アーマード・フェアーズ
澤松那函(なはこ)
アーマード・フェアーズ
「被害状況を!!」
ヒビだらけの白い鎧を身に纏い、背から炎を吹き出して、空を駆ける少年の声が木霊する。
それに答えたのは、悲壮を湛えた少女の声だ。
「アクチュエーター破損。腕部ダメージ保護フレームに到達。スラスター推力低下……もう無理だよ!」
「出来る訳ないだろ!! ここで退くわけには行かないんだ!」
「でも悠斗、このままじゃ!!」
悠斗と呼ばれた少年の顔は、赤い光に照らされながら歪んだ。
眼前のモニターには無数の損害を伝える警告表示。
鼓膜に突き刺さるアラーム。
身体中を打ち据える振動が拍動を速まらせる。
光が鎧を掠めるたび、その身は赤く焼け付き、深い亀裂を刻んでいく。
このままでは助からない。
しかし悠斗は、本能的な逃避命令を無理やりに殺して、愚直に光の放たれる方向を目指した。
きっと、この手が届けばなんとかなる。
そんな淡い期待は――
「悠斗!!」
濃厚な闇に飲まれていった。
「これで何敗だ?」
問い掛けながら、神凪悠斗は隣を歩く木村奈々実を見やった。
普段は愛らしい印象を抱かせる奈々実の面立ちに、濃い影が差している。
瑞々しい高校生の少年少女が、夕暮れの道を並び歩いているというのに、その姿に青春の輝きは、微塵もない。
「二十戦二十敗……もう数え飽きた。だって戦った数イコール負けた数なんだよ?」
「このままじゃ廃部か……」
悠斗が振り返ると、そこにあるのは、全長二メートル程もある人型の白い機械だ。
ブラスチックと金属の間を取ったかの如き光沢を放つ装甲には、深い罅割れが稲光のように刻み込まれている。
フェアーズスーツと呼ばれるそれは、近年世界中で流行しているメカニカルスポーツ、アーマード・フェアーズを遊ぶために必要な競技用パワードスーツの総称である。
三十年前、開発された特定分子構造破壊素粒子技術。
通称フェア粒子技術。
元々軍事用に開発された物で、ある特定の物質のみを限定して破壊可能な技術である。
新たなる軍事技術の進化、並びに人類の新時代とまで謳われたフェア粒子技術だが、破壊出来る分子構造があまりに限定され過ぎてしまい、対応出来る分子構造の種類を増やす事が出来なかった。
やがてその技術は、一般に公開され、民間企業各社は、こぞってこの新技術を用いた新たなる試みに没頭した。
そして十三年前、日本最大の総合エンターテイメント企業アーツ・システムズによって開発されたのが、競技用パワードスーツ『フェアーズスーツ』である。
非常に強固でありながら、フェア粒子を用いた攻撃だけに容易く破壊されるフェア装甲。
他の物質には、一切の破壊効果を示さないフェア粒子を用いた武器兵器を搭載する事で、安全且つ大迫力の戦闘が楽しめる競技アーマード・フェアーズは、今世界中で大流行を起こしている。
老若男女を問わず、子供から大人までが幅広く楽しむメカニカルスポーツとなったアーマード・フェアーズ。
その世界大会出場を目指した部活動ワールド・アーマード・フェアーズ部、略称WAF部に所属するのが神凪悠斗と木村奈々実であった。
そして彼らが渾身の力を込めて作り上げたフェアーズスーツ、ジークドラグーン・マークⅥこそが二人が引きずる大破したパワードスーツの名前である。
熱意は誰にも負けない悠斗と奈々実だった。
しかしその戦績は無残とも呼べる全戦全敗。
ジークドラグーンにロープを括り付けて帰るのも二十回目。
百キロを超える重量がロープを介して肩に食い込むのも二十回目。
晴れぬ気持ちで帰路に着くのも二十回目。
「よー負け犬君」
前方から放たれる艶のある、しかし隙間に錆の混じったような声に、悠斗と奈々実が顔を上げるとそこに居たのはWAF部の顧問、永原香苗であった。
彼女のすらりとした立ち姿と、涼しい顔立ちは毎日見慣れているのに尚少年の心を熱くさせる。
「せんせ~」
悠斗は、ロープを投げ出して、香苗の双丘に飛び込んだ。
細身の身体つきとは非対称な膨らみが頬に触れると、その柔らかさが悠斗の傷心をほんの微かではあるが癒していった。
