第三話 美味なる血とハンティング

その1

幽霊騒ぎから日々は過ぎ、大学は明日から夏季休暇だ。

 本日は一年生に向けての就職のための講演会があるとかで、講堂へと集められていた。

 大学に入学したてでキャンパスライフを満喫しようかという時期から、就職の心配を始めなければならないとは世知辛い世の中だ。

 そう思いつつも講堂でぼうっと壇上を見ていた弘美の鼻を、強烈な香水の香りが刺激した。

 ――これ、覚えがある感覚!!

 慌ててハンカチで鼻を覆って口呼吸に切り替えた弘美の視界に入ったのは、派手なスーツを着た女性だった。

 もっと詳しく述べると、胸元を強調するようなデザインのブラウスを着ており、長い髪を綺麗に巻いて、ピカピカに光るネイルをこれ見よがしに見せる、少々化粧の濃い女性である。

 年の頃は三十代であろう。

 二十代女性にはない貫禄のようなものがある気がする。

 ――徳海さんの研究室を勝手に片付けた女だ!

 研究室に残る強烈な香水の臭いと体臭を嗅いだ弘美の勘に間違いはない。

 それにしても、ヘッドハンティング会社のエージェントと聞いていたので、もっとキャリアウーマン的な人かと思っていたのだが。

 彼女はなにやら弘美がイメージしていたのと違う。

 噂に聞くホステス嬢っぽい見た目だと思うのは、弘美の偏見だろうか。

 女性は壇上から学生たちに向かってにこりと微笑むと、口を開いた。

「WWCサービスの藤沢です。本日はみなさんに……」

そんな切り出しで彼女が語ったのは、就職先との相性をはかる重要性だった。

 ヘッドハンティングというと、ドラマとかでは仕事ができる人を引き抜いていくというイメージだ。

 だがそれに加えて、会社と働き手の需要と供給の一致をすり合わせる作業も行うというか、むしろその作業が大半だそうだ。

「いくら才能がある人材でも、それを生かせない会社に入ってしまうと不幸な摩擦が起こります」

そんな不幸に見舞われないためにも、今から自分にどんな仕事が向いているのかを探すことが大切だ、と彼女は語った。

 ――派手派手しい見た目のわりに、まともなことを言うね。

 うっかり鼻で息をしないように気を付けながら講演を聞いていた弘美の周りでは、真剣な表情でメモをとっている学生がいる。

 弘美も他の学生らと気持ちを同じくしたいところだが、己には就職戦線に突入する前に、まともな吸血鬼になれるだろうかという問題が待ち受けていたりするのだ。


この翌日から大学は夏季休暇に入った。

 弘美は夏季休暇になっても週に三回程度、徳海のところに差し入れという口実で顔を出している。

 ――徳海さんは美味しい血を持っている、大切な人だもんね!

 だからなんとか徳海との心の距離を縮めたいが、吸血鬼だとバレて解剖は嫌だ。

 それで考えたのが、徳海と仲良くなって情を持たせ、弘美を研究解剖しようという気持を持たせないようにしようという作戦である。

 そのためには、夏季休暇という自由時間を有効活用しなければならない。

「ずっと大事に飼っていた鶏をいざ食べようとしても、殺すのをためらうじゃんか」

そんなことをほざいた康平の発案でもある。

 しかし、プロならばいくら愛情をかけて育てても殺るときは殺ると、お姉さまは思うのだがどうだろう。

 しかし吸血鬼たちがみんな、このような努力をして血を飲んでいるとかというと、そうではない。

 吸血鬼には血を効率よく飲むために、固有の能力というものが備わっている。

 暗示もその一つである。

 目を合わせるだけで夢見心地にして、相手がぼうっとしている間に速やかに血を飲ませてもらうのだ。

 だが弘美はこの能力が低い。

 理由は簡単、今まで血を飲んでいないからだ。

 人間の血は吸血鬼にとって栄養を超えた、魂を形作るための要素なのだと、父に教えられたことがある。

 なのでろくに血を飲んでいない弘美は魂の力が弱いのだそうだ。

 だから身体は虚弱だし、容姿も美形に成長できていないのだ。

 難儀な種族に生まれたものだと、弘美は自分でも思う。


 そんな理由もあって、希望の星たる徳海攻略は簡単にはいかず、努力あるのみだ。

 というわけで努力の小道具である本日の差し入れデザートは、季節の夏みかんゼリーである。

 最近暑さが増してきたので保冷材を増やしており、キンキンに冷えているはずだ。

 弘美が夏季休暇中なので誰もいない理学部構内を歩いていると、研究棟が見えてきた。

 しかし今日は研究棟の入り口に、派手なスーツを着た女性が立っているのが見えた。

 そちらに近付くにつれて漂ってくる濃い香水の匂いに、弘美には覚えがあった。

 ――臭い! こっち風下、臭い!

 強烈な香水の香りが弘美に直撃した。

 これはダメージがデカい。そして間違えようがない。

 ――例の香水の人か!?

 一方、弘美からあちらが見えるということは、あちらからも弘美が見えるということで。

 女性が弘美に気付いて声をかけてきた。

「お嬢ちゃん、ご家族に会いにきたの?」

彼女が猫撫で声で弘美に話しかける。

 その言い方から、明らかに相手に中学生だと思われている。彼女はさらに言う。

「ここは子供の遊び場じゃないんだから、大人の迷惑にならないように気を付けてね」

これに弘美はムッとしたが、言い返すのをぐっとこらえる。

 相手に隙を見せるな、大人になるんだ自分。

 鼻をつまみたくなるのも我慢だ。

 ――ここで徳海さんの名前を出すのは、まずい気がする

 康平の話に影響されたのか、弘美の脳内から徳海との三角関係の図が離れないのだ。

 これほどまでに女であることをアピールしている女性であれば、弘美にだって警戒心が湧く。

 一歩間違えば、妙な修羅場の出来上がりだ。

 そうなったら、今後ここに出入りし辛くなるではないか。

 ――それは嫌だ!

 なので弘美はここから逃走を図るべく、にっこり笑顔を浮かべつつインターフォンを押した。

『ご用件は』

弘美はインターフォンにすぐに要件を切り出した。

「但野と申しますが、草野さんをお願いします」

徳海ではなく、草野を呼んでもらった。

 弘美は徳海に会う前に、ワンクッション挟むことにしたのだ。

 しばらく待つと、すぐに草野が出てきた。

「珍しいね、俺に用事……」

草野は言いかけて言葉を濁す。

 いろいろと察したようだ。

「入っていいですか?」

「ああ、どうぞ」

弘美はおかしな情報を与えることなく、速やかに中に避難しようとしたのだが。

 女性から待ったがかかった。

「ちょっと坊や。京谷さんが出ないんだけど」

 ――京谷さん?

 弘美はそれが誰だか一瞬わからなかったが、すぐに徳海の名前だと思い出した。

 坊やと言われた草野は、肩を竦める。

「俺に言われても。徳海がなにしているのか知らないし」

草野はこれでうまく躱したつもりだったのだ。

 だがどういう天の采配か、弘美がやってきた道の向こうからもさもさ頭が見えた。

 なんとタイミングの悪い男だろうか。

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