その5

あれから次に研究棟へやって来た時、弘美は駐車場に向かう赤い車を見た。

 その車の運転席に乗っているのは藤沢だ。

 ――おお、派手な車で藤沢さんっぽい!

 弘美が半ば感心して車を眺めていると、藤沢がちらりとこちらを見た気がした。

 だがそれも一瞬のことで、車はすぐに走り去った。

 弘美はこのことを大して気にかけず、徳海の元へと向かう。

「こんにちわー」

弘美が挨拶と共に部屋のドアを開けると、テーブルに平べったい箱が置いてあるのが見えた。

 弘美は本日の差し入れの保冷バッグをその隣に置いて、箱をしげしげと眺めた。

 見ようによっては弁当箱に見える。

 運動会などに持っていくような、ビッグサイズの折詰だ。

「なにこの箱」

「知らん、勝手に置いて行ったんだ」

弘美が尋ねると、徳海が机でなにか作業をしながら不機嫌そうに言い放った。

 それだけで弘美には、誰が置いて行ったのかは察しがついた。

 おそらく先ほど車ですれ違った藤沢だろう。

 のんびり歩いてきた弘美より先回りしたのか。

 そして彼女が置いて行ったまま、ここに放置してあるに違いない。

 徳海が放置しているそれを、弘美はこっそり中を覗いてみる。

 その中身は、やはり弁当だった。

 ――でも、なんで弁当? 

 弘美は首を捻りつつも中身を観察する。

「これ手作りじゃない?」

お店屋さんの弁当というには、いささか庶民的なおかずが詰められていた。

 だがその彩りは美しく、弁当上級者の作品であるには違いない。

「よかったね、お昼代が浮くよ?」

弁当には罪はないはずだ。

 そう思って弘美が言うと、徳海はこちらを振り向いて嫌そうな顔をした。

「俺は知らない奴の手料理など、口にしない主義だ。どんな調味料を使っているか、知れたものじゃない」

草野曰く料理が趣味な健康オタクは、他人の手料理は信用していないようだ。

「……私が持ってくる差し入れは?」

手料理は駄目で買ったものならばいいのだろうか。

 これに徳海は「フン」と鼻を鳴らして答えた。

「あれは大学近くのコンビニの奴だろう。使っている原材料は表記されて知れている」

なるほど、手料理がどうのということではなく、自分が口にするものの正体は、全て把握しておきたいらしい。

 めんどくさい男である。

「そういえばお前は手料理の類は持ってこないな。持ってこられても俺は食わないが」

確かに、女子力アピールとして手料理というのは定番だ。

 だがそれは、弘美には当てはまらない。

「私の手料理とか、弟ならともかく他人に振舞うなんて、嫌がらせでしかないじゃん」

胸を張って言う弘美に、徳海は可哀そうな子供を見る目をした。

「お前、料理が下手なのか」

それは自分で自覚できているから問題ない。

 とりあえず食べられるものは出来上がるのだから、自分的には今のところ困っていない。

 康平はひょっとしたら困っているかもしれないが、あちらの料理スキルだって弘美と大差ない。

 なので康平からとやかく言われる筋合いはない。


「でもさ、ここの上の人に藤沢さんの苦情言ってもらったんじゃないの?」

あまりに態度がアレなので、邪魔しないように会社に文句を言うのだという話ではなかっただろうか。

 それでも押しかけるとは、彼女はどんなツワモノだろうか。

 弘美の疑問に、徳海が眉を顰めた。

「あの女は、俺に会いに研究棟に入ったんじゃない。名目上はな」

藤沢はどうやら他の研究員に手を回して、中に入れてもらっているようだと徳海は言う。

 徳海はヘッドハンティングに興味がなくても、他の研究員は興味があるのだろう。

「なぁるほど、それじゃあ文句つけ辛いね」

なにやら面倒くさいことになっている気がする。だからいつにも増して不機嫌なのだろう。徳海もご愁傷さまだ。

「で、結局このお弁当どうするの?」

「他の奴らに差し入れればいいだろう」

徳海も捨てることはしないようだ。繰り返すが、弁当には罪はない。

 徳海が機嫌が悪い様子なので、弘美はコーヒーをごちそうになってコンビニスイーツを食べたら、早々に帰ることにした。

 徳海の資料室から帰る途中。

 廊下に面している、いつも閉まっているドアが開いている。

 ――珍しい、なにする部屋だろう?

 こっそり中を覗いてみると、そこは会議室のような空間だった。

 中には数人の研究員がいて、みんな徳海よりも若いようだ。

 彼らの前で、話をしている女性がいる。

「いい? 他所でも通用する研究者になろうと思ったら、自分の殻に閉じこもっていては駄目よ」

それは藤沢だった。

 空調の風向きのおかげで、今は香水臭さが弘美がいる場所まで流れてこない。

 なので安心して弘美は少しだけ聞き耳を立てた。

「社会人としてのスキルを磨きなさい。研究さえしていればいいと思っていたら、狡猾な人に足元を掬われ、研究を盗まれるわよ」

藤沢がそんなアドバイスをしているのが聞こえた。

 それを研究員たちが真剣に聞いている。

 ――へえ、意外。

 なんというか、藤沢は徳海に絡んでなければ、普通に優秀な人なのではないのか。

 一年生への講演を頼まれるくらいだから、きっと仕事ができて信頼されている女性なのだろう。


 弘美がそっとその場を離れると、廊下の突き当りの休憩スペースに綾川がいた。

「あれは、女の意地ね」

綾川が藤沢がいた部屋の方を指さして、ニヤリと笑ってそう言った。

「意地?」

首を傾げる弘美に、綾川は続けた。

「そっ。あの女は相当自分に自信があるらしいわね。だから自分に釣り合う徳海くんに執着するのよ」

釣り合う男。つまりはブランド的なものだろうか。

 この自分にふさわしいのは、このクラスの男でないとならないと、そう考えているのだろうか。

 どちらかというと吸血鬼としてヘタレなカテゴリに入る弘美には、いまいちわからない考え方だ。

 綾川は反応の薄い弘美に、苦笑いを浮かべた。

「あなたも歳をとればいずれわかるわ。女はあの年頃になるとね、いろいろ考えてしまうのよ。自分の女としての魅力とか、結婚とか、仕事とか。彼女は確か独身のはずだわ」

「ふぅん、そんなものかな」

弘美は藤沢がいる部屋の方を見た。

 確かにまだ大学一年の弘美には、まだ遠い話だ。

 考えるのは夢と希望の方がいい。

「呑気なことを言っていると、あっという間に十年くらいは過ぎるわよ」

綾川の言葉に、弘美はそちらを振り返る。

 あっという間に十年たって、まだ徳海の血を飲めないでいたら嫌過ぎる。

 そんな弘美の考えを読んだわけではないだろうが、綾川が質問してきた。

「もし徳海くんが藤沢さんを選んで結婚するとしたら、あなたはどうする?」

どうするとは。徳海が誰かと結婚するとなると、夫婦として様々な営みとかがあるわけで。

 そうなると徳海は、あの美味なる血を維持できるだろうか。

 どこかで健康に妥協をしてしまったらどうしよう。

「うーむ、少々困る……」

「ふふっ、少々なんだ?」

腕組みしてむーんと悩む弘美を見て、綾川が楽しそうに笑う。

「徳海くんも、あなたがそんなだから邪険にしないんでしょうね」

休憩は終わりのようで、綾川は自分の仕事に戻って行った。

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