第三章 栄光の英雄魔術師_2

 ルクレーシャスは調整があると言って中継基地に残っていたけれど、きっと帰ってきたら色々聞かれるに違いない。私は買い物の荷物を部屋に置くと、一階へ降りていった。

「リンジー、どこに行くの?」

 ずっと私についていてくれたルビーちゃんが不思議そうに言う。

つかれたから、気晴らしに庭を散歩してくるわ。ルビーちゃんも行く?」

「行く!」

 一階のサロンから外に出て、季節関係なく花がき乱れる不思議な庭を歩いていると、ホールの方からさわぎが聞こえてきた。外からホールをのぞき込むとアーロンとナリサスが口論していた。

「どうしたの?」

「魔術書泥棒が出たんだよ。落ちたもんだな、ナリサスさん?」

「な、ナリサス様ではありません! 書庫へ入ったのは私です!」

 横にいたアドニスさんが声をあげたけれど、アーロンは首を横にった。

「同じことだ。あんたを後見しているのはナリサスなんだからな。そして、まだ正式にうちの協会員でもないのに無断で入った以上は、ぬすつと思われても仕方ない」

「も、申し訳ございません、ナリサス様……!」

 アドニスさんが頭を下げているのをナリサスは苦い顔をして見下ろした。

 私は震えているアドニスさんにたずねた。

「一体どうしてそんなことをしたの?」

「そ、その」

 言いよどむアドニスさんの言葉を、ナリサスが手で制した。

「言うな。私のためなのだろう?──もちろん、私は命じた覚えはないが」

「どうだか」

 アーロンが小バカにする口調で言うとナリサスは彼をにらんだけれど、すぐに首を振ってうなれた。ナリサスがアドニスさんに向ける視線には、れんびんさえにじんでいた。

「私は魔術師になることを熱望している。私の願いにこたえたのだろう?」

「ち、違います、私が──」

「ルクレーシャス様の蔵書には、様々な魔術書があるとおまえに話したばかりだ。妖精女王のしようかんほうじんについてや、死者せい術、そして妖精にたよる事なく魔術師になったいにしえの大魔術師たちの魔術書──私はどうしてもそれを見たいと言った。その矢先に、これなのだから」

「このことはルクレーシャスに報告させてもらうとするか」

 アーロンはおにの首をとったようにうれしげに言う。ナリサスは口を引き結び、アドニスさんのかたに手を置いた。

「行くぞ、アドニス」

「申し訳ございません……ナリサス様、私の後見をおやめください」

「ああ、それについては今後話し合う必要がありそうだな」

 ためいきのような口調で言うと、ナリサスはアドニスさんを連れて庭へ出た。二人の後ろ姿をげんかんに立ち嬉しげに見送り、アーロンはつぶやいた。

「やっぱり、あいつから権限を取り上げるべきだ」

「あいつって、ナリサスのこと?」

「ああ……リンジーさん、一応、あんたにも教えておこうか、あのナリサスって男のことを」

 アーロンは庭園の方から近づいてきたリンジーをいちべつすると、冷ややかな視線を庭のすみにいるナリサスたちへ向けて言った。

「あのナリサスってやつは、ルクレーシャスの魔術に関心を持つ貴族だ。オークランド王国に魔術協会を作る時には役に立ったんだが、ルクレーシャスが感謝を示したたん、自分も魔術師になりたいと言い出した。魔石も持ってないくせに」

 アーロンはにやりと笑ってみせた。

「あいつはようせいに選ばれていない。それなのに、魔術師になりたいと願っている。分不相応にな」

 バカにしきった顔をしてアーロンは言った。

「金や権力さえ持っているなら、そいつを差し出せば魔術協会には入れてやるんだけれどな? あくまで魔術師に仕える下僕としての地位だと気づけっていうんだよ。──実際、魔石を得るには妖精とこうしようして、気に入られる必要があるからな。生まれが貴族だろうと金持ちだろうと関係ないんだ」

