猫仙人と僕
@nekomozi
短編
「にゃーん……」
また猫に逃げられた。もうにゃーん以外の言葉が見つからない。
「にゃーん……」
僕はこの春で大学3年生になる平々凡々な人間である。学部はゆるーい人文系。専門は動物史(猫)。好きな動物は猫。好きな獣人は猫系。趣味も猫。特技も猫。
そう、僕は猫が大好きだ。三度の飯より猫が好きで、何度も買ったことがあるし、大学は休んでもペットショップには毎日通っている。
しかし、こんなにも猫を愛して止まない僕には、大きな大きな問題があった。それは、猫が全く寄ってこないことである。
猫達は種類問わず、僕を見ると化け物にでも会ったかのように一目散に逃げ出す。それはもう全力で逃げる。だから猫を飼ったことは一度もない。
以前行ったペットショップでは、僕を見た猫が全力で逃げるあまり柵の蝶番が弾け飛んだこともあった。挙句そのペットショップで指名手配されたうえに、出入り禁止になる始末。仕方なく、最近はオペラグラスでその店のにゃんこを覗き見している。僕はまめなのだ。
ここまでの嫌われようはどう考えてもおかしい。マタタビスプレーを振りかけてみたりやマタタビクリームを塗りたくってみたりなど色々と試したが、微塵も寄ってこない。それこそ、ずっと猫に嫌われたままである。これは絶対におかしい。
「店長!やつです!」
「またか!懲りずに来やがって…。狙撃しろ!グラスごと目を撃ち抜け!」
「了解!」
絶対に、おかしい。
段々と狙撃が上手くなっていることに感心する。だが正確無比な狙撃は逆に避けやすい。僕は銃口から弾道を読むと、あっさりと避け彼らを振り切った。追っ手がいないことを確認すると、足を緩め、息を整える。
視界の端に桜の花びらが揺れていることに気が付く。いつの間にか桜並木に入っていたようだ。まだ満開ではないものの、咲き始めた桜に春の訪れを感じた。
桜を眺めながら歩いていると、公園を見つけた。少し休憩を取ろうとベンチを探して、僕はそれを見た。
「あっ……」
沢山の猫が1人の人間を囲むように群がっている。猫に囲まれたその人は、猫と一緒に地面へと座り、何やら話しかけている。猫は笑うようにミャーミャーと鳴き声を上げていた。
動物が人を囲み穏やかに意思を交わすその光景は、どこか神々しく僕の目には映った。
「猫仙人……」
思わずつぶやいた言葉に、1匹の猫が反応する。濁りのないサファイアのような目が僕を捉え、そのまま固まった。珍しい反応だなと思いつつ手を振ってみた。手が動いた瞬間、全力で逃げ出す。連鎖するように全ての猫が一斉にこっちを向き、同じく全力で逃げ出した。
猫の中心で何やらやっていた猫仙人は、急に逃げ始めた猫たちを見て、呆然としている。そうして暫く逃げた猫たちを眺めていたが、僕が近づくとすぐに気付き、警戒に身構えながらこちらを向いた。僕は無害なことを示すために両手を挙げ、震える声でゆっくりと語りかけた。
「猫仙人、どうか僕にその力を、分けて頂けませんか」
おそらく彼は人間ではない。猫の仙人かなにかだ。側から見ただけでわかるほどの、圧倒的な猫からの信頼を一身に受けるその姿は、仙人でしかありえない。天上人。目が潰れそうで、声は緊張でうまく出せない。だが、この人ならば、僕の問題を解決出来るのではないかと、どこか強く期待していた。
猫仙人は徐に僕を見ると、ポケットからするりと携帯電話を取り出し、素早く番号を押した。
警察はすぐに来た。
え、待って。
「つまり、猫に嫌われる原因が知りたいと?」
「そうです。流石仙人様、話がお早い」
「仙人言うのやめろ」
警察、仙人両名の誤解はどうにか解けた。警察を敬礼で見送った後、猫仙人に僕の体質について話す。僕のこの世での唯一の願いは、猫に嫌われないようになることである。どうしても猫と仲良くなりたいのだ。そう強く語ると猫仙人は溜息を吐きながらも原因解明に乗り出してくれることになった。
「僕が言うのも何ですが、いいのですか?こんな不審者と付き合って」
「いいっていうかまぁ仕方なくないか?お前が猫好きなのは、もう2度と聞きたくないほど聞かされたし、猫が異常なくらい一目散に逃げるのも見たし。またこの場所に来られても困る。……あと断ったら呪われそう」
「断ったぐらいじゃあ呪いませんよ」
「聞こえてかすまん。…あれ、呪えはするのか?」
「ありがとうございます。師匠。解決した折には焼肉でも奢りましょう」
「……要らねーよ。出来る限り早く卒業してくれ。ちょっとこわい」
こうして僕と仙人との修行は始まった。
拷問だった。まず猫から離れるよう言われた。命の源泉である猫と離れろなど、僕には死すら生温い地獄である。絶望しこの世の全てを呪うべく呪詛を吐いている僕に師匠は声をかけた。
「お前は猫が大好きだな?」
「当然です。猫の気持ちを理解するため、屋根で昼寝をしたこともあります」
「??? そ、それはよくわからんが、お前は猫について相当詳しいんだろう。なら嫌われないようにかなり色々試したんじゃないか?」
「もちろんです」
「俺以上の知識を持ち実践もしてきたお前に、猫のことでアドバイス出来ることはないと考えてる」
「そんな!仙人パワーを開放すればこんなちゃちな問題、超現象であっという間の解決が出来るはずじゃないですか!もっともっとやる気出してくださいよ師匠!」
叫んだら無言で腹をパンチされた。涙目になって蹲る僕を見ながら、師匠は一つの課題を出すと言った。
「人間と仲良くなってみろ」
「何ででしょう」
人間は猫とあまり共通点がない。人間と仲良くなることが猫との仲に繋がるとは到底思えなかった。
「人間は社会的な動物だ。猫は知能的に人間より低いだろうし、コミュニケーションについても社会的な人間より複雑ではないだろう。だから、取り敢えず人間とのコミュニケーションをマスターして、複雑でない猫とのコミュニケーションの一助にしようと思って。大は小を兼ねるって言うし」
「意味不明ですね。そもそも人と猫のコミュニケーションの手法が全く違う時点で大が小を兼ねることはありません。寝言は寝てから言ってくださいよ」
「…お前変なところで真面目だよな。兎に角、俺はそうやったんだ。人間とのコミュニケーションから、猫との付き合い方、距離感とか声のかけ方とかを学んだ。…たぶん。なにより結果があるじゃないか。経験則だこれは。それによく考えても見ろ。どう見てもお前は人間の友達いないだろ。いや、そもそも人間関係あるのか?」
師匠が馬鹿にしたような目でこちらを見てくる。
「失礼な。人間関係ぐらいあります。現に師匠とこうして話しているではないですか」
「今日知り合った俺が咄嗟に出てくるってまずくないか?大学での友達は?」
「人間には尻尾も耳もありませんから。特に大学生は全員屑です。魂が穢れる」
「いないんじゃないか。てか人間にも耳はあるだろ」
「猫耳以外は耳じゃありません」
「あ、はい」
呆れた様子で流されてしまった。
人間とのコミュニケーション。理屈はよくわからないが、今まで散々試してもダメで行き詰まっていたのだ。他人のアドバイスを受け入れることにそこまで抵抗はない。それにこれは、仙人たる師匠の経験則らしい。ならば信頼してもいいはずだ。兎に角やってみることにした。
まずは大学で友達を作ろうと思った。大学にはクラスがあり、必修科目を一緒に受けるため、それなりに付き合いやすく連絡が取りやすいらしい。また新入生がいるこの時期はチャンスだと、図書館で借りた『出会いマスター指南書』に書いてあった。
