第32話
「んーっ……」
馬車から降りた直後、私は凝り固まった身体を解すため、ぐっと大きく伸びをした。
時折吹き抜けていくやわらかな風が心地良く、太陽の光も眩しく感じる。
私達を乗せた馬車が立ち寄ったこの場所は、ラウスリースという町なのだそうだ。町の名前に聞き覚えがあるのは、出発前の話し合いの最中に出てきたからだろう。
ラウスリースは、商業都市ティレシスの北部に位置しており、アウラ川という大きな川に架かった橋を渡った先にある町である。地図上では、商業都市ティレシスと王都イレニアのちょうど中間地点に名前が記され、旅人の休憩所として栄えているという話だ。ラウスリースからさらに北へと進んでいくと、王都に辿り着くらしい。
ラウスリースでは、恵まれた自然を活かし農業で生計を立てている者も多い。そのため野菜や肉などの食材はどれもおいしく、観光目的で訪れる者も少なくないそうだ。
せっかくだからこの町自慢のおいしい食事と良い宿を堪能していきたいところだけれど、私達に許された滞在時間は二時間ほど。旅の行程を考えるとあまり時間は作れない。
休憩を挟んだ後、軽く町中を見て回るくらいはできるだろうか。
「コトハ」
「ん?なに?」
ぼんやりと街の様子を眺めていた私の名をロイドが呼ぶ。
振り返れば、いつもの穏やかな微笑みが私に向けられていた。
「お疲れではありませんか?どこか痛いところなどは?」
私を案じるロイドの様子は、本当にいつも通りだ。
ラウスリースに到着したとき、ロイドの手によって優しく揺り起こされたのは記憶に新しい。
眠りに落ちる前のことを思い出して赤面してしまいそうだった私とは違い、ロイドは平然としていた。
ロイドの私への甘やかしは、今に始まったことではないけれど。もしかしたら、馬車の中での出来事はその延長線上の出来事だったのかもしれない。
(――ロイドはなんで私にあんなことをしたんだろう、なんて。深く考えちゃいけないよね……?)
ロイドの態度が普段と変わらないのだから、私も彼に倣ってそうすべきなのだろう。
(このままじゃ、恥ずかしくてロイドの顔見れなくなりそうだし……)
今にも首をもたげそうになる羞恥心を振り払って、私はロイドに笑顔を向ける。
「ううん、全然平気だよ。ここに来るまでずっと寝ちゃってたしね……ごめんね、どのくらい寝てたかわかんないけど重かったでしょ」
「いえ、そんなことは。重さなどまったく感じませんでしたから、気になさらないでください。もしまた馬車で眠られるようでしたら、先程のように私の肩を」
「き、気持ちだけ受け取っとく!さっきけっこう寝たし、しばらくは眠くならないと思うよたぶん!ロイドも疲れちゃうしさ!」
ロイドの言葉を遮るように、私は慌てて声を上げた。
王都に到着するまでずっとあの体勢を続けなくてはならなくなると考えれば、多少の眠気などどうということはない――はずだ。
(別に嫌なわけじゃないし、気遣いはすごく嬉しいんだけど……あんな風にくっついて髪撫でられるとかさあ!子供扱いとかじゃければ勘違いされかねない行動だよ!?)
