第10話 悲剣の果て
「鈴・・・いや、柳生鈴太郎殿か。儂の邪魔をするか」
鈴太郎ははっとして大祐を見つめた。
大祐が鈴太郎の腰の刀を見ながらまた言った。
「その鍔の紋様は地楡(ちゆ)に雀・・・こうして相対してはじめて分かるとは」
鈴太郎は左手で柄を逆に握り、鍔を少し上向けにして自分に見えるようにした。鍔の表をちらと見て、
「この昔の柳生の紋をご存じでしたか・・・いかにも私は柳生列堂の妾腹の子で御座います」
「幕府の隠密か」
大祐はすらと大刀を抜いた。
「いえ・・・でも沼田領の悪い噂を心配された老中、大久保忠朝様に、様子を探って来いと言われました。また傷を癒すためにもと・・・」
「その傷の話も偽りであろう!」
鈴太郎は必死の顔になって言った。
「違います!嘘ではありませぬ!」
「信じられるか!お前の何もかも!」
鈴太郎の目から涙が流れた。
「市兵衛殿をお斬りになれば人の道に反します。どうか思いとどまり下さい!そうして頂けるなら、この後、どのような事が起ころうとも、私は貴方のお側にお仕えし、貴方のために一生尽くします!」
「儂は人である前に沼田藩の禄をはむ者だ」
「貴方はご存じの筈!これは人の道に反します!」
大祐は目をかっと見開いて叫んだ。
「問答無用!」
鈴太郎は大祐の殺気に飛び下がり、大刀を抜きはなった!
市兵衛は、道の脇で成り行きを見届けようとしていた。百姓の娘の為に、命を捨てて弔いに来た大祐に礼を尽くそうと考えていた。鈴太郎様が勝たなければ自分は大祐様に斬られるであろう。無念ではあるが、儂が最後ではない。儂に続く者が必ず居る。
ここには三つの『義』があった。二つと一つは相容れない。誰が正しいのか、そんなことはここでは問題ではない。熱い一途な者達の生死を賭けた時間であった。
大祐は右に刀を揚げ、八相の構えとなった。その姿は麒麟の如く地を踏みしめ、一厘のすきもない。
鈴太郎は静かに青眼に構えた。その構えにも玄武の如くすきはない。だが長身の大祐の圧倒的な力で繰り出される最初の一撃を躱すことは、並大抵の事ではない。それに打ち乗り、防ぐのと同時に攻撃しなくては、非力な鈴太郎に勝ち目はない。
鈴太郎はゆっくりと左半身になり、右脇に刀を下げて車に構えた。
嗚呼!
対峙する二人の流儀は同じ天下の兵法、柳生新陰流!
その無心となって取った構えは、入門者が最初に習う三学圓の太刀の初太刀『一刀両段』であった!しかし剣技の奥妙を秘めたこの技は最も極めることが難しいのだ。
愛し合った二人の悲しい運命(さだめ)は、邂逅したその日に演武した型を取らせたのか。
だが今は打太刀も使太刀もない。拳を切って相手を無力化する意図も無い。どちらも渾身の力で自らと相手の人中路(体の中心線)を斬ろうとするだろう。
その太刀筋に打ち勝つ方法は、相手の太刀筋を読み、精確に打ち下ろす事のみなのだ。
どちらかが必ず死ぬ、いや二人とも死ぬ可き技。
二人は武道の最高の奥義を尽くして戦おうとしていた。
二人が踏み込んだのは同時であった。
不思議な事に、二人の剣は道場で行っていた振り上げ方と違い、真上近くに剣を振りかざしていた。
古来の古武道は全て、戦場で鎧兜を纏った姿を前提にしていた。兜の前立てが邪魔になるので、剣を真上に上げる構えはない。だが、戦国の世は去り、普段着のままで行う稽古に変化が訪れていた。兜が邪魔で、肩上にしか振り上げられなかった剣を、真上に振り上げる工夫が徐々にされるようになった。
尾張柳生家では、前代の柳生兵庫が『直(つつ)立ったる』位ということで上段の形を流儀の基本に据えた。尾張で修行した鈴太郎は、それが最も効果的で致命的な斬撃であることを知っていた。江戸柳生を修練した大祐はそれを稽古した分けではないが、奥義に達したその肉体は自然にそれを体得していたのだ。
剣が振り下ろされ、二人は間近でその目を見つめ合った。
鈴太郎の顔がほころび、可愛い口が開いた。
「兄様・・・」
大祐は自分に寄りかかるように崩れ落ちる鈴太郎の体を抱いて胡座に座り込んだ。胸に鈴太郎を懐いて。
鈴太郎の左腕は肩から斬り落とされていた。
吹き出る血潮を大祐は必死で押さえた。
「鈴・・・済まぬ」
鈴太郎は大祐を見上げ微笑んだ。
「鈴は・・・幸せで御座いました。兄様にお会い出来て」
「まだ兄と呼んでくれるのか」
大祐は、鈴太郎の乱れて目に掛かった前髪を優しく撫でた。
「あの世でもお前を見つけるぞ・・・三十朗殿と争わねばならぬな」
「二人の兄様・・・いけない鈴です」
鈴太郎の右手が震えながら揚げられ、大祐の頬をなぞる。
「三十朗様に死に別れた後、鈴は恐ろしゅう御座いました。死ぬ時に独りぼっちでないかと・・・頼るお方もおらず・・・」
鈴太郎の息が弱くなってきた。
「でも・・・最後にこのように抱いて頂けた。おすがりしながら死ぬ事が出来ます。あの世でいつまでもお待ちしておりまする・・・」
鈴太郎が笑った。そして右手が力を失って落ちた。
大祐は鈴太郎の顔に頬ずりをして、震えるように泣いていた。
市兵衛が膝を落とし、横で鈴太郎を拝んでいた。大祐は呟く様に言った。
「市兵衛」
市兵衛は顔を大祐に向けた。
「行け」
「・・・よろしいので?」
「お前が書いたではないか。死ぬも生きるも早いか遅いか、道標(みちしるべ)の石の如くと」
市兵衛は、残った二人を名残惜しそうに見ながら江戸に旅立った。
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