2
翌朝になり、慌ただしく出勤準備をしていると、卵の存在を思い出した。
どうしたものかと数分悩んだ結果、その時間すら惜しくなり、靴下に入れたままの卵をカバンに突っ込み家を出た。
そこでふと気がついた。
いつもは電車に乗るのだが、満員電車で卵が潰れてしまっては可哀想だ。車で出勤したいが、会社の駐車場は自家用車通勤者にのみ割り当てられている。
……そういえば花巻は、車で通勤していた気がする。迷わず電話をかけると、ワンコールで出てくれた。
「はい、花巻です」
朝早いというのに、相変わらず調和のとれた涼しい声だった。
「香山です。おはよう。朝早くから悪い。今日は車で行こうと思ってるんだが、空いてる駐車スペースとかあるかな?」
「おはようございます。総務の町田さんが昨日から特別休暇を取得しているので、27番が空いてます」
出勤時間での突然の電話にも関わらず、迷惑なそぶりを見せることなく欲しい情報だけをくれる。彼女はこういうところが、頼りになるのだ。
「ありがとう」とお礼を言って電話を切り、安心して車で会社に向かった。
職場に着いて真っ先に給湯室に行き、自分のマグカップに卵を入れた。それをデスクに置いて、パソコンの電源をつける。
「ひ!」
デスクを拭いて回っていた新人の女性社員が、マグカップの中身を見て悲鳴をあげた。
「大きな声を出してすみません……」
まるで黒魔術でも見てしまったかのように、初々しい彼女は後ろ歩きで去って行った。
「なにそれ卵?」
隣の席にいた同期の下野が、俺のマグカップを奪う。
「朝ごはん? ゆで玉子? 温玉?」
「違う。育ててる」
「育ててるぅ?」
下野は首を傾げ、俺の肩に手をポンと置いた。
「独り身が続くと寂しくなるのはわかる。ペット禁止のマンションなんでしょ? そりゃ孤独もなかなか埋められないよねぇ。だけどさすがに素人が卵を孵化させるのは無理だって」
「いやいやいや、この卵は普通の卵じゃなくて……」
「なんか香山、花巻みたいなこと言ってない? あいつに毒されてるよ」
「……!」
性格に難があるだけで、業務成果は好成績。そんな彼女への職場での暴言は、許しがたいものがあった。
現に今、近くに花巻が座っていて、就業前にも関わらず仕事の下準備をしていたところだった。
「お前」
俺が下野をたしなめようとしたとき、花巻が俺たちの間に割って入るように、付箋だらけの書類を突き出した。そして、化粧気のない硬そうな唇を開いた。
「部長に提出予定のこの書類、参考元の資料を拝見しましたが、どれも曖昧なものばかりで根拠がありません。ネット上のデータを鵜呑みにするのはいかがなものかと。もっと説得力のあるようデータ収集を。またこちら数件打ち間違い、誤字脱字、言葉の誤用があります。修正願います」
「……はいはいはい、どーも」
下野はそれを奪うように受け取って、軽く舌打ちをしながら目を通し始めた。
このままその書類を部長に出していたら面倒なことになっていただろうし、多忙の部長がよく目も通さず判を押していたら、もっと酷い事態になっていただろう。
彼女の正確さと、嫌われることを恐れないで淡々と事実を述べる姿は、尊敬に値するものだ。卵の件は謎だらけだが、彼女のすることには、すべて意味がある気がしてならないのだ。
「花巻さん、卵のことだけど」
「就業時間になりましたので、雑談はまた今度。朝礼に向かいましょう」
真面目な彼女は、休憩時間や移動時間くらいでしか、おしゃべりを許してくれない。
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