偏差値制度
桜松カエデ
第1話
天を突くようなビルが背を競い、地上では車のクラクションや電車の音、巨大テレビに映し出される俳優の声がひしめき合う。
そのビル群の一つ。全面ガラス張りの円錐形に建てられたビルは四十階ほどあり他のビルよりも一段と豪華に見える。
そしてこのビルの三十階ではいつものように怒号が響いている。
「お前この企画書相手方に見せたのか!」
物凄い剣幕で怒鳴っているのは、広報部部長の中井幸平だ。髪のない頭に皺のよった額は年期を感じさせる。ビシッと来たスーツはさすがに似合っており、部長職と言うだけあっていい靴も履いている。
「あ、はい……昨日部長から承諾得ましたが……」
「ばかやろう、あれは書き直してから見せろと言ったんだ!あのまま見せる奴があるか」
「いやしかし……」
なおも食い下がってくるのは渡辺正敏。短髪の髪にキリットした顔つきだがよれよれのワイシャツ、ネクタイもゆがんでしまい、遅刻した新人社員かと思わせる。だが渡辺は入社して五年目になる中堅社員だ。
「言い訳するな!」
最近の若者は怒られればすぐに『でも』、『だけど』と言い訳をつけてくる。
「ちゃんと見せましたよ」
今度ははっきりと言ってきたので中井はデスクに置いてあったファイルを掴むと、角で渡辺の頭を叩いた。盛大な音が響く代わりに、中井はうずくまってしまう。
「いくらお前が見せた、見せたと言っても無駄なんだよ!偏差値が俺よりも下なんだからな」
テストの点数、授業の五段階評価、クラス順位、心理テストの結果でさえ数字で表される世の中。
数年前から日本では人々の優劣を決める為に国立能力判断機構が行う『偏差値制度』が用いられた。科目は(国・数・社・理・英)の五科目で高卒以上の全国民が一斉に受けるのだ。一年に二回挙行される。数字とAからEまでの混合表記で表され、企業ならば出世に絡み、取引相手を選ぶときもその社員の偏差値によって適切かどうか見極める。とくに民間ならばその傾向が顕著に出てくるのは仕方のないことかもしれない。
しかも厄介な事に、多少の暴力行為は『指導』とみなされ警察沙汰にはならないのである。偏差値が上の人物が行ったんだから……この言葉で全てが許容される世の中なのだ。
「いいか、渡辺。この世は偏差値が全てなんだよ。俺は77.56A。対してお前は68.99Eだろ。どちらの言うことが正しいか分かるよな?」
「はい」
とか細い声で渡辺は返答したが、全く反省してないようにも見える。
まったく、ギリギリで入社してくるから言いたい放題だ。ストレスの発散に丁度いい。
渡辺が言ったことは事実であり、中井も許可を出したのである。だが、先日応援していた球団が負けてしまい、うっぷんを晴らしたかったのだ。渡辺が出してきた企画書は完璧で、正直嫉妬するほど素晴らしかった。
渡辺はいつもそうだが、真面目で仕事は出来るくせに偏差値が低いため平より上に出世できない。
「今回のは俺が向こうに何とか言っておくから、もう仕事に戻れ」
「はい」
渡辺はがっくりとうな垂れたまま自分の席へと戻って行った。
これでいい、渡辺が出した企画書は俺が作ったことになるし上のご機嫌も取れて一石二鳥だ。
「もうこんな時間か」
中井はまだデスクに向かっている社員達の間を通り抜ける。
「部長もう帰られるんですか?」
その時、渡辺が声を掛けてきた。何か言おうとしているのか、真っ直ぐこちらを見てくる。
「これからちょっと用事があるからな」
まあ別に用事なんてない。ただ気分的に帰りたくなったのだ。
しかし中井はもちろんそんなこと顔にはださない。
「あ、いえそれなら…」
一気にシュンとなった渡辺はどうやら信じているらしい。
「それなら? 貴様何様のつもりだ! お前の用事は無いのに俺の事は止めるのか? 偉くなったもんだ。ついさっき失敗を何とかしてやると言ったんだぞ。まさか忘れたのか?」
「そう言うわけでは」
「まったく、用も無いのに人を呼び止めるな!」
大声で中井は言うと、部屋を出て行った。
真面目にしても意味が無い。この世ではどうやって偏差値を上げるか……それだけが問題なのだ。毎年二回行われるテストに対して対策を練る、これだけをしていればいい。
以前は自分も渡辺のような社員だった。偏差値の結果など仕事の成果によっていくらでも補えると思っていた。