「あ、悠斗ずるい!! 私も!!」
「ずるいじゃないでしょ!」
奈々実が駆け寄ろうとしたところで、抗議の声を上げた香苗が悠斗を引き剥がして、
「また負けたの?」
呆れていると言うよりは悲しげに問い掛けてくる。
そんな恩師に向かって、悠斗は無理矢理な笑みを作った。
「負けました」
悪びれた素振りを微塵も感じさせず敬礼する悠斗。
しかし、それは強がりであった。
男という物は、多少の差異はあれ、敗北をとことん嫌う。
重ねに重ねた二十連敗と言う数が心身に与える影響は多大だ。
それを見通すかのように、けれども言わねばならぬ決意からか、香苗は、一度口を結んでから言葉を紡いだ。
「あのね。言いたくはないけど、実績のない部に、いつまでも学校は、お金出してくれないよ。ただでさえ部員二人しか居ないんだから」
現在悠斗の所属するWAF部の部員は、僅か二人。
悠斗達が入学する前の年に至っては、新入部員は、居なかったらしく、さらに三年生にも、もう一つあるフェアスーツ部に取られたり、受験に忙しかったりでWAF部に所属する者はない。
今年入学したばかりの一年生が二人だけで活動している弱小も甚だしい部というのが現実だ。
「フェアスーツ部は、部員も予算もたっぷりなのに」
悠斗の返しを、香苗の声が一刀の元に断ち切った。
「あっちは、主に学校所有の既製品使ったお遊び(ポイントマッチ)でしょ? あんた達みたいなガチ(フリーマッチ)とは、違うでしょ」
WAF部とフェアスーツ部を分かつ要因は、アーマード・フェアーズという競技のルールにある。
アーマード・フェアーズの公式大会は、ポイントマッチとフリーマッチに部門が分かれている。
ポイントマッチは、フェアーズスーツへの攻撃をポイント化し、時間内に多くのポイントを獲得した方が勝利するというルールだ。
フェア粒子を用いる物の、出力を極限まで落とし、実質的にエフェクト程度の役目しかしないよう、火器類を調整して行われるため、機体が損壊する事はない。
対してフリーマッチは、火器類の出力を最大にして行う為、実際に機体が破壊される。
勝敗もフェア素材で構成された外殻装甲を破壊し、内部の頭部保護フレームか、胸部保護フレームへの攻撃の到達。
または機体損傷による機能停止、外殻装甲七十%以上の喪失のいずれかで決まる。
現在のアーマード・フェアーズは、実際に破壊されるため見た目が非常に派手で、さらにフェアーズスーツの改造規制が緩いフリーマッチが主流で人気も高い。
だが実際に機体が破壊されるため、試合内容も激しくなりがちで怪我の可能性もあり、高校生未満はフリーマッチルールへの参加自体が禁止されている。
さらに改造規定が緩いため、その分高性能なパーツを搭載するなど、フェアーズスーツ制作にかかる費用面の問題があり、上を目指せば、目指す程、マネーゲームに支配されるがあるのだ。
金が掛からず、機体改造の必要性の低いポイントマッチと、改造必須で資金力が物を言うフリーマッチでは、ルールの性質が違いすぎて、同じ部で運営するのは難しかった。
それ故、大抵アーマード・フェアーズの部活動・サークル活動では、ルール毎に部やサークルを分ける事が多いのだが、資金に余裕のあるよほど大きな高校や大学、もしくはフリーマッチルールの大会で実績のある学校以外で、資金的に大きな負担が掛かるフリーマッチが部活動として採用される事は少ない。
何の実績もないWAF部とは違い、ポイントマッチ主体のフェアーズスーツ部は、県大会でも優秀な成績を残している。
しかしだからと言ってWAF部とフェアーズスーツ部の予算に倍以上の差がある事に、悠斗が憤りを覚えるのは仕方のない事だった。
「そんな差別が許されると」
悠斗が口を尖らせて、香苗に不平を突き付けると、彼女の逆鱗に触ったらしく、鬼すら怯むような怒気を纏って悠斗に詰め寄った。
「あんたが、あんな緩い環境で満足する連中とは一緒にやれません!!って偉そうに能書き垂れて、ようやく廃部寸前のあそこから解放された私を無理やり巻き込んだんだろうがぁ!!」
