第二部

(1)

 四か月ぶりの首都の空気は、戦場と違って乾いて晴れやかだった。

 煙で喉を傷めることも、血臭や腐臭にえずくことも、負傷者の呻きや断末魔に耳を引きちぎりたくなることもない。

 馬を預けて下宿に戻り、旅装を解くと、デュケイは両腕を回して強張っていた肩と背中をほぐし、窓を開けて大きく呼吸した。銀騎士団の制服を脱いで、私服に着替える。

 銀騎士団、金騎士団は他国へ派遣されることを前提に編まれた騎士団である。戦場や紛争地への派遣だけでなく、新興国の軍備の手本を示したり、教官役となったり、国儀の守備に当たったりと任務はさまざまであるが、国境防衛をはじめとする国内守護を担う他の騎士団に比べ、より遊撃的、変則的にして実際的な任務が多いのが特徴で、その活躍はイルナシオン騎士の勇猛さを国外に広く知らしめた。

 青騎士団時代にデュケイに良くしてくれたカーライルが銀騎士に昇格しており、是非にと推してくれたのが三年前。晴れて銀騎士団の一員となって以来、デュケイはアヴェンダなどの隣国だけでなく、方々の戦場、現場を経験した。

 今回、二週間もの長期休暇が受理されたのは、黙々と任務をこなし続けたこれまでの働きによるものと、シャルロッテの後押しがあったからである。

 シャルロッテの二十七回めの誕生日を、デュケイとルネの三人で祝った。

 デュケイはロズルノー産の砥石を、ルネはサリュヴァンのチョコレート菓子とハンカチを贈った。

 馴染みの食堂で、杯を打ち合わせる。

「まさかこの歳までイルナシオンにいるとは思わなかったわ」

 からからと笑うシャルロッテは、今回も縁談が流れてしまった。

 相手は北のルーナシルの宰相の次男で、近年国交が盛んなかの国とのよしみをより強固なものにするべく、という思惑があったらしい。

 シャルロッテはいつもの通り、嫁ぐのを嫌がる素振りも見せず、寒いのは嫌だわと呑気に笑っていたのだが、件の次男殿が鷹狩りに出かけた際、落馬して亡くなったとの報せがもたらされたのである。

 シャルロッテの最初の縁談は彼女が十八歳の時――ゼクサリウス王子暗殺未遂事件によって見送られたものだ。それから毎年のように、多い時は半年に一度は縁談が持ち上がるのだが、破談になったり相手が事故や病気で亡くなったりというのが相次ぎ、今までずっと、独身を貫いているのだった。

 国王の姪という立場からすれば、ほとんど聞いたこともないような話だった。

「本当は結婚したくないんじゃないのか?」

「私の希望はともかく、『婚約すると不幸がある』なんて噂がたったのは誤算ね。たぶん父もそう思ってるだろうけど」

 美しく聡明なシャルロッテは、外交上の強力な切り札だと目されてきた。騎士位を得て、剣技にうつつを抜かしていることも、社交の界では場を和ませる笑い話になりうる。先方の自尊心を傷つけぬよう控えめに振舞うことなど、シャルロッテには朝飯前だ。

 ところが、やんごとなき身分でありながら、二十をとうに過ぎて独身ともなれば、あらぬ噂がたつのは避けられない。不幸なことに、婚約者たちは突然の死を遂げている者も多く、いくら見目良かろうと、イルナシオンの中枢に近かろうと、年を追うごとに縁談が減ってくる。シャルロッテの父、ライオネル大公にしても、シャルロッテを宙ぶらりんのままにしておく心づもりはないようで、あちらこちらに人を遣っては話をまとめてくるのだが、どうしてか破談になってしまうのだった。

「瑪瑙騎士団長になるって話を聞いたけど……」

 小首を傾げるルネに、シャルロッテは右手をぱたぱたと扇のように動かしてみせた。

「そりゃあないわよ。少なくとも今のところはね。未婚のまましわしわのおばさんになっちゃったら、そうなるかもしれないけど……それはちょっと嫌かも」

 自身の将来についておよそ希望らしきものを漏らしたことのないシャルロッテだが、結婚願望はあるらしい。やや意外に思っていると、違う違う、と苦笑する。

「ああ、そうじゃなくてね、独身のまま国内に留まるより、どこかへもらわれていった方が、この国にとっても相手国にとってもためになるのにってことよ。私の才能はそのためにあるんだから」

「なるほど。さすが白騎士さまともなると、大した自信をお持ちだ」

 からかうと、すぐに膨れる。ルネがくすくす笑った。

 そんなルネも、同じ白騎士だ。金銀の騎士団が国外へ派遣されるのとは異なり、白黒の騎士団は赤青黄緑紫の五色の下級騎士団を統括し、特に国内の防衛、警護、治安維持任務にあたる。中でも白騎士団は貴族階級の者が多く、箔付けのための騎士団、と平民階級からは陰口を叩かれる存在だった。ここ数年、白騎士団が実戦に駆り出されたことがないのは事実で、それも仕方がないことかもしれなかった。

 シャルロッテもルネも黒騎士団への移籍を希望していたが、貴族階級の女性が騎士位を得ることを快く思わない者は未だに多く、彼らの猛反対により叶わなかったという経緯がある。

「ディークはいいなぁ。金剛騎士へのお誘いが来たんでしょ」

「……まあな」

「受けるんですか」

 まだわからない、と答えると、卓の上に身を乗り出していた二人は潮が退くように輪を広めた。

「金剛騎士になると、今みたいにあちこちへ行けなくなりますしね」

「ディークにはちゃんとしたイルナシオン騎士であってほしいわよね」

 ねえ、と頷き合うシャルロッテとルネからは、名ばかりの騎士として過ごさねばならぬ鬱屈が感じられ、胸が痛む。彼女らから剣を取り上げることは、鳥の羽をもぐに等しい。剣と共に凛と背筋を伸ばしてこそ、二人はもっとも輝くというのに。