だがそれは幻想にすぎないとつくづく感じる。
入社して四年目になってよ気がついたのだ。いくら働いても意味がなくモチベーションはがた落ち、仕事の効率も悪くなったが、一定のクオリティーは保っていた。
今考えると我ながら頑張ったものだ。
「しかしそういったある一種のルールに例外は常につきもの」
自宅の書斎でとあるサイトを見ながら中井はほくそえんでいた。
会社を辞めようかと思い始めた時に出会ったサイトで黒の背景に赤い文字が目立つ。個人サイトかと思われるが、そんなことはどうでもいい。
画面を下の方へスライドさせていく。
「今回は少し高いな……」
映し出されたのは、次回のテストでとれる偏差値の数字とそれに見合った問題の値段。
このサイトでは希望した偏差値分の回答では無く問題が送られてくる。
例えば、偏差値70ならば五百万円を支払うことでそれに応じた問題が送られてくるのだ。
値段設定は毎回違い、会員制となっている。条件は次の通りだ。
・サイトは会員制とする。
・入会後には毎回問題を買う。
・テスト、その他の事に努力する事。
中井が選ぶのは毎回偏差値70程度の問題だ。このくらいが一番丁度いい。上の役職になると部下が失敗した時の代償は大きいし、逆に降格してしまうと上司に頭を下げる回数が増える。
「現状維持が一番なんだよな」
一人呟くと今回提示されている額に一瞬躊躇するが、クリックする。
今回はテストの問題が難しいらしい。この前のテストは問題を購入するまでも無いほど簡単で、その時の値段は今よりも五十万円ほど安かった。
入金画面を経て中井は椅子の背もたれに体を預けた。
これでもう十六回目の購入だ。このサイトを見つけてから人生が変わった。社会的地位に財産に立派な豪邸、高級車と欲しい物は何でも手に入る。
「あの頃がバカみたいだ」
そう言うと中井は目をつぶった。このサイトを見るたびに思い出されるのは昔の自分がいかに無駄な努力をしたかだ。
もともと中井は真面目な性格だった。仕事も正確で早くそれなりの成果は上げていた。しかし、偏差値だけは並みだったのだ。上司の口癖は『偏差値が低いから無駄な努力はよせ』だった。どう考えても上司や先輩よりも仕事が出来た、だが目の前に立ちふさがるのは絶対に越えられない壁である偏差値。
苦悩の末に偶然見つけたのがこのサイトだ。見つけた当初は怪しさ満点で、訳の分からないものに大金を払うのは躊躇われた。
まあしかしそれでも今より良くなるならばと、初めは偏差値60くらいの問題を目標にしたが金額的に手が出せずに貯蓄だけをやっていた。
そっと目を開けると、ピロリンとリズムのない音が聞こえてきた。
問題が届いたのだ。
画面を確認すると、予想通りこの前の問題よりも難しくなっている。特に数学は苦戦しそうだ。
中井が表示された画面の右上にある印刷ボタンをクリックするとすぐにパソコン横にあるプリンターから問題が出てきた。
回答では無いので早めに解いて間違いが無いか確認しなければならないし、歴史は暗記項目が多いので早急に取り掛かる必要がある。
「さてやるか」
渡辺は真面目だ。それだけに昔の自分を見ているようでイライラしてしまう。努力なんて無駄だぞ……だがその言葉を言うことはさすがにできなかった。
広いオフィスにある部長の席は全体を見渡せる位置にあるが、目の前には渡辺が必死になってキーボードを打っている。
はあ、と中井は軽くため息をついた。同情はしない。その道を進んでいるのは渡辺自身なのだから。
中井がパソコンを立ち上げ、メールをチェックしていると仕事用の携帯が鳴った。
「?」
常務からだ。
すぐさま通話ボタンを押して電話に出る。
「はい、中井です」
『ああ、もしもし。この前の企画書だけどさ、かなり良かったよ』
「あ、ありがとうございます」
常務が言っているのはこの前、渡辺が書いたものだ。
まあしかし、部下の成績は上司の成績と同じだし、何より偏差値の低い渡辺のを使っているのだから、俺が常務から褒められても文句はあるまい。
『それでちょっと急なんだけどさ、来月に大がかりな広告を出そうかって話になったんだよ』
「大掛かりなですか?」
『そうそう。このビル全体を使っての会社の宣伝って事なんだけど、この案を考えてほしくてね』
