第三ラウンド
「っぷぁ……あ?」
松原太一は唖然とした。何故、自分が尻餅をついてるのか?何故、ボディブローを放って相手の久島が倒れていないのか?に何故、うちの師範の一人が自分の前でカウントを取っているのか理解できなかった。
「3!4!」
「松原ぁ!あんだけ大口叩いて何してんだぁ!立たんかい!!」
「!?待て、立つ!やれる!!カウント止めろ!!」
道場生の誰かか、師範の一人か知らないが、飛ばされた野次にも似た叱咤に、松原は立ち上がった。無論、ファイティングポーズも忘れない。久島はコーナー代わりである、畳の端に戻り、松原を見ていた。
何をされた、何故自分が倒れたのかも分からない松原は、ともかくダウンを取られた事への焦りより、さっさとカウントが終われと力を身体に入れた。
「っあいー!久島君ナイッカウンター!!いいパンチだったよー!!」
その時、久島の付き人として来たプロキックボクサー、熊谷が嬉々として久島を褒めた。それを聞いて松原はやっと知る事が出来た、自分はあの奇襲の時、カウンターパンチを受けたと、切って落とされたのだと松原は理解したのだった。
一言でいい表すならば……『綺麗に突き刺さった』と言わざるを得ないほどの一撃を、久島は放ったのだ。いや、正確にはその形になったと言うべきだろう。
久島はグローブを合わせようと左手を前に出しながら、畳の中央にまで近づいたところで、得意の左ボディで奇襲を仕掛けに来た松原を見た。松原にしてみれば、自身の間合いに入り、更には奇襲の形、松原は最高のスタートを切れたかに見える。
しかし、松原は三つ懸念すべき事があった。それは『リーチ差』と『間合い』そして『防御』である。
まずリーチ差だが、松原は久島を見上げるほどに身長差があり、身長差はすなわちリーチ差にもなり、久島の方に間合いの有利がある。
次に間合い、リーチ差による間合いで松原は久島により接近せねばならない。ボディを当てるならば尚更さらに接近が必要であるが、久島の場合にはその必要が無かった。
最後に、防御だが、この一撃で倒れると感じた松原は構えはしていたがガードなり、打ち終わりの移動も考えずに、ただ真正直に突貫する形となった。久島にしてみればそれは……。
『奇襲して来たけど見え見えだったから、思わずパンチを放ったら思い切り迎撃できた』
と言う、当の久島本人も、今ので倒れたのが分からない、自分が本当に倒したのも自覚がない程に、綺麗に倒してしまったのであった。
久島秀忠は、先程松原の顔面を撃ち抜いた右拳をグローブの中で握っては開き、開いては握りと繰り返していた。自分の拳が当たった瞬間の感触に、少々戸惑いすら覚えていた。
熊谷さんやジムの選手とのスパーリングでは決して打てない、綺麗な右ストレートだった。本当に、吸い込まれるようなカウンターだった。故に久島は、浮き足立ってしまった。自分のパンチがまさかダウンを奪うなんて思ってすらいなかったのだから。
ともかく、ダウンを奪えた。図らずも自分が有利な状況になったのだが、当人たる久島は気が気ではなかった。誰だってこの状況、開始早々ダウンを奪われたならば血が上ってもおかしくは無いと、松原の心理を簡単にではあるが予想する。
だからであろう、久島は一度ダウンを奪ってもなお、慎重に戦う事を決めて高揚で浮き足立つ心を押さえつけた。
「松原、次倒れたら終わりだからな?ファイッ!」
8カウントで止まり、審判の再開が告げられる。再び中央へと向かえば松原は、オーソドックスな右構えで両手の位置が低い構えで久島と相対する。対して久島は、グローブがこめかみの位置まで来るほどの、アップライトと言う構えで、前足となる右足がリズムを取る、ムエタイ選手のような構えで接近した。
松原は歯噛みした、まぐれで奪ったダウンに調子付かれたと、ステップも無くジリジリとすり足のように間合いを詰める。落ち着け、いつも通り懐に入ればこちらが勝てるのだと、今の今まで練心会を連覇した両拳に力を込める。
そして再び、松原は踏み込んだ。右手に込めた力を乗せて、久島の顔面を振り抜こうと右フックから一気に入り込もうとした。
「シッ!」
しかし、再び乾いた音を立て松原は止まった。そして自分の首が跳ね上がり、景色が一瞬消えた。
「な……」
それと同時に、久島との距離がまた広がった事に気付いた。いつもならば、簡単に詰めれるはずの間合い、いつも通りができない状態に松原は平静を保てなかった。練心会連覇を果たした天才児は、ただの試合経験も無いアマチュアですら無い門下生にいいようにやられている状態に、練心会道場生達もどよめく。
「松原がこんな……何故、いつもの戦いが出来ないんだ?」
一番驚いていたのは、松原の使いを頼まれた道場生の鈴村であった。アップ中の久島を見ていた鈴村は、確かに久島の動きは悪く無いと思っていた。しかし、松原からダウンを奪い、こうも互角以上に戦う久島と、苦戦する松原に言葉を漏らしていた。
「はぁ、あれじゃ近づけない、松原もせめて顔面ガードくらいしなければならんのに、あれじゃ打ってください言ってるようなものだ」
ふと、鈴村が一人の呟きを聞いた。それはこの練心会婿川支部長の緑川師範の呟きだった。
