横浜 ~上陸~

 金太郎が箱館戦争で戦死することなく無事に横浜に上陸することができたのは、榎本に見せたあの紙のお蔭だった。

 それは幕府軍のために戦ってくれたフランス軍人たちが箱館を離れることになり、別れ際にアンリ・ニコールから手渡されたスケッチブックの中に挟まれていた。

 英語で記された内容はとても簡潔だった。

 ――田島金太郎 右の者をエレン・ブラック号の乗客として認める。ジュール・ブリュネ

 要するに、ブリュネは金太郎が箱館から脱出することを望み、この乗船許可証を密かに渡したのである。もちろん金太郎はこれを見た時、ブリュネの意図を理解しつつも最後まで榎本総裁の下で戦うつもりでいた。

 ところが、椿が息を引き取る直前、彼女と約束したことが金太郎の心境を変化させた。

 ――パリに一緒に行こう。

 たったそれだけの約束だ。どのみち死ぬ運命にあった椿が、これまた戦死のおそれが付き纏っていた金太郎とフランスへ旅立つことなど、無理な話だった。

 だが、金太郎にとってこの約束は金科玉条のごとく、譲れない大切なものとなった。

 戦場で徳川家への忠義を貫くのは、もはや十分だと思った。極めて不利な戦況でこれ以上戦ってどうなる。死ぬ覚悟で戦うことを恐れてもいないし、馬鹿なことだとも思わないが、金太郎にはそれはもう自分のなすべき大義ではないように感じられた。

 椿と共にパリに行けないならば、自分だけでもパリに行かねばならない。金太郎はなぜだかそれが自分に課された義務だと信じた。ブリュネやアンリたちからさんざん聞かされてきた自由平等友愛の国を直に見てみたい。そして、フランスの軍人が誠意を持って教えてくれた軍事技術や軍人のあるべき姿を、金太郎は生きて発揮していかなければならない。

 新政府とやらがどんな国を作るつもりなのかはわからない。しかし、そこに徳川家の家臣の力が必要なのだと、薩長の上層部に知らしめてやる。

 以前、ブリュネが言っていた。日本には反フランスの立場の者がたくさんいるが、フランスを追い出そうとしているのは、逆に軍事顧問団の成果が恐れられている証拠だと。だからこそ、フランスから教えを受けた徳川の家臣である金太郎が新政府に一矢報いることは無駄ではないのだ。

(俺は日本が自由平等友愛を基本とした国であってほしい。フランスのトリコロールの隣で日章旗を世界に輝かせるんだ……!)

 今はまだ両親の元へは戻れない。箱館の戦場から離れてしまったが、金太郎の戦いは終わってはいなかった。

 ほとんど着の身着のままで脱出してきたため、早々に生活の基盤を確保する必要がある。うまくいくかはわからないが、幸い心当たりがあった。金太郎は横浜港でイギリス商船を降りると、港からほど近くのある場所に向かった。

 戊辰戦争が全て終結したこともあり、横浜は以前にも増して活気に溢れていた。

金太郎も横浜の学校でフランス語と軍事を学んだ経験があるので、久しぶりの上陸に懐かしさがこみ上げてくる。

 ああ、隣に椿が一緒に歩いているのであれば、どんなに幸せだろう。

 箱館にいる時、椿は居候先のファーブル家の奥方から洋裁を習い、自分でヨーロッパでの流行りのデザインの普段着を縫い、身につけていた。髪の結い方も洋風にして、ファーブル夫人にもらった小さな蝶の形の髪飾りを挿していた。

 江戸っ子の姿からすっかり様変わりした恋人の姿を見て、金太郎はとても満たされた気持ちになった。

 彼女はフランス語もできる。これから教養やフランスの政治思想を知識として吸収していけば、立派な婦人になるに違いなかった。

 椿は金太郎に依存しているようで、実は内面は江戸っ子らしく気丈だったし、幕府軍士官の金太郎に相応しい女になろうという向上心もあった。それに気づくことができたのが、椿の病が相当悪化してからだったのだから金太郎は後悔した。

 椿は、箱館よりもずっと大きく異国の雰囲気を持つ横浜にすぐに溶け込めただろう。

 そんなことを考えながら歩いていると、目的地に到達した。

 横浜太田村兵学校というのが金太郎の訪問先である。

 門番を通じてシャルル・ビュランという教授に面会させてほしいと依頼すると、名前と用件を尋ねられた。

「田島金太郎と申します。仏語伝習所の生徒でした。ビュラン先生に教わっていたので、先生は僕をご存知です。卒業してからしばらくぶりに横浜に来たので御挨拶をと思って」

「そうですか。ちょっと待ってくださいよ」

 門番の老人は金太郎が生徒だった時から勤めている人物で、金太郎は覚えていたが向こうは忘れてしまっているようだ。

 正門の中に入り、適当な椅子に座って待っていると、校舎の中から壮年のフランス人が手を振りながらやってくるのが見えた。

「ボンジュール、ビュラン先生!」

 金太郎は懐かしい顔に思わず破顔し、子供のように駆け寄った。

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