いるかの声を聴け

一条めぐる

第1話

「世界は滅んだ?」

「二回ぐらい」

「本当にそう?」

「わからない」

「じゃあ、明日は?」

「そんなのどうでもいいのよ、私達にとっては」

「そうかしら?」

「あなたが悪魔なら私はきっと」

「イルカでしょうね?」

「哺乳類の営みも、朝日に影響することなんてないじゃない」

「夕日はあなたを救えないから、きっと悪魔じゃないわ?」

「嘘つきね」

「悪魔だもの?」




 *

 もうこんなに寒くなっていたんだ。固く結んでいるはずの唇から溢れる白い息で、とても寒い日々を実感する。体温を分け与えても手は冷たくて、なにを欲しがって繋がっているのかはわからない。

 商店街に人影はなく、さびれているよう。風が吹いて木の葉を散らし、扉が揺れる音で合唱団ができそうだ。

 でも、実は活気に溢れている。シャッター街じゃない、昼間になればきっとお店の人たちが、今日売りたい品物を出してくれるはず。

 こたつの上に置くみかんが切れていたなと、八百屋の田口屋と書いてある看板を見て思い出した。

「ねぇ、朝奈?」

「なに、姉さん」

 右隣にぴったりとくっついて歩いている私の姉、夕はこちらを見上げていた。ニコニコと朝日のような笑顔を浮かべて。

「この道は幸せだね。人が通ってる」

「今の人通りは少ないよ」

 私の反論を全く意に介さず、手を離して少し遠ざかる。手袋もしていなかったし、ひたすらに指は冷たくて、夕の感触が残っていたのを示す記号は掌に残った赤い手形だけ。

「足跡が見えればいいの。時間は関係ないからね」

 赤い革で彩られた時計を眺めてみた。八時一五分。

「姉さん、遅刻」

「遅刻して出てきたのは朝奈のほうじゃない。本当は私が妹だったんだよ?」

 私とそっくりな顔を崩して微笑む夕。ほんの少し生まれる順番が違うだけで、扱いが変わるのは変かなと思うけど。

「そんなことより走らないと、間に合わない」

「今日は校門に高科先生が立っていないといいね!」

 ああそうだった、地面を蹴る音も似ているんだった。地平の向こうから顔を出し始めた朝日を背に受けて、冷え込んだアスファルトの上を駆け抜けた。

 高校生になってから、私はショートカットにしていた。今までのように入れ替わりが出来ないから嫌だけどね、と一年生のときに姉さんが言っていた気もするけど、どうだったか。それに姉さんのフリをしたのは、告白を代わりに断ったときの一回だけだったと思うし。長い髪のほうがやっぱりよかったのかも、と姉さんを見ていて思ったけど、また伸ばすつもりはなかった。

 とにかく、私と夕は双子だった。この世の光を浴びたタイミングがちょっとずれただけで、私たちは姉と妹の関係に切り分けられた。性格はあんまり似ていないと思う。「朝奈ちゃんは悪魔っぽいよね」と中学生の頃に言われた気がするが、多分それは私を見ていない。その友達が嫌っていた人と、わざと喧嘩して怒らせていたのは姉さんだったから。顔を真っ赤にして怒っていたその人と、おかしそうに笑っていた姉さんと、顔をひきつらせてその後絶交してしまった友達の顔が忘れられなかった。私も誰とも仲良くせず、ただ姉さんと一緒にいた。でも、私がその状況を望んだのかはよくわからない。

 ひとつ言えるのは、愛をよくわかっていないから残酷になれるんだよ、きっと。姉さんは、そうだったんだろう。

 

 ――好かれるって、どんなこと?

 私が優しくされて嬉しがったとしても、その優しさというのがわからない。無意識下に埋もれた愛が、私の中にあるはずなのに理解できない。それが、たまらなく嫌だった。そして好きが明確になる頃には、優しさを受け取ったときの自分は失われているんだ。愛ゆえに。

「私、ちょっとお祈りにいかないと」

 お昼休み、決まって姉さんはどこかに行く。お祈りなんていうけど、ここに教会とかそういう類のものはない。二年生の教室のある三階から二つ階段を駆け下りて、正面玄関の反対側にある裏庭への扉。普通の扉はたいてい引き開きなのに、そこだけは観音開きのガラス張り。いつも手を引かれてそこまではついていくけど、そこで必ずお祈りをすると言って別れてしまう。

「うん、また放課後にね」

 一度たりとも聞いてみたことはない。「なにをしているの?」と言葉にしようとしても、右手の薬指が痺れる感覚がして、何も喋れなくなる。そちらに気を取られているうちに、姉さんはいつもいなくなっているから、聞けたことは結局ない。踏み込んではいけないと、頭のどこかが警鐘を鳴らしているんだと思う。祈りに関わることは、じわじわと蔓延していく毒のような不気味さをはらんでいたから、そっとしておくしかない。扉近くのキャビネットに飾られた、凍った鈴蘭の置物が光を浴びて一層白く見える。

「いつもごめんなさい、朝奈。一緒にお昼を食べたいんだけれど」

「気にしないで、夕。今日も仲道さんと食べるから大丈夫」

 共通の友人の名を聞いて、姉さんは身体をちょっと傾けて、顔をほころばす。同時に髪の左側についた、羊の角をかたどったヘアピンが揺れ動いて、まるで姉さんの頭に生えているみたいだった。

「センちゃんはいつも私達に優しいねぇ。何も見返りなんてないのに」

 

 仲道旋花のことを、センちゃんと呼んだのは入学してすぐだった。物心ついたときから姉さんと一緒で、区別できていたのはお母さんぐらいだったと思う。中学までは「渡瀬姉妹」とひとくくりにされてしまっていたから、私たちがふたつにわかれることなんてなかった。実際九年間、私たちは同じ教室で学んだ。そもそも区別の必要性なんてなかったのだ。誰も夕が朝奈でないことを、問題に思わなかったから。

「朝奈、この後時間ある?」

 驚いたのは、ゴールデンウィークが終わった次の日で、まだ入学から日が浅いのにも関わらず名前で呼んできたことじゃない。いや、もちろん無視できる問題ではないんだけど、それよりも姉さんと一緒にいたのに、私の肩を叩いて区別してみせたことが信じられなかった。今でもあの日は夢なんじゃないかと思う。いつだったかははっきりしない。グラウンドを囲む杉の木よりもちょっと上、うっすらと浮かぶ月のことだけを覚えている。桜が散る頃だったかもしれない。花びらが羽ばたいて飛んでいく。彼方へ。

 この誘いにのったあと、次の日にまた誘われた。間違われなかった。親しみを込めて「センちゃん」と呼ぶようにした。自分が欲しくなったので髪を切った。夕は祈るようになった。

 ――何に。

 ――イルカにね?

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