彼の中での線引きはどうなっているのだろう、と少し心配になってしまう。
複雑な気持ちでロイドを見上げるが、ロイドは笑顔のまま言葉を発さない。
その微笑みの前では、ロイドが何を思い、あんな行動をしたのかなんて、聞けるはずもなかった。
「――――んん?アナタ達ったら……ふふっ、いったい何を見つめ合っちゃってるのかしら?」
少し遅れて馬車から降りてきたクロノスが、肩を震わせながら歩み寄ってきた。
「まったく、本当に仲が良いのねェ?なんだか妬けちゃうわぁ」
「な、何言ってるの!?別に見つめ合ってなんか……というか、ちょっと話をしてただけだし!?」
「はいはい、そんなに慌てなくてもちゃんとわかってるわ」
動揺を隠せず思わず反論した私を、クロノスは唇を弧の形にしたままちらりと一瞥するだけだった。
なんだか、軽くあしらわれたような気がする。私が言った内容を本当に信じているかどうかも疑わしい。
「…………」
釈然としないまま、口をつぐむ。
視界の端で、クロノスがロイドの方へと寄っていくのが見えた。ロイドは何事かと怪訝な表情を浮かべていたが、クロノスは構うことなく距離を縮めていく。それからクロノスはロイドに向かって何事かを呟いているようだったけれど、声が小さすぎて私には聞こえない。ロイドに何か用事でもあったのだろうか。
(な、なんかすごい嫌そうな顔してるけど……何言ったんだろ)
ロイドの表情を見るに、彼にとってはあまり愉快な内容ではなさそうだ。もっとも、クロノス自身はとても楽しそうな表情をしていたのだけれど。
「――さて。時間も限られていることだし、そろそろ行きましょうか?」
話が一段落したのか、クロノスは用は済んだとばかりにくるりと身を翻した。
動きに合わせて、長い髪がふわりと揺れる。広がる紫に視線を奪われながらも、私はふと浮かんだ疑問を口にした。
「行くってどこに?これからの予定って全然決めてなかったよね?」
「んー、そうねェ」
クロノスは考え込むように顎に手を当てると、視線を宙に泳がせる。
「王都まではまだ距離があるし、軽く食事はとっておいたほうがいいと思うの。良い店を知っているから、その点は心配いらないわ。でも、せっかく新しい町に来たのだし、休憩だけなんて味気ないじゃない?」
「うんうん、それ思ってた!時間が余ったら町の中を見て回りたいなってちょっと考えてたの!」
「食事だけならそれほど時間もかかりませんからね。この町も賑わっていますから、コトハもきっと楽しめると思いますよ」
「ほんと?なら行ってみたいなー。ここがどういうところなのかすごい気になるし」
ラウスリースという町は、オンラインゲーム内でも訪れたことのない場所である。
単に見落としていたのか、受注できるクエストの適正レベルが合わず後回しにしていたのか、それとも最初から
旅を続けていれば今後もこういった場所は増えてくるのかもしれない。私は密かにそう思った。
「……それじゃあ、食事の後は町中の散策ということで決まり、かしら?」
「決まりで!」
クロノスの言葉に異論などなく、私は笑顔で頷き返す。
それを合図としたかのように、私達は誰からともなくゆっくりと歩き出した。
クロノスが案内してくれた店の料理は、彼のおすすめと言うだけあってとてもおいしかった。中でも、食後のデザートに出てきたフルーツタルトは本当に絶品だった。色とりどりのフルーツがたっぷり乗ったタルトは見た目にも楽しく、ちょうどいい甘さでいくらでも食べられそうなくらいだ。
クロノスの話によると、このフルーツタルトはラウスリース内でも有名な菓子屋のもので、この店限定の商品らしい。そのためフルーツタルト目当てでやってくる客も意外と多いのだとか。
ちなみに、ロイドとクロノスはデザートを頼まずコーヒーだけで済ませていたので、フルーツタルトを食べたのは私だけだ。せっかくだから二人も注文すればよかったのに、とも言ったのだけれど、二人とも今はいらないとのことだった。
二人とも甘いものは別に嫌いではないらしいのに。残念だ。
それから少しして、私達は腹ごなしも兼ねて散策へと繰り出した。