講義の半ば、集中力のきれやすい時間にわざと消しゴムを落とす。飽きてきた講義の合間、拾ってくれたことをきっかけに会話を広げるのだ。
「あれ」
誰も拾わない。20分経っても誰も拾わない。20分も床で粘ってくれた消しゴムを自分で拾う。まぁ世は親切な人ばかりではない。況してや大学生だ(偏見)。それに僕もわざとらしかったかもしれない。
一応ペンも落としてみたが、全くの無視である。それどころか嫌そうにこちらを見て席を立つ人もいた。
絶対おかしい。これは何かあると思い、こちらから尋ねることにした。
「ねぇ、あのさ…」
「うわぁぁぁ!」
勇気を出して、振り向き、後ろにいた人に話しかけると彼は獣のように叫びながら逃げていった。なにこれ。
話しかけられた彼が結構な叫び声で逃げたため、それなりの騒動になり、大学の事務室に呼び出されることになった。
「君が猫の化け物って噂が流れているけど、本当かい?」
簡単に事情を説明し弁解をすると割とすんなり理解してくれた。僕の誠実さが伝わったんだと思ったが、どうやらこの噂を聞いていて、もともと騒動になるだろうなと警戒されていたことがすんなりいった原因らしい。荒唐無稽な噂をきっぱりと否定する。僕は立派な真人間である。
「何だか君の噂、かなり流れてるみたいなんだ。市街で銃撃戦をしていたとか、毎日欠かさず覗きをしている相手がいるとか、屋根の上で寝ていたとかね。銃撃戦だなんていう明らかな嘘も噂には混じってるし、イジメである可能性も考えて、無闇に信じないように注意を呼びかけているんだが、あんまり効果がなくて。なんだか困ったものだよ。取り敢えず問題はないみたいで安心した。もし、本当に何かありそうだったら相談してくれ。出来る限りのことはするよ」
それらの噂は本当である。ごめんなさい。
大学は半ば自業自得だが、非常にコミュニケーションが取りにくいと分かった。会話どころか声かけすら難しい。次の方法を考える。
僕の人間関係がほぼないが、かなり強い関係を構築している人に心当たりがある。取り敢えずそこに行こう。
「逃げたぞ!」
「追え!」
「店は臨時休業だ!総員戦闘の用意を急げ!今日こそ仕留めろ!」
「了解!」
そう。ペットショップBANの皆さんである。オペラグラスも持たず真正面から挨拶をしに行ったら、好機とばかりに仕留めに来た。何なのだこの人達は。ここはペットショップではないのだろうか。
「話を聞いてください。僕はあなた方と少しだけお話がしたいだけなのです」
「成る程な。では少し止まってくれ。そうでないと私たちも話しにくい」
僕は立ち止まる。
「止まったぞ!一斉掃射!跡形も残すな!」
…どうしよう。
僕は追ってくる彼らから離れすぎないよう調節して、町中を走り回り逃げ回った。そうして体力を奪ったところで一人一人襲撃して全員を無力化。一旦落ち着いた皆さんとお話をする。
「殺せ!」と店長が叫ぶ。
無視をする。
「私は猫が大好きです。それは三度の飯より大好きです。ただ、どうも嫌われてしまうみたいでして。今色々と試行錯誤しているのです。ところで、皆さんはどんな動物が好きなのでしょう?動物好き同士、仲良く出来ると思いませんか?」
「…」
「…」
「…」
答えは返ってこない。なかなか難しい。ただ僕の猫への愛と嫌われ体質は本物だ。それを少しでも理解してもらえば、誰かしら同情はしてくれるのではないだろうか。そう思い話し続けた。
燦々と照りつける太陽の下、5時間近く話していたら、どうにも参った様子で、ちゃんと聞くから拘束を解いてくれと言われた。僕の話というより、初夏の日差しが辛かったらしい。まだ敵意の残る戦闘員を店に戻すと、店長と喫茶店でお話することになった。
「一応事情があったんだねぇ。ただ原因がわからない以上私の店には入れられないよ。逃げちゃうし、下手すると猫さん達が怪我をする」
よくよく話してみると、店長はしっかりした人のようで、ある程度理解を示してくれた。戦闘時の形相はなんだったのか。
「残念ではありますが、猫を傷つけるのは僕の意図するところではありません。ただ、見るのぐらいは許して欲しいのです」
「うーん」
「ところで、ここの新作のフルーツケーキ知っていますか?ものすごく美味しいんですよ。限定生産かつ注文殺到するのでなかなか食べられないのですが、実は今日たまたま取り置きしておいたものがありまして。宜しければどうでしょう」
「専用の物見台作っとくよ!任せといて」
僕たちは、幾度もの激しい戦いを通し、全力で思いをぶつけた。そして、その戦いが終わりには、深い理解と固い結束が残っていた。
「……というわけです。僕のコミュニケーション能力はうなぎのぼり。対人間コミュニケーション決戦兵器と呼ばれる日も近いですね」
「理解?結束?コミュニケーション?思いっきり賄賂じゃん。買収じゃん」
取り敢えずの成果を得たため、師匠に報告に行くと、そう一刀両断された。失礼なことである。
「納得できませんか。では成果をお見せしましょう。これが僕の力だ!」
そう叫び、懐から超高級猫缶を取り出す。あの後、ペットショップの店長が「これじゃ貰いすぎだから、これおまけであげる。これさえあれば猫が光に群がる羽虫のように寄ってくること間違いなし」と言って渡してくれた逸品である。つまりコミュニケーションの結晶だ。
プルタブを引き開ける。人間の僕ですら魅了する絶妙な香りが辺りに広がった。
広がった香りにつられて、師匠だけが寄ってきた。え?猫は?
「これ、なに?すごい美味しそう」
師匠がハイライトの消えた目を向けながらそう言った。口から溢れた涎がキラリと光る。声の色も幾分か優しい。気持ち悪かった。
「師匠は呼んでないです。目を覚ましてください」
明らかにおかしいので思いっきりビンタした。
ビンタは思ったより強く当たり、師匠はコマのように回転しながらひっくり返った。が、彼は何もなかったかのように起き上がりゾンビさながらにじり寄ってくる。
「ひ、一口だけ、一口だけくれ!頼む!何でもする!」
「何これ」
猫は全く姿を見せない。師匠は狂っている。これ、猫缶なのかな…。なんか怪しい薬なんじゃ…。
「よこセェェェー!」
無視をしていたら飛びかかってきた。身体を横へずらしそれを躱すと、飛び込んできた師匠は勢いのまま地面に滑りこんだ。うつ伏せに呻く師匠を見て、何だか可哀想になり、倒れた体に謎の猫缶を添えてあげた。
公園の時計を見て、店長と会う約束をしたのを思い出した。猫缶を貪る師匠をチラりとだけ見て、帰ろうと公園を出る。
すると今までどこに隠れていたのか、無数の猫が師匠に、いや、猫缶に殺到した。
「これは俺のだァァァー!」
「ニャアアアァァー!」
叫ぶ猫たち。師匠の持つ猫缶へと我先にと群がるその姿を見て、店長の言うことは本当だったのだなぁと思う。師匠も猫も喜んでるみたいだし、会ったらお礼を言おう。そうして僕は約束の場所に向かった。
実は、返り討ち事件以来、店長と何度か喫茶店で会っている。店長は元々気のいい人で、猫好きの僕と話も合った。そうして何度か会ううちにいつの間にか打ち解けていた。
店長と仲良くなったおかげか、態度が刺々しかったペットショップ店員ともそれなりに打ち解けることが出来た。動物好き同士で柴犬の可愛さを語ったり、最近の流行りを教えてもらったり、猫談義を交わしたりする日々は、1人で猫を追いかけてた昔よりも、充実して楽しかった。猫に嫌われているのは残念だが、BANのみんなは猫を見るだけなら許してくれるので、猫成分も充分に確保できる。
