第9話 自分ならばと考えを持って
それは五月六日のことだった。
最近畑が荒らされていると、腕を組んで頬を膨らませた芽衣に言われて、ほぼ任せきりにしていた畑を見れば、四十センチほどの深い穴が空いている。
「なんだこれは。もぐらか? にしては大きいだろう?」
「
「そう……なのか?」
「ここらにはじねんじょがあったからな、そいつを掘ったんだろ。食いながら掘るから、こういう穴ができる」
「撃退方法は?」
「今日は焼肉パーティだ」
「なるほど、きさまにしてはめずらしく、わかりやすいな」
「つーわけで、行くか」
「は? かくとうくんれんで、わたしはつかれている」
「ああそうだったな、あの程度でへばって、もうできませえんと泣きながら、情けないことを言っていたっけ? だったらしょうがねえ、労いの一つもかけてやらなくっちゃな。ついでに動画で記録も取ってやる、ほれ泣いてみろ」
「そんな情けないことはしない!」
「いいから来い、どうせお前じゃ捕まえられん」
「……そう言われると腹が立つ」
行くぞと、ジニーは煙草に火を点けながら、近くの山へ向かって歩き出す。
「チャーリーか?」
「たぶんな。現場を見ないと、何とも言えないが、おそらくは」
「あいまいだな?」
「俺が何でも知っていると思うなよ?」
猪の棲家も、その被害規模も把握しており、つまり知ってはいるが。
「さいきんのししょうは、顔もなぐるからなあ」
「鼻がそれ以上低くならないように気を遣えってか? ちゃんとお前に合わせてやってんだよ」
「あれでか……?」
「骨に異常もないし、訓練後でも見回りができるだけの体力が残ってる」
「……」
無言で尻を叩かれた。まあ気持ちはわからないでもない。何しろ、格闘訓練をそれとなくやっているが、当然のことだが、芽衣の攻撃は一切通じていないからだ。訓練時間中、防御八割、攻撃失敗が二割――この結果を悔しいと思えば、八つ当たりの一つもしたくなろう。
――猪を発見するまで、それほど時間はかからなかった。
軽く追い込みをかけてやれば、猪は逃げるために走り出す。ジニーが上手くその方向を調整してやれば。
「そっち行ったぞー」
その時、芽衣は山の斜面に、軽く腰を落とすようにして待ち構えていた。おそらく、自分の躰と同じくらいの巨体だ、もちろん恐怖を抱く。だが、恐怖で身を縮こまらせることは、ない。
以前、カートを一人で運転していて、側面を山の斜面に激突させ、木を一本倒すんじゃないかと思われるほどの事故を起こしたことがある。結果だけ言えば芽衣に異常はなかったし、カートに付属していたバンパーがちょっと歪んだ程度のこと。けれど、心臓の音がうるさいくらいに高鳴っていたし、一歩間違えていたのならばと、恐怖を感じたのも確かで。
それを自覚した芽衣は、ただ、――気に入らないと怒りを覚えた。
恐怖はある、それでいい。いいが、身を震わせて怯える自分が許せなかったのだ。
まあその結果として、道路に黒いタイヤの痕跡をたくさん残すような荒っぽい運転で恐怖を自分に馴染ませたのだから、なんというか、ジニーも腰に手を当てて苦笑したものだが、さておき。
猪は直線で動き、曲線を描かない。だが、進行方向の調整は入れてくる。
そして、突進の速度は猟犬に勝るとも劣らない。
小さな体重移動でも猪は見極めて調整を入れてくる。早く跳べば回避できそうなものだが、回避した方向に突っ込んで来るのが野性の獣と呼ばれるもの――であれば、その見極めこそが重要で、あまりにも近くに引き寄せてしまっては、回避が間に合わない。
――その考えが、駄目だった。
いやそれ自体は至極まっとうなものであり、なんの間違いもない。ないが、その思考時間が回避手段を奪った。
既に猪は目の前、近づいてわかるその巨体に、今更回避が間に合うべくもなく――。
「――」
ゆえに、その硬直の発生も必然。
真横から蹴られた猪が悲鳴を小さく上げるようにして転がったのに気づいて、すぐに跳ぶようにして距離を取った芽衣の行動は、評価できる。
必然の硬直を、それでもと強引に破ったのだ――遅すぎたが。
「迎え撃つってのは、なかなか難しいもんだろ?」
短く、鋭くしていた呼吸を、蹴り飛ばした本人からの声に、深呼吸をするようにして平時へと戻した芽衣は、猪を見る。
喉元には、
「
「――芽衣、右手に何を持ってる」
