願いの鐘

星 霄華

 気がつけば、追っていた。

 長い黒髪を、歌う姿を、しょうがないなあとつくため息を。

 惜しみない称賛を。

 だから俺は――――――――




「理事長からの呼び出しっていうから何かと思えば……演奏会の出演とか、なんで、こんな直前になって言うかな」


 テストが終わり、あとは夏休みを待つばかりのある日の午後。理事長室を退出して二人で事務棟の廊下を歩いている途中で、俺の幼馴染みの美伽みかはそうため息をついた。


 当然だ。理事長が俺たちを呼び出したのは、今度が自治体が主催する、この辺りの中学の音楽系クラブや音楽教室の奴らが多く参加する演奏会のゲストとして出演するよう命令するためだったんだから。なんでも、自治体の担当が理事長の知り合いらしく、誰かゲストにと頼まれたらしい。で、コンクールでの成績は申し分ない俺と美伽に白羽の矢が立ったってわけだ。


 演奏することそのものは、別にいいんだよ。でも、開催日までそれほど日がねえってのがどうだよ。しかも俺は、夏休み中に国際コンクールの本選がある。美伽も、家の近くにある教会の神父さんに頼まれて、俺の本番と同じ日に一曲歌うみたいだし。そういう予定があるのに一曲やれとか、嫌がらせかよと言いたくなっても仕方ねえだろ。

 だから俺も、だよな、と首肯した。


「でもまあ、決まった以上嘆いても仕方ねえし。お前は何歌う?」

「うん……一般の人にも知られてる曲をって言われたから、『私を泣かせてください』か『私のお父さん』をやろうと思ってるんだけど……桃矢は?」

「そうだな……『ラ・カンパネラ』『亡き王女のパヴァーヌ』、『月光』の第一楽章にショパンの『夜想曲 第二十一番』……ラフマニノフの前奏曲の『鐘』もいいか。あれも、聞いたことある奴多いだろうし」


 俺がいくつかの曲を挙げると、美伽は眉根を寄せた。


「ラフ……って、桃矢とうやの家のCDで名前見たことあるような。あとその曲、フィギュアスケートの特番か何かでも聞いたことあるような気がするんだけど」

「ああ。引退した女子の有名な選手が使ってたみたいだな。俺らがちっせえときのオリンピックで演技してた映像は、何度か見たことある。赤と黒の衣装だったか」

「あー、あの曲! 最初から重苦しい感じの! あれ、ピアノ版あるの?」

「つーか、元々がピアノ曲なんだよ。フィギュアスケートのは、オーケストラ用に編曲したやつだ」


 手を叩く美伽に、俺はそう説明した。


 ラフマニノフは十九歳のとき、モスクワでの博覧会でこの自作『前奏曲嬰ハ短調』――いわゆる『鐘』を自ら演奏した。作曲家として有名な人だけど、ピアニストとしても一流の実力者だったんだ。ラフマニノフの正真正銘の自作自演を聞いた観客の熱狂ぶりはすさまじく、翌日の新聞で絶賛され、以来、演奏会を開くたびにラフマニノフはこの曲をアンコール曲として求められるようになったのだという。それもまた、知られた話だ。


「じゃあ、その曲でいいんじゃない? あの選手って世界的にもすごく人気で注目されてたから、わざわざオリンピックを見なかった人でも、頭のところくらいはテレビで何度も聞いたりしてるだろうし。今、フィギュアスケートで人気の選手が使った曲って、クラシックでも結構売れてるらしいよ?」


 と、美伽は人差し指で俺を指して提案した。

 ああ、そういや今、フィギュアスケートって人気出てるもんな。男子も女子も、すげえし外見もいい選手が日本に何人もいるからって。使われた曲を集めたCDも売ってて、クラシックのCDとか動画とか探してても、フィギュアスケートで使われた、って説明がされてるものがあったりする。


 そうか、それならあの曲でいいかもしれない。今度俺が出るコンクールは、若手ピアニストの登竜門とも言われてる、国際的に権威あるコンクールだ。俺の実力を試す最高の舞台に向けた準備は、悔いが残らないようにしたい。

 それに。


「……お前、あの曲好きなの?」

「うん。あの重苦しい感じ、なんかいいじゃん」


 尋ねてみれば、にかっと笑って美伽は答えた。

 だよなあ。こいつ、重々しくて荘厳な雰囲気の曲が結構好きなんだよな。あと、繊細な旋律の曲とか。何度こいつにせがまれて、バッハの曲だの何だのを弾いたりしたことか。俺がショパンの夜想曲をほとんど弾けるのは、間違いなく美伽のせい、いやおかげだ。

 ……まあそれはおいといて。美伽が好きな曲だと聞いて、黙っていられるわけがない。


「じゃあ、今から弾いてやろうか?」

「……! 聞きたい!」

「よし、んじゃ俺の家な。練習室は空いてねえだろうし。お前、今から行けるだろ?」

「うん!」


 やったー! とでも言いだしそうな満面の笑みで美伽ははしゃいで喜ぶ。ガキかお前は。人のこと犬扱いしやがってるけど、だったらお前はガキだろうが。

 あーもう、無邪気に喜びやがって。可愛いとか思っちまったじゃねえか。そういうの反則だろ……。

 俺の気も知らないで、美伽は上機嫌で俺を見上げてくる。きらきらした、ガキそのものの顔。あーもう、頼むからそういう顔すんなって。


「桃矢、早く帰ろうよ。電車に間に合わなくなるかも」

「別に急がなくてもいいだろ? このくそ暑い中、走ってらんねえよ。乗り遅れたら次のに乗りゃいいんだし」


 むしろ俺はそっち推奨なんだけど。そんなこと、口が裂けても言えねえけどな。


 窓の外から蝉時雨が時には遠く、時には近くから聞こえてくる廊下はすっかり誰もいなくなってて、俺たち二人しか歩いてねえ。蝉時雨と足音と俺たちの会話が廊下にやたらと響いて、余計、二人きりだって意識させられる。……緊張する。

 でもそれは、俺だけじゃなかった。

 玄関が見えてきてなんとなしに隣を見てみると、美伽は固い顔で前を見てた。まるでそこに天敵でもいるみたいに身を固くしてるのが、見るだけでわかる。

 でも玄関には誰もいないし、猛獣だっていない。廊下と同じ、空っぽだ。


「行こ、桃矢」

「……ああ」


 靴を履き替えた美伽に促されるまま、帰る準備を整えた俺は先に玄関の扉を出ようとする美伽に続く。梅雨明けの白くきつい日差しが数瞬、俺の視界を白く焼く。俺は何度も瞬きして、白の中でもはっきり見える美伽に焦点を合わせた。

 俺を促す声も表情も、普段通りに見せかけて大体成功してるけど、細かいところで粗があった。よく見れば、身を固くして気を張ってるのがばればれだ。

 美伽も緊張してる。でもそれは、俺と同じ理由からじゃない。


「……」


 俺は今すぐ美伽を抱きしめるか、手をぎゅっと握ってやりたくなった。そのくらい、細い背中が今は頼りなく、無防備に見える。

 けどそんなこと、臆病者の俺ができるはずもない。俺にできるのは、背丈に見合った小さな歩幅に合わせて、忠犬みたいに美伽についていくことくらいだ。


 傷つけたくない。大切にしたい。――――大切にしなきゃないねえ。


 梅雨に出くわしちまった事件のことが頭をよぎり、俺の誓いが胸の奥から顔を覗かせる。いつもと変わらない様子で振る舞う美伽に言葉を返しながら、今の美伽に俺の想いを告げていいのか、沈黙が下りるたびに考えた。

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