月影

 桜の蕾がふくらむと、季節は急に春めいてくる。

 桜が咲いて、そして藤。

 貴子は低く笑う。

 まるであの女たちのようだ。

 桐壺に暮す更衣の一人であった珠子と。

 藤壺を賜る女御、輝子内親王。

 貴子の産んだ皇子よりも、天孫の光に溢れた皇子を産んだ女。

 貴子を飛び越えて立后を果たした女。

 貴子の誇りを砕いた女たち。

 なのに貴子には、彼女たちのどちらをも、憎むことも恨むこともできない。

 憎むには珠子はあまりに儚い、美しい影のような女であったし、恨もうにも輝子の受けた寵愛は、あまりに惨めなものだった。

 目を閉じても、見たことがあるはずの珠子の面影は像を結ばない。

 ただ、散る花のような、水面の月影のような、珠子の印象だけがよみがえる。

 息子の源氏の印象が強すぎることもあるのだろう。

 あの年の年の瀬は慌しかった。

 まず、故院の父院が崩御あそばした。

 その喪の慌ただしさの中で、後涼殿に住まっていた更衣の一人が皇女を出産したが、生まれた皇女はその日のうちに身罷った。

 度重なる凶事に宮廷が動揺しているその時に、珠子は更衣の列に加わった。

 月影が、いつの間にか室内に差し込んでいるのに似た、さりげない登場だった。

 

 帝のお着替えなどを御座所まで運ぶのは、女官たちの仕事だ。彼女たちは当然帝に日常的に接することになる。寵愛の薄れた女御などより、よほど帝にお会いする機会は多い。それを狙って、娘を出仕させる貴族も多いので、女官には華やかで、美しい娘が多かった。

 その中で珠子がなぜ帝の御目にとまったのか。

 確かにとても美しい娘だった。

 白すぎるほど白い肌に、とろりと背に流れる黒髪。

 長い睫毛に縁取られた目は、いつも慎ましく伏せられている。

 ただ、美しいけれど、目につきやすい娘ではなかった。

 第二皇女を産んだ更衣艶子はそうではなかった。幾分眠たげな二重瞼に、ふわりと厚い唇。胸にも腰にも柔らかそうな肉をたっぷりとつけ、動くたびに全身から色気がこぼれるようだった。

 ああいう娘にふと食指を動かす殿方の気持ちは、女にも納得しやすい。そういう色気のかたまりのような娘を、好けるかどうかは別として。

 珠子はそうではなかった。

 美しいけれど、はっきりとした肉体の質感を感じさせない、影のような娘だった。よく見れば、それなりに丸みのある女らしい身体つきをしているのに、それが印象に残らない。いつでもほんのりと微笑むような表情を浮かべているのが、浮世離れして見えるからだろうか。

 その影のような娘に帝のお手がつき、寵愛されるようになった時、後宮は平静だった。寵愛を受けた更衣は珍しくもなかったし、後ろ盾のない珠子は大した脅威とは思われていなかったからだ。

