第6話
この時の法道には、まださせてもらえない事の一つに、戒名の授与がある。
戒名をつける作業は、引導の文章を作る作業よりはるかに難しい。
極端な話、引導の文章は、誰にでも当てはまる定型文に、その人独自の情報を組み込むだけでいい。
そして文字数に制限はない。
だが戒名は決められた文字数で、故人を表す内容でなければいけないし、ひらがなカタカナは用いない。すべての漢字に意味を持たせなければいけないが、それは義務とかではなく、無駄なことを減らすことで故人を表すための有意義な工夫の一つである。
だから本人と全く関係のない文字を戒名につけないことと、仏様との縁をより強くなれるような文字を選ぶことが前提となる。
ほかにも避けたい事やしてはいけない事がある。
戒名の文字を見た人が眉をしかめるような文字を使わないこと。
同じ文字を複数回使わないこと。
人の名前で同姓同名はよくある話。戒名には故人の人生の歩みの経歴と結果や、人徳を表す意味合いもある。
まるっきり同じ人生を歩んだ人間はいないはずだから、ほかの檀家に付けられた戒名と全く同じになったりするのもなるべく避ける。
普段から多くの人と交流を持ってる人に、静かなイメージを持つ漢字を戒名に用いると、「何でこの人にそんな字をつけるの?」と奇妙に思われてしまう。誰が見ても、この人にふさわしい戒名だ と感じ取ってもらえる内容にしなければならない。
さらに気を付けなければならないことは、故人を偲ぶと、誰もがその文字や言葉を連想するという場合に起こる落とし穴。
外出を好まずいつも家に静かにいる人に就ける戒名に、たとえば「穏」の文字をつけるとする。だが
「家にいるときはいつも音楽聞いてたよね」
「うん、いつもレコードとか聞いてたよね」
などと、何人もその人に対しての思い出の中で、より強く印象に残っている共通するものがあればそちらの文字の方が戒名にふさわしい。
文字へのイメージも同様に存在する。洗濯をするのが好きな人なら、「洗」よりも「清潔」のどちらかの方がわかりやすい。洗濯から「洗」の文字は連想できるが、「洗」から「洗濯」を必ずしも連想しないこともあるからだ。
戒名も住職が授ける。だが戒名を考えるときは特に、弟子にも意見を求めてくる。
独りよがりで戒名の文字を決めることを嫌う。しかし知らない間にそんな意識が生まれることもある。住職自身がそうならないように戒めているのである。
ほかには法道に戒名の文字を決める理由を伝え、それを理由に決める文字はほかに候補がありそうかどうかを聞くためや、住職の思い込みで狭まった文字の候補を広げるため。
法道はこの時点ではまだ、副住職にも就いていない。当然戒名を決める立場ではないが、彼の意見を参考にすることが割りとある。
文字を決めて、戒名のどの位置にどの文字を配置するか という作業もある。
戒名全体における位置取りもそうだし、この順番で文字を並べても問題ないかどうかの確認もある。
それが終われば読み方の確認がある。
発音しづらい読み方も避ける。読みづらいかどうかもチェックする。
その作業の途中、どうしてもうまくいかないこともある。
その場合はまた文字の選別からやり直す。
それだけ戒名を定めることは慎重を期す。
だからこそ、いろんな方面からその人となりを話を聞くことが必要になる。
人間はいろんな面を持っている。だが引導文や戒名を決める手がかりとなると、すべてを聞く必要はない。誰でも知られたくない面を持ってたりするし、その人を表す言葉すべてが戒名につけるにふさわしいとは限らないからだ。
その故人の話のどれを重視するか判断する作業も必要になるし、戒名に選んだ理由となる話を引導文の中に組み入れる作業も必要になる。
だが作業が進まない最大の問題の原因は法道自身にあったりもする。引導文と戒名を作るために必要な話をなかなか引き出せない。
「引導の文章や戒名を作るために必要なんです」
しかし檀家の中には、そんな立派なものを作らなくてもいいですよ、そこまでしてくれなくていいですよ、というような返事をしてくる。
立派でも何でもない、檀信徒として最後までご縁をお持ちいただきたい という目的もある。ご縁を拒否するとなると、ある意味問題である。