「先生愛してるー」
悠斗は、香苗の胸へと飛び込まんため、大地を蹴った。
両手を伸ばし、魅惑の膨らみまであと数十センチ、と言う所で悠斗の顔面を十五年の人生で経験した事のないおぞましい衝撃が打ち貫いた。
プロボクサーすらも戦慄させそうな一撃を華奢な女性が放ったという事実に、悠斗が気付いたのは、数秒間宙を舞っていた意識が自身の内に戻ってきた時だった。
未だ浮遊感に支配され、正常な思考能力を取り戻していない頭に、突如香苗の声が響く。
「ただでさえ、フェアーズスーツの自作は、難易度高い上に金も掛かるわけ。うちの学校も金食い虫だって言って廃部されそうなのを、あんたのネームバリューでむりくり存続してんの」
アーマード・フェアーズに、フェアーズスーツに係わっていれば神凪の名前を知らない者は、いないだろう。
神凪雄二。彼こそが世界で初めてフェアーズスーツを開発した技術者にして、神凪悠斗の父でもある。
そして悠斗自身も父の与えてくれたフェアーズスーツに幼少の頃から乗り続け、小学校中学校の頃にはポイントマッチではあるが全国大会に出場し、中学の時にはベスト四の好成績を収めた事もある実力だ。
神凪という開発者の名前。
悠斗自身のポイントマッチ大会成績。
この二つがあるからこそ部員二名のWAF部は何とか存続出来ているのだ。
そして悠斗にとっても神凪雄二への尊敬は、悠斗の中に存在するどんな感情よりも大きい思いだった。
父の作り上げたアーマード・フェアーズという世界で頂点を取った雄姿を父に見せる事こそが神凪悠斗の夢だった。
そんな夢を告げた時に、父がくれた物がある。
それがマークⅥに使われている動力、ジェネシス機関だ。
フェアーズスーツが商品化にあたって試作された世界に一つしかない超高出力機関である。
悠斗の父が開発に携わっていたのだが、あまりに出力が高く、汎用モデルの市販品には過剰パワーと判断され、商品化は頓挫。
不要となったジェネシス機関を雄二がアーツ・システムズから譲り受けていたのだ。
そして雄二は、悠斗にジェネシス機関を渡した際、こう言った。
『これには、お前と同じように無限の可能性がある。だから持っていきなさい』
折角の父の想いを悠斗は無駄にはしたくなかった。
諦めるなんてもっての外だ。
「分かってますよ。次こそは」
悠斗、は拳を作り、自分の夢を再確認していた。
神凪雄二程、機械造りの才能がない事は、理解している。
けれど高校生になったのだから、せめて動力以外は、自分の力で何とかしたい。
だからこその自作スーツだ。
しかし、世界大会に出るには、まず来月開かれる県大会、続いて全国大会を勝ち抜かなければならない。
県大会は、年二回、春の五月、夏の七月に開かれ、各県の春季夏季大会優勝者二名を集めた全国大会が十月に行われる。
全国大会を勝ち残った上位三名が日本代表として、三月に開催される世界大会への出場権を獲得出来る。
まずは、県大会を勝たねば、世界どころか全国大会すら夢のまた夢。
なのに他校との練習試合や、公共バトルスペースでの野試合でさえ、全戦全敗しているのが悠斗達の置かれている状況である。
優勝の話をする以前に県大会の一回戦を突破出来るかも怪しい。
そんな状態にある生徒たちを前にした顧問の心痛を隠す事もなく、むしろ見付けるように、香苗は不安の色を湛えた。
「月末には、春の大会の予選でしょ。それまでに何とか出来るの」
来月になれば、何もかも好転する。そんな都合の良すぎる奇跡が、起きるはずもない。
悠斗が足掻き続けるのは、現実を直視したくないからこその悪足掻きか、それともこの状況でも活路を見出せる大物なのか。
「今日の反省を生かして、さらなるスペックアップを」
どちらとも取れるような濁った笑顔で語る悠斗だったが、香苗がその険しい表情を崩す事はなかった。
「マジで頼むわよ。ただでさえ五年前の設立以来、なんっのっ! 実績もない部なんだから」
現実は、厳しい。
誰もが使う言葉が、これほど染み渡った瞬間も悠斗の人生においてなかった。
