第8章その3 『萌え』の定義



(水……)


 夜中、喉の渇きで目が覚めた私は、階下へと向かった。


(ん?)


 もう夜明けも近いというのに、明かりの漏れている部屋がある。


(あそこは、ミランが研究に使っている部屋だよね? 電気を消し忘れたのかな?)


 足を忍ばせ近付き、そっと研究室の扉を開く。


(あ……)


 ミランがいた。真剣な眼差しでモニター画面を見つめ、その指先は軽やかに何かを打ち込んでいる。部屋には何十何百ものコードが張り巡らされ、そこかしこに置かれた数多の用途不明の機械と繋がっている。


「ミラン、まだ寝ないの?」


「…………」


 声を掛けたが気付く様子は全くない。


(あ……)


 雑然とした部屋の中に、透明のアクリル板らしきものが立てかけてあるのを見つけた。私はそっと部屋の中に忍び込み、それに手を伸ばす。その際、うっかりコードの一本に足を引っかけてしまった。


「きゃっ!?」


 私が躓いた弾みで、コードに繋がった機器が引っ張られ、ガタッと音を立てる。


「っ!?」


 ミランが目を見開きこちらを振り返る。思いもよらない素早さで、バランスを崩した機器に駆け寄ると、台から滑り落ちぬようその機器を両手で抱きしめた。


「あれ? 睦実じゃないですか」


 機器の位置を戻したところで、ミランはようやく私の存在に気付く。


「もう朝食の時間ですか?」


「ううん、まだ夜明けまで数時間あるわ。水を飲みに起きて来たら明かりが点いていたから……」


「あぁ、確認に来てくれたんですか」


「ミラン、ひょっとしていつもこんな時間まで起きてるの?」


「んー、そうでもないんですが。あぁ、最近は起きてますね」


 ミランは好奇心に輝く瞳を私に向ける。


「こんなにボクの興味をかきたててくれる研究対象が目の前に現れたんですよ? 眠れるはずがないでしょう、くっふっふ」


(ははっ……)


 ミランの勢いに私は一歩引きながら、先程手にしたアクリル板を、何気なく目の前にかざした。


(あ……)


 不思議だ。

 アクリル板越しに見る光景は、まるでゲーム画面のようで……。


(いつもよりリラックスして彼を見られる……?)


そう感じた途端、言葉が自然に出た。


「ミラン、私って、そんなに興味深い?」


「えぇ、勿論。生まれてこの方、これほどまでにボクの心を惹き付ける女性に出会ったことがありませんよ!」


(ふふっ、恋愛イベントの台詞っぽい)


 いつもなら、こんなセリフを向けられると引いてしまうのに、今日は肩の力を抜いて聞いていられる。


(ゲーム画面に見えるだけで、なんだか楽しい……)


「おや?」


 ミランが例の力の測定器に目をやる。


「20%……?」


(いっ!?)


 ギクリとなる。


(やっぱりあの機械、私の萌えを感知してる!?)


「睦実」


 ミランが、ぐい、と距離を詰めてきた。アクリル板を持つ両手に思わず力がこもる。


「今、キミはどんな状態なのです?」


「ううっ……」


(きゅ、急接近イベント!?)


「ほら、また数値が上がった」


 機器の針の位置を確認し、ミランが私に向き直る。


「教えてください、あの力はどういった要因でキミから放出されるのか。ボクは知りたいんですよ、キミの力のメカニズムを」


 ミランの手が、私のかざすアクリル板の上辺部にかかった。


「ひっ……」


「教えてください、今のキミに関する全てを。それがきっと未来に繋がる」


「や、あの……」


「ボクはこの先何十年も、研究を続けていきたい。この世界からメトゥスの脅威を退けて、生き続け、心行くまで研究をしたいんです! だから……!」


「っ!」


 ミランの真摯な瞳に、ドキリとなる。アクリル板越しなので、イケメンに対する引け目や恐怖はかなり軽減されていて、むしろ……。


(いい……)


 ゲームのイベントを見ているようだ。キャラが画面いっぱいに大写しになったスチル。普段の彼とは少し違う魅力が目の前に溢れていて……。


「も……萌え、だと思う」


「もえ?」


「あー……、えっと……」


 私は一つ深呼吸をして、覚悟を決めた。


「萌えって言うのは……最近ではあまり使わない言葉かな? 『侘び寂び萌えは日本特有の感情表現』と言った人もいるように、ボヤっとした曖昧な感情で、喜怒哀楽のどれでもなくて……こう、何かを好きだと感じた時に心が温かく満たされるような気持ちのことで……」


「恋慕の情と言うことですか?」


「それも少し違うかも……。好きなんだけど性的興奮というよりは、ただ愛しい、可愛い、大切にしたい、尊い、生まれてくれてありがとう、みたいな……」


「ふむ……」


「ほんとごめん、上手く説明できないんだけど……」


「いや、参考になります。敬意と慕情、慈しみの心が入り混じったような感情でしょうか?」


「多分……。本当は人によってもっと色々あるんだろうけど、私が考える『萌え』って、大体そんな感じで合ってると思う」


「ほぅ……。ふむ……」


 ミランは顎に手を当て、考え込む。口の中で何やらぶつぶつと言っていたが、やがてこちらへ目を向けた。


「ベルケルが血相を変えてキミを追いかけて行った、と聞いた時に、その感情は起こりましたか?」


「っ!?」


 驚くほど正確に図星を指され、息が止まる。


「は……はぃ……」


「では、エルメンリッヒの猫耳姿を見た時も?」


「……うぅ……」


「なるほど、『意外性』を目の当たりにした時にも起こる、と」


 ミランの口元に微笑みが浮かぶ。


「見えてきた……見えてきましたよ……!」


 ミランが白衣を翻し、PCの前に戻る。凄まじい勢いで何やら情報を叩き込み始めた。


「あの、ミラン?」


「くっふっふ……くふふふふふ……!」


(もう、私の存在忘れちゃった感じ?)


 私は時計を見る。まだ二時間は寝られそうだ。私はアクリル板をその場に下ろすと、足を忍ばせ部屋から出て行こうとした。


「あぁ、睦実!」


 不意にミランがこちらを振り返る。


「キミの妙な力を魔法に変換する糸口は掴めましたが、すぐに結果が出るわけじゃありません。それまでは、ボクと同じようにパワードスーツを身に付け、物理的な攻撃をするというのはどうでしょう?」


「えっ? 私が?」


「えぇ。ダメージから身を守れますし、ボク同様腕力や脚力が低くてもそれなりに役に立てますよ」


(それは、ちょっといいかも……)


 根本的な解決にはなってないが、何の役にも立てないという後ろめたさから解放される気がした。


(アイテム作戦も有効だけど、お金がかかるし……)


何より単純に、パワードスーツを身に付け戦うというシチュエーションに心が湧きたつ。


「じゃあ、ぜひ……!」


「ではまず、あのスキャンマシンに入ってください。全身のデータを取ります」


「……へ? 全身のデータ?」


「はい。胸囲、胴囲、腰周り、腕周り、脚周りなど、細かくサイズを測定し、キミの体にフィットするスーツを作りますので」


「!?」


 冗談じゃない。誰が好き好んで、男性にこのBMI23の体を測定されたいものか!


「やっぱりやめます」


「ほんの5分ほどで済みますよ?」


「絶対お断りいたします」



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