(3)
その翌年、イルナシオンは大きな政治的転換点を迎えた。
国王ユレヌスが病を理由に、第一王子ゼクサリウスに譲位を宣言したこと。
そして、ゼクサリウスの即位式、戴冠式がつつがなく終わって間もなく、ユレヌスが身罷ったこと。
ゼクサリウス新王の門出に、デュケイは金剛騎士、ルネは真珠騎士として関わることとなった。
前王の喪に服している間は宮中も市中もひっそりと静まり返っていたが、それは嵐の前の静けさにすぎなかったと、誰しもが振り返って感慨を抱く。それほどまでに、ユレヌスの退位とゼクサリウスの即位、そしてユレヌスの崩御は
宮中にさざ波が立ったのはほどなくして、ゼクサリウス王が即位して初めての式典である新年の儀の夜会においてである。
夜会には大臣や貴族、将軍らが招かれる。酒肴が供され、楽師らが雅やかに楽を奏でる中、陽の高い間には決して口に上らぬ密やかな噂話が飛び交い、政敵どうしが表面上は朗らかに互いの隆盛を称え、年頃の娘や息子のお相手を吟味するといった、夜会ならではの社交がなされる。
平時、御前を護る大役を任ぜられている真珠騎士と金剛騎士は会場である広間の警備に携わっていた。団長、すなわち将軍は夜会の客として招かれているため、副団長が指揮を執り、広間から客人らが寝泊まりする離れ、王族の私室までを巡回し、あるいは歩哨に立っていた。
翡翠騎士は貴族たちが所属しているとあって、客人として夜会に招かれていることが多く、警備の任を解かれている。普段、宮中ですれ違えば会釈を交わすような相手でも、盛装すればがらりと雰囲気が変わる。やあディーク、と不意に話しかけられては戸惑う、といった落ち着かなさを幾度経ても、夜会の空気には慣れなかった。
奥方たちの高らかな笑い声、きらびやかな娘たちの流し目。金糸銀糸の刺繍がまばゆい夜会服の翡翠騎士たちが際どい冗談で場を盛り上げ、大臣か貴族か、名も知らぬ恰幅の良い男性に値踏みの視線を向けられる。
数百、数千の灯りで真昼のように照らされた広間で、銀器が、輝石が、目を射る輝きを放っていた。純白の布で覆われた大卓にはあふれんばかりの肉や野菜、果物に酒が並び、それぞれに趣向が凝らされた料理に舌鼓を打つ人々も、食通を気取ってご高説をぶっている者も、デュケイにとっては幻のように儚く、そもそも王宮という場での催しのどれもが、悪夢か冗談のようにしか思えないのだった。
屑野菜や菜っ葉を浮かべた薄い粥を啜っていた日々と今とが地続きであること、まさにこの瞬間にも、かつてのデュケイたちのように寒さと飢えに苦しむ平民が肩を寄せ合って冬の夜を過ごしているだろうに、この広間に集った貴族たちは毛皮を纏い、湯気の立つ料理を頬張り、希少な輸入酒で頬を染めていること、これらが両立すること、一つの国に共存していることが信じられなかった。
デュケイが子どもだった頃は、新年といっても昨日という日の続きの、ただの一日にすぎなかった。精一杯のご馳走がふるまわれることも、新しい服を誂えてもらえることもなく、ズボンの裾から覗くくるぶしの青白さがくっきりと記憶に残っている。あの日も、ここではこんなふうに、夜通しの宴が開かれていたのだろうか。
言いようのない寒々しさがこみあげてきて、デュケイはぎゅっと拳を握りしめる。
張り出し窓は外に向けて大きく開かれ、夜気がレース編みの繊細なカーテンを揺らしていた。デュケイはカーテンの影に隠れるようにして張り出し窓の脇に立ち、広間の灯りと喧騒に背を向けて、とろりと重い闇に目を凝らした。
夜はぴんと張りつめ、冷ややかに肌を撫でる。銀の月が冴え冴えと輝くのがなお薄ら寒く、このような冷える夜に庭に下りてみようという酔狂な客はいないようで、時折、巡回の騎士たちが松明を掲げて通りすぎてゆくほかは、庭に人影はない。
