(2)岸辺の少女

「どうしたんです?」


 急に立ち止まったハゼムに、ルーリエが訊ねる。そのハゼムは岸辺の方向を見やったままだった。


「あれは人か」

「あれ、って?」


 ハゼムが指さす先をルーリエは視線で追う。すると、街道のすぐそば、湖から岸辺に這い上がる一人の人影が見えた。ハゼム達から見て逆光ではあったが、一瞬見えた顔立ちや体躯から髪を結いあげた女性であることがうかがい知れた。

 その女性は、陸へ上がると、顔を両手で拭い、ちょうど這い上がった岩に腰かけて夕日ののほうに顔を向けた。そして、両手を空へかざし、一仕事終えた後のように大きく伸びをした。

 すると自然、その肢体のシルエットが明確に浮かび上がる。

 小柄だがすらりとした体躯。豊かな胸のふくらみ。ふっくらとした臀部。強調された魅惑的な女性美が、妙に夕日に映えて一層艶めかしく――。


「ハゼムさん、駄目です!」

「なんだ、ルーリエ、どうした」


 そこでルーリエが慌ててハゼムの前に立ち、背伸びして両手でハゼムの目をふさぐ。そして、彼女の手を振り払おうとするハゼムの言葉には耳を貸さず、大声で叫ぶ。


「そこの人! 早く服を着てください! 男の人に見られますよお!」


 人影の人物は突然の呼びかけに驚いたようにハゼム達の方を振り返った。

 しかし、彼女はいたって呑気にこう返すのだった


「わ、びっくりした! 貴方たち、旅の人?」

「ええ、そうです! と、とにかく、上に何か着てください!」

「何か着ろって言われてもなあ、あたしもこれくらいしかないんだけど」


 そういって女性は岸辺に置いていた大きな一枚布を体に巻き付ける。彼女は腰かけていた岩の上に立ち上がり、一枚布を羽織った自分の身体を確かめて、「どう? これで大丈夫、旅人さん?」とルーリエに訊ねた。


「……はい、ありがとうございます」


 どうして私がお礼を言っているのだろう、と頭に疑問符を浮かべながらも、ルーリエはひとまず落ち着きを取り戻す。そしてハゼムの目をふさいだままだったことに気が付いて、その場を飛びのいた。

 ハゼムは目にルーリエの指がかすめたのか少し顔をゆがめ、何なのだ一体、と呻いていた。それを見てルーリエは簡単に謝る。とはいえ彼女は、ハゼムがじっと女性の姿に目を奪われていたことを忘れてはおらず、むすっとした表情のままだった。


「ハゼムさんもマジマジと見ないでくださいよ、色情魔ですか」

「貴嬢、どうしたのだ。あれはただの水着だろうに」

「水着?」


 水着という言葉を聞いて、ルーリエはキョトンとした表情を浮かべた。それをハゼムも女性も訝しげに見ていたが、ほぼ同時にどういうわけか合点がいった。

 ルーリエには水着というものの認識がないのである、と。


「ああ、そっか。旅人さん、水着がないところから来たんだね。それで驚いたんだ。ごめんね」

「ルーリエ。水着とは、水の中で動いたり泳ぎやすいように作られた専用の服である。しかし貴嬢の故郷にも大きな川があったではないか。水遊びなどしなかったのか?」

「遊ぶのは子供くらいでしたし、大人は夏の暑いときに足を水路につけて冷やすくらいだったもので……。で、でも! あ、あんな身体の輪郭がわかってしまう服は、ちょっと……」

「そんなに恥ずかしい格好してるかな、あたし」

「わわ、また脱がなくていいんですよ!」


 羽織っている一枚布をほどこうとする女性を、ルーリエは慌てて制する。しかし、女性の方はまるで聞かず、再びその水着姿を二人の目にさらした。

 女性が身に着ける水着は、首から足首まで、袖はないがほぼ全身を覆うものだった。しかし肌にぴったりと張り付く素材のため、その体の輪郭ははっきりとわかってしまう。だが、シルフィスはまるで平気そうだった。

 ルーリエは今度はハゼムの目をふさぐ代わりに、見ていられないといった風で自分の目を隠し、顔を赤らめていた。一方ハゼムはというと、マジマジとその彼女の水着を見ていた。そして、やはりわからないといったようで首を傾げ、彼女に訊ねた。


