第一章 やめられない者達

第1話 逃走(Like Smoke)

「喫煙者だー! つかまえろー!」


 九月の夕刻。東京都渋谷区の路地裏で、一人の男が追われていた。

 男は、黄色い制服を着た民間人たちに背を向け、暗がりのほうへと駆けていく。



(くそっ……! なんでこんな時代になっちまったんだ……!?)


 男の名は、紫村しむら 京平きょうへい。27歳。

 ぼさついた黒髪とやさぐれた顔付きを持つ、瘦せ型気質の独身男ロンリーウルフ

 服装は、深緑色のジャケットとカーゴパンツ。右手には、愛用の銘柄‶ライトニングブラスト〟を握り締めている。


(はあ……はあ……はあ……!)


 紫村は20歳から煙草を吸い始め、全盛期には1日に7箱を消費するほどのヘビースモーカーとして生きてきた。

 一年前に『禁煙法』が施行されてからも煙草を絶つことが出来なかった彼は、自室や街の路地裏などで現在も喫煙を続けている。つまり、彼は犯罪者だ。


(ちくしょう……! どうして俺がこんな目に……!)


 紫村は煙草が原因で、職も恋人も失った。

 禁煙化された現代では喫煙者の人権などほぼないに等しい。

 縁を切られ、社会にはじかれ、居場所を失う。法律施行前までに煙草をやめられなかった者の大抵がこの結末を辿ることになる。


(こんなところで……捕まってたまるか……!)


 それでも彼は、煙草をやめていない。

 やめるつもりもない。

 紫村は己を曲げてまで、社会に染まるつもりがない。

 それほどに、愛しているのだ。

 煙草を。



「喫煙者が逃げたぞー! つかまえろー!」


 現代において、全ての喫煙者は社会に対する反逆者としてみなされる。

 周りから冷たい目で見られるとかそういうレベルではなく、見知らぬ他人に逮捕されて一生を刑務所で過ごすはめになる。『喫煙者に対しては警察だけでなく民間人も逮捕権限を持つ』という条例が相次いで施行されているからだ。

 とてもじゃないが、喫煙者がまともな生活を送るのは現状、不可能である。


(くそっ……行き止まりか……)


 逃走を続ける紫村。路地裏の奥、落書きまみれの壁に行く手を阻まれる。

 四方八方に逃げ道は見当たらない。

 唯一あるとするならば足元にあるマンホールだが、重厚に見えるそれをこじ開けて入る時間は残っていない。


(……万事休す、か。くだらねぇ最期だな)


 紫村は鈍色にびいろの空を仰いだ。諦めの境地へと足を踏み入れ、最後の一服を咥えかけている。

 ――しかしその刹那、紫村の足元にあるマンホールが、前触れもなく「がぱっ」と開いた。


「!?」


 勿論、紫村が開けたのではない。

 何者かが、内側から開けたのだ。



「よう、こっちだ。早く入れ」


 マンホールから顔を出したのは、無精ひげを揃えた白髪の外国人。

 愛想の無い表情かおで初対面の男を中へと誘っている。

 

(な、なんだこいつは……?)


 戸惑う紫村。

 現れた外人の風貌は怪しさに満ちている。強面こわもてで大柄、白人、髪型は白金しろがね色のリーマンヘアー、口周りのひげも整っていてなんだか洒落てはいるが、いかんせん出てきた先がマンホールだ。一度従ってしまえば何をされるのか見当もつかない。


(くそっ……!)


 しかし、逃げ場のない紫村に選択の余地はなかった。






「喫煙者が……消えた?」

「まさか、この壁をよじ登ったのか!?」

「仕方ない! あっちのほうから回り込みましょう!」


 標的を見失った民間人たちは、マンホールになど目もくれず、壁の向こう側へと走り去った。



 かくして紫村は、逃走に成功した。

 まさに煙の如く、その場から消えたのだ。

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