今日のために多くの庭師によって整えられた庭園と樹木がうっそりと風に揺れているのを見るとはなしに見つつ、やんごとなき方々のとりとめもない話を聞くとはなしに聞く。何にも注意を払っていないようで、些細な違和感を見落とさぬように広間じゅうに警戒を敷く。どこから矢が飛んでくるかわからぬ戦場で身につけたわざだ。見るよりも聞くよりも、肌で感じるのが一番だった。
変化が生じたのは広間の奥、ゼクサリウス王を囲む輪だ。変化といっても、剣呑なものではない。その証に、どよめきはすぐに好意的な拍手に変わり、夜会の喧騒が戻った。しかし、その賑やかさはそれまでのものとはわずかに異なっていた。その差異を感じることはできても、デュケイにはその理由がわからない。ゼクサリウスが何らかの決定を内々に打ち明けたのだろう、と想像するのが精一杯だった。
ルネならばもっと敏感に、雰囲気の変化やその理由を察するだろうに。苦く思うが、ルネは離れの警備を担当している。広間の雰囲気など知りようがない。
やきもきしていると、シャルロッテが猫のような身のこなしでカーテンの影に滑り込んできた。夜明け前の空を思わせる群青地に金の刺繍を散らしたドレスに身を包んで、興奮に頬を染めている。
「どう、聞いてた?」
紅を差した唇がにいっと弧を描く。いや、と首を振ると、またあまり上品でない笑みを浮かべた。
「またしても縁談が来たのよ! すごいわよね、この私をもらってやろうなんて、どんな図太い人なのかしら」
「胆力は伝説の勇者級ってことか。……で、どこの誰なんだ、お相手は」
それがね、とシャルロッテは闇が凝る庭、東を指差した。
「ご近所さんよ。アヴェンダのジェフラさま……ダリスタン領主よ」
「ダリスタン領っていえば、国境を越えてすぐじゃないか。よく今まで候補に挙がらなかったな」
不躾に過ぎるデュケイの言葉を苦笑いで受け流したシャルロッテは、いっそう声を潜める。
「アヴェンダとは、ほら、一応仲がいいから。伯父様としてはルーナシルかサリュヴァンに嫁いでほしかったのよ。それに、ダリスタン侯は切れ者だから、急いで関係を密にしなくてもイルナシオンを敵に回したりしないだろうって考えられてたわけ」
「会ったことはあるのか?」
「何度かね。噂通り、ものすごく冴えた方だったことは覚えてる。お若いのに、国境沿いの領土をよく治めていらっしゃるわ」
悪い話ではないように思える。デュケイはダリスタン候を知らないが、銀騎士だった頃にダリスタン領とのいざこざを治めるために派遣されたことがないということが、その有能さを間接的に示している。
イルナシオンとアヴェンダは友好関係にあるが、それでもダリスタン領以外の国境線ではちょくちょく小競り合いがおきる。そのせいもあってか、イルナシオンとアヴェンダの国交はロズルノーから国境を越え、ダリスタン領の関をくぐって行われることが多い。
「アヴェンダはイルナシオンと違って、領主がそれぞれ自治を行ってるでしょ。ダリスタン候は有能だから、むしろ周りの人が私との結婚を反対したんだって。うちの領主を殺す気か、って。もちろんそんな直接的な表現はしてないみたいだけど」
「そりゃまた、ひどい話だ」
シャルロッテは肩を揺らして月を見上げ、黙ったまましばらくデュケイの隣に立っていた。大きく肩口の開いたドレスでは寒いだろうに、デュケイにはなすすべがない。
「……うまくいくといいな」
「そんなに悪い印象のない人だし、大丈夫よ。もしだめだったなら、ディークがもらってくれれば済む話だし」