つまりはビル一つ使う規模の広告内容を考えろとの事だ。
しかも駅の看板やテレビCM、ラジオにも取り上げられるような派手な内容と付け加えてきた。
「あー、分かりました。いつまでに練っておけばいいですか?」
『そうだな、三週間後には出してくれ。その間はこの企画だけ考えてくれればいいから』
凄い待遇だ。このために常務は全力を注げと言っている。それだけ注目されるべき企画なのだろう。
「分かりました。また連絡します」
そう言って電話を切った中井は顔をゆがませた。
何言ってやがる! 偏差値問題を解こうと思ってたのに! だいたいそんな大事な事を
部長クラスに任せる気かよ。もっと上の方で話し合うべきだろ。
「しかしまあ、返事はしてしまったし」
何より中井は広報担当であり、電話が来るのは当たり前の事なのだ。
「めんどくせー。ビル一つ使った広告って……」
中井はデスクに肘をついて顎を乗せる。
考えるのは面倒だけど、三週間は仕事サボってもいいって事だ。
まったく企画と関係ないことを考えながら、ふと前に目を向けると机に積まれた資料と格闘している渡辺の姿が目に入った。
この前の企画書を書いたのって渡辺だったし今回も書いてもらうか。
「おい、渡辺」
中井は作業中の渡辺を呼んだ。
いぶかしげな顔をした渡辺は、顔に出ている表情を崩さないでこちらに来た。
「この前の企画だが、向こうの方は大変満足していたぞ。多少なり俺が手を加えて説明したがベースを作ったのはお前だ」
中井がほめると、渡辺はよりいっそう眉に皺を寄せた。
「どうしたんですか? やけに褒めてくれますね。それに先日は指導を受けたはずですが……」
「そうだったな。しかし俺の予想に反して相手方が褒めてくれたんだ、もう少し喜べ」
「はあ。それで何か用でしょうか?」
「ああ、本題なんだが……実は会社のビルを丸ごと使って宣伝をする計画があるんだ」
「ビルを丸ごとですか……それはすごいですね」
今まで眉間にしわを作っていた渡辺が目を見開いた。
本当にちょろいもんだ。下っ端は常に大きな計画に加わり、上を目指したいと思っている。それが渡辺のような真面目な奴なら尚更だ。渡辺は昔の俺に似ている。だから考えもある
程度読める。
「それでだな。お前の腕を見込んでこの計画の企画を練ってもらいたい」
「え! 僕にですか?」
前のめりになってデスクに手をつく渡辺の目は物凄く輝いていた。
まだこいつは分かっていない、その業績もどうせ俺がもらうということを。
「ああ。頼めるか?」
「はい! もちろんです」
「よかった。それと三週間後が締切だぞ。それまでは他の仕事しなくてもいいからな」
思いもよらぬ発言に渡辺は聞き返してきた。
「え? 他の仕事はしなくていいんですか?」
中井は席を立つと、真っ直ぐ渡辺の目を見据えた。
「それだけ会社はこの企画に全力を注いでいるって事だ。予算の心配は取りあえずしなくていい。外を通る人全員の目を引く内容を作ってくれ」
渡辺にここまで真剣な目を向けたのは初めてだ。だがそれでもこいつの役目は変わらない。
上司の成績を上げるいい手駒。
それだけだ。
三週間後。
中井は自分の仕事を一つもやらなかった。常務は中井に『他の仕事はしなくてもいい』と言ったからだ。電話で伝えてきただけの常務が現状を知ることは無い。
しかもこの間はテスト問題を解きっぱなしだ。会社でも単語帳を開けて暗記している。
「いやあ、ほんと最高だな」
思わずにやけ顔になってしまうのを必死にこらえる。
ちらりと渡辺を見ると、ものすごい勢いでキーボードを打っていた。手元の資料を見ながら、時折顎に手を当てて考え込んでまた再開している。今まで渡辺を見てきたが、今回は一番考え込んで作業に取り掛かっている。
心躍りながら中井は渡辺が企画書を持ってくるまで、単語を暗記し続けた。
「部長」
と声がかかったのは、午後五時になった直後だ。単語の暗記がつまらなくなり中井は会社のパソコンで次に買う高級車を決めている最中だった。
そのページをすぐに閉じ前を向くと、そこには目を輝かせている渡辺が立っていた。手元の資料は渡辺がさっきまで見ていたものと違うのか、明らかに枚数が少ない。
まあ問題は量よりも質なのだ。
「おお、できたか」
「はい! これは自信ありますよ」
