(8)急襲と裏切り
「どうだったかな、ルーリエ嬢。お父上との再会は」
冷たい夜風が吹き抜ける貧民街。
帰路に就いた二人は身を縮こませ、向かい風の中、大通り方面へと向かっていた。
そしてもうそろそろ貧民街を抜けようかというところを見計らって、ハゼムはルーリエに訊ねた。
「正直なところ、私には父親の記憶がありません。だから、まるで初対面のおじいさんにお会いしたような、変な心持でした」
彼女はぽつりぽつりと、答える。
「親しみを感じるということは、ありませんでした。それに不思議と怒りも沸いては来なかったんです。母のことがあるのに。ただ少し、かわいそうではありました」
「あの痛ましい身体がかな。それとも、今のお父上の暮らし向きが?」
「どちらとも、でしょうか。ただ、それにもまして、私はお父様の目が」
彼女は、そこで口をつぐんだ。
「目が、……いえ、やっぱり何でもありません」
二人の間を沈黙が流れた。それは気まずいものでなかったが、最後のルーリエの歯切れの悪さが残した嫌な余韻は、かすかに漂っていた。
ハゼムは話を変えるように、かねてからのもう一つの懸案について今ここで聞いておこうと考えた。
「例えばの話をしてもよいかな」ハゼムはふと足を止めた。
「なんでしょう?」遅れて立ち止まったルーリエが、ハゼムの方に向き直る。
「もし、貴嬢がお父上の提案を断ったとして、だ。貴嬢はその後、どうするつもりかね」
「きっと、今までと変わらない暮らしを――」
「貴嬢はお父上と会う前に言った。『このままでいいのかと思うことがよくある』と」
「それは……」彼女は言葉に詰まった。
「我輩が願うのは、我輩からの提案も、選択肢の一つとして入れておいてほしいということだ。つまりは、我輩の随行者として、迷宮への旅についてきてほしいのだ。今日の昼、貴嬢は理髪店で我輩が誘ったとき、記述などできないとは言ったが、嫌とは言わなかった。たったそれだけのことだが、我輩はそこに貴嬢の本心を見たような気がするのだ」
ハゼムの軍帽の下から覗くまっすぐな視線が、ルーリエを射る。
「貴嬢はその目のために、自分が見ることができる世界など限られていると思うかもしれない。だが、世界は貴嬢が思っている以上に広いぞ。吾輩はきっと、貴嬢にその広い世界を垣間見せてやることができる。そう思っておるのだ」
ルーリエはたじろぎ、胸に手を当てたまま、視線を彷徨わせた。
まだ17~8の子供に、人生を変えるような二つの提案を選ばせるなど、酷なことかもしれない。それはハゼムも重々承知のことではあったが、この機会に改めて聞いておかねばならないとも思っていた。
彼女が今変わりたいと願うのなら、決断の時もきっと今この時だからこそ。
「ハゼムさん、私は――」
「ルーリエ、退け!」
ルーリエは何か決意を固めたような表情で、何事か口走ろうとした。
しかし、その瞬間。
雲が月を隠した瞬間を見計らうかのように、彼女の背後に急に大柄な人影が現れ、その者らの手が彼女へと伸びた。
とっさにハゼムが反応し、ルーリエもまた背後からの接近者に気づいて、間一髪のところ身を翻す。人影は舌打ちしたが、それ以上の追い打ちはなかった。ただ、ハゼムが気が付くと、既に三方を取り囲まれてしまっているようだった。
「待ちくたびれたぜ、似非貴族様よぉ」
正面、大柄な人影の後ろから聞こえたその声の主に、ハゼムは思い当たる節があった。
そして、その声の主ともども、二人を襲ってきた人影を雲の切れ間から差し込んだ月光が照らし出した。それは、あの酒場『デッカーの樽置場』でハゼムと小競り合いになった。あの四人組であった。
「いつかの下郎どもか。下がっておれ、ルーリエ」
「ハゼムさん!」
ルーリエの手を引き、自らの背後に隠すようにすると、ハゼムは腰に佩いた剣の白柄に手をかけた。
だが、そのとき、背後から悲鳴のような声が聞こえたのにギョッとして彼は振り返った。
「動かないほうがいいですぜ、旦那」
「ジュート! 貴様、いつの間に!」
背後に現れた五人目。それは、ホルテル宅で分かれたはずのジュートであった。
そしてどういった訳か、彼はルーリエを羽交い絞めにして、彼女の首元に小刀の切っ先を押し当てていた。
「皆さんがた、後はよろしく」
「へいへい。仕事はさせてもらいますよ。それよか、やっちまってもいいんでしょう、この似非貴族。こっちは恥かかされたもんでね、虫の居所が悪いんだ」
「ええ、お好きにどうぞ」
ハゼムは混乱していた。
心やすげに言葉をかわす、ジュートと四人組とのつながり。それは彼が知る限り、あの酒場での出来事くらいである。しかも、あのとき、ジュートは両者を仲裁した立場であり、場合によっては因縁をつけられてもおかしくはないはずだ。それがなぜ、今のような状況に陥っているのか。
「どういうことだ、ジュート?」
「――貴方は嵌められた、そういうことですよ」
嵌められた、だと。思考が追いつかないハゼムの動きがそこで一瞬止まる。
それを好機と見た例の四人組が一挙に動き出した。めいめいが身の丈の倍半分はあろうかという長柄の打棒を持ち、ハゼムに向かって一斉に振り下ろして、あるいは突き出してきたのである。