 アーロンはゆうえつかんに満ちたみを浮かべていた。

「何度も妖精に粉をかけては追いはらわれているのにな。それなのに、いつまでもいつまでも未練たらしく魔術師見習いなんて名乗っているんだ。笑えるだろ?」

「……あんまり笑えないと思うけど」

「そうか? だけど、オレもあんたも妖精に選ばれていて、やつとは違うということははっきりしている。そうだろ?」

 アーロンは、項垂れてしきから出て行くアドニスさんと、彼を見送るナリサスを見下した目で見ると、屋敷の中へ入って行った。私は思わずルビーちゃんを見つめた。

「魔術師って、アーロンが言うみたいにそんなにえらいの?……それほどなりたいものなの?」

「さあ、わたしにはわかんない。関係ないし、興味ない」

 たんたんと言いながら、ルビーちゃんは庭のはしで項垂れるナリサスを見つめた。

「あの男は貴族だから……十年前、わたしたち妖精を、はりつけにしてでも無理やり従わせて、魔力を使わせて、物みたいにあつかって、戦争に勝とうとした貴族の仲間だから……妖精はみんな彼に魔石をあげる気持ちになれないの」

 さっき、ナリサスをおうえんしたいと思った。けれど、彼が妖精に魔石をもらえない原因に、まさかそんな理由があるとは思わなくて、言葉が出て来なかった。

「だって、魔石ってわたしたちの命の一部なんだよ? 心をわかちあうっていうことなの。ひとつになるってことなんだよ? 好きじゃないと、あげられない」

「ルビーちゃん……そうよね。だけど私、ナリサスの様子を見に行くわ」

 こんなルビーちゃんを、無理やりナリサスに向き合わせるだなんてできない。

 けれど、ナリサスの行動の理由を知ってしまったから、気にかけずにはいられなかった。

「リンジーが行くなら、いつしよに行く」

 しかつらをしつつも、ルビーちゃんは私についてきた。

 ナリサスは木に手をついて項垂れていたけれど、私が草をむ音を立てると顔をあげた。

 私を振り返るナリサスの顔は平静そのものに見えた。

「何か用か、マキン?」

「えっと……どうしてそんなに魔術師になりたいのか、よければ教えてもらえればと思って」

 先ほど聞いたばかりだけれど、その時、そばにルビーちゃんはいなかった。

 ルビーちゃんも、ナリサスの言葉を聞けば気持ちが変わるかもしれない。けれど変わらないかもしれない。私にできることはこれぐらいしかなかった。

 ナリサスは私の意図に気づいたみたいで、いつしゆん、私の横でつまらなそうな顔をしているルビーちゃんを見やると、口を開いた。

「……オークランド王国におけるじゆつと妖精の立場の向上を目指したいと思っている」

 ルビーちゃんはそっぽを向いているけれど、すぐ近くにいるから、聞いていないわけがない。

「アドニス・ラブキン、あの男も、本当にらしい志を持っているのだ。魔術を医術へと転用することができれば、多くの人々が救われるにちがいない」

 ルビーちゃんがナリサスの言葉に心を動かされた様子はなかった。

 ナリサスが言葉にまってしまう。場をつなぐ為に私はふといた疑問を口にした。

「アドニスさんは、本当にあなたの為に書庫に入ったの?」

「私が欲しいと言えば、私の立場を知る者にとっては要求されているのと同じことだ。私が浅はかだった──あのようななどせずとも、私が手段を選ばなければいつでも手に入るのだ」

 そう言って目を細めるナリサスはまぎれもなく特権を持った権力者に見えた。

「……そんなに偉い人なのに、魔術師になりたいのね」

「不可能を可能にする。それが魔術だ。古代の魔術師の力は今と比べることもできないくらい強力で、妖精の存在は神と同義だったという。──私は確かに、力をほつしている」

 視界の端でルビーちゃんが小さなこぶしにぎるのが見えた。

 その肩に手を置くと、ルビーちゃんは私のこしきついてきた。

「私は、魔術師を、そして妖精をかろんじている今が間違っていると思う。そして、その力はマグネス王国でも研究されているが、やり方はゆがんでいると感じる。妖精と人間の古くからのあり方、かかわり方を見直すべきだと思う。そのために私自身がまず魔術師になるべきだと思うのだ。貴族内ではいまだに魔術師を軽んじる声がある。だからこそ、それをふつしよくする為に──」