意気揚々と渡辺が差し出してきた紙を受け取る。
なるほど、プロジェクションマッピングを利用した宣伝らしく、会社の創業から今にいたるまでの製品を年代ごとに紹介していくものだ。ビル群の中でやってしまえば視線を独占できるだろう。しかも登場するのは製品だけでは無く、それを紹介するキャラクターは話題のアニメキャラ。中年層よりも下の客層を中心としている。
「それとこれなんですが……」
ふと渡辺が差し出してきたのはUSBメモリだ。
「これがどうしたんだ?」
「はい、一応どんな映像を使用するのか考えまして実際にプロジェクションマッピングを行った場合のビルの姿を作りました」
なんとこの三週間でそこまでやっていたとは驚きだ。
「分かった。これは帰ってから見よう」
受け取ったUSBメモリをポケットに仕舞い込み、再び企画書に目を通す。
「あの、どうですか?」
中井が何も言わずに企画書を見つめているので、渡辺は焦りを感じていた。
正直、ここまでやっているとは思わなかったが、変に口出しをするのはかえってクオリティーを落としかねない。
「よし、これでいこう。後はUSBにある映像見てから上に報告する」
「よかったあ」
ホッとした渡辺だが、一番喜んでいるのは中井だ。
常務からは今の偏差値でいける最高の役職まで昇進できることも言われている。
渡辺はこの制作者の名前が上の方へ伝わると思っているのかもしれないが、そうではない、直々に頼まれた俺が常務に報告するのだから、当然制作したのは俺になるわけだ。
「よし、今日から通常業務に戻っていいぞ」
「分かりました」
足取り軽く席へ戻って行く渡辺の姿を見ずに、中井はパソコン画面にさきほど受け取ったUSBを刺しこんだ。
家で見る時間があるわけがない。
中井はチェックもせずに常務へとサンプルを転送した。
それから月日が過ぎるのは早かった。
偏差値テストも一週間をきった。もう70を下回る事のない中井はテストよりも自分の昇進と、プロジェクションマッピングの企画に心を躍らせていた。
メールを送ったその日のうちに常務から電話があり、即OKの返事をもらった。
これで昇進、給料アップ、会社の待遇も厚くなる。まあ責任は重くなるが下の奴らに押し付ければ問題は無い。
後はテストのみでこちらも計画通りに進んでいる。
「よし、こんもんか」
中井は自宅でテストの最終チェックを終えると、電卓を取り出して何やら計算を始めた。
「車がこのくらいで、土地と別荘つけると……あーでも車をクルーザーに変えたら…………」
弾きだしたのは昇進してからの買い物の予定だ。
電卓には一般の人に手が出せないような金額が表示されている。それを見るだけでも中井はにやりと口元をゆがませた。
だが。
テスト会場は各地に設置されている。外見はどこにでもある体育館のようだが、中は監視員と監視カメラが鼠一匹見逃さない体制となっている。横長の机がいくつも並べられ、筆記用具が置かれているだけで、携帯や自分の筆記用具は持ち込み禁止だ。昼食や飲み物は別の部屋に保管される。
だが既に頭の中に回答が入っている中井には関係がない……はずだった。
「こんなの出てきてないぞ」
誰にも聞こえないように呟いた中井の目には、サイトで手に入れた問題と違う問題が映し出されている。
手に持ったシャープペンが小刻みに震える。
今まであのサイトを使って問題が外れたことなど一度も無かった。目の前にある問題用紙と一言一句違わない文章が出てきていたのだ。
頭の中に残っている回答は役に立たず、残っているのは昨夜打ち出した新たな買い物の予算だけだ。
ここで偏差値を落としてしまえば平どころか首になりかねない。それだけは、阻止しなければならない。
ごくりとつばを飲み込み再び問題に向き合う。
一時間後、中井は意識朦朧としながら世界史の問題を解いていた。数学の問題を解いた時点ですでに精神的に限界が訪れていたが、まだ終わっていない教科が三つはある。
愚痴をこぼしそうになるのを堪え、ペンを動かすが、全く進まない。頭を動かすが、それでも手の感覚が無いような錯覚にとらわれる。
嫌だ。
その言葉だけが中井の心で響いている。
失うものは数知れないだろう、家に車に地位に名誉に金に……そして人生さえも無くしてしまうかもしれない。
それだけは嫌だ!