「右手? わたしは――む?」
猪を前にした時のように、自分の右手に視線を落とした芽衣は、ぴたりと躰の動きを止めた。
そこにあるのは、芽衣の手では扱いが難しいと思えるくらいには、大振りのナイフだったからだ。
ククリではないにせよ、曲線を描きながらも刃になっている部分が広い。ハンドアクスの形状を保ったまま、先端と握り手を付けたナイフと表現すれば、一番近いかもしれないが、しかし。
そして、芽衣は、はてと首を傾げる。だが口を開くよりも前に。
「俺がやったんじゃねえよ」
「む……であるのならばこれは、わたしが?」
「そう――〝
だがまだ早いと、ジニーはそう思う。
「それは魔術で、お前が組み立てた。だが、今はそういうものだと覚えておいて、使うな。危険すぎる」
「よくわからん」
「わからなくていい――今は、な。芽衣、積木細工はわかるか」
「つみきくらい知っている」
「あれを作るのは、まあできるだろう。だったら、崩す時はどうやる?」
「一番かんたんなのは、下をちょんと押すことだ」
「その通り――組み立てたのならば、分解できる。目を閉じて、右手にあるナイフを自覚しろ。そして、積木細工にやるみたいに、分解を意識してみろ」
「ぶんかい……こわすんじゃなく、くずす」
「そうだ」
自己に埋没するよう、目を閉じた芽衣だが、しばらくして目を開けば、右手にナイフはなく、代わりに紙吹雪のようなものが舞っていた。
「――できた、のか?」
「とりあえずはな。いいか芽衣、念を押しておく。魔術のことはいずれ、必ず教えなくちゃならない。だが今は早い、その前の段階だ。使おうとするな」
「わかっている。ししょうがそう言うんだ、わたしはうなずこう」
「それでいい――っと」
一歩、猪へと足を踏み出したジニーが、ふいに動きを止めて足元に視線を落とすと、右手で頭を搔いた。
「来客だ」
「なに?」
「アキラが来るってのは聞いてたんだけどな、まだバーベキューパーティには早すぎるぜ、あの野郎」
「む……? きたのか?」
「ああ、もういるよ。芽衣、そこの木に背中を預けて、動くな。大丈夫だとは思うが、一応な」
「それはいいが……む? 本当なのか?」
「古い付き合いだって言ったろ。ただの、――挨拶だ。耳を澄ませ芽衣、音を拾え。自然の音に紛れるように、本来あるはずの音の代わりに、そいつはいる……前言撤回だ芽衣、動いていいぞ。攻撃の意図はないらしい」
「おい、全部ししょうのもうそうだったら、笑うぞ?」
「わからなかったクソ間抜けがいるんだ、どっちにしても笑える話だな」
「うるさい」
木から背中を離した芽衣は、まず猪に視線を投げてから、ぐるりと周囲を見渡す。
「目で確認するなら、足元と頭上もきちんと見ろ。室内戦じゃ、扉をあけた瞬間に上から降ってくる時だってあるぜ」
「死角、というやつか」
上や下を見ながら芽衣は小さく移動するが、傾斜面だというのにバランスを崩す気配がない。重心の把握を重点的にやらせたのも一因だろう。
「ふむ……」
「いいか芽衣、初歩を教える。どこにいるかと探すばかりじゃ、いつまで経っても見つけられない。何故かわかるか?」
「見つからないのは、相手がかくれているからだ」
「そうだ、相手も見つからないようにしているのだから、そう簡単にはいかない。まず考えるのは危機管理なんだが、今回は度外視していい」
「たとえば木を背にしたり、しげみにかくれたりして、身の安全をかくほしつつ探す?」
「見つかりたくない場合は、そうだろうな。というか、そういう局面が多い。そこで考えるべきは、自分の動作だよ」
「かくれながら?」
「そう、そこだ。いいか? 自分以外の誰か、つまり相手の行動を探る時は、自分が基準になる。もう一度訊こう、木を背にするのは何故だ?」
「かくれるためだ」
「その通り――じゃ、相手が隠れてるなら、同じことをしているだろう?」
「……わからない」
「だが、似たようなことはしてるはずだ。だとして?」
「わたしができることは、相手もできる……?」
「もしも、お前が木を背にしている時ならば、何に注意する?」
「頭上からのこうげきと、木ごとはかいされること」
「ならば、隠れてる相手に対しては、その二つをやると効果的ってことにはならないか?」
「……高い場所にのぼって、木をこわしてしまう?」