「それだけが理由?」

 ルビーちゃんにじろりと睨みつけられながら問われたナリサスは、目を見開いてルビーちゃんを見やった。そして、すぐにうなずいて答えた。

「ああ、そうだ。──いや、しかし、ルクレーシャス様に対するあこがれがないとは言わない」

 ナリサスがそう言った時、後ろから声がした。

「憧れるようなものではない」

 そこにいたのはルクレーシャスだった。いつの間にかもどってきていたらしい。

 おどろくナリサスを見て、彼はしようした。

「魔術師としてしか生きられない者だけがそうであればいい。ナリサス殿どのは別の道も選べるだろう」

「ルクレーシャス様、ですが──」

 何かを言いつのろうとしたナリサスの言葉を、ルクレーシャスは手をって制した。

「リンジー、トピとの会話を聞かせて欲しい」

 宙にいたナリサスの言葉を気の毒には思ったけれど、私の用件の方が、たぶん重要だ。

「えっと……それがね、トピは私から魔石を取り戻すことができなかったのよ」

 私は起きたことをすべてルクレーシャスに説明した。

 それを聞いて、ルクレーシャスはたじろぎがくぜんあごを落とした。

「まさか──妖精トピの魔石であるはずなのに、そのトピよりおまえの方がその魔石とのあいしようがいいだと?」

「トピは、そう言っていたわ」

「そんなバカなことがあるものか」

「トピも同じことを言っていたわ」

「──しかし、それでは一体、トピはどうしようと言うのだ?」

「何かほかに方法があるみたいだったわ。追っ手をまいたら戻ってくるって」

「……それは俺にも使える方法だろうか」

 それはとても小さな言葉だったけれど、やけに耳に残るひびきがあった。

「今度トピに会った時、ちゃんと聞いておくわ」

「ああ……そうしてくれ」

 ルクレーシャスの様子が少し変だ。どうしたのだろうと彼の顔をのぞき込もうとした時──ルビーちゃんがさけんだ。

「ナリサス!」

 ルビーちゃんに名前を呼ばれたナリサスは、びくりとかたふるわせてルビーちゃんを見た。

 青いひとみを見開き、きんちようをみなぎらせてルビーちゃんの言葉を待つ。

「そういえば、リンジーを助けてくれたのはあなただってね、そうでしょ?」

 ナリサスがルビーちゃんに話しかけられた驚きのあまり固まったまま動かない。だから、私が代わりに頷いた。

 ひとじちに取られた私を心配して、人質を代わるとまで言ってくれた。

 腰がけて立てない私を背負ってくれた──重いとか言っていたけれど。

 私が頷くのを見ると、ルビーちゃんが重々しく頷き返し、改めてナリサスを見た。

「リンジーを助けてくれてありがとう」

 静かに言うルビーちゃんの手があわく光る。次の瞬間、彼女の指先には小指のつめの先ほどの小さなルビーのような赤い石がっていた。

ようせいの大事なものを守れる人は、いい人だと思うわ」

 ナリサスが食い入るようにルビーちゃんがまみ上げる赤い魔石を見つめる。

「もしかくがあるのなら、これをあなたの中にめ込んであげる」

たのむ!」

 あわを食うような勢いでナリサスが叫んだ。ルビーちゃんはゆっくりと私からはなれ宙に浮く。

「魔術師と妖精の立場の向上、ね。人間がどう思われても構わないしどうでもいい。それより、リンジーを守ってよ。そのための力……魔石をあげる」

 光りかがやく小さな紅の石をナリサスの高い鼻先へ近づけた。

「相性は悪くないみたい。これぐらいならだいじようでしょ」

 そうつぶやくと、ルビーちゃんは赤い小さな魔石をナリサスの口の中に押し込んだ。

「んぐ!?」

き出しちゃだめ」

 そう言って、ルビーちゃんはナリサスの頭を抱きしめるようにへばりついた。ナリサスはどちらかというと呼吸を求めるようにもがいたけれど、やがてぐっと両手の拳を握ってえる姿勢に入った。

「んぐぐぐぐ……!」

「魔石を取り込むのって、つらいらしいわね。わたしは妖精だからよくわからないけど。リンジーがおかしいのよ? つうは妖精のかいじよもなしに魔石を飲み込んでも、ただたんに下からはいしゆつされるか、元の妖精のところに戻るだけなんだから」

 結局、ちつそくするほどの時間は必要がなかった。

 ルビーちゃんがパッと体を離すと、ナリサスが思い切りき込んでえずく。けれど、彼が魔石を吐き出すことはなかった。

「はあっ、はあ、はあっ」

のどから魔石が下りていく時に、魔石にれた臓器がすべて焼けるように熱くなるって聞いたけど。どのあたりまで熱く感じた?」

「……胃の、さらにその下までといったところ、はあ」

「ふう~ん、魔石があるのはこのあたりかしら」

 ルビーちゃんがナリサスのおなかをドスドスとたたいた。ナリサスが顔をしかめているけれど、構う様子はない。

「これであなたも魔石持ち。がんれば魔術が使えるようになるけれど、頑張りすぎたら死んじゃうから気をつけてね」

「ああ、ありがとう。心から感謝する、妖精ルビー」

 そう言ってナリサスはルビーちゃんに向かって頭を下げた。

 彼の声はなみだでくぐもっているように聞こえた。

「言っとくけど、リンジーのおかげだからね。わかってる? わかってたら言うべきことがあるんじゃない?」

「うぐぐぐ……感謝、する。マキン」

 後頭部をルビーちゃんに押さえつけられてうなりながら頭を下げるナリサスを前にして、私はあわててルビーちゃんを制した。

「ルビーちゃん、無理やり頭を下げさせるのはやめましょう」

「はーい」

 ナリサスの頭の上にのしかかっていたルビーちゃんは、いい子の返事をするとふわりと浮いてナリサスから離れた。そして、ぼうぜんと事の成り行きを見ていたルクレーシャスを見やった。

「そんな目で見ても、あなたにはせきはあげないわよ」

「いるものか」

 ルクレーシャスはそくとうした。

 彼はナリサスを見ながら、何故なぜか痛みをこらえるような顔をしていた。

 そして不意に視線を切ると、早足でしきの中へと入っていく。私はその後を追った。

「別に、危険な量ではないって言っていたわよ、ルクレーシャス」

 後をついて歩く私をちらっと振り返った後、ルクレーシャスは低い声で答えた。

「……ナリサス殿が魔石を得るのはナリサス殿の自己責任。俺の関知するところではない」

「そうよね。でも、あなたが辛そうな顔をしていたから」

 私の言葉に、ルクレーシャスは苦笑を浮かべた。

 無理に答えて欲しいわけではなかったけれど、ルクレーシャスは口を開いた。

「……あれが本来の姿なのだと思い知っただけだ。妖精に認められ、ゆえに魔石をあたえられるという構造が、魔術師と妖精のあり方なのだ」

 その構造をマグネス王国の研究者たちが変えようとしている。妖精を研究・実験し、その力だけを利用しようとしている。先ほどの、研究者の言い草を思い出すと腹が立ってきた。妖精をあやつるだなんて、まるで妖精を道具のように言っていた。

 ナリサスは妖精を尊重しつつも、喉から手が出るほど魔石を欲しがっていた。

「普通の人は、あんなに魔石を欲しがるものなのね」

「……そのようだな」

「だけど私たちは、早く魔石をどうにかして体の外に出してしまいたい。……もしかして私たちって変わってるの?」

「過ぎたる力は身をほろぼす──そのことを理解できない者があまりにも多い。おまえはちがえるなよ」

 そう言ってルクレーシャスがポンと私の頭をでたから、すごくおどろいた。けれど顔をあげた時にはルクレーシャスはもう私に背を向けてしまっていた。



 今、私は屋敷から出ることを基本的に禁止されている。

 魔石の魔力が暴走する危険があるからと、家にさえ帰ることが許されない。

「でも……一度帰らないと家がなくなるわ」

 とはいえ、心配してくれているのはわかるし、本当に危険なのもわかっている。

 どうしたらいいのかわからないまま、屋敷でのたいざいすでに二か月を優にえていた。

 最近、魔術協会に滞在している人たちの生活リズムがわかってきた。

 ルクレーシャスは基本的に二階にいる。私のいる部屋のとなりが研究室で、そのさらに隣がルクレーシャスの私室になっているようだった。ろうの反対側にも部屋はあるけれど、使われているのかもわからない。