最近毎日が楽しい。猫を追っかけてあれやこれやしていた頃が楽しくなかったわけではない。でもあの頃、僕は猫しか見ておらず、自然と他人と遠ざかっていた。解決の目処も立たず、ただ躍起に必死に試しては失敗する日々。解決については今もあんまり変わってはいないけど、それを共有出来る人がいて、仲間がいることは、僕の思っていた以上に心の救いになっていた。
そして、なにより、こうした日々のきっかけをつくってくれた師匠に感謝するのだ。
「出たな疫病神め。今日は何をやらかすつもりだ」
師匠の所へ行くと、とても警戒された。前回は猫缶で狂わせてしまったし、警戒しても仕方ないと思う。
「師匠、今日はお礼を言いに来ました」
僕は身構える師匠の目をしっかり見て用向きを告げた。お礼は直接誠実にが我が家訓だ。
「師匠。師匠は、猫仙人なのに僕の嫌われるアレに解決の糸口も掴めないという究極の無能ですが、」「おい」「楽しい日々のきっかけを与えてくれたり、騒動の中心となって場を盛り上げてくれたりしました。最近本当に毎日が充実してることを実感してます。だから、僕はその機会を与えてくれた師匠に感謝してるんです」
僕は師匠に想いをはっきりと伝えた後、深いお辞儀をする。
「本当に、ありがとうございます」
こんなことで感謝なんてと、師匠は思うかもしれない。ただ、彼のおかげで僕の生活に大きな変化が生まれたのは事実だ。そしてその変化は、僕にとても良い影響を与えている。だからこそ、まだまだ僕の感謝は伝えきれない。いつか師匠に恩返し出来たらと切に思う。
頭を下げる僕を見て、師匠はため息を吐くと、声を落とし少し真面目な顔で話し出した。
「正直お前には言いたいことが結構ある。主に文句だが。でも、今お前が言ったことは、全部お前が為したことだぞ。お前の選択の結果、お前の行動の結果だ。俺はあんまり関係ない。一応、感謝は受け取るが、恩返しなんて考えるな。さっさとどっか行け。それが一番の孝行だろ」
「師匠……」
「なんだよ。取り敢えずさ。また猫嫌われ体質について、考え直そうぜ。無能の肩書き返上したい。何からやろうか」
師匠が笑いながら肩を叩いてくる。何となく湿り出していた空気は、あっという間にからっとした明るい雰囲気に変わる。師匠は猫のように自由だった。
「……仙人パワーをくださいよ」
「ねーよ。なんなんだよお前の仙人へのこだわりは」
口は悪いが、僕をちゃんと思ってくれているのが伝わってきた。有り難かった。なんやかんや言いながら、まだつきあってくれる師匠に、もう1度心の中で感謝した。
途切れ途切れに、蝉の声が聴こえる。夏が終わろうとしていた。
銀杏が色を変え始める。黄色と緑色が混じる木の下、僕らは修行をする。
「いや、おかしいですよこれ。また狂いましたか?」
「狂ってない……!狂ってない……!俺はまだ狂ってない!」
「どう見ても狂ってますよ」
何故か師匠の服に着替えさせられ、頭から猫缶を被らされ、中身をしっかり隈なく塗りたくって立たされた。訳がわからない。師匠の目もおかしいし。
「猫缶の効果は明らか……!ならば使わぬ手はない……!お前の匂いを……しっかり変えて仕舞えば……!完璧……!一分の隙もない……!」
「死んでください」
結局猫は来なかった。僕は師匠を張り飛ばした。
「言葉じゃないし、匂いじゃないんだろ?じゃあなんだ?顔か?仕草とか?」
「顔って関係ありますか?あと、仕草?それはちゃんと猫に合わせてるつもりなのですが」
「まぁキモいけど違和感はないな。猫っぽすぎてキモいが」
「にゃーん」
「本当に気持ち悪い」
最近師匠が厳しい。もっと優しくしてくれないと心が折れる。いや、これも修行なのかな。
「師匠は何で猫に好かれてるんです?」
「えっ、知らん。昔からこうだった。考えたこともないな」
「昔って仙人として生をやり直してからってことですか?」
「人間だったことしかない」
好かれる理由がわかれば、それを真似するか原因を移植すればいいが、それは師匠もわからないらしい。
というか、さっき、好かれる理由考えたことないって言わなかった?無茶苦茶だと思ってたけど、「人間と仲良くなれ」修行の「経験則」って嘘だったんじゃないか。状況は良くなってるし、感謝はするけど。
後で猫缶をドブ川に投げてやろう。
「そういえば、ペットショップの店長と仲良いんだろ?そいつには聞いたの?」
師匠が思いついたように尋ねる。
「あ、そうですね。嫌われることは知っていますが、解決について聞いてなかったです。師匠も交えて相談してみましょう」
店長は店長だけあって動物への造詣はかなり深い。ポンコツ師匠と優秀な弟子たる僕の違いから、何かアドバイスをくれるかもしれない。
電話を掛けると店長は気軽にOKしてくれた。折角だから紅葉狩りでも行こうことで、店を閉め今週末に店員も集まることになった。
少し遅れてしまった。枯れ葉が積もる歩道を踏みしめるように走る。慌てながら着いた集合場所には異様な光景が広がっていた。
大きめの広場に、戦闘態勢で師匠を警戒するBANの皆さんがいた。モデルガンを師匠に向けている。僕が近づくとかさりと、落ち葉が鳴った。焦ったように目を動かし、攻撃されないように、動いてませんアピールをする師匠。その強張った顔を見て、僕は思わず爆笑した。
結局僕の笑い声をきっかけに緊張は解けた。未だ警戒の残る彼らから話を聞く。つまり、BANの皆さんは、変態かつ妙に強い僕、その師匠ということで、かなり警戒したようだった。
みんなには、僕との師弟関係は心の関係であり、師匠は仙人で不思議な力は使うが、雪かきもできない軟弱体力だからあまり警戒しなくてもいい、と言って納得してもらった。
「そもそも何でペットショップ店員が武装してるんだよ」
「あ、僕もそれ、前から気になってました」
「いや君が出禁になっても来るからだよ」
「ごめんなさい。でもモデルガンとかで武装する必要はありますか?」
「ないけど。家で置物になってたし折角だからと思って」
サバイバルゲーム好きな友達に付き合わされた時買ったやつらしい。店長の個人的な事情だった。店員さん達はいいのかなそれで。
この街には小さな裏山があり、そこを少し離れた公園から一望することが出来る。公園に植えられた木々もそれなりに色づいており、手近で綺麗な紅葉を落ち着いた様子で見ることができた。
店長たちはお弁当を用意してくれていた。料理上手な店長のお弁当は、おかずの奪い合いとなった。当然、僕が勝利する。黄色に変わった銀杏を眺めながら、1人優雅に卵焼きを口にした。少し回復したみんなの恨み節を聞き流し、本題に入る。
「僕は何故猫に嫌われるのでしょうか?原因や解決策があったらなんでもどうぞ」
「あ、それ仕草だよ」
「えええええええ」
「えええええええ」
一瞬で解決した。
店長いわく。
「なんかね。君の仕草や癖は猫に近すぎるんだよ。例えば、かなり違う生き物である猫が人間と全く同じ仕草してたら、絶対不気味でしょ?それの逆。人間である君の、猫そのままの仕草に猫達は怯えているんだよ。だから君が微動だにしないなら猫は怖がらないよ」
ということらしい。
僕は猫が好きで、ずっと猫を見てきた。そのせいか無意識に猫の仕草や癖をマスターしてしまい、それが猫を怖がらせていたらしい。え、そんなことあるの?僕ってもしかして……天才?
