第18話 神の手シャルマ

ムンバイは人口は2000万人を超えるインドで最大の都市であり、紀元前から歴史を持つ古都であり、南アジア最大の港湾を持つ国際都市であり、近年は国内最大の金融経済センターでもある。


デリーが典型的な内陸都市で冬をのぞき気温も湿度も篭もるような気候であるのと比較して、インド洋に面したムンバイは季節風モンスーンが遥かアラビア海から吹き寄せる。


多少大げさに言うならば、季節ごとに正確に吹いては返す季節風を帆一杯に受けて、アラビア海とインド洋を往復する交易商人達が千年をかけて、この都市の歴史と国際性を尊ぶ気風を形作ってきた、とも言える。


そのムンバイから内陸にいくらか入った所に、プネー工科大学のある都市プネーがある。


海抜数百メートルにあって避暑地として知られ緑も多く、イギリス植民地時代には「東のオックスフォード」と呼ばれた学術都市であるプネーには、インドで最も多くの研究機関が存在し、政府が投資する巨大ITセンターが複数立ち並び、世界中からの留学生が集まる国際性豊かな都市でもある。


つまりは、デリーという首都の官庁が集中する都市から田舎へやってきたつもりであったシャルマは、その活気と清新さに圧倒され、たちまちのうちにプネーという都市と大学生活に惚れ込んでしまったのだ。


「どうしたい”神の手”シャルマ、今度は何を作るつもりだい?」


工科大学のカフェでチャイで軽食を取りながらアイディアをメモしていると、同じ学科のラジーブが向かいに座りながら話しかけてきた。


「神の手」というのが、入学後しばらくしてシャルマについた渾名だ。


「衛星の新しい分離機構の部品を作ってみたんだ。何とか真空試験ができないかと思ってね」


シャルマが小さな部品を示すと、ラジーブはしばらく掌の上で金属とプラスチックの部品を弄んでから「自分で削ったのか。そんなもの外注そとで作らせろよ」と肩をすくめて返してきた。


シャルマは不思議に思うのだが、なにしろ同期の学生達は手を動かすのを億劫がる。

キーボードを叩きコードを書くのは得意であっても、レンチや旋盤、ハンダを扱うのはてんで駄目で「こんなものを自分達のやることじゃない」と投げ出す者も多かった。


この国に深く根付くカースト制度の価値観のせいだろうか、上位身分の者は手を汚して働くを良しとしない、という常識が幼少期から刷り込まれているせいもあるのだろう。

工科大学に子供を通わせるだけの教育を受けさせられるのには平均的なインド人民の所得では賄えないだけの費用がかかり、どうしても上位身分の出身者が多くなるのは社会制度上、仕方のない面もある。


一方でシャルマは生まれが生まれであったし、幼少期は貧しかったせいもあって自分の手を動かしてモノを作り出すことは一向に苦にならないどころか、むしろ喜びを覚える性質でり、結果として実技や工作系の成績は常にダントツのトップを走っていた。


その上、秀才のシャルマは学科でもトップの成績を取り続けていたので、同期の学生たちは尊敬とやっかみを込めて彼のことを「神の手」シャルマと呼ぶようになっていたのである。


仮定の話として、インド全土から天才達が集まるインド工科大学に進んでいたら、シャルマの才能は単なる変わり者として埋もれていた可能性もある。。

その点で、ロケット制作への熱情だけを元にシャルマが結果的に名門のインド工科大学やプネー大学でなく、プネー工科大学を進路に選択したことは、巧まざる幸運とでも呼べるものだったかもしれない。


要するに、シャルマはとびきり優秀な変わり者として工科大学での学生生活を楽しんでいたのだが、ロケットをこの手で飛ばす、という初心だけは心の奥底から去ることはなかったのである。


◇ ◇ ◇ ◇


自前のロケットを持ちたい。それもとびきり大きなものを。


それが南アジアの覇権国家としてインドが宇宙開発で掲げる目標である。


アメリカのNASA、日本のJAXAにあたる宇宙開発機関としてインド宇宙研究機関、Indian Space Research Operation、通称ISROがあり、インド工科大学出身者や海外からの帰国組がインドの宇宙開発を強力に先導している。


目下の課題としてISROに望まれているのは静止軌道へ衛星投入可能な推力を持つGSLVシリーズの後継機であり、民間宇宙企業の成長で活気を呈するアメリカと、国家予算の莫大な投資で開発を続ける中国に遅れずに、宇宙開発市場へと新鋭機を投入していくことである。


キャッチアップ・アメリカ、オーバー・チャイナ「アメリカに追いつけ、中国を追い抜け」


それがISROという組織に勤務する天才達の、現在いまを覆う気分である。


変わり者の成績優秀者として順調に年次を重ねた学部の最終年に、シャルマはISROの2万人を超える人員達の巨大なピラミッドの末端にインターンとして加わる機会を得て、そうした空気に触れることになった。

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