2章 決意と逡巡と

ミーシャ。少女は自分のことをそう呼んだ。

俺はあの惨劇のさなか、正体不明の声を聴き、そして気を失った。

目が覚めた時目にしたのは、どことも知れぬ修道院の一室。ベッドと、机しかない石畳のとても質素な部屋だった。

 それ以来、俺はミーシャの姿を見ることができる。彼女は、華奢な体に腰まである白く長い髪、清く澄んだ小川のような瞳、外見は見ほれるほどに美しい。

 目が覚めて、数日が過ぎたが俺の心は目覚めていなかった。今、おそらく家族や友人、最愛の妻フィオナが一体どのような扱いを受けているのか想像できる。本来なら、すぐにでも行動を起こさなければならないはずなのだ。そして、いつもの俺ならば迷うことなく奮起するはずだ。だが、俺の心は石のように動かない。恐怖ではない。自信のなさがそうさせている。親しい者への愛情や心配よりも、そのような下らない理由で何もすることができないのだ。

「おい」

俺は隣に佇む精霊のような少女に語り掛ける。

「はい?」

「貴様、俺がなんだと言った?」

「勇者様です」

彼女は何も戸惑うことなくはっきりとそう告げる。

俺はかつてとある魔術の書で読んだことがある。

時に魔性の者が魔導士を悪しき道へと導くために嘘をつくことがあると。

その手法は様々だが、自分を偉大な存在だと勘違いさせ、破滅へと導くものもあるという。

俺は、正直この外見上は美しい少女を信用していない。

そもそも、あの惨劇を起こした側の存在なのかもしれないとさえ思う。

「馬鹿なことを言って、俺を惑わすな。一体俺に何をさせたい?」

「私の言葉を疑っていますか?無理はありません。しかし、何度も申したようにあなたは天から救世の宿命を授けられた存在。巨悪を根絶する宿命を背負わされたお方なのです。手のその紋章がその証拠です」

「それだけで信用すると思うのか?こんなもの、呪いのあざでないという保証がどこにある?天からの宿命?救世の英雄?馬鹿な。このような、気の弱い男がそんなものであるわけがない。俺は、自分自身のくだらない理由で友が、最愛の妻が苦境にあることを知りながらこうして数日もダラダラ過ごしているような人間だぞ」

「自信がないから行動できない。そうおっしゃっていましたね」

「ああ、そうだ。俺は本当に意気地なしだ。行動する前から心が負けている」

「どうしてそれが勇者の資質がないということになるのですか?」

「なんだと?」

俺は耳を疑った。

「アスラン様、あなたは勇者が完全無欠で何事をも恐れず、どんな時でも諦めず、最後には何事をも成し遂げるような存在だとお考えなのですか?」

「それ以外何だというのだ。天に選ばれた者なのだろう?」

「確かに、特殊な業を背負った存在であることは否定しません。しかし、勇者は決して運命によって勝利を約束された存在ではありません。弱ければ負けますし、その悲願を遂げることはできないでしょう。ただ、一つだけ言えるのは……」

ミーシャは一旦言葉を切る。

「どれだけ逃げても運命の方から迫ってくるということです。そう、あの惨劇の夜のように。そういう意味ではあなたの言うようにその手の紋章は呪いのあざという見方もあながち嘘にはなりませんね」

俺は彼女の言葉を聞いて唖然とした。それならば、本当に呪い以外の何物でもない。失敗すればただただ不幸と苦痛だけを背負って死んでいくのだ。天の神は手を差し伸べるとは限らないという。自分で切り開け?弱虫のこの俺にか?

「アスラン様は祖国を開放し、ご家族やご友人を救いたいとは思われないのですか?」

彼女の声には非難の色は全くない。ただただ、俺の意志を確認するだけだ。

「勿論、助けたいさ……」

「ならば、呪いでもなんでも構わないではないですか」

彼女はあっけらかんとそう言い放つ。

「今のアスラン様は使いこなせれば天と地のありようすら覆すだけの潜在能力を手に入れたのです。私の言葉を疑うのでしたら、それでもかまいません。私を破滅に導く悪霊だと考えるのにも目をつむりましょう。ですが、それだけの力を使わないでさび付かせるのは損だとお思いになりませんか?」

上手く言いくるめられたように思う。それも、魔性の者の常套手段であるのだが、時には単純になり他人の言葉に踊らされてみるのもいいのかもしれない。どうせ、自分の自尊心や己惚れに踊らされた俺だ。この際、やけくそである。俺は、この得体の知れない少女の口車に乗ってみることにした。

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