5
卵が手元にない。それはなんだか、自分の体の一部を失ったようだった。
喪失感と違和感が俺のこころを覆い、卵の殻のようにひび割れている。感情の抑えが効かなくなったら、大きな産声をあげるかのように慟哭してしまうだろう。
センチメンタルな気分になり、ついポエマーになってしまう。
卵に着せていた五本指ソックスが、切なげにリビングの机の上に佇んでいる。
テレビを見ていて「さっきの面白かったでちゅね!」と靴下に語りかけてしまう。
自分で作った料理を食べて「これおいちいでちゅよ!」と靴下に食べさせようとしてしまう。
布団に入って「今日はね、上司に怒られちゃったの。明日お仕事行きたくないなぁ」と靴下に弱音を吐いてしまう。
もう、卵はどこにもいないのに。
今まで一人暮らしで不便に感じたことはあったが、人肌恋しくはならなかった。むしろ気楽だと、そう思っていたのに。一度でも大切なものを見つけて失ってしまえば、こんなにも弱くなるものなのか。
さみしくてさみしくてたまらない。
気がつけば、花巻にメールをしていた。
『卵、どうした?』
『食べました』
「わああああああああああああああああああああああああああああああ!」
布団の中でひとり、絶叫した。
間髪入れず隣人から壁ドンされるが、気にしてはいられない。
卵を食べただと!?
俺があんなに大切にしていた卵を、食べた!?
興奮を抑えきれず電話をすると、すぐに出てくれた。
「花巻です」
いつも通りの落ち着いた声が、逆に感情を逆撫でする。
「どういうことだ!?」
「メールの通りですよ。卵、食べました。つい先ほど、スクランブルエッグにして。美味しかったですよ」
「お前……!」
頭が真っ白になる。
あんなに可愛い子を、どうして食べることができるのだろう。俺があんなにも愛情をこめた、卵を……。
ふと気がつく。
俺が卵に大きな愛情を注いでいたことを、花巻はよく知っているはずだ。一緒にお風呂に入ったり、音楽を聴かせたり、歌を歌ったり、キスをしたことだって。すべて、花巻は知っている。
俺が逐一、報告していたから。
知っていてなお、食べる。壮年のおっさんが猫かわいがりしていた、卵を、だ。
――気持ち悪い。
彼女にそんな感情を抱く。
気持ち悪い、どういう神経をしているんだ。と。
「気持ち悪いと思いましたか? いいんです。わかっていますから」
花巻は俺の思考を読んだかのように、先回りをした。
彼女は、きちんと自分を客観的に見ている。頭の良い花巻だ、卵を食べて俺に報告をすればどんな反応が返ってくるかなんて、わかりきっていたことだろう。
それなら余計、どうして。
「どういうつもりで」
「あなたが好きでした」
俺の言葉を遮った花巻の声は、わずかに震えていた。
「人を見た目や言動で判断しないところや、ちょっと天然なところが可愛らしくて好きでした。傷だらけのガラケーを今でも使っているくせに、会社の機械に強いギャップも好きでした。職場の花に水をあげる優しい横顔が好きでした。飲み会で一番に顔が赤くなるのも好きでした。朝の掠れた声が好きでした」
「……え?」
「そんなあなたの愛情が私に向くことはない、そうわかっていたから、『卵を育ててほしい』だなんて馬鹿みたいなことをお願いしました。私はあなたの愛を体内に入れたかった。私の一部にしたかった。気持ち悪いってわかってます。だけど、抑えきれなかった」
「ちょ、ちょっと待って」
花巻の言葉が、上手く飲み込めない。
「待ちません。聞いてください。本当はもっと早く卵を食べるつもりでした。だけど、あなたが卵についてメールをくれたり、話しかけてくれたり、そんな接点をもてたことがうれしくて。今日までずるずると引き延ばしてしまいました。……だけど先日、下野さんから「香山につきまとうのはやめろ」と言われて、やっと思い知りました。私がどれだけあなたを想っても、それは一方的でしかないということ。身の程知らずだったということ。……わかっていたのに、ばかみたい。……もうじゅうぶんです。あなたの愛はとても美味しかった。悔いはありません。申し訳ございませんでした。もうつきまといません。さようなら」
言うだけ言って、電話が切れた。
掛けなおしても繋がらなかった。
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