第8話

 一人での枕経を住職から任せられると、帰ってきてから聞いた話を細かく住職に伝える。


 その話を聞いて、枕経から出棺までの間にその人にふさわしい戒名を考えて決め、葬儀の準備まで引導文を作り上げる。

 そして位牌や塔婆を用意する。短時間でこれらのことを完成させなければならない。


 遺族から伺った話が多ければ、どれを引導文に入れ、文の構成をどうするかで時間がかかるし、話の内容が少なければどうやって内容を盛り上げるかで頭を悩ます。

 ある程度の定型文はあっても、すべてそれに当てはまれば問題ないというわけでもない。


 寝食の時間を削ることもよくあること。その分葬儀が終わったらバタンキュー。


 たまに出棺までの予定が、遺族と寺の都合が合わないときがある。様々な理由で枕経から出棺までの日にちが延び延びになり、初七日に当たる日に葬儀が行われることもある。


 そしてその間にほかの法事の予定が入ってたりするし、枕経の後に来るほかの檀家からの連絡で、その間に入れることもある。葬儀の準備の他に、別の法要の準備に時間を取られることもあるし、稀なケースだが葬儀が三軒くらい続くこともあったりする。そうなると夜を徹しての作業になることもある。


 葬儀の準備のために必要な時間は、多ければ多いほどありがたい。しかしその分葬儀の日も長引くことになるので、遺族の負担が大きくなる。短ければ遺族の負担は軽くなるが、こちらは缶詰め状態になる。やらなければならないことは葬儀の準備だけではないからだ。すでに決まっているほかの法要の準備も同時進行。


 大変な仕事だが、檀家の重い気持ちを少しでも軽くすることこそ僧侶としての役割。そう思うと自然と作業に心も込められる二人。 



 

 そうこうして出来上がった引導の文章もチェックを入れないといけない。

 

 故人の生前の、仏様とのつながりを持ったきっかけや普段からどんなご縁を結んでこられたかを中心に、功績、業績などを散りばめたものが主な内容。


 故人がもし聞いてて、恥ずかしいと思われる内容は、場合によっては取り入れる。褒められると照れる人も多い。それが恥ずかしく思うこともあるからだ。



 実は照れてる場合ではない。それは誇りとしてほしいことなのだ。たとえば育てた子供が立派に育って、社会的にも上の立場に立つようになった内容などがそう。 故人の子育ての結果、本人の努力と噛みあってそこまで成長したと言えるわけだから。たとえそれが反面教師だとしても。


 あなたの人生は決して無駄なものではありませんでした。これらがあなたの功績ですよ。

 そのように故人に語り掛ける。

 

 そのような方が仏様の下に行きますよ 

 そのように仏様にご報告申し上げるのが引導文の役割の一つである。



 引導文の中に入れたらまずい内容や入れるべき内容は心得ているが、遺族は菩提寺に対してそこまで信頼されてないケースもある。

 ましてや法道は帰省して二年ほどしかたっていない。

 住職に来てもらいたかった という声もあるし、未熟者には任せられないから適当にあしらっとけ と思われることもある。





 法道は、当時の自身を省みる。





 志を持っていないことが心苦しく感じることもあった。


 ただ流されるままに仕事に就き、それでいいと思ってたような性格だった自分。 だが流されるままの自分だからこそ、悲しい思いを持つ人たちを目の当たりにすると、何とかしてあげる役目とも思うこともできた。


 しかしそんな思いとは全く違う、現実の自分を思い知らされた一件の出来事が起こるのである。




 法道が子供の頃、一緒に遊んでもらったり世話をしてくれた方が亡くなり、住職の指示でその方の枕経を彼一人で勤めた。


 その後、昔話を聞かせてもらって、懐かしさのあまりその話で盛り上がったのだ。


 自坊に戻り、住職に報告する。叱責されることはなかった。むしろ、十分いい話を聞いてきたな と褒められたくらいだ。


 遅い時間だったのですぐ風呂に向かった。


 鏡を見ると、笑っていた自分がいた。



 懐かしい話をありがとうね と遺族に言われた。一緒に話をしていた遺族の人たちも懐かしい話で盛り上がっていた。

 必要な話を全て伺い、そろそろお暇しますと挨拶した時に、故人と同居していた家族たちにお見送りしていただいた。


 昔話で盛り上がり、一緒にその話を楽しんでいたその人たちの見送りするときの顔は、悲しい思いが見え隠れしていたのを思い出した。



 一緒に昔話を楽しんでたのに。

 お勤めをしたことに遺族は喜んでくれたのに。


 見送ってもらう時、あの人たちは悲しい顔をしてたじゃないか。

 

