(4)
「ルネ、どうしたんだ」
初等部の教科書が入っているのだろう鞄と木剣を提げたルネは青騎士団の訓練所の中で、絵を立てかけているかのように浮き上がって見えた。
彼女はシャルロッテにも劣らぬ、整った顔立ちをしている。デュケイはようやく、そのことに気づいた。本当に、こちらの方面は鈍い。
「一緒に剣を習いたいです」
「えっ」
「わたしは、ディークと一緒に剣を習いたい。いけませんか」
思いがけない一言に、まじまじとルネを見つめる。
いつ見ても、彼女の眼は真っ直ぐに澄んで、曇りも歪みもない。人形のように美しい少女にひたと見据えられるのは、心の奥底、積もり積もった汚いもの、醜いものまでも見透かされるようで、どうにも落ち着かなかった。
本当は俺も剣を教わりたいのだ、金剛騎士の下で学びたいのだ。
そんな気持ちさえ、見抜かれてしまいそうで。
「わたしは、強くなりたい。ひとりでは強くなれないから、ディーク、お願いです。伯父さまのところへ通ってください」
「……ルネ」
どうして彼女はこんなにも剣を望むのだろう。剣を欲し、力を求めるのだろう。
ルネの純真さの前にはどんな言い訳も萎れてしまうように思えて、デュケイは膝を折ってルネと視線を合わせた。青空の眼から逃れようともがく薄汚さと向き合うのは、つらい。
「俺は平民階級で、きみは貴族階級、アーソさまは金剛騎士だ。身分が釣り合わないし、うちは金剛騎士の私塾に通えるほど、裕福じゃないんだ。せっかくの……」
「それが、何かの理由になりますか」
ぞっとするほど、冷たい声だった。
とても十の少女とは思えぬ倦んだ表情、目的のために手段を選ばぬ非情さと剛つよい意志。貴族階級で世間知らずだから言えたのだとは、とても思えなかった。複雑な家庭事情が、彼女をこんなにも老成させてしまったのだろうか。
「理由っていうか、仮にアーソさまが授業料はいらないって言って下さったとしても、無料で剣を教わるなんてできないよ。アーソさまだってお忙しいし、他にもアーソさまに教えを乞いたいってやつはたくさんいるんだよ。俺だけが特別扱いっていうのは、不公平だろ?」
「実力のあるディークが平民階級だからっていう理由で推薦状を書いてもらえないことが不公平だ、って伯父さまは言ってました」
「貴族階級のきみたちがそれを言うのか」
「シャルロだって言ってます」
声が大きくなってきたためか、行き来する騎士がデュケイたちに視線を投げていった。もとよりルネは目立つのだ、あまり注目を集めたくない。
「伯父さまは、ディーク、あなたを教えたいと言ってるんです。ディークなら本当の、本来の、誇り高いイルナシオンの騎士となれるのではないかって」
買いかぶりすぎだ。
声はみっともなく震え、地に転がる。
たった一度会い、剣を合わせただけのデュケイに、イルナシオン騎士の理想を見るなんて。俺はそんな人間じゃない、剣しかなかったから、剣を取らざるを得なかった。それだけなのに。
ルネは怯まない。すべてを見下ろし、包み込む高空の眼でデュケイを射抜いた。心の奥底の淀みも暗闇もみな、承知しているのだと言わんばかりに。
断ることなど、できるはずがなかった。
招かれたカンディードの屋敷は、デュケイが唖然とするほどひっそりとしていた。カンディードとてパキシルの外縁、貴族の家柄であり、そしてアーソは金剛騎士なのだから、望めばもっと王宮に近い区画に、広々とした屋敷を構えられるだろうに。
恐らくアーソの性格が、それを拒んでいるのだろう。
屋敷の規模には恐縮せずに済んだデュケイだが、まず紹介された二人の少年の素性に飛び上がることとなった。シャルロッテに招かれた昼食会で、アーソに出会った時の比ではない。
一目見て、高貴な身分であることはわかった。シャルロッテと顔立ちが似ていたし、立ち居振る舞いが洗練されていたからだ。
