差す月の色。


「首を縦に振るだけでいい。そうしたら、私は捧げられたあんたのすべてのかわりに、あんたのものになってあげるよ。あんたの一生、あんただけのものになってあげる。それが、あんたの最初で最期の望みでしょう? だから、」


 俺の頬。彼女の指先。触れる息。朱。傾く視界。


「ごめんね」

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