凱歌

凪野基

第一部

(1)

 鳩を逃がしたことに、理由はなかった。彼のささやかな自尊心は、羽をばたつかせる鳩に手を伸ばすまでの葛藤を理解していたけれども、それを理由とすることを頑なに拒んだ。

 ほんの少しのパンくずが欲しいばかりに、子どもたちが戯れに仕掛けたのだろう稚拙な罠に捕らわれた鳩が、哀れだったから。

 懸命に羽をばたつかせて舞い上がろうとすれども叶わぬ姿に、己の境遇を重ねてしまったから。

 誰のためにしたことではなかった。罠に捕らわれてもがく鳩を捨て置くことは、自身が捨て置かれるのと同義である気がしたのだ。

 大いなる自己憐憫と、わずかの自己満足のために、デュケイは鳩を逃がした――まだ見習いの身とはいえ、栄えあるイルナシオン騎士が利己的に振舞うわけにはいかない。このことは胸に秘めておかなくては。

 心を決して顔を上げたとき、見ず知らずの少女がじっと彼を見ていることに気づいた。

 どん、と心臓が跳ねる。

 とてつもない羞恥に、頬が熱を持つ。

 真新しい太陽に照らされ、川面が黄金色に輝いている。

 少女の波打つ髪はまるで陽光を紡いだよう、蒼穹の双眸は一点の曇りもなく澄んで、まっすぐに彼を見つめていた。

 違うんだ、と言い訳を口にしようとして、何のための言い訳なのかすらわからず、言葉は声にならぬまま胸に落ち、どろりとした淀みに紛れてゆく。

 冷たい風の匂い、せせらぎの音、刻々と表情を変える空の色、朝陽のぬくもり。世界の一部分を切り取ったかのようにくっきりと鮮やかな記憶の中で、少女の薄い微笑だけが曖昧で、遠い。






 曇った鏡に映る自分の姿があまりに冴えないことに、デュケイは失望した。

 栗色の髪も鋼の色の眼も、毎日代わり映えせずそこにある。肩幅や身体の厚みの成長はゆっくりなのに、背ばかり伸びるせいで、毎夜のように膝の痛みに苦しめられている。

 母が後ろから手を伸ばし、シャツの襟をぴしりと伸ばした。

「ディーク、お行儀よくするのよ。お父さんの騎士位に泥を塗らないようにね」

「わかってるよ」

 神妙に頷くと、ようやく母の手が肩から離れた。食卓で薄い粥を啜りながら、ジェスティンが膨れる。

「いいなあ、兄ちゃん。美味しいもの、お腹いっぱい食べられるんだろ」

「たぶん、緊張して何も食べられないよ」

 嘘ではない。太腿に力を入れていなければ、膝が震える。まだ自宅から一歩も出ていないというのに、情けない。

 五つ年下のジェスティンには、デュケイの緊張が、昼食とはいえ最高位の貴族と会食するということの意味がまだわからないのだろう。無邪気に、いいなあいいなあと羨望の声をあげている。

「じゃあ兄ちゃん、包んでもらって持って帰ってくればいいじゃないか」

「ジェスティン!」

 母と同時に弟を叱ってしまったことで、少しだけデュケイにも余裕が戻ってきた。

 そう、まったく面識のない人と食事を共にするのではない。シャルロッテは気の置けない友人だ。さばけすぎるほどに気さくで、明るく溌剌とした性格のため、男女を問わず友人は多い。

 そんなシャルロッテだが、貴族は貴族、平民階級のデュケイからすれば雲上人だ。学校や騎士団では親しくつきあっているが、昼食に招かれるなど、にわかには信じられなかった。家族の方は知っているのか、許しは得ているのかとくどいほどに念を押し、卒倒しそうな母を宥め、持っている中で一番高価な服の皺を丁寧に伸ばし、ようやく今日を迎えたのである。

 シャルロッテの真意がどこにあるのか、ちっともわからない。気負わずに来てよと彼女は笑っていたが、デュケイにしてみれば笑うのは膝ばかりで、どうしようもない。

 頼むから馬車を寄越すのだけはやめてくれと懇願したのだが、客人を歩かせるなどとんでもないと言うシャルロッテと口論になり、川の向こう、貴族たちが住まう地区の入り口に馬車を待たせておく、ということで折り合いがついた。

 約束の時間より早く着いたにも関わらず、シャルロッテは馬車の横に立って待っており、デュケイを認めるやにこりと笑った。これ、とデュケイが差し出した包みを受け取ると、人目も憚らず飛びついてきて背中を叩いた。

「ディークのこういうところ、すごくいい」

 手土産なんて恥ずかしくて持たせられない、と言う母親に隠れて、小遣いをはたいたのだ。鳥や花、星を形どったクッキー、木の実や干した果物をたっぷり混ぜたチョコレート、ざらめ糖で覆われた色とりどりのキャンディ。シャルロッテは無類の甘党なのだ。

 馬車に押し込められ、デュケイとシャルロッテが向かったのは王宮の裏手。王の血族が住まう、最高級住宅地だ。

 形よく整えられた植木、溢れんばかりの花。噴水は淡々としぶきを散らし、虹を描く。小道はゆるやかな上りで、目的地が近いことを告げていた。

「緊張してる?」

「当たり前だろ」

 シャルロッテは、普段とは違ってドレス姿だった。決して華美ではないが、きっとデュケイの家が家財道具含めて丸ごと買えて、お釣りが来るに違いない。自分のみすぼらしさに泣きたくなるが、彼女が気にしていないことは明白だった。もしも本当に、デュケイまでもが盛装しなければならない理由があるなら、この服を着てくるようにと前もって届けさせていただろうから。そうするのが、シャルロッテという女だ。

「気を遣わせたたとは思うけど、今日はディークに紹介したい人がいてね」

「紹介?」

「そ。楽にしてて、うるさい人たちじゃないから」

 まったくわけがわからないが、それ以上説明する気はないらしい。

 首を捻るデュケイを乗せて、馬車は走る。このまま永遠に辿り着かなければいいのに、という儚い願いは叶えられることなく、ほどなく馬車は止まった。

 白亜の屋敷、芝がそよぐ広い庭。執事こそ姿を見せなかったが、シャルロッテはデュケイを引きずるようにして庭を横切ってゆく。名前さえわからぬ立派な木が枝を張り出しており、その陰に席がしつらえてあった。

 穏やかな陽射しを浴びて輝く芝の柔らかさに驚愕しながら、恐る恐るシャルロッテの後ろを進むデュケイは、先にテーブルについていた壮年の男性を見て文字通り飛び上がった。喉から飛び出しかけた心臓を、唾とともにごくりと飲み込む。

「アーソさま、こちらがお話したデュケイ。私たちはディークと呼んでいますけれど。剣の腕は学年で一番です。ディーク、こちらが金剛騎士アーソ・カンディードさまよ」

 シャルロッテに紹介されずとも、金剛騎士の顔と名前くらい知っている。

 アーソ・カンディード。金剛騎士、栄えあるイルナシオンの騎士位の中でも、最高のもののひとつだ。彼は南北の国境で小競り合いが起こるたび、身の丈ほどもある大剣を背に出陣し、数々の武勲を挙げた。騎士団を預かる身ながら、我先にと敵陣に斬り込むその姿から、当時所属していた騎士団の名を冠して「銀戦車」の異名を得るに至った傑物である。家柄はそれほど高くないが、数々の戦功を王に認められ、金剛騎士団に招かれた。御前試合の勝者が任ぜられる金剛騎士団長を七年連続で務めた記録は未だ塗り替えられていない。

 イルナシオン国の騎士たらんとする少年少女たちで、彼に憧れぬ者はないだろう。もちろんデュケイも、例外ではない。

「お、お目にかかれて光栄ですっ!」

 デュケイは大慌てで、右手を腹に添える騎士の礼を取った。礼儀の授業でさんざん繰り返した教科書の文言、「ご拝謁の栄誉を賜り、恐悦至極に存じます」はこういう場で発すべき言葉だったのだと頭を下げてから気がついたが、遅すぎた。

「シャルロに聞いてるよ。そう固くならずに、楽にするといい。……ほら、ルネ」

 顔を上げたその瞬間、その蒼い眼がまっすぐに心臓に飛び込んできて――まるでそのように思えて、デュケイはよろめく。

「……ルネ・カンディード、です」

 硝子を撫でるように平坦な、感情のこもらない声。

 陽光を紡いだような、波打つ金色の髪。

 蒼い眼は、雲ひとつない高空の色。目が眩むような、高い高い、空の果ての色。

 いつかの朝、そう、鳩を逃がしてやったあの金色の朝に見た、少女だった。

 少女、ルネもデュケイに気づいただろうに、眉ひとつ動かさない。もしかしてあの朝のことは幻だったのかと思ってしまうほど、彼女は無反応だった。

「姪でね。訳あって、私が預かっているんだよ。この通り少々愛想がないが、許してやってくれ」

 はあ、と開いたままの口から吐息が漏れ出たような声を出すデュケイの脇腹を、シャルロッテが力任せに捻った。もちろん、アーソからは見えないように、なのだが、その痛みで我に返ったのも事実だ。