年長の少年はデュケイと同じ年頃、年少の方はまだ幼い。ルネと同じくらいだろうか。アーソに紹介され、シャルロッテと同じ銀髪のふたりに深く礼をとる。
「ディーク、ルネ、こちらがゼクサリウス・イスト・マ・イルナシオン殿下とラグナシャス・イスト・マ・イルナシオン殿下だ」
「で……!」
シャルロッテといいアーソといい、どうして事前に一言言ってくれないんだ! 八つ当たりしようにもできずに口ごもっていると、兄のゼクサリウスが一歩前に出た。女性的ともいえる線の細い甘い顔立ちは、社交界で受けるのだろうなと他人事のようにデュケイは思った。
「驚かせて申し訳ない。だが、ここでは私もきみも等しくアーソに教えを乞う者。どうか、楽にしてほしい」
「で、ですが、その、王子……」
「命令って言えばいいじゃない、兄上」
無邪気な口調で、ラグナシャスが口を挟む。こら、とゼクサリウスが声を上げても悪びれずにデュケイを見上げた。
「だっておまえたち、オレらの家来なんでしょ?」
後ろの方で、渋い顔のシャルロッテが拳を振り回している。彼女自身もそう褒められた態度ではないが、物腰の柔らかい第一王子に比べ、この第二王子は生意気盛りのようだった。
「ラグナさま、ディークはまだ騎士見習いですから、家来ではございませんぞ」
「シャルロッテと同じってこと? じゃあ、正騎士になったらオレが家来にしてやるよ!」
デュケイは曖昧に笑っておくことにした。シャルロッテが「それでいい」と頷いている。どうやら、彼女もラグナシャスを苦手に思っているらしい。
「今回、おふたりの王子の剣術指南役を仰せつかってな。きみやシャルロも一緒にと思ったんだよ。競い合った方が伸びるからね。……ゼクスさまの仰る通り、この場では皆が私の弟子です。ゆえに、皆で上達を目指すこと。よろしいですかな」
後半は、ラグナシャスに向けた言葉らしいが、一同が重々しく頷くのを見渡して、アーソもまた頷いた。
「ではまず、構えから」
デュケイは大慌てで木剣を用意し、軽く体をほぐしてから剣を構えた。隣ではルネが神妙な顔つきで、剣の握りを確かめている。
どうしてこうなったのだろう、とデュケイは薄い粥を啜りながら思う。芝居小屋でもらってきた鶏肉の燻製の切れ端を混ぜ込んだせいか、少し塩辛い。
平民階級の騎士見習いでありながら、国一番の騎士に教えを受け、王子ふたりと国王の姪のご学友扱いをされるという、とんでもない僥倖に巡りあっている。考え得るすべての幸福が実現したかのようで、こんな幸せが起こり得るはずがない、いつかは醒める夢なのだと一歩引いて考えずにはいられなかった。
騎士見習いとしての業務と学業を終えてから、週に四日、アーソのもとへ向かう。日が暮れるまで剣を振るい、それから芝居小屋の仕事に出かけるのだが、アーソ宅には王子二人が持ち寄る菓子や軽食がたっぷり用意されていて、食べきれない分は快くデュケイに持たせてくれる。
夕飯は芝居小屋で賄いが出るし、厨房に詰める姐さん方が、余った食材をこっそり包んでくれるから、家計は大助かりだ。母も弟も喜んでくれるのは嬉しいが、施しを受けているようで素直に喜べない。
正騎士につき従い、身の回りの世話や使い走りを務めるのが見習い騎士の役目であったというが、長い年月のうち、その仕事もずいぶん変わった。騎士と共に戦場に出かけることはなくなった代わりに、正騎士の武具の手入れや馬の世話、自らの訓練をこなしつつ学校に出かけて法律や歴史を教わるのだから、目の回るような忙しさだ。