「相手がそう考えているとしたら?」
「頭上のけいかいと、いっかしょに留まらないこと」
「けど、それじゃ逃げ回るばかりで、捜せないぜ」
「む……」
「訓練をしてた時、風を感じることがあったよな」
「ああ、冬場はさむかった」
「空気が動いていれば、服を着ていたって、それを感じることができる。今は風がそうないが、空気は存在しているわけだ。そして厳密には、風だって小さくある。お前はそれを感じることができるか?」
「……、目をつむっていいか」
「いいぜ、大丈夫だ。今回に限っては訓練みたいなもんだ、攻撃は一切ないから安心しろ」
「――、すこし、わかる」
「どこまでだ?」
目を瞑ってしまった芽衣は、傍にある木の後ろ側、その場所にはもうアキラがいるのにも気付かずに、両手を軽く動かすようにして。
「……わからないが、近くにある空気はわかる」
「その範囲を、ゆっくり広げてみろ。前でも後ろでも、あるいは全方位でもいい。揺れ動く空気の先を辿っていくイメージだ。その延長に、視覚に頼らない探し方がある」
「かんかくに頼るのか」
「見回しても見つけられないのなら、目以外を使うしかないだろ。耳を澄ませてもいいが、それじゃお前はわからなかった」
「――だが、わたしが動いたから、相手は耳をすまして感付いた」
「それ以前に、既に〝気配〟を、今のお前がやってるみたいに、感覚で掴まれてるよ。で、どうだ、広がりそうか?」
「なんとなくはわかるが……わかるのは、木やしげみの揺れる感じくらいだな」
「ま、すぐにできるとは思っちゃいねえよ。ただ覚えておけ、
「けいかい……ふむ、よくわからんが、空気を張り詰めさせたら、すぐ相手に見つからないか?」
「見つかるよ、だからもろ刃の剣ってやつだ」
さてと、ジニーは軽く手を叩いた。
「とりあえず、そこまでにするぞ、芽衣。とっとと猪を食えるようにしねえと、肉がまずくなる」
「ああ、そうだったな」
目を開き、左右を見て、吐息を一つ。
「ん? ところで、アキラはいいのか?」
「あ? お前の背にしてる木の裏にいるだろ」
「なに⁉ ――おお、なんだ、きさまがアキラか!」
「はは、よう」
ラフな洋服に身を包んだ長身の男は、無精ひげを剃ってもおらず、芽衣の目にはどこか老いたような印象が見えて。
「ほう、とうようじんだな。わたしが朝霧芽衣だ」
「知ってるよ」
「うむ、わたしも知っている。ししょうからよく聞いているからな」
「――おいジニー、てめえ何を話した」
「んー?」
にやにやと笑いながら、大きな猪を担ぐようにして振り向く。
「たとえば? お前が奥さんと出逢った時にたじたじだった時の話とかか?」
「おい!」
「事実だろアキラ、お前は昔っから女にゃ弱い。あとは軍部の大佐ってあたりか。いろいろと話をしろとせがまれたんでな」
「わたしが昔話を聞いているんだ、ちょっとは心労をだな、こう、さっしてくれ」
手が届かなかったので、アキラの腰あたりを、芽衣はぽんぽんと二度ほど叩く。
「あんなクソ性格のわるい男なんだ、知っているだろう?」
「いやお前も、性格が悪そうなんだがな?」
「わたしは女だから許されるだろう?」
ひょいと、ジニーを追うように下山を始めた芽衣を見て、アキラは苦笑を浮かべた。どうやら、まっとうとは言わずとも、ちゃんと成長はしてるらしいし、育成も上手く行っているのだろう。
小柄な少女の歩き方、下山の仕方を見れば一目瞭然だ。
「――重心移動がしっかりしてるじゃねえか。バランスを崩すようなことがない」
「ほめ言葉か? なんとか、なじんできたんだ」
「さっきの感覚の話、あれを意識できるようになりゃ、いちいち足元を見なくても移動できるようになる」
「ほう……」
「言っとくが、体術だけならジニーより俺の方が上だからな?」
「知っている。ししょうがよく、あのやろうは厄介だと、そう言っていた」
「厄介ねえ。俺に言わせりゃ、どっちがだってところだ」
「今では、あそばないんだな?」
「お互い、そういう年齢じゃないんだよ」
「年寄りはこしが重くていかんな!」
お前ほど若くはねえんだよと、アキラは毒づいた。というか、一体どういう育て方をすれば、こんな皮肉屋に育つんだ――?
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