田鳴法道は未熟、僧侶は続く

網野 ホウ

第1話:プロローグ

 この風景を見るの、何度目になったのかな。


 田鳴法道(たなりほうどう)はぼんやりと火葬場の窓を通して外の風景を見ながら思った。


 火葬場の窓から見える外の景色。見える木々の枝には雪が積もり、白黒の風景が広がっている。



 この地域に住む今どきの若者なら、スキーに行こうかスノーボードもやってみようかと、冬のレジャーの計画を立てている時期。

 この地域での雪祭りは、冬花火も上げている。

 寒い時期だが、タイミングよく降雪の合間に上がる花火は、空気がきれいになるせいか、夏よりも見栄えがいい。


 娯楽が少ないこんな田舎での楽しみと言ったらそれくらい。


 普段の仕事の他に、生活していくために必要な雪かきで体力が消耗するこの季節。都会とは違って楽しく過ごせる時間も場所も限られている。



 しかしそんな人たちをも羨ましく思える人たちもいる。

 いや、そんなことに見向きもする気もない。それどころではないだろう。


 同じ場所から見える景色は、誰から見ても同じもののはず。せいぜい角度が違ったり方向が違ったりするくらい。


 だが法道の目の前に人たちが外の様子を見たら、彼が見える様子よりももっと白黒でぼんやりしているに違いない。

 

 彼は僧侶になるため、仏教や宗派の学問を大学で修めて卒業。その後本山での修行も二年やり通し、地元に戻ってから二十年ほど経つ。


 彼が帰省してから一年の平均二十軒くらいの葬儀があった。檀家で亡くなる人がいると、枕経の依頼の連絡がくる。


 彼の住む地域では、枕経のあとは納棺と通夜を一まとめ、出棺、火葬、葬儀、取り越しの法要の順番で執り行われ、その後にお斎(とき)という名前の食事会がある。


 この仕事に就くには、必ず師匠が必要となる。分からない事や困ったことがあったら師匠の指示を仰ぐことはもちろんのこと、宗派の教えを正しく受け継ぐための修行に出るための準備は、師匠なしには成り立たないからだ。修行中はそれまで知らなかったことすべて、手取り足取り教えるわけではない。

 修行に入る前に基本的なことはすべて師匠から教わるのが当たり前になっている。

 

 彼は子供のころから、住職でもある父親から日常のお勤めの基本などの指導を受けていた。自坊(自分の寺のこと)に戻ってからは、正式に師匠と弟子の関係となった。彼が檀家の法要に出向くときは必ず住職に随順するかたちになる。

 住職のすること、やること、話すこと、みなすべて彼にとっての修行の一部となる。

 

 本山での修行も厳しいものだったが、本山の中でのことだった。戻ってきてからの檀家との交流や依頼を受けての仕事や作業は、彼にとって初めてのことばかり。 小学生の頃からお盆の手伝いのため、毎年檀家一軒一軒回って読経したことはある。しかし一般の法事とは要領は別になる。

 それらは自坊で仕事をするには、必ず身に付けなければならないことだ。



 葬儀一連の仕事を一人で任せられるようになってから五年ほど経つ。そのペースでの計算すると、一人で勤めた葬儀の軒数は百を越えたと言うことだ。住職と二人でお勤めした件数を加えると、さらに三倍は越えるかもしれない。


 その経験数は多いか少ないか。どっちにせよ何度も役目を果たしても、この世での永遠の別れを悲しむ人たちを前にして何かを話すことは、彼にとっては全く慣れそうにもない。



 彼は回想する。初めて仕事でここに来たときは二十代半ば。彼の父親……いや、住職は六十代になるかならないかだったか。


 住職と一緒の時は、それは気楽なものだった。決められたとおりの経を読み、決められた通りの時間で動く。それだけでよかったから。


 初めて彼が一人でこの火葬場にきたときは、不安でしょうがなかった。学校のテストとは違って、檀家からの依頼の仕事に正解は決まっているわけではなかったのだから。仕事においても人生においても経験がまるで違う者が司る式となると、住職のマネをしても、檀家から期待外れの思いをされたこともあった。

 

 自分に保護者や監督が必要な頃や立場だったとき、今にして思えばどんなに楽だったか。一人で任される現場では、その責任すべてを自分が負うことになるのだから。。


 そう、過去を振り返ると、「今にして思えば」という言葉が頻繁に出したくなる。


 自坊に戻ってからの彼は、今まで知らなかった様々なものを得て、今まで持っていた様々なものを捨て、今まで夢中になってた様々なものから卒業してきた、そんな思いがある。


 人が亡くなるところを見てきた。人が悲しむところを見てきた。悔いを残す人も見てきた。ある家庭の中で誰か一人亡くなっただけで、その前後でその家庭を取り巻く人たちが変わっていくところも見てきた。

 

 どんなことを話しても、悲しみから救ってあげられない己を見てきた。何かをしてあげなきゃいけないはずが、何かをしてもらってばかりの己を見てきた。

 

 そんな事実に気づかず、常に自分はこの役割を果たしているのだと、この役割を果たしているが故に檀家全員が俺の仕事に満足してくれているのだと思い込んでいた時期もあった。


 だがやがて、この仕事に就くために必要な力が不足していたことを思い知らされた。この仕事に就くために必要な決心もなかったことに気付かされた。


 気付く知恵が身に付いたことを実感する。その分あの頃より今の自分には、いくらかは用足りるくらいには成長できただろうか。そんな自問自答をする。


 いや、そんなに大きく成長はしてないな。葬儀、取り越し法要はこの後に控えている。その時にどんな話をするのがふさわしいかを考えず、自分のことだけを気にしている分この仕事をする者としては、この年齢になってもまだ未熟なのかもしれない。


 彼は自戒の思いも新たに強くする。

 


 だが戻ってきた頃の自分のこと思い出すと


 昔はもっとちゃらんぽらんだったよなぁ と、つい苦笑いしてしまう。


 火葬場での荼毘式の法要を成し終えた彼のことを見ている人はおらず、場内にいる人たちは棺が釜に入るまで、それぞれが互いに思い思いの会話を交わしているようだ。


 この場所で空き時間ができると、法道は自分の過去を振り返ることが多くなる。


 本当に、色んな人をここで見送ってきたんだな。二十年か。ここにもお世話になったな───



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