 貴族社会の情報が手に入らず、授業についてゆけない平民階級の級友たちのために、シャルロッテがこっそりと開いた特別授業。銀戦車アーソ、そしてカンディード家の内情もまた、その場で語られていた。



「カンディード家は金剛騎士アーソが当主。つまり騎士位で、いくら国で一番の金剛騎士っていっても、序列からすればそんなに高くないんだ。これはまあ、教えなくともみんなわかってるよね。でも、アーソの妹がパキシル家に嫁いだから、カンディード家もパキシルの外縁ってことで、位が一つ上がる」

「パキシル?」

「ミゲラ・パキシル。前の戸籍大臣だった人よ。妻のクローディア・カンディード、つまり、嫁いだアーソの妹が馬車に轢かれるって事故があってから体調を崩して、大臣職を辞したの。現在は入院中、それで娘のルネ・パキシルは伯父のアーソ・カンディードに預けられることになった。……って、みんな、大丈夫? ついてきてる?」



 つまり、とデュケイは記憶を掘り起こしながら考える。このルネにはちょっとこみ入った事情があって、それで少し、感情の発露が鈍いのだろう。

「どうぞお見知りおきを、フロラ・ルネ」

 いくら幼くとも、貴族の家柄の娘で、金剛騎士の姪で、養女なのだ。敬称をつけずに呼ぶのは、いかにもまずい。

「やだな、ディーク。私のことはフロラ・シャルロッテなんて一回も呼んでくれないくせに」

「きみを呼ぶなら王族敬称なんだからフロラじゃなくて、ディアラ・シャルロッテだ。それに、敬称つきで呼んだら返事もしないじゃないか」

 つい、学校でするように応えてしまい、シャルロッテに突き飛ばされる。そんなやりとりを見たアーソが、快活に笑った。

「違いないな、ディアラ・シャルロッテ?」

「アーソさままで!」

 シャルロッテに席に案内され、冷たい果実水を受け取りながら、デュケイは学校で礼儀作法やテーブルマナーを叩きこまれたことを心から感謝した。こんなことを学んでいつ何の役にたつのだ、つまらない。そんなふうに思った過去の自分を恥じる。

 空席はあとふたつだが、アーソよりも上座であることからして、級友たちではありえない。気落ちしているところへシャルロッテの両親が現れ、再度デュケイとルネが紹介され、会食が始まった。

 表面だけを炙り焼いた薄切り肉が混ぜ込まれたサラダ。じゃがいもを潰して裏ごしし、牛乳で伸ばしたスープ。バターや木の実が香る焼きたてのパン。揚げた魚の酢漬け、葡萄色のソースがかかった肉。次々に皿が運ばれてきては取り換えられ、学校の授業と見習い騎士としての仕事の両立、シャルロッテとの交友などを語っていたせいで、口を休める暇がない。緊張で食事が喉を通るだろうかという不安はどこへやら、肝心の味は少しも感じなかったが、勧められるままにすべての皿を空にしていた。

 会話が一段落し、失礼にならぬ程度に息をついたときには、テーブルには美しく盛り付けられた焼菓子と涼やかな硝子の器に浮かぶ氷菓子が並べられ、紅茶と果物の甘い香りが漂っていた。

 シャルロッテの両親とアーソは和やかに話している。雰囲気からして、粗相はしなかったらしい。気を遣わないでとシャルロッテが言った通り、今日の会食は非公式の、くだけた場のようだった。

 氷菓子を食べ終えたシャルロッテが、勢いよく席を立つ。

「腹ごなしに散歩しない? 庭を案内するわ」

 それはまさに、救いの手だった。食事の礼を言ってデュケイが立ち上がったのに続き、ルネまでが立ち上がったことには驚いたが、彼女なりに息苦しさを感じていたのかもしれない。

 シャルロッテに先導され、デュケイとルネは公園と見紛うばかりの庭園を歩く。

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