中井は手に力をこめると、脳をフル回転させて問題を解き始めた。
蛇足の意味を痛感したのは何年振りだろうか? はじめては入社して真面目に働いている時、そして二回目は偏差値テストの事前問題を解いて回答を暗記した時。
そう考えると、まだ二回だけだ。
しかし今は三回目。
中井は手に持った紙を睨みつけていた。
そこには偏差値問題を送っていたサイトの電話番号と住所が記されている。十六回もお世話になっているのだから心配はしていなかったのだが、保険は大事だ。
記載されていた番号にかけてみるが、つながる様子は無い。まあ実際提出された問題と事前の問題が違ったのだから電話がかからなくて当然と言うべきか……。
だが中井の持っている情報はそれだけでは無い。
「ここか」
たどり着いた場所は、自宅から車を走らせて一時間はかかるド田舎の一軒家。古い民家で、壁はシミだらけになっており窓ガラスも割れている所をガムテープで補強してある。庭には草が生い茂りここ数年は手入れなどされていないのが一目瞭然だ。
「まあ国の問題を配信しているんだ、身を隠すにはちょうどいいか」
車を降りて歩を進めた中井は、草をかき分けて玄関までたどり着く。
「ここもか……」
玄関の扉は傾いており、インターホンにいたっては何かで殴られたようにつぶれている。
中に入るのを躊躇いそうになるが、ここで諦めるわけにはいかない。
どうやって国が出す問題を入手しているのか知りたいわけではないが、何故送られてきた問題があんなにも間違っていたのか説明してもらいたい。
あまり穏やかな気分ではない事は自覚している。むしろ怒りに変わっているのだ。
インターホンが無いんじゃしょうがない。
中井はノックを数回する。
今まで無音だった土地に音が響く。
返事は無い。
もう一度ノックした。
だが返事は帰ってこなかった。
ここで悠長に待っている時間は無い。そっと扉を押すと、何の抵抗も無く扉が開いた。
その瞬間に外から入ってきた空気が室内の誇りを巻き上げ、一瞬視界を覆う。
中井は目を細め腕で口元を覆った。息を止めて中へ踏み込む。
床を見るがとてもじゃないが靴を脱げる状態では無い。
散乱したゴミや蜘蛛の巣、壁には虫がはい上がりよく見ると床板も所々はがれている。家電製品はあるものの、ずいぶんと古く動くかどうかも分からない。こんな環境ではネットも繋がっていないだろう。そうなれば問題を配信することは事実上不可能となってくる。
「くそ」
部屋の中を見た中井が早速悪態をつく。
何もない部屋、荒らされた形跡など何もなく、ただただ放置されている空間が広がっていた。
中の空気は良くない、中井はさっと民家を出る。
「どうしたらいいんだ」
もはや絶望的だった。どうやってもサイトとの連絡は取れない。
携帯でサイトを開くが……接続先は真っ暗な画面だけが映っている。
「くそが!」
怒号をはくと中井はものすごい形相で携帯を地面に叩きつけた。怒りしかこみあげてこない。
あれだけの大金を払わせておきながら間違った問題を送り、しかも記載されている住所はでたらめだ。
おかげで今回のテストはボロボロ、結果は届いてないが見るまでも無い。
近々行われるプロジェクションマッピングの企画も進行しなければならないが、ここからが問題だ。
偏差値が下がればプロジェクトから外されるし、もし会社の規定偏差値に達していなければ退職もあり得る。
「冗談じゃない!」
中井はそう言うがもう手遅れだった。
その日、いつもと変わらぬ風景があると思っていたが実は全く別物に変わっていた体験は生まれて初めてだ。
社内に入るなり目についたのが、入り口近くの段ボール。その上には『中井の私物』とペンで大きく書かれていたのである。
慌ててガムテープをはがし、中身を確認する。そこには筆記用具や手帳、クリアファイルなどが無造作に詰め込まれていた。