「えっ、緑川師範、どう言う事ですか?」
緑川師範の呟きに、鈴村が意味を理解しようと師範に理由を教えてもらおうと聞いた。緑川師範は、髪の毛を掻きながら松原を見つめて、鈴村へと話し始めた。
「うちの、練心会のルールは顔面禁止、フェイントだけでしょ?だから、顔面への攻撃も防御も松原は知らんし耐性も無い、だからもう、キックボクサーのジャブで前には行けないし、綺麗なカウンターも入る……そもそもBOFはキックボクシング、キックボクシングの人間とキックボクシングルールで戦って、うちの子が勝てるわけないだろ……競技自体違うんだから」
緑川師範は至って冷静に、淡々と語った。そもそも競技自体が違う、ルールも違う、そのルールへ対応もしなければいかに実力があろうと勝てるわけが無いと。それを聞いた鈴村は、納得こそしたが、それ以上に驚愕した事があった。
「じゃあ、何で松原君を彼と当てたんですか?負けると知って?理由は……」
つまりは、緑川師範は松原太一が負けると知った上でこの練習試合を受けた事になる。松原はそもそも、この練心会婿川支部の顔であり、さらには練心会少年、青年部の象徴ですらある。その彼を教えた緑川師範が、何故この様な暴挙に出たのかを鈴村は問うた。
「最近あいつは初心の礼儀も心も忘れとったからな、理由の一つがお灸を据える為に受けたんだ、自分が挑戦する競技に、自分の今の力では通じやしないと理解させる為にな……まぁそれでも、相手の強さは知らんかったけどな……強いなあの子……」
緑川師範の話に、鈴村は頷く事も、あまりにも惨いと否定する事も出来ずに、視線を畳に戻すしか出来なかった。しばらく目を離せば状況も変わっているだろうと思ったが、決して変わらなかった。必死に踏み込む松原を、久島が難なく迎撃してはそれの繰り返し、乾いた音が何度も何度も響き渡れば、周りの門下生や師範各も、声一つ出さず松原の無様な姿を見る事しか出来なかった。
おかしい、非常におかしいと久島は疑念を浮かべていた。何故こうもすんなりと、松原君はジャブを受けているのだろう、何故真っ直ぐにしか来ないのだろう、何故フェイントを入れて踏み込もうとしないのだろうと、只々面白いように入る左のジャブを的確に打ちつつ下がりながら、久島は松原太一が息を切らして肩が上下する姿を見て、余計疑いを深めてしまった。
わざとジャブを受けているのは、もしや距離と間合いを掴む為か、はたまた自分のパターンやリズムを読もうとしているのかとすら思い、慎重に間合いを離していた。
何せ、相手は一流派の覇者。何かを考えているに違いないと、久島は余計慎重になった。
「久島君考えすぎない考えすぎない!!練習通りやってみ!!左蹴れ!!自分から行ってみよう!!」
そんな久島を、熊谷が陽気な声で諭す様にアドバイスを飛ばした。考え過ぎるな、練習通りと声をだした。久島は戸惑った、当たるのか?本当に、自分の蹴りが当たるのか?一流派の覇者に?狙われてるのでは?カウンターが来るのではと思考が一気に回り始めた。
久島は、松原の疑念から来る恐怖とのせめぎ合いに居た。もしも狙われたカウンターが脇腹に入れば、無事では済まない、痛いだろうし、骨が折れるかもしれないと、動画の松原を思い出す。練習で打撲やらはすれど骨折なんてした事ない自分には未知の痛みが待っているのだ。
だが、ふと過ぎる考えに久島の恐怖は薄らいだ。そう言えば自分は、別に負けたところで何も失わないなと。怪我はするだろうし、病院の世話にはなるだろうが……これで負けたなら別に負けたで試合をすっぱり諦めれるし、今後姫路会長も、試合の話はしなくなるだろうなと。
ならば別に、倒れてもいいし負けてもいいから、指示通り蹴って見るかと、軽々しい思考だが、練習通りにと、この戦いで初めて、久島が自ら攻撃を繰り出した。
体の上下もなく前足となる左足と右足をスイッチ、右足は畳をしっかり踏みしめ、左足つま先が畳を蹴る。余分な力は入れず、腰を捻り、イメージは鞭のようなしなやかさを、狙うのは低めの右下腹部から高め右腕肩口を、最短ラインで放つ。
「ェェアアシッ!!」
思わず出してしまった気合いの声、響くは鈍い音。松原はこの時、右腕に感じた重さと痛みに体が揺らいだ。
「おっ……ああ……!?」
防御していた右腕に走る痛みに、思わず声を漏らす。揺れた身体を必死に戻そうと、畳を踏みしめる松原は、放たれたその蹴りの痛みに一気に顔を青白くさせた。
それは、ムエタイ、キックボクシングにおける象徴とも呼ばれる技であり、基本。そしてムエタイ界隈においては様々なスタイルを差し置いて、これぞ王道中の王道とも呼ばれる技であり、そのスタイルの根幹。
キックボクシングの黄金期日本人すらも、このスタイルのタイ人ムエタイ選手『ナックモエ』には、右腕を青黒く晴らし、痛みに心を折られ、屈してきた。
ただひたすらに、敵の腕を蹴り続け、破壊するそのスタイルの名は『ムエ・テッ』その蹴り技の名前は『左ミドルキック」……それはムエタイ母国、タイの言葉で……こう呼ばれる。
『テッサイ』と。
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