第19話
明が小野川の家にやって来てから、三日が過ぎた。明が卓上に置かれているデジタル時計に目をやると、そこには5/14(SUN) 23:30と表示されていた。
幸い、これまでに群集がここを嗅ぎつけた様子はなかった。明はこの三日間、幾分か落ち着いた気持ちで過ごせている。
現在、小野川はこの部屋に居なかった。日曜日だというのに部屋主が部屋を空けていては、ずっと家の中にいる明の曜日感覚が狂ってきそうだ。
明には、いまだに小野川が何をやっているのかよく分かっていなかった。明がそのことを問いかけても、小野川はそのたびにはぐらかして部屋を出て行ってしまう。どうやら、深夜に家の外へ出かけているようであるが、どこへ行っているのかすら、明には分からなかった。
深夜に出かけるために、小野川は学校から帰ってくると、まず仮眠をとる習慣をつけていた。それから出かけていく合間に、明は学校での様子などを聞く。
「安心しろ。この分なら、もうすぐお前が外に出ても平気になると思う」
昨日の小野川の発言だった。彼は顎を指で擦りながら、得意げに笑っていた。明は何がどうしてそうなっているのかをしきりに知りたがったが、彼はその場では「もう少し待て」と言うに留まったのだった。
外では雷が鳴り出し、稲光が部屋にも差し込んできた。もうすぐ雨が降り出すのかもしれない。この街にも雨が降ることに明は驚いたが、太陽や月があることを考えるとそれほど不思議なことでもないのかもしれない。
明は窓を閉めようと、そっとカーテンの隙間に手を入れた。遠くの雲が有害な煙のように色濃く渦巻いているのが見える。
ふと家の入り口の方に、人影が見えた。明は部屋の明かりを消すと、慎重にカーテンの間からその姿をよく見る。それは小野川だった。明は安心してため息をついた。
ちょうどその時、小野川も空模様を見ようとして、顔を上げた。そこで二人の目が合う。小野川は少し困ったような表情を浮かべると、そのまま家の中へ戻ってきた。
「いやー雨が降る前でよかった」
「こんな時間まで、どこに行ってたんだ?」
小野川は服を折りたたむとどっかりと腰を下ろした。
「もうお前のことを必死に探し回っているような人間も大分減ってきただろうけど、あと数日は家の中で我慢していてくれよ」
「それは構わないけどさ、お前は近頃何をやってんだ?」
明の問いに、小野川は口の端を持ち上げた。
「今の街の様子がどうなってるか、分かるか?」
「どういうことだかさっぱり分からない」
「そうか。追われている側だと把握できないんだな」
小野川は感心したような顔で頷いた。何の話か分からない明が先を促すように視線を送ると、彼は再び微笑んだ。
「街の中には今、新しい標的が出てきたんだ。今のところ、街中の関心はお前とそいつで二分されている」
突然の話に、明は頭が軽く混乱した。
「人の関心が、その新しい奴に移りかけているってことか?」
「その通り。そして、この移行が完璧に済めば、お前もそのうち群集の一人に戻れる日が来るというわけ」
明の目的は顔の無い群衆の一部となることではなく、もとの街に戻ることなのだが、この場は敢えてそれは言わずにおいた。小野川がその先を続ける。
「今のところ、その新しい標的も捕まっていない。どこかになりを潜めている。条件はお前と同じだが、お前の方が若干下火になりつつあるな」
「それが、小野川の最近の行動と関係しているってこと?」
「そう。新しく標的になってもらった奴には、あらかじめ責められてしかるべき証拠があったからな。わりと簡単なことだったよ」
そういうと、小野川はスマホを取り出し、その画面を明に見せた。二人の男子生徒が映っている。片方がもう一方の男を恫喝しているように見えた。それも、校内での様子らしい。
「おい。これ、風早か?」
「おうよ。いつか言ったろ。風早がろくでもないことをしているところを、誰かが携帯で撮ってたってさ」