王都に比較的近い町であることから、人の往来も多く、露店が立ち並ぶ中心地は賑わいを見せていた。ティレシスでもこうして町を巡り歩いた気がするが、場所が変われば雰囲気もがらりと変わり、街の様子を眺めているだけでも心が浮足立ってくる。
「コトハちゃん、気になる店があれば行ってきてもいいわよ」
きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回す私の心情を見透かしてか、クロノスが唐突にそんなことを口にする。つい今しがた、大通りに面した店の中からいくつか気になる店を見つけたばかりなので、クロノスの言葉は素直に嬉しい。
「えっ、いいの……?」
「ええ。知らない場所だからといって、何も四六時中べったりでなくてもいいと思うもの。あまり遠くまで行かないのであれば、自由にしてらっしゃいな?もちろんこのまま一緒に行動してもいいけれど……せっかくだからゆっくり見てみたいでしょうし」
聞けば、私が店を覗いている間二人も別行動をとるらしい。といっても、完全に別行動なのはクロノスだけで、ロイドは特に用事も無いしこの周辺で私達を待っているとのこと。何かあればすぐに駆け付けられますし、とも言っていたが、私が迷子にでもならない限り彼の手を煩わせることはないはずだ。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるね」
大通りに設置された時計をもとに集合時間を決め、解散する。
そういえば、この世界に来てからというもの、単独で町中を歩き回ることなどほとんど無かったような気がする。というより、これが初めての経験と言っていいくらいかもしれない。
外を出歩く際は、必ず仲間のどちらかがついてきてくれていた。一人が寂しいというわけではないけれど、なんだか不思議な気分だ。
(なかなかこういう機会ってないし、新鮮かも)
――そんなことを思いながら、ぼんやり歩いていたせいかもしれない。
前方から走ってくる人影があったことに、まったく気付けなかった。
「……わっ!?」
「……きゃっ!?」
注意力が散漫になっていたのだから、当然避ける間なんてない。
私は走ってきた人と正面から思い切り衝突し、その勢いで尻餅をついてしまう。
「あっ、も、申し訳ありません!大丈夫ですか!?」
頭上から焦ったような声が降ってきて、私はそのままの体勢で顔を上げた。
「わたくしったらなんてこと……!立てますか?」
私を心配そうに見下ろしていたのは、明るめの
「だ、大丈夫です!すみません、私もよそ見しちゃってて……」
「わたくしの不注意であなたを転ばせてしまいました……本当に申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
「怪我とかはないので大丈夫ですよ。こちらこそぶつかってしまってすみません……あなたが転ばなくてよかったです」
謝罪の言葉を口にしながら立ち上がり、服の汚れを手でぱたぱたと払う。
女性は私の言葉にほっと安堵の息を吐いていたが、すぐに何かに気付いたような表情で息を呑んだ。
「まあ大変!あなた、お怪我をなさっているじゃありませんか!」
「えっ?」
目の前の女性は、口元に手を当てたままある一点を注視している。彼女の視線の先を辿ると、たった今汚れを払い終えたばかりの私の手があった。
試しに両手を持ち上げて確認してみたところ、彼女の言う通りそこには小さな擦り傷ができていた。先程咄嗟に両手をついたからかもしれないが、この程度怪我のうちにも入らない。
「ああ、これくらいは全然平気ですよ。すぐ治りますし、気にしないでください」
「いいえ、これはわたくしの過失です。小さくても怪我は怪我ですもの。可憐な花――いえ、女性に傷をつけるなど、わたくしの矜持に関わりますわ」
女性は自身の両手で包み込むような形でそっと私の手をとると、静かに目を閉じる。
「
「!」
まさか、と私が目を見開いた瞬間。
緑色の光が私の両手を覆い、すぐに宙に散った。
突然の出来事に驚きを隠せず何も言えないでいると、いつの間にか目を開けた女性が私の手をしげしげと眺め、にっこりと笑みを浮かべた。
「さあ、これでもう大丈夫」
言いながら、彼女は私の手をゆっくりと離す。