見習い騎士はわずかばかりの給金をもらえるが、生活の基盤になるような金額ではない。だからこそデュケイも他に仕事をしているし、デュケイだけではなく他の平民階級、下級貴族の子どもたちも同じような状況であるらしい。それらの給金も、剣の私塾の月謝を支払い、武具を揃えるとたちまちのうちに消えてしまう。昔は正騎士が見習いを食べさせていたというが、大きな戦もなく、騎士とて食い扶持に困る有様なのだから、誰かに養ってもらうなど望むべくもない。
アーソの元に通い始めてから一月と少し経つ。
昨日は、帰り際に封書を手渡された。推薦状の写しだ、とアーソは言う。驚きと戸惑いが、推薦状を手にした喜びを上回った。
「……有難うございます、でも……」
「余計なことをしてしまったかな」
「いえ……俺だけじゃなくて誰もが、アーソさまの推薦を欲しがってるのに、何か……こんなに良くしていただいていいのかって思うんです。俺はアーソさまに何もお返しできないのに」
あんなにも欲しかった金剛騎士の推薦状なのに、手にしたそれはひどく頼りなく、今にも崩れて消え去りそうで、デュケイは言葉を見つけることができずに、黙る。
シャルロッテがあの日、アーソと引き合わせてくれたから。
シャルロッテとアーソの人の好さがこの推薦状という形を取ったような気がして、デュケイ自身の実力とは関係のないところで推薦状を得られたような気がして、複雑だった。
「ディーク、少しいいかね」
アーソに誘われ、頷く。芝居小屋での仕事が休みでよかったと思いながら。
「私はここ数年、一通も推薦状を書いていないんだ。金品を山と積まれても、どんな脅しを受けてもだ。見習いたちが、待ち伏せていたこともあった。それでも推薦状は書かなかったんだよ。……どうしてだと思う」
わかるはずもない。デュケイは曖昧に首を振る。
「それだけの力量を持った者がいなかったからだ」
大きく息をついて、アーソは続けた。その吐息はまるでため息だったが、素知らぬふりをする。
「下級の騎士団は治安維持だとか消防、土木の業務も兼ねているし、中級騎士団は他国へ派遣されることも多いからなくせぬとしても、上級騎士団のほとんどが名誉職だ。実戦経験もなく、御前試合であってもお粗末な姿を見せるばかり。南北の国境が不安定なのにも関わらず、国を守るべき騎士団が腐っていては話にならん。私は、きみのような真に力ある、筋の通った者にこそ騎士位を授けたいのだ」
「……アーソさま、俺は、そんな立派なものじゃありません。アーソさまに剣を教えていただくことになったのだって、シャルロが気を回してくれたからで、俺はとびきり運がよかっただけです」
「きみは謙遜がすぎるのがいけない。きみの剣の腕は、騎士見習いの中では随一だ。……思うこともあろうが、運も実力のうちと割り切って、先達の頼みをきいてはくれんか」
おっとりしたゼクサリウス王子、気の強いラグナシャス王子。身分制度廃止を鼻息荒く訴えるシャルロッテ。若くして両王子に恵まれた王は心身ともに壮健であらせられると聞くが、南北の国境での摩擦は年々大きくなる一方。だが、かつては自らを厳しく律し、誇りと栄誉を胸に剣をふるった騎士団はもはや名ばかりの張り子の集団ときている。アーソの憂いも理解できる気がした。
「……では、有難くお受けします。ご期待に添えるよう、努力いたします」
もう一度深く頭を下げると、アーソは豪快に笑った。きみのその真っ直ぐさ、大切にしろよ、と。
何度も読み返した推薦状の写しを、もう一度なぞる。そっけない文面、硬い筆跡。正式な推薦状はもう、青騎士団の団長に受理されているとのことだったが、金剛騎士アーソの推薦を受けることができるなんて、ほんの三日前の自分だって想像できなかっただろう。
アーソの語った言葉は、重く胸に響く。
騎士の名誉職化、騎士団の腐敗は国祖シオンから脈々と続く「栄えある騎士の国」の異名の終焉を意味している。西以外の三方を敵国に囲まれた小国イルナシオンにおいては、軍事力の弱体化が国の滅亡に直結する。ここ二十年ほど大きな戦はないが、平和ぼけしてしまうことは己の首を差し出す行為とそう変わらない。
