第二ラウンド
シャドーボクシングやスパーリングを始める前に、久島は必ずだがその場で数度飛び跳ねる。ルーティンと言う気を平静にする為、選手達は様々な動きやポーズをするが、久島のルーティンがそれだった。
まずはいつも通りと、足元に感じる畳の触感と、ジムの板張りのリングとは違う感触の違いに違和感を感じたが、しっかり足が畳を踏める感覚に安堵した。
久島のシャドーが始まった。シャドーボクシング、目の前に仮想の相手を想像して、それに対して防御、攻撃、回避をする練習である。と、同時にジムで練習前のアップとして行われる場合もある。
まずは左手の軽いジャブ、少し遅めに出してはしっかりと顎近くまで引き戻しを繰り返す。
「ふっ、ふっ……」
いきなり早いジャブを打てば、身体が追いつかないのだ。だから最初はゆっくりと、身体が温まるまで慣らすように、動きも緩慢だ。
身体が少し慣れると、そこに少し動きが増やされる。左のジャブから右ストレートを放ち、すぐに腕を引いてガードと、基本の一連の動きを見せて行く。畳を踏み鳴らす音も立ち始めた。
ジャブからでは無く、右ストレートからいきなり入るパターン。ガードしてローキック……サイドステップでの回り込みから距離を保ち前蹴り。久島の多様なシャドーを見ていた練心会の門下生もざわつき出した。
「うぃ!久島君、ミット行こうか!!」
「はい!」
体の熱も上がれば、気分も高揚するものである。シャドーを切り上げて久島は熊谷の携えるミットに向かった。近場に用意していたマジックテープ式のボクシンググローブを身につける。
そう言えば、熊谷さんがミットをしてくれるのは久々だなと久島は思い出しながら、しっかりと構えを取り熊谷の号令を待った。
「ッンツー左ぃ!!」
熊谷の号令が発せられ、ミットへ久島が拳を繰り出した。左ジャブ、右ストレートと景気良くキックミットを鳴らし久島から見て左、自らの右側に素早くキックミットを揃えて構える。
「ッアッシ!!」
久島が左ミドルキックを放てば、その音が道場に響き渡った。基本となるコンビネーション、ワンツーからの左ミドルキックは、対角線コンビネーションの一種であり、キックボクシングや総合格闘技の打撃レッスンでも最初に習うコンビネーションである。
スムーズかつ、威力も伺えるコンビネーションに、道着に着替えて更衣室から出て来た鈴村も、久島のシャドーとミットを見ていたが、驚かざるを得なかった。
「早い……しかも力強い……」
更衣室の手前から、彼のミット打ちを見てそう言葉を漏らす。しばらくして、久島のミット打ちが終わると、道場入り口から道着にサンダルの姿で松原太一が入って来た。
恐らく一つ上の階の別道場で、こちらもウォーミングアップをして来たのだろう。松原は、畳の上に居た久島の姿に険しい睨みを見せている。しかし久島は気付かず、熊谷と何やら話をしていた。サンダルを脱いで道場へ足を踏み入れる松原に、集まっていた門下生が気付けばざわめきは止まった。
その後に続いて扉が開くと、初老の男が少々体の痛みを持っているかの様に、いたたと呟きながら道場に踏み入った。その初老の男を見ると共に、門下生や師範格の人間が皆腕を交差して『押忍』と口々に言いながら十字を切る。
「あぁ、来てましたか……初めまして熊谷さん、電話ではどうも……こちらの支部の館長、緑川憲一です」
初老の男は、どうやらこの練心会空手婿川支部の館長だった様だ。緑川は改めて畳にてミットを握っていた熊谷に頭を下げる。
「いえいえこちらこそ、突然の訪問と練習試合を受けて頂きありがとうございます、改めて……ブロンズキックの熊谷幹也です……こちらが、英雄キックボクシングジム所属の久島秀忠君です」
「よろしくお願いします……」
熊谷に紹介され、久島は頭を下げた。そこで初めて、道着姿で此方を睨みつけている今朝方絡んできたクラスメイト、松原太一の姿をその目に見るのだった。見るからに苛立ちが伺える眼差しに、久島は目線を逸らした。