 一階に暮らしている魔術師もいるけれど、朝食会への出席権を持っている魔術師たちの内、運営にたずさわる魔術師だけらしい。彼らは部屋を持ち、そこでそれぞれの研究を進めている。それ以下の魔術師は宿しゆくはくを許されていないらしい。宿泊できない人たちは、部屋を持つ魔術師の研究に参加したりしている。アーロンは夜になると実家へ帰る事が多いけれど、事務処理がとどこおっているとまりすることがあるらしい。

 ナリサスは毎日馬車で屋敷へやってくる。もんしようかくした実家の持ち馬車のようだった。

 屋敷は妖精と人間の使用人が手入れをしている。人間の使用人は一階にのみ出入りしていて、魔術師たちのお世話をしている。妖精はルクレーシャスと取り決めをしているらしくて、二階やちゆうぼう、水回りの仕事を喜んで取り仕切っている。

 アドニスさんはあれから仮登録期間が延長されることになり、いまだに正式な魔術協会の会員とは言えない状態だった。ナリサスにめいわくをかけたことを申し訳なく思っているみたいで、ナリサスから受けていた後見を辞退したから魔術協会による調査こうもくが増え、仮登録期間は長くなるらしい。ナリサスも魔石をもらったけれど、後見人としてアドニスさんがしたことに責任を取る為、未だに見習い魔術師だった時と同じ立場だそうだ。

 ホールを見て回っていた私がちょうどとびらの近くにいる時、ドアがノックされた。そこにいたのは屋敷の門の警備員だった。郵便配達があったらしい。私が何通かのふうとうを受け取ると、警備員は門にもどって行った。私はて名を確かめた。

「ルクレーシャスと、ルクレーシャスと、アーロンと……ルクレーシャスね」

 最後のルクレーシャス宛ての封筒はほかの封筒とはふんが違った。

「なんだか……キラキラしてるわ」

 封筒の紙自体がどことなく高級そうだった。ふうろうにしてもどこかで見覚えのある紋章だ。

「なんだったかしら……?」

 私が知っているということは、相当有名な家の紋章だということだ。

わしえがかれたたておうかん……うーん」

 首をひねりつつ、げんかんから奥のホールに戻った。そこにあるソファに座って帳面とにらみあっているアーロンのかたしに彼宛ての封筒をわたすと、私は残りをルクレーシャスに届ける為に二階へ上がった。

「ルクレーシャスー、手紙が来たわ」

「そこへ置いておいてくれ」

「わかったわ」

 部屋の扉の前に置くと、私は扉の前からはなれた。少し離れた場所で見ていると、すぐにルクレーシャスが出てきた。彼は部屋の中を私に見られたくないらしく、時間差で扉を開く。

 彼は部屋の前に落ちている封筒に手をばそうとして──そのかつこうのまま固まった。

 手紙がようせい悪戯いたずらされる前に彼の手に届くのを、ただ見届けるために自分の部屋の前にいた私は、部屋に入ろうとした恰好のまま同じように固まってしまった。

 ルクレーシャスは、食い入るようにゆかに置かれた三通の封筒を見た姿勢のままこうちよくしている。

 声をかけた方がいいのだろうか──と私が口を開きかけた時、やっと彼は動き出した。けれど様子がおかしかった。封筒を拾い上げる手が、ふるえているように見えた。

 彼は、封筒を手に扉を勢いよく閉めた。

 ──そしてその日、ルクレーシャスは部屋からいつさい出て来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る