ハゼムの反応は少し遅れた。だが、まったく避けきれないほど致命的な遅れではなかった。すんでのところで身を翻し、一本の突きは咄嗟に引き抜いた剣先で弾き、他二本の振り下ろしは身のこなしでかわした。そして、最後の一本の突きは踏み込みが甘いとみて小脇で挟み込んだ。
しかしその間に、ジュートはルーリエを攫って、貧民街の通りの角へ姿を消すところであった。
「しまった!」
「似非貴族、てめえの相手は、俺たちだぜ!」
打棒の先端が捕まって身動きできない一人以外の三本の長柄が、再び一斉にハゼムに襲い掛かる。
ハゼムは冷静に、小脇に抱えた打棒を横目にちらりと見る。打棒の先端は鉄で覆う加工がなされていて、一打ちされればひとたまりもないように思われた。ただ、第一撃を全てかわし切れたのはハゼムにとって不幸中の幸いだった。
時機を計り、小脇に挟み込んだ打棒をハゼムは力いっぱいに引き込んだ。何とか拘束から逃れようとあがいていた敵の一人が均衡を崩してもんどり打つ。そこでハゼムはさっと身を返して、倒れこんできた敵の一人を第二撃からの盾とした。
「ぐえっ!?」
「チッ、しまった!」
三人分の打撃を食らい、敵一人が鈍い悲鳴を上げて動かなくなった。
同士討ちが発生し、敵が一人減ったところで、包囲より転がり出たハゼムは体勢を立て直し、一息ついて白柄の剣を構えた。
人数はいまだ劣勢。とはいえ、ハゼムは既に勝ち筋を見抜いていた。敵に明らかな動揺の兆しが表れていたからだ。敵の一人は打棒を片手に、同士討ちを食らって呻いている仲間を揺り動かしていた。あとの二人、――ダンとジンナーは長柄の打棒を構えてハゼムの方を睨んでいたが、双方とも怒り心頭に発して、もはや人数差や武器の間合いの有利でハゼムをやり込めようという発想すらとれそうにない。
「てめえ、やりやがったな! もうただじゃあ、おかねえ!」
「旦那、覚悟しなよ。俺たちの仲間がやられちまったからには、俺もダンも黙っていられねえからなあ!」
同士討ちだろうに、などと野暮な突込みはもうこの際必要ない。
各個撃破。
それだけを肝に銘じ、ハゼムは自身に喝を入れるように一声吠えると、敵三人に向かって、地を蹴る。
「こんの似非貴族があぁ!」
ダンの怒り任せの突きが来る。少し遅れて、ジンナーの大振りな振り下ろしも。
ハゼムは二方向からの攻撃を見切り、標的をダンに合わせる。ジンナーの当たれば一撃必殺の打貫を怯まず掻い潜り、そのまま膝を折ってダンの突きも交わす。低い体勢から狙うはダンの打棒の柄部分。腰を軸に回転しながら剣を振り上げると、木製の柄はたまらず切り払われる。その回転のまま剣の柄頭で、今やガラ空きとなったダンナの鳩尾を突き抜いた。
んがっ、と声にならない苦悶の呻きを残してダンが倒れる。これで二人目。
しかし、息つく暇なく、横薙ぎの打棒がハゼムを襲う。先ほどの第一撃をかわされたジンナーの追撃だ。四人組の中で最も大柄で、見るからに脅威的な贅力を持つ彼の攻撃は、一撃一撃が致命的だ。ハゼムも簡単には避けきれず、地べたを転がって回避した。
と、ここで背後に最後の1人が立つのを、ハゼムは気配で感じ取った。だが、そのもう一人の敵は明らかに腰が引けているのも分かった。それもそのはずで、力任せに打棒を振りぬいてくるジンナーの圧力たるや凄まじいものがあったからだ。すなわち、一歩間違えれば、味方であるはずの自分がまきこまれ、最初の1人同様の末路をたどることすら否定できないのだ。そうであるから、このときのハゼムはただ目の前のジンナーだけを相手すればよかった。
ジンナーが自分だけしか見ていないことを看取したハゼムは、攻撃のタイミングに合わせて左へ飛びのいた。ジンナーは切り返して更なる追撃を加えてくるも、これもさらに後ろに飛びのいてかわした。それがジンナーの怒りをあおった。
「ちょこざいっ!」
渾身の一撃を次々かわされて、ジンナーの目は血走り、もう一度振りかぶった彼の太い腕に血管が浮き出るのが、月光のもとでもわかるほどだった。そうして、再度の追撃が、満身の力を込めて放たれた。
今度ばかりはハゼムも避けられなかった。いや、避けなかったのである。そしてまた、ジンナー満身の一撃はそんなハゼムに届かなかった。代わりにすさまじい音を立てて、打棒は砕け散ったのである。頭に血の上ったジンナーは敵への執着のあまり、ハゼムが狭い路地の入口へ逃げ込んだのに気が付かず、その一撃を石造りの建物の壁にくらわしてしまったのだ。
こうなってしまえば、あとは簡単だった。得物を失い呆気に取られていた大男にハゼムは突進し、袈裟切りをもって始末をつけたのであった。
「さて、あとに残されたのは貴様ばかりだが、どうする?」
剣の血を振り払い、四人組の残された一人に、ハゼムは問うた。残された名も知れぬ男は、やられた仲間たちを順々に見ては、ハゼムを怯えた目で見た。
しかし、最後には仇討の覚悟が決まったらしい。
彼は裏返った声を張り上げながら、ハゼムに突進していった。
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