何より檀家とご縁を持たせることが、僧侶としての役割。そのタイミングが人生最後というだけのこと。
法道もそうだが、住職はいつも思っていることがある。仏様に遠慮したり配慮したする必要は全くない。むしろ親しい思いも持っていただきたい と。
それを拒否するというのなら、別に檀家でなくてもいい。檀家でいるよりも、向こうの世界とより強い縁を持てる方法があるなら、そっちを選ぶべきである と。
寺は、仏様と一般家庭との縁を取り持つ役目を持つものである。昔からの檀家だからといって、我慢して継続する必要はどこにもない と考えている。
全家庭が強く仏様と繋がっていて絶対切れることがないのなら、寺の役目はどこにもない。その様子に満足しながら廃業するつもりでいる。
同業者からすれば、足並みを乱す考え方かもしれない。
だが住職は、宗教の有り方から常に心に留め置いている。
心に何の憂いもなく生活していくには? と。
不安や心配事は人それぞれにある。だが同じところに必ずそれらは存在する。それが臨終の時ということだ。
それらの問題に取り組める最大の、絶好の機会がその一連の儀式である と住職は考えている。
法道がこのことについて質問したことがある。すると資格を取るための修行に入る前から常日頃、そのようなことを考えていた、という回答がきた。
住職であり師匠でもある法道の父も、法道同様跡継ぎとしてこの寺に生まれ育った。自分とはえらく違う、ということで法道は軽く打ちひしがれた。
さて、一般世間でも戒名について話題に上がる一つに、院号というものがある。
院とは、建物のことを意味する。書院、病院、お世話になりたくはないが少年院も院が付く。
そして戒名の場合、寺院のことを指す。
つまり、寺にどれだけ貢献してきたかを示すバロメーターのようなものである。あくまでも檀家を貢献度から見た場合の話。
ご本尊やご先祖へのお参りは、その人の信仰心そして信心深さによるものである。
寺に貢献したいという積極的な思いを持つ檀家は、その割り当ての他に、自ら寺へ経営や運営の手助けができないか、力になれないかを聞いてくることがある。
ただ聞くだけでなく、寺は何を求めているのかを知り、それに応じた協力に取り組んでいただいたりもする。
ところが寺への貢献というと、たとえば新たに本堂を立て直すだとか、寺の大掛かりな修理や改善をする際にはその機会が多くなるわけだが、毎日、毎年その事業が行われているわけではない。
つまり、貢献する機会がまるっきりなかったりするのである。
あるいは、どう協力していいかわからないし、寺に訊ねても、緊急に必要なものがなければ協力のしようもない。
それでも寺に貢献したい という檀家もいる。
そこに出てくるのが院号 ということである。
寺に協力する名目や理由が見つからない。こんなに気持ちは寺の方に向けているのに。
そこで、この方はそれほどまでに寺に対しての思いが強い人であり、自ら進んで寺を通じてご本尊とご縁を強くしたいと思われている方である。そのような功徳を願う気持ちの持ち主である、という証明のような意味合いで院号を授ける。そして院号を通じて寺に貢献したと胸を張って言えるほどの行為をして頂く というわけだ。
それがお金ということになり、そのお金で寺に何かしらの貢献をしたと言う証明を院号が果たすわけである。
院号への解釈はほかにもあるだろう。だが法道の師匠として、そしてこの寺の住職して、以上のことを院号についての話として法道に聞かせたときに、彼もその考えにそ納得はできた。
ただ最後に一言。
「お前はお前で調べとけ」
だが難しく考える必要がある物事は、短絡的に考えがちになる。
院号料はいくらですか? と聞く檀家が多い。いくら出せば院号がもらえる という解釈をしているということだ。
仏様と縁をより強く結びたい。戒名を通じてその思いを果たしたい。そのお礼として寺に何かご協力したい。
そう申し出てもらえると、住職も院号についての話もしやすくはなるそうだ。
その関連でよく聞かれるのが戒名料はいくらですか? 院号料はいくらですか? お布施はいくらですか? という金額の話。
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