第六章「微かに見えた姿」
第1話「それでも足りない」
時間の問題だ。でも、まだ大丈夫。そう、自分に暗示をかけ続ける。頭の中で様々な考えが混ざり合い、心臓ががなり立てる。そんな落ち着かない朝だった。
今日も茜は先に出ていた。
数日見ていないだけなのに、しばらく茜の顔を見ていないような気がしてしまう。せっかく茜が用意してくれた朝食の味を感じる余裕もなかった。
佳奈の送り付けてきたメールの内容の本質を感じたのは、学校に着いてからだった。教室に足を踏み入れた瞬間に静まりかえる室内。続いて、声を抑えて何やら話し始めた。
僕に向けられる女子たちの目線や態度には明らかな敵意や嫌悪が含まれている。僕は一夜にして悪い意味で目立つ存在となっていた。ホームルーム開始まで二十分近くある。こんな早くに来たのは間違いだった。でも、この現状を受け止めるだけでも僕の心は軽くなったのだ。
次はどう来る。今すぐにでも何か行動があるだろうか。そうだとすればまだ楽だ
が、この空気を味わい続けなければならないのは僕の精神が持つか分からない。
「ねぇ、桐原」
「……」
来た。僕が席に着くとほぼ同時、昨日の三人がそろい踏みで。机を取り囲み、退路を塞ぐいじめグループ。その威圧は昨日感じたものより恐ろしかった。
「なんだよ」
強気に出るが、実際は焦って何も考えられなくなっていた。もし、情報の通りなら、証拠もなしにこれを止めるのはほぼ不可能と言っていい。
「何だよじゃないんじゃない? 盗撮魔」
「女子を盗撮していたんでしょ? それでたまたまいじめの現場が写ったから、正義感で先生にチクったの?」
「変態のくせにっ!」
周りからも痛いほどに視線が突き刺さる。
――先輩が女子の盗撮を行っていたと。その過程でいじめの現場を押さえたと、そういう噂がハイスピードで広まっていますよ。先輩は変態ですが度胸がないのでそんなことは出来ないでしょう。間違いありません。
片棒を担いだ女より
佳奈のこのメールが真実だったと今になって理解した。いや、信じたくなかっただけかもしれない。こんな、僕にはどうにもできないような状況になっているだなんて。もし、訴えられてしまったら、僕はもう、だめかもしれない。
どうする。どうする。どうする。どうする。
どうしたらいい。考えろ。この状況を切り抜ける方法を。
「なんか言ったらどうなのっ!」
だめだ。昨日あれだけ考えて何も出てこなかったのに、今この土壇場で名案が思い付くわけがない。でも、どうにかしなければ。黙っているなんて、周りにしてみれば肯定しているのと同じだ。
冷や汗が頬をつたう。自分の行動がいかに軽率であったか、無計画なものだったかを今になって思い知った。また僕は、自分の勝手な思い込みと行動で失敗するのか。いや、でもこれは少なくとも間違いじゃない。僕の取るべき行動はそう間違ってはいなかった。ただ、そのリスクをまるで考えていなかっただけ。
無知だな、僕は。意気込んだのに何も出来ないのか。
少しでいい。完全にこの状況が打破されなくてもいい。何かないのか。
「いい加減にしなさい」
その声は、僕を我に返らせた。焦り切っていた僕の心を、落ち着かせてくれた。
いつも、僕を気にかけてくれる、耳になじんだ声。
秋本沙織の声だった。
生徒の間を縫うようにしてやってくると、沙織は僕を背にしていじめグループの前に立ちふさがる。
「なに? あなたも知ってるでしょ? こいつが盗撮してたって」
「知らない、そんなこと。私が知っているのはこのぐらいだよ」
いじめグループにもクラスの空気にも一切気圧されずに、凛とした声で言い返す沙織はボイスレコーダーを取り出した。
『 「もう、やめろ」
「なんだ、あんた?」
「こんなやついたか?」
「いつも一人でいる、いるんだかいないんだか、わかんない奴だよ」 』