だからこそ、デュケイは推薦状を受け取るのに躊躇するのだ。
騎士になりたい。アーソの推薦状が欲しい。
けれども、自分はアーソが言うような立派な人間ではない。騎士団の堕落に失望こそするが、国を憂いているわけでもなく、ただ、剣しかないから剣を選んだだけなのだ。
この自分に、アーソの推薦を受ける資格があるのだろうか。
すっかり冷めた粥をかき回していると、水汲みに出ていた母が戻ってきた。
「どうしたの、具合でも悪いの?」
「……いや、そうじゃないんだけど」
シャルロッテやルネ、アーソ、世継ぎの王子らと交友があることは、母にも話してある。失礼のないようにと口を酸っぱくして言う母が、内心では安心していることをデュケイは知っていた。世渡りが不得手で、下級騎士のままで一生を終えた父を見ていたからこそ、高位貴族や金剛騎士との親交に期待しているのだろう。
それが親として当然の感情であることは、わかる。子の幸せを願う気持ちに偽りはないのだと。
デュケイは母に事のあらましを語った。アーソの推薦状を得たが、彼の期待に応えられるほどの人格者ではないこと。このまま推薦を受けるべきかどうか、悩んでいること。
「推薦を蹴るなんて無礼ができるはずはないんだけど、でも、引っかかるんだ」
話を終えたデュケイは冷めきった粥を啜る。塩辛い。
馬鹿なことを言ってないで早く支度をしなさいと言われるのかと構えていたが、意外にも、母はため息をつくように、けれど優しく笑ったのだ。
「ディーク、あんたは本当に、父さんの子ね。言ってることがそっくりよ」
「……え」
「騎士になったはいいけど、たるんだ騎士団が許せないって、父さんもよく言ってたわ。小さかったから、ディークは覚えていないかもしれないけど」
確かに、そんな記憶はない。
「母さんは騎士団のことも政治のこともよくわからないけど。この国は騎士の国なんだから、騎士団を心配するっていうことは、国そのものを心配するってことじゃないの? もう少し肩の力抜いても大丈夫よ、ディーク」
あなたはいつも頑張りすぎるんだもの。
母の声には笑みすら混じっていて、デュケイは拍子抜けする。
「……そうかな」
「母さん、何もしてあげられないけど……ディークがしたいことをなさい。間違ってるとか正しいとか、誰かのためとか、そんなことは考えなくていいから。ディークが信じる道を行きなさい」
居間の壁には、父の使っていた剣が飾られている。武骨な、安物の剣だが、ほとんど唯一の形見だった。戦のない東の国境で亡くなった父の死は、慣れぬ地で病を得たゆえだと聞いている。夏だったため、遺体はすぐ共同墓地に葬られ、母もデュケイも、父の死に顔すら見ることはできなかった。
早すぎる夫の死から立ち直ってからも、彼女は再婚することなく二人の息子を育てている。正騎士位を得ることが、何よりの孝行となるだろう。騎士団の腐敗や国の行く末については、デュケイが考えたところでどうにもなるまい。金剛騎士アーソさえ、軍事以外で政治への口出しをすることは歓迎されぬというから、平民階級のデュケイは逆立ちしたって政治に関わることはないだろう。
騎士となり、所属の騎士団の綱紀を正すくらいがせいぜいか。何よりもまずは、騎士昇格試験に合格し、正騎士位を得ること。家族だけでなく、シャルロッテやアーソ、ルネ、芝居小屋の皆もきっと合格を祈って、そして祝ってくれるに違いない。
「うん、そうするよ」
粥の残りを流し込み、汚れた食器を片づけて、デュケイは出かける支度をする。見習い騎士の朝は忙しいのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます