(9)

 クリスティナの目印はすぐに見つかった。森林のうちでも落葉樹の多いあたりで、考えてみればルネもラグナシャスも灯りとなるものを持っておらず、葉が落ちて木々の密度が減った落葉樹林に逃げ込むのは当然かもしれなかった。

 裸の木々に月明かりが落ち、夜風にかき混ぜられた落ち葉ががさがさと騒ぎたてる。

 森林といっても、葉のない落葉樹の下は思った以上に明るかった。斬り合いをするのに適した明るさではないが、かといって姿を隠せるほど暗くもなく、レグルスはクリスティナの手を引き、慎重に歩を進める。

 ほどなく、金属がぶつかりあう音、落ち葉を乱雑に踏みしめる音に混じって罵声が届いた。振り返って目だけで訊くと、クリスティナはジェスティンの声だと頷いた。

 木々の密度がさらに減り、やや開けたところで人影が二つ、揉み合っている。もう少し近づくと、もがくルネの上にジェスティンが馬乗りになって、首を絞めているのがはっきりとわかった。

「ルネ!」

 思わずこぼれた大声に、ジェスティンがはっと顔を上げる。クリスティナが言った通り、彼はあまりにデュケイに似ていた。目が合ったその一瞬で、背筋が粟立つ。

 気を逸らした隙を見逃さず、ルネは義手でジェスティンを殴り、地面を転がって立ち上がった。お仕着せの裾は無残に破れ、黒い長靴下もあちこちに穴が開いて、ひどい有様だった。右手の剣はあらぬ所に突き立ったままで、義手の剣を杖代わりに何とか立っているという様子だった。両手に剣を持てるほどの力が残っていないのだろう。怒りのためか、はたまた疲労ゆえか、握りしめた右の拳は傍目にもわかるほど震えており、気力だけで立っているのは明らかだった。

 一方、ゆっくりと立ち上がってルネの肩越しにこちらを睨むジェスティンは疲れこそ見せているもののまだまだ体力的には余裕がありそうで、レグルスは右足を半歩踏み出し、腰の剣に手をやった。

「……そいつが新しい男か、ルネ? ああ、ジェフラの犬ってやつか。相変わらず目の付け所が違うよな」

 デュケイと同じ顔で、ジェスティンが嘲笑った。応じるルネの呼吸は乱れていたが、声は氷よりも冷たい。

「そうやって、人を貶めることしかできないのね。シャルロも、ゼクサリウスさまも、ディークも……。蔑んだって、あなたは誰にもなれないのに」

「黙れ!」

 ジェスティンの剣を、ルネが受ける。勢いを殺しきれず、ルネは剣身を滑らせるようにして横手に逃れた。剣を抜きかけたレグルスの方を見ようともせずに言い放つ。

「待って、レグルス。わたしがやる」

「無茶よ!」

 背後のクリスティナが悲鳴を上げるが、ルネは取り合いもしない。

「平気です」

レグルスは右手を剣の柄から離し、クリスティナを制した。

「……クリス、これは、ルネの戦いだから」

「そんなの知らないわよ! 死んだら意味ないじゃない! そんなぼろぼろで、何言ってるの!」

「……死にませんよ、このくらいじゃ」

 ルネの声に温度が戻り――楽しげにさえ聞こえたのは、レグルスの気のせいだっただろうか。

 義手の剣が夜気を切り裂き、ジェスティンに襲いかかる。ジェスティンは最小限の動きでルネの剣を避け、あるいは受け流し、合間に重い斬撃を放った。ルネは深手を避けるように細かく位置を変え、致命傷とはならぬように計算しつつ、敢えてその身で剣を受けている。ジェスティンのように完全に剣撃を回避できるほど、足が動かないのだろう。

 防御のために体力を使うよりは、狙い澄ました一撃のためにと温存しているに違いなかった。疲労が高じて、ある程度の痛みはすでに感じなくなっているのかもしれない。

 ただ、技量はルネがはるかに上を行く、とレグルスは冷静に分析する。ルネと手合わせしたレグルスは、彼女の腕を天性のものだと感じていた。努力によって積み上げられた実力、生まれ持った勘に加え、苦境にも折れぬ心、逆境をばねに勝利を求める姿勢もまた才能の一つだ。総じて、ルネは強い。ジェスティンも思い切りの良い剣筋で、かなりの手練れのようだが、体調さえ万全なら、ルネが圧勝するのは目に見えていた。

 剣技に関しては素人のクリスティナには、ルネの不利は覆せぬもののように映ったらしく、そわそわと落ち着きなく手を握ったり開いたりしていた。だが、彼女もレグルスやジュライが剣の稽古に励む姿を見て長じた。やがて、ルネの動きや受ける傷が無駄なものではないと気づいたようで、その手は胸の前でしっかりと握りしめられた。掴んだものを離さぬ決意の表れのように、レグルスには思えた。

 圧倒的不利な状況は変わらずとも、ルネは一歩も退かなかった。両脚を踏ん張り、義手の重みを利用し、重心を変えてはジェスティンの剣を食い止め、ほんのわずかな隙も見逃さずに左腕を振るった。

 血飛沫が飛び、千切れた髪や服の裾が宙を舞い、白く凝る吐息が汗と共に散る。ジェスティンのあらゆる剣撃がルネに傷を与えたが、その膝を、騎士の矜持を折ることはついにできなかった。デュケイに似た顔が上気し、歪み、呪詛を吐く。