香苗の車に壊れたスーツを乗せて、学校に置いてから家路に付く。
毎日のように繰り返す、二度と繰り返したくない日常。
悠斗は、泥を纏ったみたいに重い身体を引きずり、家へと帰った。
玄関を開けても、帰宅を知らせる声を上げる事はしなかった。
父親の雄二は、現在海外支社に出張しており、母親の玲子も、一昨日から雄二の元へと行っている。
雄二が建てた二階の庭付き一戸建ては、高校生一人には広すぎた。
悠斗がどれほど小さい存在なのか、思い知らせるようでもある。
奈々実や香苗の前では、虚勢を張れても、所詮悠斗は、まだ高校生になりたての子供だ。
出来る事は限られるし、大人よりも限界の上限は低い。
悠斗は、決して頭の回転が悪い訳ではない。だから己の器を理解していた。
自分には、父のような機械作りの才能はない。
努力すればいつかは、歩み寄るぐらいの事は出来るかもしれない。
でもそれには、まだ生きてきた時間が短すぎる。
思考すれば思考するだけ、己が無力さを悠斗に痛感させた。
悠斗は、二階へ上がり、自分の部屋に入るや、電気も付けずに床へ鞄を投げ出してベッドに飛び乗った。
胸にちりちりと燻る何かが不満ばかりを煽り立ててくる。
何も上手く行かない現在と先の見えない未来が、悠斗にはどんなものより恐ろしく思えた。
そんな恐怖から逃れたくて瞼をぎゅっと瞑る。
現実逃避であるが、それでも考え続ける事は出来なかった。
いつからか、眠るという行為が悠斗にとって一番の楽しみになっていた。
「おい、悠斗」
ようやく訪れた睡魔の誘いを断ち切るように、しゃがれた声が鼓膜を揺らす。
身体を起こすと、部屋のドアに背を預けて立つ甚平姿の老年の男が居た。
背丈は、悠斗よりも一回り低く、頭髪が一本もない頭皮が窓から差し込む夕日を反射して輝いている。
「じいちゃん」
父方の祖父、神凪玄太郎だ。
悠斗の自宅近くで自宅兼道場を営んでいる。
現在、門下生の数は、五万人と呼ばれる五百年前に編み出された武術体系、神凪流の現師範代で悠斗の武の師匠でもある。
「ちょっと道場に付き合え」
稽古は、いつも登校前だ。
放課後に呼び出す時の要件は、たいてい決まっているが一応の確認のため悠斗は尋ねる事にした。
「いいけど、どうしたの?」
玄太郎は、苦笑しながら禿げあがった頭を擦りながら窺うようにして口を開く。
「手合せしたいっていう奴が来ててな。まぁ所謂道場破りよ」
悠斗が鼻から息をふんと吐き、ベッドに寝そべると、
「小遣いやるから」
玄太郎は、懐から牛皮の長財布を取り出して笑んで見せた。
「直接の手合せと聞いていたのですが――」
玄太郎の道場で待っていた男は困惑していた。
年の頃は、五十歳ほどで、白い道着を纏った体躯も整っている。
しかし眼前に居る手合せの相手は、近代武術界の至宝と称される神凪玄太郎その人ではなく、年端もいかない少年である。
道着と袴を身に着けてはいるが、着ているというよりは、着られている印象の方が強い。
玄太郎は、からからと笑いながら、悠斗を指差し、飄々と言った。
「まぁ私は、ラスボスってことで。一応一番弟子じゃ。中ボス的なもんだと思って」
「それでは、遠慮なく」
悠斗を倒せば次は、達人。
後の手合せに感慨を覚えながら男は、悠斗を狙い澄ますように右拳を突き出し、左の拳を腰だめに構えた。
「こちらも本気で行くので君も本気で来たまえ」
「はぁ」
悠斗は、気だるげに右足の脛を左足の親指で掻くと、
「分かりました」
構えを取る事なく、男へと足早に間合いを詰める。
無防備に射程距離へと足を踏み入れた悠斗を見逃さず、男の速射砲が如き左の正拳が鳩尾を襲った。
常人であれば確実に昏倒させうる一撃は、その膂力を発揮する事なく、悠斗の流麗な右手の捌きに受け流される。
男も武道家だ。
若い相手故に多少なりとも加減をして打った自覚はあるも、素人にいなされるような甘い一撃ではなかった。
打ち出した拳を引きながらすぐさま次弾を放つ男であったが、既に悠斗の姿は、視界にない。
服越しに、胸へと当たる微かな吐息に気付く。
所詮は、子供相手。
