第3話

 法道が自坊に戻り、初めて一人で任せられた法要は月命日のお勤めだった。何年に一度かの年回忌や人生の大きな節目となる葬儀とは違い、依頼される檀家で誰かが亡くなられた日に毎月訪問しお勤めをする、檀家にとっては日常の中にある法要である。


 法要が終わった後は、くつろぎながらのお茶の時間にしてくれる檀家もある。お茶を頂くついでに、彼の小さい頃の話を檀家からしてきたり、法道の大学時代、修行時代の話を聞きたがったりして、話が盛り上がるとつい長居をすることもあった。

 ご供養もして頂いた上に、楽しいお話も聞かせてもらって楽しかった という檀家も増えてくる。


 月命日ならどこでも任せられた、というわけではない。

 小さい頃から面倒を見てもらってた檀家や、近所だったり、通った幼稚園や学校の近くの家だったりした檀家が主な担当。

 

 でもそんな法道の働きぶりが、その檀家が近所の人との井戸端会議のネタの一つになり、それが広がっていったようで住職の耳にも届く。住職はあちこちからそんな様子を聞いて、弟子の仕事ぶりを推測したのだろうか。自坊に戻って半年くらいすると、月命日の仕事のほぼ全部を任せられるようになった。


 かわいい小僧さんというイメージから、意外と頼りになりそうな若い僧侶という見方に次第に変わっていく周囲の目。彼からすれば、やっていることは、自分にできることしかやっていない。大学や修行時代に学んだり覚えたりしたことを実践で活かす。そのことはずっと変わらない。ほかには、お勤めが終わった後のお茶飲み話くらい。けれども檀家にとっては珍しい体験談。何度繰り返しても、檀家は目を輝かせながら聞きたがる。


 同じ話をするにも、相手や時が違えば多少アレンジも入ってくる。けれども話の本筋は変わらないので話す方からすれば話すこと自体飽きてくる。そこで、これまで得た経験と知識を生活の中で活かすには という話も織り交ぜる。

 

 かわいいだけの小僧さんだったのに、そんな立派なことまで話せるほどになって戻ってきて大したもんだ。

 そんなことを言ってくれる檀家もいれば、立派な後継ぎができたねぇ、と涙目になりながら褒めてくれる檀家もいる。

 

 周囲が法道を見る目が変わるが、本人はその実感はなかった。だが住職から指示される内容も変化が見られ、そのことを通じて周囲の感じる変化に自分の成長していく感覚が次第に追いつく。それが法道にとって、僧侶としての役割はそれなりに果たしている自覚が生まれ、仕事をしているかすかな手応えも感じる。


 と同時に、中途半端な気持ちでこの仕事を始めたことに、檀家に対して負い目も感じるようになる。


 そんな思いを持ち始めたあたりの頃、住職と一緒に年回忌法要に出勤する。それまではただの付き添いだったのだが、修行時代の経験をそろそろ活かしてもらおうという住職からの要望があった。


 法要での役職は与えられない点については以前と変わらない。

 ただ、それまではおまけに一人僧侶が付き添うという断りの話が、それ以来住職からしなくなった。

 そのかわり、これからは息子にも勤める経験を積ませたいので僧侶二人でお勤めしますという話を、住職から檀家に毎回するようになった。


 檀家からの話を聞いてのことではなかろうか と法道は推測する。だが住職にその理由を聞く気はない。聞いたところでこの仕事における自分の原点は変わらないからだ。もちろん高評価なら聞きたいところだろうが、そんな彼にとってはあまり意味がないように感じた。

 それよりも、この仕事、そしてこの道に進むための原点を早くどこかで見つけないとという焦りにも似た気持ちが生まれた法道。精進の方向性を見出すための評価ならどんなに小さくても聞きたがったが、原点づくりやそのきっかけにもならなさそうな自分への評価にはあまり関心は持たなかった。



 このまま月命日の仕事ばかりでいいのだろうか? と不安に感じていた法道には渡りに船。

 月命日のお勤めでの檀家とのやりとりで得た要領は、その場ではあまり活かせなかったが、檀家との挨拶、会話、立ち居振る舞い、その他いろいろな住職の言動を一気に吸収できた。

 施主が親類など大勢呼んで参列するので自ずと雰囲気は厳かなものになる。月命日のお勤めとはわけが違ったからだ。修行中でも身に付けられなかったことで、身に付けなければならないと、自ら必要に感じた事柄でもあったからだろう。

 


 自坊に戻り、そのような悩みが生まれた上に檀家総数だの経営だの運営だの、一度に身につけるには、当時の法道には間違いなく手に余っただろう。そう考えると、住職の狙いは当たってたのかもしれない。


 それでも悩み始めた法道は、こんなんでいいのか? と思ってばかりだった。子供の頃のお盆の手伝いの延長のような気がしたからだ。

 指示されたとおりの経を読む。出されたお布施を受け取り、受け取ったらちゃんとお礼を言うようにとも住職から言われ、その通りにきちんとお辞儀をして礼を言う。


 言われたことをその通りにすることは、昔も今も変わらない。無難ではあるが、指示される内容にまったく変化がないのが気になった。


 法要の後のお斎(とき)という、簡単に言えば食事会がある。

 この頃になると、檀家がその席を用意するときには、当たり前のように法道の分も用意されるようになった。


 法道が住職の付き添いだけをしていたその時までの半年の間に、一回だけそのお斎に自分の席まで用意されていたことがあった。法道にとっては勉強の場。そんな彼にまでお斎の席を、檀家は設けてくれた。


