#43 対峙


 逃げてください。

 その文字が俺の頭の中でぐるぐると回る。


 俺が言葉を失う中、それでもミリアさんは言葉を続ける。


「やくそうの収集依頼はおすすめですよ~。多く収集してしまっても無駄にはなりませんからね~。外傷以外にも、食べ過ぎや病気の際の腹痛にも物凄く効くんですよ!」


 やくそうの「や」の字さえ書かれていない依頼書の裏面を、

 ミリアさんは小さく何度もトントンと叩く。


「今日みたいな気候だと体調を崩しやすいですからね」


 何がどうなっているのか。

 俺はまだ状況が理解できない。


「……っ」


 ただ、そんなぐちゃぐちゃな思考回路でも一つ分かることがある。

 目の前にあるのは、多分、彼女の善意の手だ。


 彼女の言葉の意を必死に汲んで、俺は言葉を捻りだした。


「せ、説明ありがとうございます。そうですね、やくそうの収集を受けたいと思います。それで、えーと、すいません、ちょっとお腹が痛くなっちゃたんですけど」


 たどたどしい言葉だったが、彼女は意図を受け取ってくれたらしい。

 ニカッとした笑顔を浮かべると、彼女は手のひらをある方向へ向ける。


「あちらを進んで、突きあたりを右ですよ」


 ありがとうございますと、礼を述べた俺に。

 音もなく動いた彼女の口元は、お気を付けて、と言っている気がした。



 * * *



 ミリアさんが教えてくれた場所にあったのは、

 トイレでもなんでもなく外へと通じる扉だった。


 出てすぐに見えた路地裏に入り、俺はナナを背負いながら駆け始める。


「一体全体何なんだよ」


 何が起こっている?

 訳が分からない。


「逃げる?」


 ミリアさんから受け取った情報。

 逃げてくださいと、そこにはあった。


「何から?」


 いや、その答えに俺は薄々気付いている。

 ただ、それを俺が認めたくないだけだ。


「――っ! 後、数日はかかるってきいたぞ!」


 これは言い訳だ。甘えだ。

 そんな根拠なんて、どこにもなかった。


 根拠のない情報を、俺は何の疑いもなく信じた。

 都合のよい情報だったから。それにすがりたかった。


 そして、最悪の場合を想像したくなかった。

 ――その結果がこれだ。


「くそ。逃げるって、どこへ逃げれば」


 他の街へ行く方法も分からない。

 それにミヤとも離れ離れだ。


「最悪だな」


 予定という予定が狂い。

 ぐちゃぐちゃでまとまらない思考回路は悲鳴を挙げる。


 ただ足だけは動かす。

 これまで止めてしまったら、何もかもが崩れてしまう気がした。


「……はぁはぁ」


 見知らぬ路地裏は徐々に道幅の間隔が広まっていく。

 この道が、どこに続くかさえ、俺には分からない。


 が、左右の壁が突如として消えると、ぱっと左右の視界が開ける。

 広がるのは、見覚えのある大通り。


 やばい、という直感。


 活気ある喧噪が飛び交うその場所は何の変哲もない、はず。

 なのに、俺は、訳もない不安を覚えた。


 そして、その不安は、音となって、響いた。



 ――見つけました



 ぞわっとした悪寒を感じさせるそれが、耳元に届く。


 視界に白が広がっていく。


 喧噪が消えていく。


 白い修道着を着た人々がどこからともなく出現する、異質な光景。

 街の人々とすり替わっていくかのように、視界に白が増殖していく。


「邪鬼の印も、確かにありますね」


 福音のような、綺麗な声の音が響く。

 しかし、それに俺は嫌悪感しか感じない。


 ぶるぶると震える、背中にいる少女。

 振り向けば、ナナの額にある"神に愛されなかった者"の印が毒々しい光を放っている。


「こんにちは邪鬼さん、そしてお連れの方」


 白い視界の中心にいた、その声の主。

 生糸のような銀色の髪の、青紫色の水晶の瞳を持つ女性。


「マリス教大司教シンシアと申します」


 まるで純白の天使のような風貌をした彼女は、聖母のような笑みを浮かべる。

 が、俺には聖母の顔をした死神にしか見えない。


「邪鬼さんを、始末しにまいりました」


 福音のような綺麗な声が、

 冷たい殺意によって悪魔のささやきへと変わった。

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