 ただ、思いのほか帝のお気に召したらしい、という程度の評判だった。

 珠子が後宮を揺るがす存在になったのは、第二皇子を挙げたときからだ。


 その日、後宮のみならず、宮廷中がどよめいた。

 鮮やかに空を彩る五色の光。

 天孫の裔の生誕を寿ぐ光。

 しかも生まれたのは皇子だった。

 産んだのは更衣珠子。

 天孫の力こそ、皇室が尊ばれる由縁であると言うことを踏まえれば、まさに帝がね。

 しかし、俗世の後ろ盾なくば、朝廷を回せるものではない。

 しかもすでにもっとも有力な女御貴子が第一皇子を産んでいるのだ。

 見鬼の公卿、女官たちは、美しい空に見惚れつつも、すぐにその事実に思い至った。

 五十日の祝が済むと、珠子は皇子を抱いて後宮に戻った。

 帝は狂喜した。

 帝もまた、見鬼なのだ。

 美しく、力に溢れた皇子に惹かれないわけがなく、その母更衣珠子への寵愛は、狂おしいほどになった。

 貴子の産んだ倫継親王の力は弱い。同じ貴子の産んだ明子内親王に比べても、倫継の天孫の光は明らかに弱かった。輝かしい第二皇子に比べればどうしても見劣る。

 ただ、貴子の父惟成に動揺はなかった。

 惟成は見鬼ではなく、見えないものはないものと、無視しきる肝の太さを持っている。もしかしたら本当にそう思っているのかもしれない。

 そうなると、貴族社会もそれに倣う。

 廟堂の首座は左大臣清成だが、後宮に差し出す娘も有力な係累も持たず、こういう時には弱い。

 しかも手を差し伸べるには、更衣珠子には大きな難点があった。


 「全くあの女ときたら、口を慎むってことを知りゃしない。」

 女房たちが何やら騒いでいる。

 一番声が大きいのは広野と呼ばれている、気の強い女房だ。

 「いったい何の騒ぎ?」

 「第二皇子の御母更衣の、母の宮子の話ですわ。」

 貴子が問いかけると美濃が答えた。美濃は広野の腰巾着のようになっている女房だ。

 「聞いて下さいませ。私はもう悔しくて。」

 広野も貴子に向き直り、身を乗り出すようにして話し始める。

 聞きながら、貴子はまたかと思う。最近、更衣珠子の母宮子は、何かと人の口の端に上る。余り良いとは言えない形で。

 娘の珠子が君寵の厚さの割に、大人しく存在感が薄いのに比べ、宮子は騒がしくおしゃべりな女だ。何かと言えば「娘は二国の王家の血を引く身でございますから。」と言うのが口癖で、それに孫の第二皇子と珠子の受ける寵愛がいかに深いかの自慢が続く。

 当然の事ながら嫌われていた。後宮中の鼻つまみとでも言いたいほどに。

 それは本人が何も言わないだけに、珠子自身の評判になりつつあった。

 宮廷は狭い世界だ。

 貴族というのは結局のところ、血縁関係の錯綜した狭い人間関係なのだし、基本が女ばかりで構成される後宮は一層狭い。その狭い世界で嫌われる事は致命的だ。

 宮子のやりようはわざわざ孤立しようとするようなものだった。

 貴子には配下の女房たちをなだめ、せいぜい穏やかな孤立で済むように心掛けるぐらいしかできない。

 それに、実を言えば貴子にも腹立ちがないでもない。

 宮子が第一皇子の力の弱さをあげつらい、我が孫の力に溢れているのを吹聴していると聞けば、母としての貴子はやはり、平静でいるのは難しいのだった。

 なので幾分、珠子の孤立を放置ぎみとなり、事が起こった8。

 

 「なんということをしてくれたのです。」

 古参女房の阿波局が、広野と美濃を叱り飛ばしている。小さくなって項垂れる広野と、その広野のさらに影に隠れるようにしている美濃を眺めながら、貴子はどうしたものかと思案にくれた。

 広野たちは他の局の女房たちともはかって、更衣珠子にいやがらせを働いていたのだ。よりにもよって清涼殿に登り参らせる珠子の通路を塞ぎ、樋箱の中身をまいたりしたらしい。

 しかもそれは一度ではなく、ついには珠子の母宮子が、帝に直訴するような騒ぎになった。宮子は貴子を名指しで非難しており、それは単なる推測でしかなかったのだが、こうなると世間も故なしとは思わないことだろう。広野と美濃が貴子付の女房であるのは事実なのだ。

広野と美濃の両名は即日貴子付を解かれ、本邸に戻された。

 この事件はもちろん公然として語られるようなことはなかった。帝と貴子の関係に影を落とすようなこともなかった。

 帝は貴子がこの事件に関わっているなどとはもともと思っていなかったし、貴子からの顛末の報告にもすんなりと納得した。

 ただ、それでもなんの変化も起こさないわけにはいかなかった。

 更衣珠子は、清涼殿への昇殿を容易にするために、後涼殿に控えの局を賜り、そのために後涼殿に住まう更衣が一人、後宮を辞する事になった。

 更衣艶子。

 第二皇女を産み参らせた、かつての寵姫。

 あからさまに競争相手を追い落とす更衣珠子のやり口は、後宮中の怒りを買い、珠子を敬遠する宮廷の態度を決定的にした。

 

 

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