「その水着の生地、見慣れない素材だな。それはいったい何なのだ?」

「魚の皮をなめしたものだよ」

「ほう!」ハゼムは目を見開いて、驚きの声を上げた。「魚の皮とは、実に珍しい!」


 女性が再び一枚布を羽織りなおすと、ハゼムは居住まいを正して彼女に問うた。


「貴嬢、名は何と?」

「シルフィス・ラヴラエーナ・カミュランよ。よろしく旅人さん」


 彼女、シルフィスは日に焼けた顔で微笑んだ。それにハゼムも微笑みで応じた。


「シルフィス嬢、こちらこそよろしく頼む。我輩の名は、ハゼム・アルーシャ・クレイウォル・エ・ラ・ヴィスカシエという。今は旅人に身をやつしてはいるが、実のところは――」

「私はルーリエ・アナロミシュです。よろしくお願いします、シルフィスさん」


 ハゼム恒例の長々しい自己紹介を、ルーリエが途中で阻む。


「……なぜ、途中でさえぎる」

「ツムガヤみたいに、貴族というだけで変な目で見られる場所もあるんです。注意するに越したことはないでしょう」


 それに、水着のこと、もっと早く教えてくれなかった分のお返しです。

 ルーリエはむくれてそう言った。

 そんな二人の様子をシルフィスは少し不思議そうに見ていたが、アッと何か思い出したように足元に目をやる。彼女の足元には、水につかった小さな網袋の中で、何かが弱弱しげにピチピチとはねていた。


「どうせ今日はこれで上がりだし、街まで案内してあげるけど、ちょっと待っててくれる? これだけ絞めてしまいたいから」


 シルフィスが網袋に手を突っ込んで取り出したのは、鮮やかな赤い鱗が光る大物の魚だった。彼女は腰の小袋からナイフを一本取りだし、それを魚の鰓から突き込んでから、湖の岸辺にある水たまりに放り込む。放り込まれた魚は力なくひれをばたつかせ、血の混じった水があたりに飛び散った。


「立派な獲物だな、それにこの水たまり、湧水であるか」

「よくわかったね、おじさん。この辺りは少し手掘りすればきれいな水が湧き出ていて、魚の始末に都合がいいんだ」


 おじさん呼びに少しムッとしたハゼムではあったが、しかし彼は自身が醸し出す貫禄のためであろうと思い込むことにした。隣ではルーリエが笑いをこらえていたが、彼は見なかったことにした。

 それからしばらく待ち、血抜きした魚をシルフィスが引き上げる。彼女は岩陰に別の大きな網袋を用意していて、赤い鱗の魚もそこに入れられた。大きな網袋の中の魚は十匹近くになろうか。


「じゃあ行こうか、旅人さんたち」

「フム、その大漁ぶりではさぞ重かろう。我輩らの荷馬車の荷台に乗るがよい。もちろん、他の積み荷を汚さないでくれればあるが」

「いいの、おじさん? ありがとう、助かるよ。荷台は汚さないようにするから」


 そういってシルフィスは細腕に似合わず重そうな網袋を簡単に担ぎ、漁具の銛を持つと、街道まで上がってきて荷馬車に乗り込んだ。

 ハゼムはそれを確認すると、愛馬レフテ号の手綱を手に取り、出発の合図をする。その彼の隣にルーリエは並んで、歩きながら小さな声でハゼムに話しかけた。


「ハゼムさん、驚かないんですね。あの水着っていうのを見て。私、最初は裸かと思っちゃいました」

「前に訪れた狭界で似たようなものを見たことがあるからな。そこは海があった。もっと言うと、あんなものの比ではないようなものすらあったぞ。それこそ、胸と下だけを別々の生地で隠しただけのもの。あれは何と言ったか」

「そ、そんなものまで他の狭界にはあるんですか」

「? 何の話?」


 思わず高くなった声にシルフィスが荷台から身を乗り出して訊いてきたが、ルーリエは何やかやといってごまかす。

 ともかくも、一行は幸先よく案内人を得て、岸辺の街へと改めて向かっていった。

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