まぁ結果的には僕の仕草がキモいと言った師匠の勘もあながち間違ってなかったし、人間とコミュニケーションを取るのも、仕草や癖をリセットするって意味では正解に近かったのかもしれない。仙人流石の洞察力である。
「因みに師匠は何で猫に好かれるのですか?やっぱり仙人の仕草ですか?」
「うーん。わからないけどたぶん1番は顔?これ割と知られていないんだけど、猫が好きな顔ってあるんだよね。師匠さんは猫が好きそうなパーツ配置してる。まぁ仕草も自然だし、雰囲気も独特でどこか孤高だし。頓着のなさが、自由で気ままな猫には更に心地いいんじゃない?」
「なるほど…。では、最高のパーツの配置の師匠の頭を僕に移植するのも手ですか」
「やめろ」
「頭そのままより、顔のパーツだけ取るとか皮を剥いじゃう方が現実的じゃない?」
「いやいやいやいや。怖いよお前ら」
取り敢えず原因はわかった。
師匠や店員さんも交えて解決策を練っていく。
師匠の仕草が自然だというなら、それを真似するのが一番なのではないかという意見に落ち着いた。僕の仕草を直すよりも、師匠の仕草で上書きしてしまえということらしい。元々猫の仕草を習得した速さからすれば、そう時間もかからないだろうという話だった。
「つまり、君と師匠の関係は心だけでなく、身体の関係にもなったということだね!」
「え、ちょっと師匠気持ち悪いですよ。離れてください」
「張っ倒すぞ?」
と言うわけで仕草をみっちり学ぶべく、師匠宅に居候することにした。師匠は納得していなかったが、愛弟子の一人や二人養う甲斐性は持つべきであるとか弟子が可愛くないんですかと、嘘泣きしてたら説得出来た。僕が言うのもなんだが、師匠は人に甘すぎる。
寒さが増し、暗い空が多くなってきた。手を擦り合わせながら、師匠の家へ向かう。
ドアを開けた先は地獄だった。ごみ屋敷だよこれ。
師匠は壊滅的に家事が出来ないらしい。家事って言葉すら知らないんじゃないのこれ。洗面台、風呂場、リビング、どこも酷かった。唯一まともな寝室ですら、ゴミが散乱して足場が見えない始末。道理でいつも同じ服を着ているはずだ。僕は死を覚悟した。
僕の家事スキルがうなぎ登りで止まるところを知らない。もともと自信があったが、今はゴミ屋敷すら処理出来る自信がある。人間、死を前にすると何でも出来る。僕の前にゴミはなく、僕の後にゴミはない。ふはははは。
「狂ったか」
「誰のせいだと思ってるんですか。ぶん殴りますよ」
「すみません」
師匠との生活は割と順調だった。家の整理と家事に力を入れたため、師匠の仕草についてちゃんと観察出来ていないものの、それなりにきちんとした生活本題である仕草がどうなってるかはまだわからない。ただ僕がこなした家事全般について、師匠はとても感謝していたし、同時に頭が上がらなくなっていた。師匠から仕草と住居を分けて貰い、師匠は僕に家事を任せるといった良い関係だった。
暫く師匠と暮らすうちに、ふと気づいたことがあった。
僕は大学生だ。たまに大学に行きつつ、アルバイトと奨学金で生活費やら学費やらやりくりしている。
しかし、師匠はいつもの公園で猫と戯れているか、部屋で惰眠を貪っているかで、全く仕事に行く様子がない。もちろん大学生でもない。居候する前は気にならなかったが、この人はどうやって家賃やらなんやらを払う収入を得ているのだろうか。
「食費は霞を食べてれば浮くでしょうけど、その他の生活費ってどうしてるんです?」
「いま、目の前でお米食べてるんですが」
気になるので食事の時に雑談混じりに聞いてみた。師匠の無駄な突っ込みを無視する。
「どうなんですか?」
「……実家が金持ちでな。色々あって一生働かなくても大丈夫なだけのお金がもうあるんだ。まぁほぼ縁を切られてるから増えることもないけど、俺は贅沢しないし。このまま何となく自由に生きてくつもりだ」
どこか言いにくそうに、でも、ちゃんと師匠は教えてくれた。話してくれた後の、どこか物憂げな師匠の表情が僕は忘れられなかった。
師匠が高等遊民であることが判明したので、僕は大学がない時はずっと、こたつで丸くなる師匠を眺める事にした。
観察時間を有効に使うため、1度大学にも連れて行ったが、元々警戒されていた僕が人を連れてきたことでさらに警戒されてしまい、学校付近の野良猫も巻き込んだ大騒動になった。
そのせいか師匠に『化け物の子』なんていう呼び名が広がったので、連れてくのは止めた。
充実した時間はあっという間に過ぎていった。
仕草が少し直ったためか、まだ猫は逃げるものの、前みたいに必死で逃げられてしまうことはなくなった。
そんなわけで、ペットショップBANの出禁が解除され、間近で猫を見られるようになった。店長はとても喜んでくれて、手作りのケーキでお祝いのパーティまでして貰った。お祝いの時、感極まって気が緩んだ僕の仕草に、猫が発狂しかけたのはご愛嬌とする。
ある時、師匠の家のチャイムが鳴った。だらだらと課題のレポートを書き入れていた僕はふと顔を上げた。
師匠の家には普段誰も来ない。まぁ僕らの知り合いも少ないし、もともとこのあたりは町の中心から外れている。チャイムが鳴ることはなく、正直違和感しかなった。
「師匠、チャイム鳴ってますよ」
「……」
「死にましたか」
「死んでないわ…」
師匠はこたつに潜り込みうつぶせになりながらそう呟く。寒いのが苦手なのか冬になってはずっと炬燵のそばにいる。まるで猫だった。
しばらく炬燵の中の足をけりながら声をかけるが、されるがままで反応は鈍い。
どうやら動く気はないようだった。僕はため息をつきながら、チャイムに出るため一度レポートを保存する。
「死んでもいいですけど、転生したらちゃんと報告してくださいね」
「死なないから…」
師匠はもごもごと突っ込んでくれるが、やはり起きる気配はない。
そして否定しないところを見るに転生は出来るらしい。
仙人であることを再確認した僕は、ノートPCをたたむと玄関へ向かった。
ドアに取り付けられた魚眼レンズを除くと、ドアの外にはスーツを着たおじさんがいた。姿勢が綺麗で髭は整えてあり髪は左右に流し固めている。そしてその佇まいからはこのあたりに場違いなほど気品が漂っていた。
不審者のようなきょどきょどとした様子はない。立ち去る気配もなく堂々とその場に立っている。
そういえば師匠の家はお金もちだと聞いた。もしかして親族の方だろうか。
そうでもなければこんな高貴な雰囲気纏ったおじ様が、辺鄙なとこに立つ家にこない気がする。
「どちらさまですか」
声をかけドアを開けると、チェーンをかけたドアの隙間から覗き見る。
おじさんは「おお」と言って、こちらを見た。そして固まる。
「ん?」
おじさんは驚いているのかぽかんと口を開けている。先ほどまであった気品が霧散してどこかに消えてしまった。完全なあほ面で少し可哀そうになる。
「あのー」
僕がそう声をかけると、はっとしたように我に返り、「すみませんが、あなたはどちら様でしょうか」とおじさんは困ったように呟いた。
僕が師匠の家に居候している弟子だと説明すると、おじさんはきらりと目を光らせ、事の成り行きを説明し始めた。なんだろうか。
どうやらおじさんは師匠の家の執事らしい。師匠の両親が師匠に何やら聞きたいことがあるやらなんやら。執事さんは終始丁寧な口調であったが、あまりいい印象ではなかった。
師匠の力を、『もの』としてみているような節があったからだ。師匠のネコパワーを頼りにしているのは伝わってきたが、師匠を便利な道具として使っているような気がする。なにより師匠を思いやる心がない。意思も確認せず、決定事項のように用向きを伝えてきた。
師匠は仙人である。確かに常人とは理を異にする神聖な存在ではあるが、あくまでも「人」なのである。ご飯を食べ、掃除もせず、ただだらだらと寝過ごす怠惰な「人」だ。猫のように笑い、猫のように怒り、猫のように悲しみ、猫のように人生を謳歌する。
それが猫を引き付けるのだ。(たぶん)
はっきり言えるのは、師匠の力は決して『もの』などではない。これは「生き方」だ。
僕が不機嫌そうにしているも、執事さんは気づかずべらべらとしゃべり始めている。
僕が困りかねて声をかけようとすると、それにに被せるように後ろから声が響いた。師匠だ。
「おい」
同時にチェーンが外れる音が聞こえる。目の前の執事さんの視線が僕の後ろの師匠を捉え驚きに目を見開く。そして唐突にドアが勢いよく開け放たれた。
「え」
「きえろ!」
執事さんが倒れている。
師匠は珍しく怒りの表情を浮かべていた。泰然とした仙人の様子はなく、その歪んだ表情はまるで人間だった。転がる執事さんを睨みつけている。
「お前は下がってろ」
師匠の声が震えている。
「でも」
「いいから!」
僕が声をかけると、師匠はひどい剣幕で怒鳴りつけた。
いつものような穏やかな表情は消えてしまっていた。
僕は何も言えず居間に戻った。戻るしかなかった。
玄関では叫び合う声が聞こえてくる。
僕はどうしたらいいのか分からなかった。仙人の師匠にはあんなに簡単に話せたことが、人間っぽくなった師匠に何も言えないなんて、馬鹿みたいだと、自己嫌悪した。
