横浜 ~戦線離脱~

 初夏を通り過ぎた暑さは、箱館で経験した一面の銀世界を懐かしくすら思わせる。箱館政権が落ちたという知らせを田島金太郎が聞いたのは、横浜に上陸した直後だった。

 五月十一日の明け方、水平線の彼方から太陽が頭を覗かせた頃、金太郎は単身、イギリスの商船に乗り込んだ。既に総攻撃が開始されており、箱館山の大砲が幾度も火を噴く様子が海上からよく見えた。

 本来ならば金太郎も、伝習隊砲術士官として弁天崎の台場で佐々木一と共に戦っているはずだった。しかし、金太郎はその道を自らの意思で放棄したのだ。

 徳川家のため、武士の誇りのため武器を取り続けてきた金太郎が、断腸の思いで盟友である一と袂を分かってしまったのには理由があった。


 新政府軍による箱館総攻撃の前夜、政権幹部らはおそらく最後となるであろう酒宴を開き、金太郎もそこに参加を許された。その時、しばらく消息を絶っていた恋人の椿が瀕死の身を引きずりながら妓楼へやってきた。

 一や景の支えもあって少し持ち直したかに見えた椿だったが、金太郎が窓際で外を眺めているうちに、いつの間にか、本当にあっけなく息を引き取った。

 皆の視線が自分に集まっているのを感じた金太郎は、すぐに椿の死を悟った。一の顔は真っ青に凍りついていたし、景は化粧をしていることも構わずに泣き崩れた。けれども、恋人を失った張本人である金太郎はただ呆然と立ち尽くすだけで、取り乱すこともなく、涙を流すこともなかった。

 人は愛する者の突然の死に直面すると、悲しいとか苦しいとかそういう感情や感覚が一斉に停止してしまうのかもしれない。

(椿が、死んだ……)

 この事実を受け入れられずに強烈な拒否反応を示す人もいる一方で、金太郎は機械的に全て理解し、納得してしまった。あどけなさの残る彼女のやせ細った体を揺すっても、逝かないでくれと泣き叫んでも、小川椿の生命はもう再び動き出すことはないのだ。

「金ちゃん、おい、しっかりしろよ。大丈夫か?」

 あまりにも冷静な金太郎を見た一が肩を大きく揺さぶってきたが、金太郎は「おまえこそ大丈夫か」と答えた。

 金太郎は椿の白く可愛らしい手を両手で少しの間包み、最後の温もりを感じ取ると、ある決心が湧いてきた。

(箱館を出よう。俺はまだここでは死ねない)

 その後のことは実はあまりよく覚えていない。幹部たちに迷惑がかかるからと、大鳥にも土方にも知らせず、金太郎は景に頼んで店の人を呼び事後処理を任せた。店の人たちは客でもない見知らぬ少女の死に困惑し不愉快そうな顔をしていたが、その場にいた通訳仲間の佐藤東三郎が用意していた大金を渡すと、しぶしぶ葬儀の手配を引き受けてくれた。

 何事もなかったように宴席に戻り、そして解散した後、金太郎は榎本総裁の元へ行き、一枚の紙を見せて自分の今後の意思を告げた。椿の死は伏せたままだ。

「……田島くん、君は今までよく尽くしてくれた。どれほど君のフランス語や砲術の能力に助けられたか知れない。俺は君の自由な意思を尊重しようじゃないか。ブリュネ大尉も君の将来を思ってこの紙を渡したんだろうよ」

「はい。総攻撃の前に戦線離脱することをお詫びします」

「気にするな。自分が選んだ道なんだ、胸を張って歩くんだぞ。君の自由の国をこの目で見ることはできそうにないのが残念だが」

 金太郎は感謝の念と共に一礼し、妓楼を去った。

 商用の荷物が置かれていない場所を何とか見つけると、金太郎は縮こまるようにして腰を下ろした。

 乗船した船はもう箱館湾の沖合に出ているらしいが、金太郎は外の様子を確認しようとは思わなかった。二度と振り返らない。後悔しない。そう決めたからだ。

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