紫の眼がいたずらっぽく輝く。咄嗟に切り返すことができなかったのは、その眼に少なからず本気の色が浮かんでいたからだった。
十年以上もつきあいを続けてきたが、シャルロッテに対しては一度たりとも女を感じることはなかった。下級騎士の家に生まれ、早くに父を亡くしたデュケイは夢を見ることすら忘れ、未来の約束を嫌い、ただひたすらに今と現実を見つめて生きてきた。聡明で美しいシャルロッテは女性としてこれ以上ないくらいに魅力的だと思うが、主観として「感じる」ことはデュケイにはどうしてもできなかった。シャルロッテを女として見るという概念さえなかったかもしれない。
デュケイにとってシャルロッテは雲上人だったが、では、シャルロッテにとってのデュケイはどうか。その視点が欠けていたことに、遅まきながら今、気づいたのだった。
「やあね、冗談よ。そんな困った顔しないで」
いつもの爽やかさでデュケイの困惑を鮮やかに笑い飛ばし、シャルロッテは金剛騎士の制服の肩を払った。
「立派になったわ、ディーク。でも、あなたが騎士として何かを為すのはこれからよ。誰にも負けないで。ディークはディークのままで……騎士として、生きて」
「シャルロ……」
「手を抜いたり気を抜いたりしたら、許さないわよ」
買い被りだ、とは言えなかった。デュケイにとって剣は生きるための手段でしかない。イルナシオン騎士の理想に共感こそすれど、騎士として何を為すか、どうして騎士たらんとするのかと考えたことはなかった。
剣の腕がある、それで食いつなぐことができる。だからデュケイは剣を、騎士となることを選んだのだ。王族としてのシャルロッテのように、腕を失いながらも剣を捨てなかったルネのように、何かを欲したためではない。
着飾ったシャルロッテに見つめられ、激励を受けることにたまらない羞恥を覚え、デュケイは目を逸らす。そんなのじゃない。俺は、きみが思ってるような人間じゃない。からっぽの、運だけに支えられて生きてきたつまらない男なんだ。そうでなくちゃ、ただの平民の子が金剛騎士の制服を着られるわけがないだろう?
今、デュケイがここでこうして金剛騎士の制服を纏って夜会の警護をしていられるのは、すべてシャルロッテのお陰だ。彼女がアーソ・カンディードに紹介してくれたから騎士になれたのだから。彼女なくして、現在のデュケイは在り得ない。
人生を与えてくれた、と言っても過言ではなかろう。そのシャルロッテが、アヴェンダに嫁ぐ。この国から、去ってしまう。
シャルロッテの縁談は過去に何度もあったのに、こんなに感傷的になるのははじめてだった。これが最後なのだ、という確信めいた直感が、嵐の吹き荒れる内心を鎮め、言葉を紡ぎだす。
「シャルロ……有難う。今まで、ずっと」
「何よ、急に改まって」
「きみと友だちでいられて、よかった」
ばかねえ、とシャルロッテは笑う。そう、彼女はいつも、この笑みでデュケイに自信をくれた。
「ずっと友だちよ。これからもずっと」
手袋に包まれた右手をとり、デュケイはその甲にそっと唇を寄せる。学友としてではなく、王族としてのシャルロッテに触れたのはこれが初めてだったが、そうせずにはいられなかったのだ。
ふとシャルロッテが顔を上げ、広間を覗き込む。形よく整えられた眉がひそめられ、紅い唇が曲がった。シャルロッテに倣い、何事かと広間の方へ首を向けたデュケイの目に飛び込んできたのは、堂々たる体躯を豪奢な夜会服で包んだラグナシャス王弟と、影のようにぴたりと付き従うジェスティンの姿だった。
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