「で、今回は一応BOFユースに向けて、互いの実力を高め合う練習試合が名目です、確認ですがBOFユースのルールで構いませんね?」
「勿論です、うちの松原も、その気で今回の練習試合を受けましたので……よろしくお願いします」
熊谷と緑川により、今回の練習試合についてを確認しあう。話はそう長くならず、熊谷が久島の元へ戻って来れば……。
「久島君、ヘッドギアとシンガード付けて、すぐ始めるらしいから」
すぐさま始めると久島に伝え、久島は一度ボクシンググローブを外してから、用意して来たヘッドギアとシンガードを装着するのだった。
キックボクシングのルールは団体により様々ではあるが、大概の団体が提唱するアマチュアルールとしては必ず防具を着用する、ボクシングにも使われるヘッドギアから、もちろんグローブ。そしてシンガードと呼ばれる脛を保護する防具に、膝を守るニーパッドに、口内や歯を守るマウスピース、最後に金的を保護するファールカップである。
久島も指示通り、ヘッドギアにシンガードを装着し畳に踏み入れば続いて熊谷が首の後ろを軽く叩いたり指先で揉んだりとした。
「固いぞ久島くーん?やらこうせなぁ、」
柔らかく、緊張するなと言われるが久島は内心で悪態を吐くのだ。いきなりの練習とは言え、試合は試合なのだ。緊張しないのが無理だと、久島は目の前に立つ松原太一を見た。見下ろす形ではあるが、眉間に皺を寄せて威嚇するかのように睨みつけている。道着の下に見えた肉体は鍛え込まれていて分厚く、威圧感を感じた。
向かい合う久島と松原の間に立ち、この練心会婿川支部館長、緑川は頭を掻いて説明を始めた。
「確認な、ルールはBOFユース予選ルール、首相撲無しで片腕を相手に回すだけなら可能、肘打ち禁止、膝は組んで一発まで、2ノックダウンでTKO、無論だが……金的やらサミングは禁止ね……はい、互いにグローブ合わせ」
初めて聞いたBOFユースルールに、久島は色々制約があるんだなと気になった。まず首相撲は自分が得意としている技術だが、それが禁止されていて、片腕でのみ腕を相手に回すことしか出来ないことや、膝も組んで一発までなど、自分が普段熊谷さんとやるスパーリングとは全く違うルールであった。
「よろしくお願いします」
ともかく、グローブは合わせねばと緑川師範の指示通りに両手を出した。しかし……。
「チッ……」
久島は確かに、松原太一から舌打ちを聞いた。そしてグローブを合わせるどころか、そのまま振り返り、コーナー代わりとなる畳の角へ向かっていった。
「松原ぁ、態度悪いと減点入るぞ?」
「さっさと始めてくださいよ緑川師範、時間の無駄ですから」
緑川師範より、減点の注意を受けながらも松原は横柄かつ苛立ちを込めて言葉を吐く。両手を出したままだった久島は、戻られてしまった松原に対しては何も思いはしなかったが、自分も下がってよいものかと動きが止まってしまった。
「ははっ威勢がいいなぁ……久島君もコーナーに戻ろか?」
「はい……」
熊谷は、松原太一の無礼な態度を笑って許した。珍しい事ではないとばかりに笑い、久島をコーナーに下がらせる。
「で、だ……久島君は動画見たから印象があるな、どうやって戦う?」
下がりながら熊谷は、久島に問う。如何にして彼と対峙するのかと。
「いや、まぁ……パンチ主体ですし、インファイターだし……近づかせず、ですかね?」
それに対して淡々と久島は答えた。
時間は数十分前、熊谷が練心会に練習試合を申し込む前に遡る。
このご時世、やはりネットの発展は素晴らしいもので携帯電話でも動画が観れるとは便利なものである。そして投稿される動画も様々だ、今や個人が番組を作り馬鹿げたチャレンジやら料理の指導、果てはバイクを乗るための半クラッチやらの講座や、はるか昔の時代の格闘技の動画まで、権利の拗れを作りながらも投稿されている。