暫くすると師匠は戻ってきた。いまだ肩を怒らせ、オーラの様に憤怒が立ち上っている。
「ちょっと行ってくる」
「どこに行くんですか」
「どこでもいいだろ」
師匠は行き先も言わず端的にそう告げ、着替えをリュックに詰め始める。まるで家出するみたいだ。行く場所も、帰る時間も言わずに行く師匠に、僕はもう帰ってこないかのような幻想を抱いた。
「師匠」
「…」
「師匠」
彼は黙々と手を動かす。僕は何も出来ず、でも師匠に声をかけた。
答えが欲しくて、帰ってきてほしかったから。
「師匠、帰ってきますよね?」
「……」
「師匠!」
「うるさい!」
思わず叫んでしまった僕に、師匠は容赦なく怒鳴った。
必要なものをリュックに詰め終わったのか、師匠はさっさと立ち上りそのまま玄関へと向かっていく。
僕は呆然とその姿を見送る。師匠の背中が遠ざかっていく。
『縁は切れている』師匠はいつかそんなことを言っていた。実家の人とは縁が切れていると言っていた。でも、ここにきて師匠を連れて行こうとしている。
あの時の師匠の物憂げな顔が頭をよぎる。
ここで諦めたら、本当に二度と帰ってこない気がした。
「待ってますからね!転生したら報告ですよ!」
僕は咄嗟にそう叫ぶ。こんな時にもふざけてしまう自分がどうしようもなく思った。でも僕にはこれしかない。こうしてしか彼とコミュニケーションをとってこなかった。
どしどしと足を鳴らし玄関へと向かっていた師匠の足が止まる。
強張っていた師匠の肩の力が抜けている気がした。
師匠はゆっくりとこちらを振り向く。その顔にはいつもの苦笑が浮かんでいる。
先ほどまでのにべもない雰囲気は消えた。いつもの平穏な雰囲気が一瞬蘇る。
「転生はできないから」
師匠は小さく呟く。
「生きてるうちに戻ってくる」
そうとだけ言って踵を返すと、師匠は玄関へ消えてしまった。
僕は追いすがるように、視線だけで去っていく彼を追っていた。
僕はしばらくそうして玄関に立ち尽くしていた。冬の陽はあっという間に落ち、冷えた空気が僕の体を撫ぜる。ぶるりと震える体に、我に返り、肩を落としながら部屋へと帰った。
炬燵の敷かれた居間。寝ころぶ師匠がいないだけで、こんなにも空虚に感じるなんて。
炬燵に足を入れ蹲る。師匠のぬくもりを感じる気がした。
もうどうしたいいいのか分からなかった。
翌日は大学だった。暗い顔で講義を受けていたら、事務の人に心配された。クラスメイトには相変わらず怯えられていたけれど。
僕は帰り道にBANに寄ることにした。無性に店長と話したかった。店長ぐらいしか相談相手がいなかったともいえる。
「こんばんは」
「いらっしゃい……って顔こわ。どうしたの?男の子の日?」
店長は正直だった。でも男の日ってなんだ。
「師匠が居なくなっちゃったんです」
「まぁ猫だし。そういうこともあるよ」
「ええ…」
店長が軽すぎる。
僕は胡乱気な目を店長に向けた。結構真面目に悩んでいるのに店長はお構いなしだ。
「そんな顔しないの」
朗らかに笑顔を浮かべた店長が僕の額を軽くつく。店長の綺麗な顔がすっと近づいてくる。ちょっとどきりとする。
「暗い顔したって彼は帰ってこないでしょ」
「はい…」
「あの人はお人好しだから。破門だって言われてならまだ関係は続いてる。修行の途中でどこかに行ったりしないよ」
「でも行っちゃいました……様子もいつもと違って……なんか人間みたいで」
しどろもどろに僕が話すと店長は相変わらず笑顔で語り掛けてくる。
「あの人は始めから人間だよ。だから、君を見捨てられないんだって。猫だったらもうどっか行ってるから。大丈夫。信じてあげて」
ゆっくりと言葉を重ねていく。店長の言葉は何故か心にしみていった。冷えていた心が徐々に温度を上げていく。
「でも」
「でもじゃないの」
店長は僕へとぐっと近づく。落ち着いたジャスミンの香が僅かに漂ってきた。
「弟子が信じないでどうするの!ぐずってないで、ほら、やれることをやりなさい!」
店長は僕を叱咤する。
僕はゆっくりと視線を合わせる。
明るい茶色の瞳が、力強くこちらを見つめていた。その瞳に弱弱しい僕の姿が映っている。
情けない姿だ。師匠が行ってしまう時何も出来なかった自分が重なる。もうあんな思いはしたくない。
それに、師匠は確かに「帰ってくる」って言った。確かに言ったのだ。なら帰ってくるのだ。信じよう。僕が信じないで誰が信じるのだ。
「ありがとうございます」
僕が店長にお礼を言う。店長にも助けてもらっている。本当にありがたい存在だ。
「いいのいいの。またケーキ奢ってね」
店長が悪戯っぽく笑う。僕は「もちろんです」と返し、微笑んだ。
僕はとにかくまず大学の課題を一通り全部終わらせた。講義はどうしようか悩んだが、レポートで事前に単位をとれないか教授に相談するとあっさり了承された。僕が話かけた教授は皆、声が震えていたのは見なかったことにした。
後日恐喝疑惑で事務室に呼び出されたが、きっぱりと否定した。
何もなかったったら何もなかった。
することは決まっている。打倒執事だ。
あのバトラーが来た時、一瞬でぶちのめしてしまえばよかったのだ。そして師匠が気づかないうちに池にでも沈めれば完ぺきだった。
そうすれば師匠が変貌することもなく、連れていかれなかっただろう。
というわけで、僕は暗殺技術を身に着けることにした。
「それは違くない?」
「え、そうですか?」
そんな特訓をしてから一週間、およその技術が身に着いた折、僕はいつもの喫茶店で店長との密会に繰り出していた。
ケーキを少しづつ崩しながら店長は言う。綺麗に切り分けられたケーキをゆっくりと口に運ぶ店長。
「いや、暗殺って何?どうするの?」
「殺られる前に殺る。戦闘の基本です。次来たら仕留めるんですよ」
「仕留めても次が来るかも」
「あの程度がまた来ても瞬殺です」
「いっぱい来るかも」
「面倒ですけど、ドアから来るなら基本一対一なので勝てます。状況にもよりますが、5対1までなら余裕です」
「ええ……何も解決してない気がする。あ、これやっぱりおいしい」
店長は幸せそうな顔でケーキを突いている。そんな美味しそうに食べてくれるなら、奢り甲斐があるってものだ。どんどん食べてほしい。
「今日はもう一つあります」
「え、ほんと!?」
「ええ」
「やった。ありがとー大好き!」
「……」
うむ。店長はすぐこんなことを言う。勘違いしそうだ。
「じゃあ店長はどうすれば解決できると思います?」
僕はコーヒーを傾けながら話を戻す。カフェインパワーで気持ちがすっと静まる。気がする。
「まぁ、問題が何かわからないんだよね。連れていかれた事情もほぼ分からないし。出来ればあの人に聞きたいよねー」
「でもその師匠は今いませんよ」
「なんだよねー。もっと色々聞いてればよかったかも」
店長は腕を組んで悩むように首を倒す。
確かにそうかもしれない。僕は師匠のことをあんまり聞いてこなかった。
一度聞いた時の物憂げな顔が脳裏にこびりついている。
……師匠に嫌われるのが、怖かったとも言える。
僕の雰囲気がまた暗くなっていたのだろうか。
店長がため息をついてフォークをこちらに向ける。
「じゃあさ、こっちから打って出れば」
「どういうことです?」
「この問題はあの人に事情を聴かなきゃ話が進まないよ。だからさ」
にやりと笑う。
「実家に乗り込んじゃえばいいんだよ」
店長と別れて帰路につく。店長は乗り込んじゃえと言った後、手伝ってくれるとも言った。「配下を貸してやろう」と尊大にあほなことを言っていた。
僕はぼんやりと考える。確かに、この問題は師匠の問題…なのだろう。
実家の問題なんだと思う。執事さんの話と、師匠からちょっとだけ聞いた限りでは、僕が今ここで出来ることは何もない。
乗り込むことで解決するのだろうか。直接会いに行って、それで師匠は僕を、弟子を見てくれるだろうか。会ってみないと分からない。その通りだ。でも。
師匠の怒鳴り声が耳に響く。強がってはいるものの、拒絶が怖かった。どうしようもない不安が胸から消えない。
いや、これじゃいけない。
師匠はきっと帰ってくると言ってくれた。僕はそれを信じるのだ。師匠の言葉も信じられず何が弟子だ。
……でも、帰ってこなかったとき、僕は師匠の問題だからと諦められるだろうか。
どうしても心に迷いがある。ゆらゆらと気持ちは揺れて、信頼と疑念がごちゃ混ぜになる。
凝り固まった心のまま、ぼんやりと空を見上げる。日の落ち始めた空には、半分に欠けた月が浮かんでいた。
それから三日ぐらい僕は悩み続けた。それに集中していたせいか、猫への注意が薄れ、また猫が逃げ出すようになったから、店長から外出禁止令が出された。
僕は仕方なく師匠の家でうんうんと悩み続けていた。
そんなある日の夜、ふと気配を感じた。暗殺術の冴えがそれを捉えたようだった。
師匠ならば入ってくるはずだ。本人の家だし。ということはまた執事さんだろうか。
くっくっく。よろしい。ならば我が暗殺の妙技、存分に振るってやろうぞ。
そう意気込んで玄関へ音もなく向かう。警戒しながらレンズ覗く。何も見えない。
隠れてもバレバレだ。気配はドアのしたァ!
