第3話 黒曜石の短杖
「それで慌てて逃げてきたのか。ふふっ、君はいつも詰めが甘いね」
長い脚を組み直しながらサーラ先輩が笑う。無邪気な笑顔だが妖艶という表現がよく似合っている。
考古学者、博物知識に長けた本の虫、錬金術師で医術師で魔女。様々な肩書きを持つサーラ先輩だが、ここでは地下倉庫の番人だ。
王城一階広間の奥にある大階段の右横をすり抜け真っ直ぐ、突き当たると左には地下倉庫へ続く階段とそれを塞ぐ頑丈な鉄柵、正面には書庫を改造したサーラ先輩の書斎がある。
棚がいくつも並ぶ広い書斎には、積みあげた本やら、麻布に包まれた植物やら、悪魔を模した仮面やら、金属と木製の歯車が噛み合った機械やら、天井から吊り下げた不思議な意匠のカンテラやらがあり、まあ、とにかく雑然としている。
俺は、その薄暗い魔女工房のような部屋で身体検査を受けていた。
「ちょっと目を見させてもらうよ。……照れるから私を見ないように」
「無理です」
垂れ気味の両目、赤みの強い茶色の瞳と複雑に編まれた金髪が眼前に迫る。良い匂いがする黒いローブの下には、それはそれは大きな胸が隠されていることを俺は知っている。
先輩の頬がほんのりと色づいて、俺まで照れてしまった。
「神殿遺跡にレスタナ神像がある、と言ったのはサーラ先輩でしょう?」
神像と勘違いした、あの使者の像は
ちなみに使者とは『冥界の使者』のことで、一般的に死神と呼ばれている。
「神像があるかも、と言ったんだ。ん、検査終わり」
「どうでした?」
「たぶん催眠だね。呪いを掛けられた、と思い込ませる催眠術の一種で、暗示を利用して精神を誘導するんだ」
遺跡の壁に彫られた彫刻も、明かり取りの窓も、音が響かない環境も、全てが催眠の準備なのだとサーラ先輩は教えてくれた。
本来、呪いと催眠術はとても近いものなのだという。
『何者かに呪いを掛けられた』という事実が被害者へ伝わり、そこで初めて呪いは発現する。
例えば気分が悪くなったり、時には体調を崩すこともある。呪いが気になって精神集中が難しくなれば失敗も増えるだろう。
言い換えれば、呪いの事実が被害者へ伝わらない限り、効果が発現することはないのだ。
要するに『自分は何者かによって呪われた』という被害者の過度の思い込み、それこそが呪いの実体だと言える。
一方、催眠術では、ある種の思考を相手に植え付けることで効果が発現する。
思考を植え付ける、つまり思い込みだ。呪いと催眠術、それぞれ手段は違うが、精神への影響の仕方はどちらも同じである。
そういえば“のろい”と“まじない”も同じだとサーラ先輩に教わったことがあるな。『恋のおまじない』といえば可愛いが、『対象の精神を揺さぶるのろい』と同義なのだと言っていた。
「小癪でずぶとい君の性格なら影響は無いだろう。それより早く見せて。見せて」
どんな性格だと思われているんだ俺は。
鞄から短杖を取り出してサーラ先輩に渡す。使者の像が持っていた短杖だ。
およそ太さは手の親指ほどの円柱で肘から手首ほどの長さ。一方の端は装飾彫りが施された持ち手になっており、もう一端は角を削って半球形に加工されている。全体が半透明の黒色で、光を透かしたふちは紫色に見える。
今回の任務の目的は、この短杖の入手だった。
「ふむ、これは興味深いね……。黒曜石をここまで美しく加工する技術は大したものだよ。そもそもこの辺りに黒曜石が採れる場所はないんだ。おそらく東方か南方の地域から渡ってきたものだね。いや、実に美しい」
研究者の顔になったサーラ先輩は、杖をためつすがめつ眺めている。時折、細い指で持ち手の模様をなぞっていた。
「古代、黒曜石は刃物として広く使われていたんだ。それから黒曜石は収穫や切断を表す象徴になった。なのにこれは杖だ。わざわざ鋭い角を削って杖にしてあるんだよ?」
「杖というより教鞭みたいな形ですね。んで、それって何なんですか」
「聞きたいのかい? ふふ、聞きたい? これはねえ……」
こうなるとサーラ先輩はとにかく面倒だ。話が長いうえに、脱線に次ぐ脱線で要点がさっぱり見えてこない。俺はこうなったサーラ先輩を“先生形態”と呼んでいる。
要するに教えたがりなのだ。
「杖の情報が必要になったら教えてください。ところで俺の休みはいつ頃に――」
「ん、そういえば隊長が来いと言っていたよ」
まったく、休む暇もない。
俺は書斎の扉に手を掛け、ふと、像を見た最後の瞬間を思い出していた。
像の眼は動いていた。眼がこちらを見て、まばたきしたのをはっきりと覚えている。あれも催眠術が見せた錯覚だったのだろうか?
追加調査の予算、下りるかなあ。
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