熊谷のスマートフォンに映された松島太一は、自分よりも背が高い少年と、真正面から殴り合い、そして競り勝っていた。練心会空手の、それも全国大会ともなれば動画もあるのではと試しに熊谷が調べたら、案の定見つかったのである。
『優勝まで全て、拳の乱打戦を展開して競り勝ってるな……特に右ボディが凄まじい、見ててもその強さが分かるよ』
ヘラヘラと笑いながら、動画でうずくまる相手に礼をする松島を見る熊谷、対して、渦中の少年久島は冷や汗をかいてピタリと足を閉じて緊張の極致に至り、体を強張らせていた。
『熊谷さん、僕いくらでも頭下げるから勘弁してくれないでしょうか……相手全国覇者でしょ!?もうこれ勝ち負け以前ですってば!!』
こんな相手に練習試合とは冗談ではないと、熊谷に勘弁をと久島は願った。
『いやいや久島君、動画見てたなら落ち着いて分析してみな?』
『いや分析って……』
久島の願いは聞き入れられず、熊谷はスマートフォンに映る動画のシークバーを巻き戻して松原の試合をもう一度見せた。しかし、迫力ある試合だ。互いにあれ程の至近距離で、互いに拳を素手で打ち付け合えば、肋骨なんて何回も折れてしまいそうだと、そしてその松原はパンチが得意となれば、それを全うに受けたくは無い。
『あのボディだけは食らいたくない……』
『ほーん、じゃあどうする?』
『蹴りで突き放して近づかせないし、自分も近づかない、熊谷さんとのスパーみたいに……』
受けたく無い、ならば近づかない。となれば、突き放す攻撃を重点に置いて、遠距離から戦えばボディは受けないだろうと久島は分析した。そう、毎回スパーの相手をしている熊谷と戦う様に……。
『パンチの戦いを避けて、蹴りで突き放す……ですかね?』
『じゃあそれで行こうか、さっ!練心会に行くぞー!!』
『ちょ!?マジ!!嘘だ、まっ、待って下さ……』
結論を出して数秒の間に、久島は熊谷に後ろ襟を引かれてジムを後にした。そして、当人の一人であり、今回の一件に関わる鈴村は、呆気にとられて自分の空手胴着を背負い、ジムのドアで一礼して二人に追従する事となった。
数十分前の出来事を思い出し、溜息を吐く久島。その久島の背を叩いて畳の外に熊谷は出た。
「はい、ではブザー鳴ったら始めるからね?」
緑川師範が、学校の備品でもよく見るデジタルタイマーの後ろに回った。久島は振り返り、対角線上の角にてグローブをバスバスと拳を打ち合わせて鳴らす松原太一と対面する。
息を一つ吸う、マウスピースの隙間より入る空気をしっかり吸い、ゆっくり吐く。いつもより、身体が強張ってるのが久島自身にもわかった。やがてブザーが鳴り、タイマーが一秒を刻んだ時、久島はゆっくり歩き出し、左手を前に突き出した。
試合開始第一ラウンド、これからの戦いの一礼代わりとなる、互いのグローブを合わせる行為。しかし……久島が見たのは、松原がコーナーより加速して踏み込んで来た姿だった。
松原太一はほくそ笑む、誰がお前に拳を合わせるかと。お前の様な格闘技を、武道を舐め腐る奴に礼を尽くすかと。棒立ちとなり、向かって来る此方に反応出来ず立ち尽くす雑魚に用など無い。
BOFユースに出る前の準備運動がてら、勢いを付ける為に叩きのめしてやると、意気込んだ。右の拳に力が入る、何度も相手をくの字に折り曲げ、時に畳を吐瀉物まみれにした、何年も積み上げた右ボディブロー。いや、空手で言えば右逆手突きを鳩尾に突き立ててやると、しっかり畳を踏みしめた。
後少しで、薄いラッシュガード生地の下の腹に拳が突き刺さり、涙目で蹲る久島の姿を見た松原は、一瞬のフラッシュと後頭部に来た衝撃に、膝の力が抜け落ちた。
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