第85話 公演前夜
「まあとにかく、帰るぞ」
問答無用で連れ帰る……なんてワイルドな男からは程遠い俺は、強気な台詞とは裏腹に哀しき下僕の習性でゆめりの鞄を持つと、まだ何か言いたそうな顔をしているご主人様をへえこら促して公園を出た。鞄に触らないでとか言われなくて良かったぜ……。
色々と話はあるが、今は少しでも早くおじさんとおばさんにこいつの無事な姿を見せてやりたい。
「好き放題言ってくれちゃって。女子の面倒臭さとか、温泉カピバラな松くんはわからないのかもしれないけど」
「それを言われると言葉もないです……って、温泉カピバラ?」
「悩みなんてないって感じでのほーんとしてるって意味」
「悩みくらいあるわっ」
「知ってるわよ」
「……」
すっきりとネガティブな部分が抜け落ちたような顔をしているジャイアンさんは「オレの後を付いて来い、のび太」とは言わず、普通に俺の隣を歩いている。
そうかと思えば自分が彼のジャイアンという前世でも思い出したのか、少し先行した。
マフラーからあぶれた黒髪が外灯の光をささやかに反射して夜気にふわりと靡く。こいつって時々しずかちゃんだよな……。
そんな気になる背中が言った。
「松くん」
「何?」
「松くん松くん松くん」
「あ? 何だよ連呼して」
「ふふっ」
「何で笑うんだよ……?」
こいつの機嫌の良さの理由はよくわからんが、何事もなくて胸を撫で下ろしていた俺は俺で、奴からの言葉が何であれ大らかに受け流す。
追い付こうともせず何となく見ていたら、ゆめりが振り返って一歩分こっちに戻ってくる。ぶつからないよう俺は必然的に足を止めていた。
「松くん」
「全く、今度は何だよ?」
「――本当にありがとう」
一瞬、意外過ぎてキョトンとしてしまった。
「……お、おう。明日、目に物見せてやれ」
「勿論。松くんもちゃんと見ててよ? 学祭であたしを見てた時みたいに」
「えっ。まさかステージから俺の位置がわかったのか?」
「まあね。あの時知ったけど、観客の顔って意外と見えるのよね。今回の部内オーディションだって、やろうかなって思えたのは劇を観てくれる皆のキラキラした表情とかわくわくした眼差しとか……一番はあたしを見てくれる松くんを見たからだし」
「へ? 俺?」
「そう、松くんよ。あたしの様々なこと全ての原動力は、あなただもの」
「……」
いつもみたいにあんたじゃなくてあなた。
これは初めて呼ばれたな。
きっととても真面目な言葉。
暗がりが多いせいか、黒目の大きな目力の強さに思わずドキリとさせられる。
「だから明日、公演の後で時間作ってよね」
「だからの繋げ方がよくわからんけど、いいよ、わかった」
「よろしい」
俺の返答に満足したのか、ゆめりは閣下然として頷いてまた背を向けて歩き出す。俺も足を動かした。奴は疲れているのかとてもゆったりとした足取りで俺はすぐに追いついてしまったけど、心配するおじさん達のためにももっと早く歩けとは言えなくて歩調を合わせた。
そうして程なく、緑川家の門前に到着した。
「なあゆめり、まだ怒ってるか?」
「怒ってるって、何を?」
俺から鞄を受け取った奴は何の事かさっぱり思い当たらないように首を捻る。
「この前無理に部室に連れてったろ。その件だよ」
「怒ってないわよ。むしろ戻るきっかけをくれて有難いと思ってるくらいだし」
「でもお前ずっと俺の事避けてたじゃん」
すると奴は黙り込んで、ちょっと唇を尖らせた。
「……避けてたのは別の事で、怒ってたってのとは少し違うし」
「違う?」
「そうよ。でもその話は明日」
やけにきっぱりと言われてしまい、俺はこれ以上続けるのを諦めた。
「ずっと外だったから冷えただろ。風呂でよーく温まってしっかり寝るんだぞ」
「風呂……って温泉カピバラ松くんこそ、ミルク色の湯船で火照ったあたしのやわ肌とか、水滴と遅れ毛の貼り付く細いうなじとか、滴る湯音の中でリラックスしたあえかな吐息とか、エッチな想像しないでのほーんとお湯に浸かって早く寝なさいよ」
「そんなんスルメーーッていやいやするかーーーーっっ!」
「ほら鼻の穴広がったその顔、してるじゃないこのエロ
ああくそ久々に否定きましたよ。
しかもエロ松ってなんだ。六つ子の親戚か!
「言っとくがな、お前がわざわざ具体的な描写を入れてしかも否定するから俺の脳内は大変な事になったんだ!」
「何そのあたしのせいみたいな言い方。失礼しちゃうわね」
不機嫌になるかと思いきや、どこに可笑しな要素があったのか、奴は楽しげにくすくすと笑う。ああもうわけワカメ!
一応は時間を考え声量を抑えてはいたが、きっと外を気にしていたんだろう、ゆめりの両親が話し声を聞きつけて玄関から出てきた。
「ゆめり、何時だと思ってるの」
「お帰りゆめり。随分心配したんだよ」
美人妻のおばさんは娘に駆け寄ると頭に角を生やしたように怒り顔になる。おじさんも心配しているようだがおばさんほど露骨に怒ってはいなかった。まあおじさんって昔からこいつに甘いしな。
「松ちゃん、わざわざ捜してくれてどうもありがとうね」
「ありがとう松三朗君」
おばさんとおじさんそれぞれから感謝を受けて俺は軽く会釈した。
実は公園を出る前に今から帰ると連絡を入れさせたんだが、ゆめりはその折に捜しに来た俺と一緒の旨も伝えていた。
「じゃあなお休み」
「おやすみなさい松くん。あ、そうだ、浴室の擦りガラス越しくらいだったらいいわよ、見に来ても」
こらーーーーッッ!!
「ゆめり、何だいそれは?」
普段から爽やかインテリ眼鏡のおじさんがレンズの奥に視線を隠して呟いた。今が夜で光源が玄関灯だけだから、より一層顔の陰影が深くなっているのも底知れない恐怖に拍車をかける。
「いやいやいや何っっっっでもないですおじさん、ハハハハ!」
俺は誤魔化すように愛想笑いを続け、半ば無理やりおじさんとおばさんに挨拶をして家に入った。
玄関扉に背を預け改めて安堵する。そんな俺の耳に今度は母さんの声が届いた。
「お疲れ、松三朗」
「おう。ただいま」
玄関の開閉音を聞き付けたんだろうな。廊下脇にあるリビングから出てきた所だった。
「さすがは私の息子。ゆめりちゃんをちゃんと見つけたのね」
「……どうも」
あたかも脊髄反射にも似た咄嗟の行動で家を飛び出した手前、気恥ずかしくて口を噤んでいると、
「お風呂、早く入っちゃいなさいね」
いつもみたいに茶化しはせず、母さんは俺の顔を見て口元を笑ませた。
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