サヨウナラの合図

りう(こぶ)

第1話 東京の夏、後悔の味

 散らかった四畳半のアパート。小さなシンクの前に立つ。

 てのひらには淡いブルーの錠剤が二つ。それを、一杯の水道水で流し込む。

 これが僕の朝の儀式。


 外では蝉が既に騒いでいる。

 無造作にテレビをつけると、今日も真夏日だとお天気お姉さんが言う。

「あつい……」


 東京へ来て5年。独り言も、板についてしまった。

 カーテンを開け窓の外を見ると、アパート横の路地を、二人の男の子が虫取り網を手に走り去った──もう夏休みだ。気楽な声変わり前の笑い声に、僕は独り、悪態をつく。

「くそ、」

 そのままの勢いでカーテンを閉めた。

 時折、なんで東京に来ちゃったんだろうって思う。わざわざ奨学金までもらって。姉に出資までしてもらって。僕の薬代だって、馬鹿にならないのに。

(そこまでして、逃げて来たのに。)


 ガラケーが振動して、僕を呼ぶ。僕は出てなんてやらない。──今日、あいつが来る。

 シンクで顔を洗い、無精のせいで肩まで伸びてしまった髪を輪ゴムで結わく。立てかけた、小さな鏡に映る男が、鳶色の瞳で困惑気味にこちらを見つめるので、思い切り睨み返した。


 ガラケーが振動して、僕を呼ぶ。

 僕は出てなんてやらない。

 僕は動揺なんてしてない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る