 悲しみを癒したり慰めたりするのもこの仕事の一つ。その仕事に就いた者すべてがそんなことをやり遂げるだなんて、そんな大それたことをこの若造ができるはずがなかったのだ。


 逆に僧侶を楽しませる接待をしてくれた。

 

 


 この仕事、何のためにするんだっけ?

 この仕事、何のためにあるんだっけ?



 勉強して、修行して、戻ってきたはいいが、住職からは留守番しか言われなかった。そして法要の出仕の指示のみ。自主的にしたことは、掃除のみ。


 この仕事のために俺は何をやっていたんだろう。


 

 何かをしてあげられたつもりだった。檀家のために何かの力にはなってただろう。お勤めの後のお茶の時間なんか、一緒に楽しく過ごしてたじゃないか。


 だが改めてこのことを振り返る。何の力にもなってないなんて思いもしなかった。

 

 法道は鏡を見ながら今夜のことをそのように振り返り、愕然とする。

 同じことを何度も考える。


 僧侶とは人の不安や悲しみを取り除き、心に安らぎと元気を与えるものだよな? それがどうだ。遺された者としての不安や心配がある人から、逆に元気を与えられただけではないか。


 そして宗教とは本来、人の幸せを願うことじゃなかったか? 宗教に携わる仕事をしてる人達がもてなされるためにあるわけがないだろうが。


 なのに自分は笑っている。あの人たちの感情は悲しみに戻っていた。



 流されてこの仕事に就いたことは仕方がないだろう。周りに強制され、抵抗するすべもなく、己自身で進みたい道を見つけて周囲に説得するような気概もない人間だったから。

 つまりこの仕事に面倒を見てもらってるわけだ。


 だがそれでも僧侶を本職としたのだ。周りも自分のことを僧侶として見ているのだ。その本職して本領発揮しなければならない場所で、この仕事を本職としている俺に誰かから、その本領をその相手から発揮されてどうするんだ。



 笑いごっちゃねーだろうが。



 鏡に映った、若干青ざめた自分の顔に向かって、己に対して叱責する。

 改めて今後、自分はどうあるべきかという方針について、腰を据えて考えたくなった。


 だが、枕経を終えたばかり。葬儀が控えている住職と法道。

 そんな時間の余裕は持ち合わせておらず、そんな時間を作ることもできず、いつものようにとにかく手抜かりがないよう、気持ちを集中して住職との打ち合わせに身を任せるしかなかった。


 何とかできるはず。何とかものになれるはず。


 今までの住職に聞いた質問を振り返る。

 

 このときはこれが正しいやり方かどうか。この法要の時にはこの内容の話がふさわしいかどうか。そんな質問にはきちんと返事は返ってくる。

 だが、こんなときどうしたらいいだろう? こうやったらどうだろう? という質問には素っ気なく、自分で考えろ と突き放された。

 

 はい・いいえの答えになる質問には答えてくれる。そうではない、法道の感性などにも関わる質問には、お前なりの答えを見つけろ という趣旨のようだった。


 


何しに自坊に来たのかはわかる。だが、何のために戻ってきたか、このままではわからないじゃないか。


 小さい頃から手伝ってきたこと、大学での勉強、本山で修行してきた経験は、目の前のそんな現実を前にすると、何の意味もないちっぽけなプライドにしかならず、それでもそこにしがみつかずにはいられなかった。



 何かをやれるって?何かができるって?




 実はいまだに何もできなかったんだよ と、どこかの誰かに指摘されたような気がした。


 

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