沙織が再生ボタンを押すと、流れて来たのは昨日の会話だった。いじめグループと田中さん、僕の会話を教室にいた全員が無言で聞く。いじめグループの顔は蒼白
とし、もうすでに敗北を悟っているかのようだった。
『 「このことを口外したらあんたは社会で生きていけなくなると思ったほうがいいよ」
「まあ、すでに学校で立場なくなるのは確定なんですけど~」
「それじゃあ、うちらは行くよ。楽しみだね、明日が」 』
「これ、あんたらだよね?」
「……」
黙り込むいじめグループ。それでも簡単に負けを認められないようで必死に口を開いた。
「これがうちらだとしたって、こいつが盗撮していたかもしれないのは変らないじゃないか」
「何言っているの?」
取り乱す彼女らに、あくまで冷静に沙織は返した。
「だって、こいつはいじめを盗撮したって自分で言ったじゃない!」
確かにそうかもしれない。でも、それはこの録音されたものが完全にそのままだったらの話だ。
「よく聞いてみて」
もう一度流れる録音音声。そこに僕が盗撮したと言う言葉はなく、あるのはいじめられていた田中さんを庇った僕という構図だけだった。
「そんな、なんで……」
そうか。この録音は、佳奈が不自然なく都合のいいものに編集したんだ。録音したのは沙織だとして、佳奈に協力を頼んだのだとすれば昨日メールが来た時点で、二人はこの形を考えていたのだろう。
「もう二度とこんなバカなことしないで。特に、基に手を出したら許さない」
沙織のこんな姿を初めて見たかもしれない。いつも僕にはあんなに優しい沙織が、こんな顔をするなんて。そんな沙織を僕は少し怖く感じた。
「つぎはないから。よく覚えておいて。ここにいる全員に私は言っているんだよ。証拠もなしに、噂だけで人を責めて。もう二度とこんなこと、なしにして」
そのまま、僕の方に振り返り笑顔を見せると、沙織は堂々と教室を後にした。
僕はおろか、そこにいた全員が居た堪れなくなり予鈴が鳴るまで無言が続いた。
その日の学校はとても長く感じた。クラス内の重い空気が僕の心を圧迫したからだ。
そして、ただ、自分では成し遂げられなかったという事実を実感する。
もし、あそこで沙織が助けてくれなければ、きっと僕は本当に社会的な終わりを迎えていたかもしれないのだ。でも、それがわかっていても。……悔しかった。
気持ちでどうにかなる程、現実は甘くない。そんなことは知っていた。
これは、妹の為とかそんな崇高な理由によるものじゃない。僕が満足したいからとった行動だ。でも、だからこそ悔しかった。自分で最後までやり遂げられなかったことが。
茜に何を言ったらいいんだろう。人間と人間の関係に恐怖を感じても、いじめを体感しても、茜にかける言葉が思いつかない。最後まで自分一人でやりとおしたのだとすれば、少しは違ったのかもしれないが。
日も沈み始めた夕暮れ時。重い足取りで田舎道を行く。中途半端な時間だからか、生徒は見当たらず一人歩を進めた。多分、沙織を探していた。何故だか無性に話がしたかった。おそらく、あのとき見せてくれた笑顔に期待しているんだろう。また僕は、こんな大事なことでも甘えてしまおうとするのか。
だが結局、家に着くまで沙織はおろか知っている顔すらなかった。
鍵を開けて帰宅する。返事が返ってこなくても挨拶をするのはきっと大切だ。茜がどう思うかはわからない。でも、無言よりはましだと思う。
少しの勇気と共に口を開けた瞬間。
「そんなっ……なんで、お兄が⁉」
リビングからいきなり茜の声が響いてくる。帰ってきたことに驚いているのかはわからないが、挨拶をしそびれてしまったな、と思っていると玄関にあった見慣れない靴に目が留まる。
「基は、茜ちゃんの気持ちを少しでもわかろうとしたんだよ」
その声は沙織のものだった。
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