運命の分かれ道

「甘味代くらい俺が出すよ。というか、最初にも言ったけど、君に茶屋娘は務まらないぞ」

「どうしてよ? 私、ちゃんと色々お稽古もしてきたし、字も読めるし、少しならお金の数え方もわかるわ」

「これだからお嬢様は……。いいか、茶屋ってのはお茶や食べ物を作ったり出したりするだけじゃない。笹野はそれなりに大きい店で、二階もある。主に夜になると客をとる商売もするところなんだぞ」

 文吉は席を立った椿を呆れたように見上げた。大切に育てられ、華やかで器量の良い椿が、男たちの欲望の格好の餌食になることは容易に想像がつく。だが、肝心の椿はきょとんとした顔で首をかしげている。

「夜も料亭か何かをしているの? がんばったら夜も働けないことはないと思うけど」

 やはり茶屋の裏の顔がどういうものか知らないらしい。文吉はイラついた。

「世間知らずもいいところだね」

「文吉、あんまり怖い顔しちゃだめだよ。椿さん、笹野は、まぁ、吉原みたいな商売もしてる店でね。君みたいなべっぴんさんが登場したら、えらい騒ぎになると思うし、亡くなった母上も悲しむよ」

 城次郎が穏やかに丁寧に説明すると、椿は息を飲んだ。さすがに吉原と言われれば、椿にも理解できたからだ。

「ちっとも知らなかった……。危ないところだったわ。でも、また求人募集のお店を探さなくちゃ。うちの奉公人は皆、辞めてしまったし、お父様は体調を崩してしまって私が稼ぐしかないの」

 小川屋に長く勤めてくれた番頭さんなどは、店の再起のためにがんばると言ってくれたのだが、椿の父親にはその意志がなくなっていた。とりあえず、妻の葬儀や諸々の処理を終えるところまでは店の従業員に協力してもらったが、父の計らいで残った金を彼らに持たせて里に戻すことにしたのだった。

 大きな瞳にうっすらと涙を浮かべた椿は、力なく椅子に座りなおした。少しの間、沈黙が続き、それから文吉が口を開いた。

「うちの所、最近、一ツ橋門の北側の広い敷地に引っ越したから、雑用係や針子が足りないらしい。雇ってくれるかわからないけど」

「洋書調所で働けるの?」

「さあね。道端でぶつかっただけの君の世話までは見切れないよ。じゃあ、俺たちはこれで」

 文吉は一方的に椿に別れを告げると、店のばあさんに葛餅3人分の銭を渡し、そそくさと通りに出て行った。城次郎は椿を一人にすることをためらったが、まだ昼飯時で外は明るいし、さすがに来た道は戻れるだろうと判断して文吉の後を追うことにした。

「気を付けて帰ってね、椿さん」

「ええ、今日は諦めて帰るわ。さようなら」

 後ろを振り返りつつ、椿が正しい方向に向かっていることを確認した城次郎は、文吉に追いつくと横に並んだ。

「そんなに急ぐことないじゃないか」

「ベルクール公使から入手した兵学の文献を翻訳しなきゃいけないことを思い出した」

「本当に君は素直じゃないなぁ。君と知り合ってまだ半年だけど、君が江戸っ子として義理人情に厚いことはよくわかってるさ」

「何が言いたいんだよ」

 文吉は速足で前を向き、むすっとした顔で城次郎に反応した。

「早速、所の雇用担当者に話をするつもりなんだろ? 可愛いお嬢さんが来ても追い払うなって」

「………」

「あのお嬢さんとまた会えたとしても、黙っておくよ。まぁ、僕もあの子が茶屋に雇われるのはどうかと思うからね」

「うちの所は衣服や細々としたものを小川屋から調達してた。移転早々、取引相手が放火でなくなってしまったんだから、その娘がうちで労働するくらい当然じゃないか」

 文吉はこういう男だった。母親を亡くして健気に自力で稼ごうとしている少女が不憫で見過ごせないと素直に言えないのだ。

 去年の師走に江戸にやって来て城次郎は、ちょっとした仕事を通じて文吉と知り合いになった。

 当初は随分と不愛想な少年だと思った。社交的とは言い難いし、何かを思いつくと脇目も振らずに没頭することもよくある。はっきり言って変人だ。しかし、彼は常に勤勉で、その語る言葉からは、理想が見え隠れし、次第に本来の文吉は面倒見の良い優しい少年であることを知った。

 だから、文吉の冷たく聞こえる言葉を表面通りに受け取ってはいけないということを、城次郎は学習している。

 それぞれの勤め先に通じる道の分かれる交差路まで来ると、2人は短い挨拶をして別れた。西洋医学所は神田川を越えた北側にあり、洋書調所は一ツ橋門の北側外堀沿いの広大な敷地にあった。職員の宿舎もその中に建てられ、文吉は父親と共に住んでいる。

 文吉は宿舎の自室に戻る前に、事務方職員の詰所に向かった。

(たぶんあの子には許嫁がいたはず。商家の一人娘となると婿養子が必要だ。でも、小川屋の再起がなくなったことでそれも破談だろう。誰からも金銭的援助を受けられない状況で、あの子が前を向いていることが救いだな)

 そんなことをぼんやりと考え、文吉は詰所で会計冊子の整理をしていた雨宮という真面目な幕臣に声をかけた。

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