そうして勢い込んで戸を開けると、そこには猫がいた。
「ねこ?」
どうしたのだろう。この家に師匠はいない。居るのは、猫に嫌われ遂に暗殺術を修めた復讐鬼だけだ。こんな死地に飛び込んでくるなどどういうことだろうか。
一応仕草に気を使い、猫を見つめる。猫は動かない。
見つめる。猫は動かない。というかこっちを見ていない。
なんだっけこれ知ってる。なんたらかんたら現象っていう猫が中空を見つめる現象だ。デマらしいけど。
「にゃーん?」
猫語で会話を試みる。
え、本当に動かない。恐る恐る手を伸ばす。
手がさらさらの毛に触れた。
「え、触れた!!!」
僕は飛び上がって喜んだ。
猫が気絶していることに気が付くのは、20分ほどもふもふしたあとだった。
猫は気が付くと風のように去っていった。至福の時はすぐ過ぎてしまう。でももう500年ぶんぐらいのもふを補充した気がする。満足。
そうして闇夜に溶ける猫を見送っていると、ふとドアの前に手紙が落ちていることに気が付いた。その手紙には汚い文字で弟子へと書いてある。
師匠の字だろう。無駄に高価そうな便箋を開ける。そこには短くこう書かれていた。
『助けに来い』
ここ数日の悩みが一瞬で晴れる。迷ってる暇はない。やることは一つしかない。
僕は深夜にもかかわらず店長に電話をかけた。寝ぼけた彼女の声が聞こえると、全力で叫んだ。
「配下をください!!殴り込みです!!!」
そうして、元気を取り戻した僕は、目の覚めた店長に激怒され翌日まで説教を受けた。
「みなさん準備はよろしいですか」
次の日の夜、とある高級住宅地にある公園の一角にて、僕は黒ずくめ達にそう声をかけた。
「サー!イエッサー!」
「よろしい。ですが小声でお願いします…」
「サー!イエ」「ちょっと待って返事要りませんわかりましたから」
この人達装備も完璧、動きも静かで隙がなく、連携もものすごく綺麗に取れるのに声だけ無駄にうるさい。
わざとだろうか。昔敵対してた時の復讐だろうか。もうそれは終わった話ではなかったのだろうか。
話は飛んで、説教が終わった今日の早朝。僕は取り合えず開店前のペットショップ前に正座で待機していた。出待ちである。
そこでさらに怒られたのは言うまでもないのだが、とりあえず置いておく。
店長は本当に店員さんたちを貸してくれた。店長自身は行かないらしい。司令塔が二人いると混乱するでしょと、眠そうにあくびをして断られた。多分寝たいだけだと思う。
師匠の実家を探すのは簡単だった。僕は昨夜手紙を送ってきてくれた猫の足跡を追跡したのだ。これくらいは猫好きなら誰でもできること。一般的な教養スキルである。
そうして見つけた師匠の家だが、思った以上の豪邸だった。
こんなの日本に実在していいのと思った。噴水とかあった。なんだろうこれ。
そして警備もかなり厳しい。警備員はもちろんだが、何故か犬が沢山いて、あちこちを警備している。行動がパターン化されていて、よく訓練されていることが分かる。でもなぜこんなに犬?人間の警備員が何処か所在なさげだ。
兎に角この屋敷に一人で忍び込むのは如何に僕でも難しい。強硬突破ならいけなくもないけれど。それでは師匠ときちんと話せない。会うだけならできても、やはり浚う…じゃなくて無事に忍びこみには何名かで陽動をし警備を崩してもらう必要があった。
ペットショップの店員さん達は、戦闘もそこそこ出来、またペットショップ店員であるため動物の扱いもお手の物だ。まさにぴったりの人選だったと言える。
店員さん達が何やら怪しいものをモデルガンに詰めている。秘密兵器らしいが詳しいことは教えてもらえない。
取り敢えず信頼はしている。僕は自分の役目に集中すべく、ルートをもう一度確認した。
作戦が開始される。黒ずくめの店員達はあっという間に散会し、定刻に行動が開始される。
僕は塀の上で待機しつつ脳内にルートを描く。予想されるイヌたちの動きを予想して、逐次ルートを再構築する。
犬が止まる。黒ずくめが何かしたらしい。
僕は脳内で増えていくルートに余裕の笑みを浮かべ移動を開始した。
★
「あー何でこんなとこいるんだろう」
俺はぐだぐだと寝転び、無駄に豪奢な室内を見渡す。
「趣味悪りぃし全然落ちつかん…」
ここは俺の実家の一室。もともと俺の部屋だったはずだが、面影は微塵もない。俺が出て行った時おそらく全て整理されたんだろう。まぁ大したものも置いてなかったし、だからこそあの成金どもは気に入らなかったんだろうな。
壁にはよくわからない極彩色の抽象画。窓にはシルクのカーテン。紫檀の机の横には桐の箪笥と本棚が並んでいる。本棚にはラテン語で書かれた本がある。ラテン語の本なんて置く意味あるのだろうか。ファションにしても敷居が高い。ベッドには鬱陶しい天蓋が付いており、床にはペルシャ絨毯が敷いてある。この部屋のコンセプトは何なのだろう。成金の考えた最強の部屋みたいな感じだ。インテリアに興味のない俺でもわかる。
「はーーー」
開かないドアに目をやる。鍵どころかノブすら見当たらない欠陥ドア。ため息しか出ない。俺は監禁されている。
戻ってきたらこうなるのはわかっていた。でもあいつを巻き込むわけにもいかないし。
あの夜、執事は脅してきた。おそらく俺があの弟子を見捨てられない事をわかっていたんだろう。
バカ親どもは、懲りず金を使い漁り、金回りが悪くなったから俺を使いたいようだった。本当にくだらない。騙され、ただ生活していた時とは違う。もう二度と、俺は利用される気は無かった。
とはいえ、解決法があるわけでもないんだよなー…。こいつらを逃がそうにも逃げ道がないし。
そう思って側で寝ていた4匹の猫と、1匹の犬を見る。どれも日本では珍しい品種だ。
こいつらはもう大丈夫。1人で暮らしていけるだろう。公園で散々野良猫を見てきたからよく分かる。
監禁されている時点でだめだ。外に出ればまぁなんとかなる。ここの警備は俺にとって本当にざるなのだ。
そうして悶々と悩んでいると、ふと窓に何かのぶつかる音がした。
「ん?」
もう一度、今度はノックするように、こんこんと二度音が鳴った。俺は僅かに警戒し、寝ぼけ眼の猫たちに下がるようジェスチャーを送る。
すると、ふと声が聞こえた。
「師匠?いますか?」
「は?」
「あ、やっぱりここでしたか。今開けますよ」
混乱する俺の耳になにかが擦れ合う甲高い音が聞こえた。そうして数秒、カーテンの奥から覗いた顔はここ数週間で見慣れた弟子のあほ面だった。
「あ、師匠助けに来ましたよ」
いつも通りのその様子に俺は不覚にも安心感を抱いてしまったのだった。
「でも助け呼んでないぞ」
「え?じゃあ手紙持った猫は何だったんですか?」
「あー。それたぶん実家の猫だ。そんなこと出来るのうちにしかいないだろ。どんな猫だった?」
「なんかすっごいもふもふしてました」
「え、猫触れるようになったのか?」
「あ、いえ。なんでもないです。確か白い真っ直ぐの毛並みで鼻がピンク、目はグレーでした」
「…お前余計なことしてないよな?」
「まさか」
「まぁいいや。その猫は執事のやつだな。何思ったんだか知らんが、多分手紙を送ったのは奴の意図だぞ」
「はぁどうも。まんまと来てしまいすみません?ですが執事さんは全く気がついてないように思いますけど」
「それだよなぁ」
先程から状況のすり合わせも兼ねてのんびり会話をしている。だが、ドアが開く気配もなく、既に2時間が過ぎていた。
それにさっき、弟子に反応した猫たちが発狂しかけ、散々どたばたしたから何かしらアプローチがあってもいいはずなのだが。