「まだ一人前にもなってないんですよ? こいつのために用意する必要はないんですよ」

 そう苦笑いしながら檀家と話をしている住職。結局檀家に押し通されて、住職から着席を促される。


 これ、どうすればいいんだ? と住職の方を見ると、まずは施主の挨拶を聞いていなさいという助言。その後で住職の献杯の挨拶。

 そのときも法道にとっては勉強の場。こんな雰囲気ではどんな話をするのがいいか、どのように次につなげるのか。メモも取れるわけがないので頭の中で必死に覚える。


 住職の話が終わる。その内容を頭の中で反芻する。

 一気に周囲の空気が柔らかくなる感じに我に返る法道。


 目の前に並ぶ料理の数々。マナーとかはないのか? 思うがままに頂いていいのか? そう戸惑う報道は、住職に間抜けな質問をしてしまう。


「これ……食べていいの?」


 まるで子供である。


「お前にも用意されたものだからな」

 と、平然な顔で料理の皿に手を伸ばす住職。


「……子供の頃、たまに父さんが持ってきた折り詰めだよね」

 住職への呼称が、取り乱している心で話しかけたせいか統一しない。

「父さんってお前」

 そのつぶやきを住職が聞き、しょうがないやつだなお前は と住職が耐えきれず表情を崩す。



 



 彼は子供の頃を思い出す。

 父親が夜遅く帰ってくる日、しょっちゅう折詰の料理を持ち帰ってきていた。

「お父さんはお外で一生懸命働いてきたからね。そのご褒美を頂いて、それをお前たちに分けるために持ち帰ったんだよ」

 とお袋がいつも語っていた。


 滅多に見ることがないご馳走だった。すげー! 父さんってすげー! と連呼して、大喜びでそれらを口にした。

 すごい! おいしい! また持ってきてー!

 そんな言葉を繰り返し、目を輝かせながら自分の好みに合いそうな料理を選び取る。


 親父はそんな彼をどんな風に見ていたか。料理に夢中になり、あっという間に全部食べた。


 よくよく思い返すと、ありがとう と言った記憶はなかった。だが、その繰り返した言葉には、感謝の言葉よりも尊敬の思いがある。自分にはとてもできないことを平然とやってのける。だからすごいのだ。自分でもできることをほかの人にやってもらう場合には、すごい思いよりもありがとうの思いが強くなるだろう。



 幼いながらも、そんな思いや理論を持っていたかもしれない。


 家族での楽しい思い出づくりとは縁のない生活。その代わりであったろう今まで忘れかけていたそんな数々の思い出が、急に呼び起こされた。


 法道は、その幼い頃の思い出とともにそんなことをぼんやりと思った。



 お斎の席で法道に話しかけるのは住職ばかりではなくなった。

 そんなぼんやりとした俺の前に座り、その後に続いて何人かが俺からの話を聞きたがる。


 すごい を連呼した相手が今横に座っている。檀家からは同列の存在と思われている。だがそんな住職を差し置いて、自分が檀家やその親類の方々からの質問などに答えるのが僭越のような気がした。


 だが、自分と会話をすることを目的にきた人たちに、住職なら正しい答えが返ってきますよ と住職に話題を振ることはできない。


 横に座る住職を、顔を動かさず様子を見ると、料理を口にしているだけ。

 住職に恥をかかすわけにもいかない。向かいに座る人に、邪険に思われてもよろしくない。悪いことをしているわけではないのに針のむしろに座らされている気分になる。

 そんな奇妙な感覚を持ちながら、言葉を慎重に選び会話を交わす。卒業論文を提出した後の試験官との面接を受けているかのようだ。



 やがて時間は過ぎ、退席する時間が来た。

 残った料理を折詰にしてもらう。

 幼いころ喜んで食べた料理はこういうことだったのか と改めて実感。


 僕は父さんようなことはできない と思っていた幼い頃の法道。

 だからこそ、お土産をいつも持ってきてくれた父に向かって「すげー」を連呼していた。


 そんな「すげー」人が、自分の隣に座っている。

 だが誰からも「すげー」という言葉をもらってはいない。


 当たり前である。ただの付き添いでしかなかったのだから。

 それでも檀家は、すぐに若い人だけ寺に帰すのもしのびないということでこの席を用意してくれた。



 そんな彼が戻ってから半年たち、年回忌法要で初めて住職から、一人の僧侶として認められ、檀家からはお情けでもなく住職の付き添いでもなく、住職と同様に法要を務める一人の僧として認めてもらい、このように席を用意してもらえた。


 法道はここでようやく自分の位置の変化を実感した。

 帰省当時のまま足踏みをしていたわけではないことに、「すげー」人にほんの少しでも近づいていることに、そして「すげー」人から少しずつでも信頼されているような気がしたことに安堵した。


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