 いくら彼女らが権力闘争に興味がなくとも、立場を笠にきて威張り散らすような性格でなくとも、危険の満ちる場でこそ咲き誇る花なのだとしても。

 その才能は慣習と妬みという黒く萎びた手によって、摘まれてしまうのだった。

「わかってないな、誰も」

「まったくよ」

 嘆息が嘆息を呼ぶ。大きく息をついたシャルロッテが結い上げた銀髪をかき回し、麦酒のお代わりと料理の追加を頼んだ。

 片手で器用に大皿料理を取り分けたルネから皿を受け取る時、物言いたげな彼女と視線が絡んだ。すぐにルネは料理に注意を戻してしまったが、デュケイは了解の印に机をとんと叩いてみせた。

「ねえ、ディーク。アヴェンダはどうでした?」

「ちょうど収穫の季節だったから、麦の穂が金色の海みたいで、とてもきれいだったよ」

 朗らかな笑顔でデュケイの話をねだり、シャルロッテの誕生日を祝うルネの、一瞬だけ見せた思いつめた眼差しがデュケイの脳裏から離れない。




「……真珠騎士にならないかと、ゼクサリウスさまから直々にお話があったんです」

 シャルロッテを送っての帰り道、低い声でルネは語った。

「悪い話じゃないだろう。よその国で言う、近衛騎士なんだから。少なくとも白騎士のままでいるよりは、ずっといい」

 言うと、睨まれた。

「じゃあディークも、金剛騎士になればいいじゃないですか。それが嫌だから保留にしてるんでしょう? 上級騎士なんて、ただの名誉職です。こんなのなら、ずっと緑騎士でいればよかった」

 ルネの左袖が、夜の風にはためく。彼女の代名詞ともなった金属製の義手は、現在はほぼ出番がないという。貴族階級の者がほとんどを占める白騎士団にあっても、ルネは奇異の視線に屈することなく義手を手放さなかったのだが、騎士団長直々に苦言を呈されては我を貫くことはできなかった。

 この話を聞いてシャルロッテは怒り狂ったそうだが、デュケイは深く失望したのを覚えている。

 ――この国は、騎士制度は、どうなってしまうのだろうか。

 栄えあるイルナシオン騎士、勇猛にして人の倫を知る、気高きイルナシオン騎士。

 各国から畏怖され、称賛を浴びた国祖シオンの志を受け継ぐ者たち。

 そのような騎士は、今やイルナシオン国内でもほんのわずかしかいない。騎士位は金と権力であがなえるものとなった。王族の推挙を必要とする上級騎士位でさえ、心ある者からも名誉職と蔑まれるまでに堕ちたのだ。

「俺も、ゼクサリウスさまからのお話だった。……王の病状も芳しくないというし、ゼクサリウスさまのご即位も時間の問題かもしれない。そうなった時に、一人でも多く見知った者が傍にいれば心強いだろうから」

 ルネはそっと頷いた。夜の黄色い灯りに、金髪がほのかに揺らめく。地面をさまよう青い眼には困惑が色濃く浮かんでいた。

 夜も遅いが、大通りには人が絶えることがない。誰もが陽気に酔っていて、騎士団の制服を脱いだデュケイとルネに注意を払う者はいなかった。時折、悪酔いした誰かがルネに粘つく視線を向けるが、そのたびにデュケイはさりげなく歩調をずらして、視線上に割り込んだ。

 無頓着だな、と呆れるが、ルネは自分自身の顔だちや外見にまったくといってもいいほど注意を払っていなかった。すらりとした長身、ゆるく波打つ金の髪、繊細な細工のように整った容貌や、何もかもを見通すような蒼穹の眼は男女を問わず人目をひく。だというのにルネ自身は、その美貌もしなやかな体躯も取るに足らぬものだと考えているふしがある。

 彼女とて貴族階級の出身、いい話のひとつやふたつはあるだろうに、そういった華やかな話をルネの口から聞いたことはなかった。

 禁欲的に過ぎるルネを心配すると同時に、こうして隣に寄り添える特権を手放したくないと願っている自分もいて、デュケイはかすかに唇を歪める。いくら王太子直々に金剛騎士への昇格の打診があったとしても、凄腕の銀騎士だとしても、デュケイは平民階級で、どこかの貴族の家に養子に入るなどする以外、それは一生覆らない。一抱えにできるほど華奢で無防備なこの美しい娘に対する想いは、封じておくしかないのだった。

 いっそ、誰かと結ばれれば良いのにと思う。デュケイには手の届かぬ煌びやかな世界のどこかで、貴族階級の誰かと。そう願う一方で、ルネは貴族階級の殿方が求める奥方さまにはなり得ないだろうなと可笑しく思うこともあるのだった。

 シャルロッテといい、ルネといい、自らを単なる道具と見なす女性は、きっと貴族階級の華美な世界では生きにくかろう。特に、ルネは剣そのもののような存在だから。

「ディークは、父のような金剛騎士になれると思います。ううん、なってほしい。……でも、今のこの国の状態じゃ、金剛騎士になっても……」

「ルネ」

 呼ぶと、ルネはデュケイの眼を真っ直ぐに見つめて、口をつぐんだ。ややあって目許と唇を緩め、微笑む。

「良ければ、お茶をいかがですか。父も母も、ディークに会いたがってるんですよ」

「……そうだな、お邪魔するよ」

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