「どうして……どうしてなんだよ!」

 ルネは淡々とジェスティンをいなす。鋭い一撃に、ジェスティンが足をもつれさせてよろめいた。追撃することもせず、大樹のごとき静けさでルネは待っていた。いつか訪れるであろう、一瞬の、完全な勝機を。

「どうして俺じゃだめなんだ!」

 血を吐くような叫びに、ジュライが語った劣等感の話が蘇る。

 兄は理想だった。兄に憧れていた。兄になりたいと思っていた。ジュライもジェスティンも、恐らく同じ劣等感を胸に抱いていた。しかしジュライは今やジェフラの片腕で、ジェスティンはといえばデュケイの愛した女に虚しく吠え声を浴びせるばかり。

 金剛騎士デュケイ。

 彼は死してなお、ルネとジェスティンを縛る鎖だった。

 一度はその呪縛に囚われつつも、彼の遺志と言葉を糧にフレイを育み、慈しむルネ。

 デュケイの死後も、その幻影に取りつかれたままのジェスティン。

 彼は進めなかったのだ、とレグルスは思う。兄でないものになるという道を選べなかったのだ。兄王ゼクサリウスとは正反対の性格だというラグナシャスもまた、同じなのかもしれない。

 その生き方もまた、苦しく、悩み多きものだっただろう。いつまでも振り払えぬ兄の亡霊は重荷だったに違いない。

「あなたはディークじゃない」

 上体を反らせてジェスティンの大振りを凌いだルネが、左の義手で斬り込む。

「ディークはもういない」

 重い一撃をジェスティンは防いだが、どんな猛攻にも怯まぬルネとは明らかに気迫が違った。顔の間近で剣を交差しつつ、先に視線を逸らして逃げる。

 ゆらり、とルネが動いた。左腕に引きずられるようでいて、一切の無駄が削ぎ落とされた踏み込みだった。流れゆく水のような、軽やかに舞う踊り子のような、空から降るひとひらの雪のような華麗さと、正確無比な左腕の斬撃にレグルスは見惚れた。

「ディーク以外の誰も、ディークにはなれない」

 鍛えられた鋼鉄がジェスティンの剣を巻き込んで跳ね上げ、弾き飛ばした。月光を浴びてぬらぬらと輝いた剣が、降り積もる落ち葉の山に受け止められる。

 ルネは膝立ちになったジェスティンの首筋に剣を当てたまま、微動だにしない。

「……殺せ」

 ジェスティンが呻く。

「俺が兄貴を殺したんだ。さぞ憎いだろう。さあ、殺せよ!」

「イルナシオンはどうします」

 顔を歪めてハッ、と鼻で笑ったジェスティンは醜かったが、ルネの氷の無表情を変えることはできなかった。

「国政なんか、はじめっから興味ねえよ。ラグナさまが好きにするだろ。俺はラグナさまに乗っかっただけだ」

「……可哀想に」

 ルネの呟きが、誰に向けてのものだったのかはわからない。ジェスティンは激昂したように足元の土を掴んでルネに向かって浴びせたが、瞬きさえせずに見下ろされて、唇を噛んだ。

「あなたが生きてきた意味だって、あるでしょうに」

「そんなものねえよ。とっ捕まって、首を刎ねられて終わりさ。どうせならおまえに殺されたい。なあ、殺せよ、ルネ。殺してくれよ。俺、すげえみじめじゃねえか。おまえだって俺が憎いだろ、俺のしたことを忘れたわけじゃないだろ? 殺せよ!」

 ルネの声はあくまで静かだ。

「恐らくあなたは処刑されるでしょう。でも、それはわたしの役目ではありません。わたしは近衛です。護るための剣、誰かを生かすための力です」

「綺麗事かよ……!」

「かもしれません」

 蹄の音と人のざわめきが近づいてくる。ジュライの寄越した本隊だろう。

「レグルス」

 クリスティナに背を押され、兵から縄を受け取ったレグルスはジェスティンを拘束し、護送用の馬車に乗せた。ジェスティンは幌を下ろされる最後の瞬間まで燃え盛る目でルネを睨み、ルネもまた、ジェスティンから視線を逸らそうとはしなかった。

 護送用の馬車がタレスに向けて出発し、その姿が見えなくなってようやく、ルネは大きくため息をついた。糸が切れたように膝が折れ、落ち葉に尻をつく。

「ルネ! 馬鹿っ! この馬鹿っ!」

 クリスティナが飛び出してルネに抱きつき、わんわんと泣き声をあげる。

「良くなってたのに、またこんなに怪我して! どれだけ痛いのが好きなのよ! 手当てするこっちの身にもなりなさいよ!」

 ルネはクリスティナの剣幕にきょとんとしていたが、やがて苦笑して、ごめんなさいと頭を下げた。

「クリスティナが治してくれるから、少しくらいならいいかなって思ったんです」

「はあ? 冗談止してよ、傷だらけ血まみれのお母さんなんてフレイが嫌がるでしょ! ……もうこんな危ないことはしないで。次こそちゃんと治して。約束できる?」

 ルネは約束、と呟いて、微かに笑った。

「約束します」

 その素直さに拍子抜けしたようで、クリスティナは次に怒鳴るべく用意していた言葉を持て余してまごまごしていたが、意を決したようにきっと顔を上げた。

「助けてくれて、有難う、ルネ」

「……どういたしまして」

 クリスティナに背を向けて、レグルスは一人で笑った。何だかとても愉快な気分だった。

「レグルス! 何にやにやしてるのよ! 手が空いてるなら手伝って!」

 すぐに叱り飛ばされてしまったけれども。

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