自由になった両手を、裏表と引っ繰り返しながら見てみれば、先程まであった擦り傷が綺麗さっぱり消えていた。
「わ、なにこれすごい……!えっと、もしかしてこれって」
顔を上げて女性に尋ねようとすると、彼女は人差し指を自身の唇に当て、片目を瞑る。
内緒、ということだろうか。ならばこれ以上深追いするわけにもいかないが、それでも彼女が私の傷を癒してくれたという事実は変わらない。
「……あの。治してくれて、ありがとうございます」
「ふふ、いいえ?……それでは、わたくしはこれで」
それだけ言うと、女性はフードを被り直し、一礼して去っていった。
私は人の波に紛れていく女性の姿を呆然と見送っていたが、自分の目的を思い出してはっと我に返る。
このままだと満足に見て回る前に自由時間が終わってしまう。できればそれだけは避けたいところだ。
(そろそろ行こう)
時間を無駄にしないようにと、私は目的の店に向けて足を踏み出した。
歩を進めながら、私は先程女性に触れられた手をじっと見つめる。
(擦り傷が跡形もなく消えた、ってことはさっきのは魔法なんだろうな)
この世界で治癒魔法を見たのは、これが初めてだ。怪我を瞬時に治すことができるのは魔法だけで、体力回復剤は即効性はあまり無いとは聞いていたが、ここまですごいものだとは思わなかった。
(体力回復剤のほうも、まだ使ったところは見たことないけどね……)
体力回復剤も魔力回復剤も、買うだけ買ってロイドの鞄に仕舞われたままだ。仲間二人はいつも危なげなく戦闘を行い、今のところ傷一つ負っていないから使う機会がないのも当然かもしれない。負傷しないに越したことはないけれど。
(今度、数に余裕があれば使わせてもらおうかな)
心の中でそんなことを考えながら、私は残りの時間を露店巡りに費やしたのだった。
* * * * * *
「おかえりなさい、コトハ」
「コトハちゃんおかえりー」
早めに切り上げて戻ってきたはずなのに、集合場所には既にロイドとクロノスの姿があった。
「ただいま、待たせてごめんね二人とも」
「全然待ってないから大丈夫よー。アタシもさっき来たばかりだし」
「私も、待つことは苦ではありませんから」
「そっか、ありがとね。でも出発時間も迫ってきてるし、そろそろ馬車に戻らなくちゃいけないよね」
「そうですね。既に用事が済んでいるのでしたら、馬車に戻っていたほうがいいかもしれません」
時計の針を気にしながら、ロイドが言う。
この場に留まっている理由もなかったので、私達はそのまま馬車が止まっている場所へ戻っていった。
「あ、そうだコトハちゃん」
「ん?」
馬車に乗る直前、クロノスが思い出したように私を手招いた。
もうすぐ馬車が出てしまうというのに、何の用だろう。馬車の中ではできない話なのだろうか。
「どうしたの?」
「ふふっ。馬車に乗ってしまう前に、ね。耳を貸して?」
「え」
言うが否や、ぐっと距離を詰められ、耳元に顔が寄せられる。
一瞬視界に入ったクロノスの瞳には、悪戯っぽい光が灯っていた。
「――恥ずかしがっているコトハちゃん、初々しくてかわいかった。馬車の中でも、退屈せずに済んだよ」
「……っ!?」
いつもより低く、囁かれた声。
私が息を呑んだのとほぼ同時に、クロノスは自然な動作で顔を離した。
(耳元で喋る必要があったのかとか、距離が近くて恥ずかしかったとか、いろいろ全部後回しだ)
クロノスの台詞の意味を考えたくない。
だって、クロノスがたった今口にした内容を考えると。
(馬車の中でのあれこれを、見てたってことで……ていうかあれは寝たふりだったってことで……)
そしてそのことで、彼が私をからかったということも、理解した。
一気に、忘れかけていた熱が顔に集中する。
「――――っ!クロノスの馬鹿!」
悔し紛れにそう叫んで、私はクロノスから逃げるように馬車へと乗り込んだ。
後方から、おかしそうに笑うクロノスの声が聞こえたが、気にしたら負けである。
ただ、今から王都に到着するまではできるだけ眠らないようにしようと、心に固く誓ったのだった。
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