ほんのわずかな油断が無警戒に、男の懐へと悠斗を忍び込ませてしまった。
悠斗から間合いを離そうと床を蹴った瞬間、男の視界が悠斗の掌に覆われ、綿を落とすかのように優しく、男の巨体は、地面へと吸い込まれていた。
想像していなかったのである。
気だるげにしていた少年がこれほどまでの天賦と修練の集積体であるとは。
自嘲に似た笑みを零しながら男は、上体を起こそうとした。
「いや。参り――」
降伏宣言を断ち切るように、否、許さずに、悠斗の拳が男の顔面へと振り下されていた。
負けを認めている相手へ繰り出された無慈悲な追撃は、実戦の場でしかありえない所業。
完全に虚を突かれ身動きの出来ない男であったが、若い拳が頭骨を射抜く事はなかった。
しわがれた手が刀剣と見紛う鋭い拳打を容易く受け止めたのだ。
男の鼻先一センチの距離での攻防だった。
見上げるとそこに居たのは、黒い感情に瞳を染め上げた悠斗と、からからと食えない笑顔の玄太郎の二人である。
「勝負ありですな。いやーうちのも結構強いでしょ」
男は、後ずさりながら立ち上がると、道着を直してから一礼してきた。
「手合せありがとうございました。それでは失礼します」
と言い残して男は、脱兎のように道場から去ってしまった。
その背中を嘲笑しながら見送る玄太郎であったが、悠斗に視線を向けた途端、その表情から笑みが消え失せた。
「急所に。あの鋭いの」
怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
険しい顔で玄太郎は、悠斗の拳から手を放した。
「お前、あのおっちゃんを殺すつもりだったんじゃないだろうな?」
祖父の問いに悠斗は、右拳を撫でながら嘆息と共に口を開いた。
「別に。本気出せっていうから出しただけだよ。あんなびびんなら最初から言うなっての。かっこわりぃ」
固めていた拳を開き、掌を見つめる悠斗の目には暗い炎の色が滲んでいる。
「何の痛みも痛手も伴わない、おままごと。やるだけつまんねぇんだよ、そんなもん」
かっこ付けや思い上がりの発言ではない。
己が内面の奥底から絞り出された言葉に、玄太郎は、禿げあがった頭皮を撫でながら苦笑を滲ませた。
「ガキに大人げって言ってもしょうがねぇやな」
玄太郎は、悠斗の肩に手を置き、そっと撫でた。
「悠斗。わしが教えてるのは武道じゃなく武術だ」
「何の話だよ」
「空手道ではなく空手術。柔道ではなく柔術。剣道ではなく剣術」
悠斗の肩に置かれた玄太郎の手は。先程悠斗がそうしたように容易く悠斗の身体を床に押し倒すと、数瞬の間もなく放たれた正拳が悠斗の鼻先で静止した。
「
玄太郎は、悠斗の手を掴むと立ち上がらせると、飼い犬でもあるかのように頭を撫でてくる。
「お前、わしの孫だなぁ」
「え?」
「殺気の籠った攻撃されて、そんな嬉しそうな顔するなよ」
嘲笑でも苦笑でも冷笑でもない。純然たる笑みが悠斗の顔に浮かんでいる。
「狂犬め。内に燃える闘争への渇望を消せずに困っている。それを晴らすにゃ、あの実際にぶっ壊し合うフェアーズスーツのフリーマッチは、最適だろうがな」
フリーマッチは、選手に数々の重い負担を強いる。
だからこそ選手層の大半は、成人であり、未成年は、実績のある部活動や才能を見込まれてのスポンサー契約などがあってようやく活動出来る。
今の悠斗には、年齢も実績も欠けている。
それでもWAF部にこだわるのは、フリーマッチにこだわるのは、父に選手としての功績を認めてもらいたいだけではない。
現代では、到底晴らしようのない闘争本能を確実に消耗しえる手段であるから。
「うまくいかねぇツケを、てめぇが上手く出来るこっちで晴らすなや」
「じいちゃん――」
「かっこわりぃぞ」
玄太郎は、一万円札を二枚、悠斗の道着の襟に入れて道場を後にした。
道場に一人残された悠斗は、無心に己の不甲斐なさを嘆きながら、立ち尽くすしか出来なかった。
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