「誰だこんなことしたのは!」
目じりを上げて室内を見回すと、
「自分です」
渡辺が手を上げていた。
その様子に中井は目を見開いた。
今まではっきりと物を言うやつだとは思っていたが、いつも中井が怒鳴ると退散していた。
戸惑いの表情を見せながらも中井は大きな声で渡辺を連れ出し、人気のない場所に移動した。
「おい、あれはどういうことなんだ!」
「段ボールですか?」
「そうだ」
「どういう事って……常務から電話があったんですよ。中井さんの私物だけまとめて、仕事に関するのは残せて」
「なっ!」
中井は絶句した。
先日まで常務は自分に昇給の話を持ちかけてきたばかりなのだ。
急いで携帯を取り出し、電話を掛けるがつながらない。
すると、渡辺が今までの真面目そうな顔を崩して言った。
「しょうがないよ中井君。偏差値が俺より下なんだから」
その言葉に中井の手からするりと携帯が滑り落ちた。
「そんな……嘘だろ!」
中井は渡辺に詰め寄るが、足を払われその場に転ぶ。
「貴様誰に向かってこんな」
「指導ですよ、指導。偏差値が上の人間が『指導』と言ってるんです。この意味わかりますか?」
中井は拳を作りギリギリと歯ぎしりをした。
渡辺は懐から数枚の紙を取り出し、尻餅をついている中井に見せつけた。
「今日の朝、自分が部長に任命されました。そしてあなたはクビです」
紙切れ二枚には重役の判子も押してある。それだけでは無い、他の紙に書いてあるのは先日行われたテストの結果だ。まじまじと見つめると全ての教科に置いて渡辺に負けている。それどころか会社の規定偏差値よりも下なのだ。
「まあこの事はどうでもいいとして。中井君は規則を破っていたから仕方ないよね」
「な、何のことだ?」
渡辺は携帯を取り出し、その画面を中井に見せつけた。
「ここに書いてあるじゃないですか『テスト、その他の事に努力する事』てね」
「そんな……俺は真面目に」
「言い訳無用ですよ。こんな裏道があったなんて、これから使わせていただきますね。もちろん真面目に仕事しながら」
渡辺が見せてきたのは紛れもない、中井が幾度となく金をつぎ込んだサイトだった。
中井が疑問を聞こうとしたが、渡辺はその前に話し出した。
「しかしこのサイト、どうやらちゃんと働いている人に来るらしいですよ」
「どういう事だ……」
「おかしいと思わなかったんですか?何故社長や専務は偏差値が落ちないのか」
「それはいい大学出てるからだろ?」
中井の言葉に渡辺は鼻で笑った。
それは今も昔も変わらない。いい大学でている人間の方が偏差値がいいに決まっている。この制度が始まる前から分かり切っていることだ。
「バカ言わないでください。いくらいい大学出ても人は老化します。記憶力も計算力もおちますよ。なのに何故その地位を守っていられるのか」
「そのサイトを使っていると言いたいのか?」
「まあそれは正解でしょう。だけどそれだけじゃない、ちゃんと働いているからだと思います。偏差値のみで決められるこの世界では道徳や人間性なんて必要ないと思っているかもしれません。だからこそのサイト、多分……憶測ですが、真面目に生きている人間を上に押し上げる役割を担っているのだと思います」
中井がサイトを見つけたのも、真面目にやっている自分が馬鹿らしく思えていた時だ。そして渡辺も同じく、自分が知る社員の中では一番真面目である。
「何か思い当たる節でもあるようですけど、入り口にあった段ボール今日中に持って帰ってください」
切り捨てるように渡辺は言うと、さっさとオフィスへ戻って行ってしまった。
もう戻ることは出来ない。
中井は嗚咽を漏らしながら泣き叫んだ。
偏差値制度 桜松カエデ @aktukiyozora
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