「つまり、さっき言っていた新しい標的っていうのは、風早のことなのか」
小野川が静かに首肯する。
「お前を助けるためさ」
明は言葉を失い、視線を彷徨わせた。再び携帯電話の中を覗き込む。写真の日付は、明が小野川の家に来た日の夜になっているが、オリジナルの日付はおそらく明がこの街へ来る前のものだろう。
「つまり、小野川は風早のこの行動に関する情報を流していたってことか」
「そう。でも、この程度のネタだとネットにあげるだけでは効果は大して広がらない」
「じゃあ、何を?」
「こういう場合はビラが効果的なんだ。実際に関わりが深い連中に直で届くから」
そう言って小野川が背中の鞄から取り出したのは、A4の印刷紙だった。それは、先ほどの写真と風早に関する情報が記載されたビラだった。印刷物としての質は低いが、風早のことを知らしめるにはこれで十分なようだ。
だが、それを見ても明の顔は決して晴れやかではなかった。彼はかぶりを振りながら、重々しく言葉を紡いだ。
「小野川。こんなこと、許されるはずないよ」
「まぁ、そう言うんじゃないかと思っていたよ。風早に役割をすげ替えるこの方法は、お前は気に入らないだろうな」
小野川は、明が風早に対してどこか引け目のようなものを感じていることを知っていた。それに対する不満が、彼の言葉の端に表れていた。
「だから、この数日間は内緒にしていたんだな」
「その点はもちろん謝るよ。けれど、どの道もう隠す必要もなくなった。このままいけば、風早がメインの標的になることは間違いなくなったから」
小野川は微笑み、ビラを鞄にしまった。明はそれと同じビラが大量に鞄に詰め込まれているのを見てとり、口を開いた。
「小野川、お前が俺のためにこうやって動いてくれたのは凄く感謝しているよ。だけど、やっぱり俺の代わりに風早が大勢に襲われるっていうのは、どう考えてもだめだよ」
明は力なく首を振り、そして項垂れた。彼には小野川を責める気はなかったのだが、小野川は明のその態度に釈然としない様子で、声を荒げた。
「明は、どうしてそこまであんな奴を気にかけているんだ? あいつは十中八九、お前のことが嫌いだろ」
「まぁ、確かにそれはそうなんだけど」
「もし、今回お前が標的にされたことが、本当に奴の仕組んだことだったとしたら――」
「いや、それはまだ仮定の話だろ」
明が矢継ぎ早に口を挟むのを見て、小野川は苦い顔をし、声を荒げた。
「そうだけれど、遅かれ早かれ奴には誰かが裁きを下さなきゃいけなかったんじゃないか? こんな、ろくでもないことをする奴なんだから」
その強い語調に、明は勢いを削がれてしまった。
「裁きね……」
明は言葉が見つからず、足元に視線を彷徨わせた。頭の奥から湧き上がる良心の呵責が、彼の喉元を締め付ける。自分や小野川たちのどこに、風早に制裁を加えられるような正義があるだろうか。特に、自分のような人間に。
彼がビラに目をやっていると、ちょうどその時、その紙にぽたりと雫が落ちてきた。安物の用紙はあっという間にそれを染み込ませ、紙面を歪ませる。明が窓から空を見上げると、パラパラと雨が降りこんできた。道路の湿った匂いが、ふっと辺りに立ち昇った。
「とうとう降ってきたな。今日のところはもう寝よう」
明は窓を閉めた。
「俺の代わりに、風早が今度から大勢に襲われるのか……」
「そうなるな。ビラ撒きっていう方法は古典的だけど、こういう場合は結構うまくいくもんだな。さっさとやめれば、配布元も特定されずに済みそうだし」
「でも、今度からは、何か行動を起こす時は事前に言ってくれよな」
明が真剣な顔で小野川の肩に手を置くと、小野川は静かに頷いた。
「あぁ、わかったよ」
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