それに、執事のジジィがもし何らかの意図でこいつを誘ったなら、来るのは今のタイミングしかないだろう。
「で、師匠どうします?ぶっちゃけ逃げるだけなら余裕ですが」
コンビニに行ってくるみたいな軽さでそんなことを言う。この余裕はなんなのだろう。今更だが、あのジジイが来てもあっさり逃げられそうだ。
「じゃあ逃げるわ。なんか気が抜けた」
「了解です」
逃げることにした。
「でもどこから逃げるんだ?」
「この屋敷、人の気配が殆どしないので廊下からもいけそうですけど、師匠は素人ですよね?取り敢えず安全な窓から降りましょう」
「素人って、お前プロなのか?ってか窓が安全てここ4階だぞ」
「さぁ御手をどうぞ」
「まてまてまて嫌な予感しかしない」
「別に死にませんて」
「いや無理だって。それにあいつらはどうするんだよ」
絶対こいつ飛び降りる気である。むりむりむり。俺は話題を逸らすため、ベッドの裏に隠れた猫たちを指差す。弟子は思い出したように手を打って、困ったように眉を寄せた。
「うーん僕が抱きかかえても2匹までですね」
「今のお前が抱きかかえたらあいつら発狂するぞ」
「それもそうですよね。どうしましょうか」
ただの話題逸らしだったのだが、実際こいつらはどうしよう。この家に残していくと言う選択肢だけは絶対ない。俺はそれを絶対に許すことが出来ない。
「うーん。外にシェパードいたよな?あれってどうなってんの?」
「普通に警備してます。僕は彼らにバレるようなヘマはしませんし、BANの皆さんも気を引いただけのようですね。危害は加えてないみたいです」
「てかあいつらも来てんのか。なんか大ごとにしたみたいで悪いな」
「いえ、気にしないでください。弟子が師匠を助けるのは当然です。それに、なんだかんだ言ってみんな師匠が好きなんですよ」
「…ああ、ありがとうな」
お世辞でも嬉しかった。ふっと気が抜けた時にかけられた信頼の言葉にこみ上げるものがあった。俺はそれを誤魔化すように下を向きお礼を言う。顔を上げた時に見えた弟子のにこにこした笑顔がちょっとうざかった。
「まぁまだいるなら余裕で抜けられるわ。あいつら俺の子供みたいなもんだから、言う事なんでも聞かせられる」
「え、仙人になると犬を産めるようになるんですか?」
「産んでねーよ。みたいなものって言っただろ」
とにかく既に監禁状態は解けている。窓は開いていて、警備の犬はいるものの何とかなる。問題はどう降りるか、そして猫たちを降ろすか。
任せてくださいと言い放ち、止める間も無く颯爽と窓から飛び降り綺麗な五点着地を決めて物陰へ消えたアホは何をしてるのだろうか。どうせろくなことをしないのだが、頼りきりなのが少し歯がゆかった。
「師匠ちょっと色々漁って見たんですが、何もなかったんでとりあえず僕が受け止めます。降りてきてください」
「お前は本当にバカだ」
だがバカに頼るしかないバカは俺だった。
取り敢えず猫たちは置いてあった小物入れと切り取ったカーテンでリフトを作り、どうにか下に降ろすようにした。
最後に俺は下にいた弟子に受け止めてもらった。意を決して飛び降りると弟子がオーライ言いながらふらふら寄ってきて、ぶつかる直前に「あ、もうだめだ」と思ったら、ものすごい力で横に引っ張られ、気がつくと地面をグルングルン回っていた。何が起こったか分からなかったが、衝撃は殆どなかった。もう二度とやりたくない。俺は土を払い心配そうに舐めてきた猫たちを一撫ですると、地面に転がったまま羨ましそうにこちらを見つめる弟子に話しかける。
「ほら行くぞ」
「いいですねー。師匠は可愛い猫たちに囲まれて死ぬほど羨ましいです。さっき放り投げてやればよかったかもしれませんね」
「怖いこと言うなよ」
「はー僕も早く仙人になりたいです」
「怖いこと言うなよ」
軽口を叩きながら、俺たちは移動を開始した。
あっさりと警備を抜ける。シェパードたちは全くこちらを警戒しない。まぁ当たり前なのだが。
「師匠なんですこれ?ちょっと怖いんですが」
「こいつらは俺が赤ん坊から育てたんだよ。親みたいなもんだ。逆らうわけがない。悪いなお前ら。…いつか必ず助けに来るから」
言葉が通じるわけではない。でも小声でも気持ちが伝わったのだろう。今まで見向きもしなかったあいつらはこちらを黒く鋭い目でちらりと見た。わかってる。そう言われた気がした。
そのやりとりを見ていたのか、弟子がチラチラこちらに視線を投げてきた。俺はひたすら無視を続けた。
門に着くと、そこには執事の爺さんがいた。すごい今更感があって、俺は何となく力を抜いてしまった。こいつよくこんなドヤ顔で出てこれるな。
「待っていましたぞ。坊っちゃま」
「坊っちゃまて。この歳でそれはねーわ」
「そしてようこそ我が屋敷にお弟子さんとやら」
「あ、どうもお構いなく。これにて失礼します」
「はっはっは。面白い方のようだ。どうやら立場がわかっていないらしい。逃げられるとお思いかな?」
「いやお前ここでそれ言うの?せめて屋敷の中でその台詞言って欲しかった」
「貴方がたは決して帰れませんよ。この私がここにいる限りね」
「師匠この人会話通じませんよ。放っておいて帰りましょう」
「お前はマイペース過ぎる」
無茶苦茶な会話だ。会話か?ボケが2人いるとツッコミが追いつかない。
とにかく寒いので早く帰りたい。
「あ、そう言えば手紙を送ったのってお前?」
ふと思い出して尋ねる。
「ふっふっふ。もちろんです。驚きましたか?」
「猫さんすごいもふもふでした。ありがとうございます」
「はて。そういえば帰ってきた後ひどく怯えていたのが気にかかりましたが…。あなたの仕業でしたか。これはさらに手を抜くわけにいかなくなりましたね」
「おい。バカ弟子お前やっぱり余計なことしてんじゃねーか」
「くっ、心理戦ですか…。この執事やりますね…」
「どこが心理戦だ。お前ほんと何したんだよ」
「悪ふざけはそこまでにしてはいかがか。あまり舐めないで貰いたい。この私はこう見えて武術に明るい質でしてな。空手、柔術、合気道を皆伝まで収めております」
え、そんな武闘派だったのかこの人。あんまり話したことないから知らなかった。弟子は飄々としてるが、これに勝てるのか。俺は戦う気まったくないのだが。
「大丈夫なのか?」
「何がです?」
「あのじじい倒せるの?」
「さぁ?心理戦なら兎も角身体つきはあんまり強くなさそうじゃないですか?師匠やります?」
「俺は猫を守らなきゃいけないから」
「え、それひょっとして僕から守るみたいな意味ですか?」
「まぁ両方から」
「戦いませんよ」
「いやごめん。守るのはじじいからだから」
そんなやり取りをしていると業を煮やしたのか、足を肩幅程度に開き肘を曲げ右手を前に出すような構えを取った。軽く息を吸い、目を見開き、破ッと声をあげるとじじいが摺り足でにじり寄ってきた。
え、てかこれ俺に向かって来てない?
ん?まって?
気持ち悪い動作で寄ってくるジジイに俺が焦っていると、するりと目の前に弟子が割り込んで入ってきた。まるで自然な動作。割り込んだ筈なのに初めからそこにいたかのように違和感がなかった。
ふっと弟子の背中が落ちた。屈んだと気がついた時、向かって来ていた執事のじじぃの鳩尾には深く抜き手をつき刺さっている。と思った次の瞬間、じじぃの頭が跳ね上がる。何をしたのかわからないが、ジジィはそのまま気絶したらしかった。その力の抜けた身体を突き上げるように両手でぶっ叩くのが見えた。身体が門に叩きつけられる。初めて人が飛ぶの見た。ちょっと感動。いや感動とかじゃない。大丈夫なのかこれ?
「さぁ行きましょう師匠」
「ちょっと待て今の何?」
「暗殺術です」
「?」
「暗殺術です。店長には意味ないと言われましたが、結局役に立ちましたね」
「それどこで覚えてくるんだ」
「インターネットです」
「そんな簡単に覚えられんのか?」
「僕は覚えましたよ」
なんて事のないように言い放つと、弟子はがちゃがちゃと鍵を弄って門を開けた。
その姿を見て俺は呆れと安堵の混じった苦笑をする。
そうだった。心配する必要なんてなかった。
この優秀な弟子はそれこそ何でも出来る。その無駄な行動力とびっくりするほどの覚えの良さで、いつも驚かせてくれる。発想が残念だからいつも役に立たないことばかり覚えてくるのだが。
こいつが大人しく人質になることが想像できない。あの馬鹿親がこいつを捕まえられるとも思えない。捕まえたとしても飄々と出てきそうだし。
信頼すべきだったのは俺の方だ。
やっと頭が晴れた気がして、俺は莞爾とした笑みを浮かべた。
★
無事逃げ切った帰り道、師匠2人で並んで歩く。
師匠が難しそうな顔をしている。
何か言いたそうな、それを躊躇っているような。僕は待つ。
師匠が教えてくれるならちゃんと聞こう。教えてくれないなら、その時はその時だ。きっといつか話してくれる。そう信じよう。
「俺の親はパピーミルなんだ」
「パピーミル?」
「わかりやすく言えば悪徳ブリーダーかな。猫とか犬を売るために大量に番わせて子供を作る。工場みたいに機械的にさ、あいつらを産ませては売り払うんだ」
「…」
「俺は、それを知らなかった。でも親は俺が妙に動物に好かれやすいことを知って、しかも俺と一緒にいた動物達は、人懐っこくて従順になることを知って、それを利用したんだ。大量に繁殖したうち、具合のよさそうなあいつらを俺に何匹か預けて育てさせた。それが高値で売れるんだと。知った時愕然としたよ。離れの狭い汚い部屋でひしめき合って何とか生きてた。いや、死んでるのもいたか。
あの地獄で生まれた猫や犬。俺はそれを知らなかった。汚濁にまみれた体は黒く汚れ本来の艶などまるで見えなくなってた。隅では群がるように何かを貪ってた…。それを見て、視界がぐるぐると回って、意識がスパークしたみたいに弾けて。俺は気が付いたら逃げ出していた。お金ももらったけど、酷く情けなかったな。子供売った金で暮らしてるようで、自分だけこんな暮らししていいのかと思ったよ。結局、また逃げだしちゃったけどな」
師匠が情けなく眉を寄せ自嘲したような笑みを浮かべた。師匠らしくないなと思う。僕はどうにか励まそうと、必死に言葉を探すうち、小さな影を見つけた。それを指差す。
「でもその子達連れてこれたじゃないですか。それだけでも、前とは違うんじゃないですか」
師匠の後ろをぴったりと付いて歩く5匹がいた。彼らを救うことを譲らなかったのは師匠の意思だったはずだ。
あの時、師匠だけならすぐ逃げられた。それでも師匠はそうしなかった。それは出来ないと強固に言い張ったのだ。
「そうだな。そうかもな」
師匠は歩みを止め、5匹の方へ振り返る。
5匹はつぶらな瞳で師匠を見返した。何を交わしているかはわからない。師匠もわかっていないのかも知れない。
でも、師匠が前回は逃してしまった何かを、今度は手に入れた何かを、確かめるように実感していることだけが伝わってくるような気がした。
そのまま師匠の自宅へ歩く途中、5匹は何故かどこかに行ってしまった。師匠は大丈夫だと言っていた。寂しげな表情は気になったけど言葉は強くそこには確かな信頼があったと思う。
それからの師匠は元通りだった。仙人らしく1日寝て過ごし、仙人らしく猫の中心で演説していた。師匠は本当に自由で、楽しそうに生きていた。僕には出来ない生き方で、ちょっと羨ましくて――――その姿を焼き付けるように記憶した。その甲斐あってか、居候始めて約半年、僕は完全に仕草をマスターした。
「住まわせてくれて、ありがとうございました。師匠」
「俺は何もやってないけどな。むしろ家事をやってくれてこっちが感謝だ。久しぶりに真人間として生きられた」
「え、家が綺麗だと人間に戻っちゃうんですか」
「初めから人間だ」
ひらひらと桜が散っていく。
師匠とはこれでお別れになる。半年間の居候生活を含めて、ちょうど1年前に弟子入りした。あの日も、桜が舞っていた。
そう。猫に嫌われなくなった今、師匠はもう、師匠ではない。
「師匠、本当に、本当にありがとうございました。僕は大好きな猫に、嫌われ疎まれてきました。猫に嫌われるあまり、ムキになって、さらに悪化して、周りの人にも疎まれるようになって孤立していました。そんな時、師匠がきちんと話を聞いてくれて、師匠を引き受けてくれたこと、絶対に忘れません。原因や解決策を出してくれたのは店長だったけど、その店長との和解のきっかけは師匠です。あの、もう一度、本当に、ありがとうございます。恩はまだまだ返せてません。困ったことがあれば、何でも力になります。今まで、お世話になりました」
涙が溢れる。声が震える。僕は師匠に本当に沢山のものをもらった。師匠との楽しい日常。大好きな猫との和解。店長や店員さんのいる居場所。
言葉では全然伝えたりないけど、しっかりと、言うべきことを言い切った。
俯く僕を見て、師匠は苦笑すると、僕に向かって言葉をかける。
「感謝はありがたく頂くよ。でも前にも言った通り、この結果は全部お前の力さ。それにな、あー、まぁ、俺も楽しかったし、感謝してるんだ。俺は、ずっと自由で孤独だった。あの家のせいでな。当たり前すぎて、それを嫌だと思ったことはなかったけど、つまらなかったんだ。そして、それに気付いたのはお前と出会ってからだ。仙人がどうとか、突然師匠にしてくれなんて言われたり、猫缶でめちゃくちゃにされたり、めちゃくちゃしたこと、全部楽しかった。今までの毎日はずっと灰色だったことに気付いた。実家に飛び込んできた時は正気を疑ったが、うん、嬉しかった。お前を弟子にしてからの1年は、人生で1番楽しい1年だったよ。あと、まぁ、なんだ。あー、あ、ありがとうな。一緒にいてくれて。うん、そうだな。恩が返せてないと思うなら、焼肉奢ってくれよ。最初に言ってただろ」
そう言って師匠は、不器用に微笑んだ。でもそれは、今までで1番楽しそうな笑顔だった。
「師匠……ぐすっ…猫缶も焼きますか…?」
「それはやめろ」
最後にBANのみんなも呼んで焼肉に行った。帰りに夜桜を見て、一晩中騒いだ。落ちる花びらがライトに照らされ、形のない影が踊るように揺れていた。
それは、間違いなく今まで生きてきた中で、1番楽しい1日だった。
その日を最後に師匠は本当にいなくなった。
強く降る雨の中を走る。
あの後、師匠の家から清掃の業者が出入りしているのを、ペットショップBANの人が見かけたらしい。不思議に思った店長が僕に電話をくれた。それを聞くと一も二もなく家を飛び出し、師匠の家へと向かう。
師匠の家に着いた。返し忘れていた合い鍵を鍵穴に差し込んだ。
そっとドアを開ける。
きっと前から準備していたんだろう。家には何も残っていなかった。
半年だけ暮らしたあの懐かしい雰囲気すら消え去っていた。
まるで夢だったかのように全てが消えた家の中で、「流石、仙人…」と小さく呟く。その言葉は雨音にかき消され、誰にも届かない。
師匠の不在を知った次の日、何となく師匠に初めて会った公園に行った。
昨日の叩くような雨のせいですっかり花が落ち、茶色になった桜の木をベンチで眺めていると、前にも家に来てくれた猫が手紙を持ってきた。金で縁取られた無駄に高そうな封筒に下手くそな字で『弟子へ』と書かれていた。
相変わらず仙人みたいなことをする。思わず笑ってしまった。手紙を受け取る。猫を撫で、ありがとうと呟く。
手紙には、『お前を見て勇気が出た。俺は一度実家に帰る。きちんとやるべき事をやろうと思う』とだけ書いてあった。
きっと、部屋が綺麗になったから真人間に戻ったのだろう。そんなことを思った。
桜の木には、青い芽が覗いていた。
僕は大学を卒業した後、BANで雇ってもらい、暫くして店長と結婚した。
僕はふと机に飾られた結婚式の写真を見る。
結婚式の最後、みんなで撮った写真。
その写真の中央には、場にそぐわない豪奢な金の袴を着ているせいで変に目立つ仲人の姿があった。
何度見ても笑える。いつも同じ服を着ていた横着者の彼には全く似合っていない派手な衣装。
だが、僕たち新郎新婦を含めた皆はいつか見た猫のように、彼を囲い、笑っていた。
そして新郎新婦よりも中央にいる彼も、一緒になって、楽しそうに笑っていた。
猫仙人と僕 @nekomozi
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